横断歩道を渡って

月波結

どんでん返し

 パーッと派手なクラクションを鳴らして、その車は駅前の大きな交差点を右折して行った。右折信号が黄色になり、気がはやっていたようだ。

 直進信号が穏やかな青に変わり、緩やかに車列は流れ出す。古い歩道橋の上でその光景を見ていた。

「お待たせ」

「聡美、ついたなら」

「したよ、LINE」

 スマホは上着のポケットの中で大した振動をしなかったらしい。スマホの方も仕事をしたという顔はしていなかった。

「行こうよ」

「この寒いのにどこに行くんだよ」

「そうだなぁ、ほら、あの交差点のところのデニーズ。いつもあの前を通る度にイチゴフェアの旗がね……」

「はいはい」

 行こう、となんのこだわりもなくもう高校生になった俺の手を彼女はとった。照れくさくも感じたけれど、それは良くも悪くも聡美の手だった。しろくて、ふっくらしていてやさしい。

 中学に入ってすぐ、聡美はピアノをやめてしまった。俺はまったくクラッシックに興味のない美術部員だったので、彼女の鼻歌でクラッシックを覚えた。今でもテレビのCMでクラッシックが流れると体が反応する。ああ、聡美の……って。

 俺から見たら聡美のピアノは素晴らしかった。クラス代表で合唱の伴奏をするなんてすごくないか? 一筋のライトに照らされてピアノを弾く彼女はとても素敵で、なぜ彼女がピアノをやめたのか、わけがわからなかった。ほかの女子にいじめられたりしたんだろうか?

「玲ちゃん、さっきから無口。なかなか会えないのに無口ってないでしょう? 何を考えてたのかまるっと言いなさい」

「いやぁ、聡美はどうしてピアノをやめたのかと思ってさ」

「……昔のことじゃん」

「その通り。でもいいじゃないか、昔のことだって。聡美のことをもっとよく知ることができる」

「知ってどうする?」

「さぁ、どうするかな」

 そんなふうに話しているとデニーズは目の前で、ほかのファミレスよりもう少し丁寧に席を案内される。最近のファミレスはどこも、食うなら食え、的な雰囲気だ。

「ねぇねぇ」

 テーブルに身を乗り出して、小さな声で聡美がささやく。

「ストローが見つからないの」

 ストロー。ああ。

「ストローはさ、プラスチックでできてるわけ。レジ袋なんかもそうなんだけど、ああいうゴミがすごーく細かいプラスチックになって海の中はいっぱいなんだって。『マイクロプラスチック』って言うんだよ」

「え? 海の生き物は?」

「だからいくつかのファミレスはストローをやめたし、ユニクロもビニールのいつもの袋と紙袋を選べるようになったんだ。買い物をするとレジ袋は有料になって、エコバッグを持ち歩く人が増えた」

 へぇぇ、と目を丸くしてコップから直接オレンジジュースを飲んだ。

「ジュース汲むのは迷わなかった?」

「大丈夫、ガイダンス出たから」

 そっか、と頭を撫でようとして思いとどまる。いやいや、聡美がいくら特別だからと言っても、していいことと悪いことがある。彼女だって十六だ。聡美の尊厳を守ってやりたい。

「イチゴパフェ、食べないの?」

「え? いいの? さっき運ばれてくの見てたけどこーんなに背が高いのよ、こーんなに」

「キリンみたいでいいじゃん」

「食べきれないよ」

 ピンポーン、彼女の気持ちが固まる前に店員を呼ぶ。


 イチゴパフェはなかなか手強いパフェだった。あれは意地でもできるだけ多くのイチゴを乗せてやろうとがんばっているパフェであって、上のイチゴをひとつ取ろうとすると、別のひとつが飛んでいったりする。俺と里美は翻弄され続け、なんとか撃退した。


「パフェひとつでお腹いっぱい」

「なに言ってるのよ、玲ちゃんはキャラメルハニーパンケーキの二段しか頼まなかったじゃない。ここは男らしくだーんと!」

「だーんと?」

「来るものは拒まないという姿勢で」

 無理、と俺は言って財布をしまった。

 咲きそうで咲かない桜の蕾は冬の頃に比べたら幾分、ふくらんでいた。あの、ぎゅっと固く結んだ中にやわらかい花が入っていると思うといつも不思議だ。

 少し歩くと中学の前に出て、管楽器の音が風に流れてくる。プォーとか、ピーとか。管弦楽部だった聡美の顔を見る。なんとも思ってないようだった。

「中学か。こう毎年同じデートコースってどうなの? 交差点、(デニーズ)、中学、そのまままた交差点を反対に回って小学校。玲ちゃん、楽しい? 聡美は飽きた。もっと楽しいところに行ったらいけないわけ? 映画とか、ディズニーランドとかさぁ。プリクラはどう? みんな撮るでしょう?」

「このコースは嫌いだってこと?」

「嫌いと言うより飽きた。転校する前の通学路じゃん」

「そっか、確かに」

 聡美は中学のプールが見えてくる日陰に入ると立ち止まった。髪だけが、日に透けて茶色く見える。

「言いたいことはたくさんあるのね。だって年に一回しか玲ちゃんに会えないし。わたし、たくさん考えたの。聡美だってたくさん難しいことを考えることがあるのよ。とにかく不満で爆発しそう」

「穏やかじゃないなぁ」

「玲ちゃん、知らないうちに高校生になったでしょう? おめでとう。なんでわたしに『おめでとう』させてくれなかったの?」

 それは。

 聡美にとって要らない情報だと判断したから。聡美には知らなくていいことがたくさんある。例えば聡美の苦手だった関数が、わけのわからないにょろにょろの曲線になったこととか、小学校にあった、聡美が『ビーナス』と呼んでいた石像が地震で壊れたこととか。

 そういう、『どうでもいい』と聡美以外の誰かが話し合って決めた情報を俺たちは排斥する。

 その中には、人々の時間の流れも組み込まれていた。

 プールの影は彼女の普段、外には出ない肌をより白く見せた。陶器のように壊れそうに薄い聡美の心に余計な負担を与えたくない。

「毎年、この日が楽しみなの。わたし、指折り数えてる。みんな覚えてないと思ってるみたいだけど、これで三年だよね。確かにね、わからないことはたくさんあるの。頭の中に大釜があって、魔女がスープを作ってるみたいに」

「……覚えてるの?」

「誰にも言ってないから大丈夫、聡美はあの日、急いでいて、交差点の下の禁止されていた横断歩道を走って渡ったって。そうしたら曲がってきた車が歩行者はいないと思って思いっきり」

「覚えてるの、そこまで?」

「そこから先は真っ白よ。フルートのケースが飛んで行ったのは覚えてる。ねだって買ってもらったフルートが壊れちゃうって泣きたくなって……」

 聡美は実際、涙をぽろぽろこぼし続けた。そんなところはまだ幼い女の子のようで、どんなふうに扱ったらいいのかわからない。彼女は両手をグーにしてきつく握りしめたまま、話し始めた。

「玲ちゃんのことが好きだったの。だからフラれちゃって悲しくて、なにもわからなくなって、あの横断歩道を渡ったのは全部自分の罰なの。記憶がいろいろ抜けているのもわたしのせいで、玲ちゃんが……毎年付き合って……思い出させてくれなくてもいいんだよ」

 ああ。

 こんなことってあるものなんだなぁ。

 聡美の記憶が戻ることだけを考えてた。高校に行ってもイマイチ波に乗れないのは聡美を忘れることが一秒だってできなかったからだ。

 わかってない。

 聡美を好きなのは――。

「ごめんよ、聡美。そんなふうに悩ませてるなんて思わなかった。聡美の記憶が所々、欠落していて、特に事故前後の記憶がないというから、俺は俺なりに考えて申し出たんだ」

「だからもういいよ。わたしはちゃんと覚えてる。最近では鮮明に思い出せる」

 なにもわかっちゃいない。

 あの時、あの場所で。

「聡美に告白したのは俺だよ。それでフラれたんだ。理由はどうでもいい。気まずくてすぐそばの横断歩道を渡ったんだ。そうしたら車が曲がってきて、後ろから走ってきた聡美が……!」

「玲ちゃん、落ち着いて。わかった。思い出した。聡美が悪かったの。聡美だって玲ちゃんが好きだったから、大切だったから横断歩道に迷いなく飛び込めたんだよ。よかった、大切な玲ちゃんが守れて。少しくらいわたしの頭がバカになっても、そんなのどうでもいいってことよ。過去は思い出せなくても学習はできるってお医者様は言ってたもの。すごい、大切なことを思い出せた! わたしが玲ちゃんを助けたなんて人生のうちでも素晴らしいことだと思うの」

「でも、あの時」

「嫌いだって言ったのは、友だちが隣にいたからだよ。玲ちゃん、そういうところデリカシーないよね。……大好き、いつでも」

「ごめん、俺を庇って跳ねられたことはみんな知ってたんだ。聡美だけが思い出さなくて」

 聡美はきょとんとした顔をした。

 そんなこと、なんでもないよ、というような。

「なくした記憶が大切なものだったとしても、聡美に悔いはありません。玲ちゃんが生きていてくれることよりすごいことはない! わたしね、高卒の資格取るよ、絶対。学習機能があるなら、玲ちゃんと同じ大学に行けるはず」

 少し頬を赤くして、熱っぽく聡美はそう語った。あんまり急いで話したので二の句が告げなかったようだ。

「同じ大学に行けるかな?」

「行けるよ、きっと! 忘れてるかもしれないけど、成績はわたしが上だったはず?」

「そう……? 行こう。勉強、教えてやる。記憶が戻ったお祝いだよ」

 ひらりとこちらを向いた聡美は俺の両肩を捕まえて、それはあまりに突然な出来事でひっくり返りそうになって留まる。

 小さな唇が、頬をかすめた。

「あーあ、あの時恥ずかしいなんて思わないで『好き!』って言っちゃえば遠回りしないで済んだのに」

 聡美はまたくるりと身を翻して向こう側の日向まで行ってしまったけれど、俺はまだ日陰に留まっていた。

「ね、そう思うでしょう?」

 彼女が、中学の紺の制服を着て、学生カバンとフルートの細いケースを持っている姿を思い出した。

 ピアノを弾くようにフルートを吹く君が好きだった。

 あの時に止まった時計は、実はきちんと動いていたんだ。

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横断歩道を渡って 月波結 @musubi-me

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