「桜を見るんだ」と言った彼女は、星になって僕の側に
白石 幸知
第1話
高校から帰って、薄暗い自分の部屋に入っては、右肩にかけていたかばんを椅子に放り投げて、ベッドに飛び込む。
窓の先からはしとしとと降り続けている雨の音が流れてきていて、あいにくと静寂は僕に与えてくれないんだなと苦笑いを心のなかで浮かべる。
肩口が少し濡れた制服を着たままベッドに入ったからか、湿り気がシーツにも移り始めてあまり気持ちはよくない。しかし、それをどうにかしようという気は僕には起きない。
こんな曇り空から落ち続けている雨みたいな僕の心模様は、かれこれ半年くらい続いていた。
僕の幼馴染が、死んだ。
もともと病気がちで、自宅にいるより病院のベッドに横たわっている時間のほうが長いくらいだったけど、間違いなく、自他ともに認める幼馴染だったと思う。
彼女は内外問わずとても繊細で、見ているこちらが不安になるくらいに華奢な身体つきをしていた。
僕が病室に行くと決まって穏やかな微笑を浮かべ、開いていた文庫本にそっと栞を挟んで閉じては、一瞬病室から見える桜の木を眺めてから「今日も来てくれてありがとう」って言うんだ。
どこか、悲哀がかった音色で。
もしかしたら、もう既に彼女自身が長くないことを悟っていたか、聞かされていたかもしれない。それがための、あの切なげな声色だったのかもしれない。でも、そんなことはどうでもいい。たらればの話は、するだけ意味がないのだから。
そして、僕が病室の丸椅子に腰を下ろすと、微笑みを崩すことなく彼女はその日の出来事とか、昨日のテレビの話だとか、最近読み終わった小説の話だとかをするんだ。
そして、必ずと言っていいほど「次の春こそは川沿いでお花見をするんだ。そして君と一緒に桜を見るんだ」と僕に話してくれる。
同年代の人間で、定期的に会いに来ているのが僕しかいない、というのもあったんだ。彼女はとても楽しそうに僕との会話をしていた。
でも、半年前の、秋頃。徐々に徐々に彼女の姿は弱々しくなっていって、次第に浮かべていた微笑に影が差すようになった。僕と話す時間も、段々と短くなっていった。「ごめんね、このあと検査があるから」とか、「お母さん来ちゃうから」とか、色々と理由をつけられて。今でこそ、その行動の真意の想像はつく。受け入れたくはないけど。
まるでボタンを押したかのように、あっという間に彼女は最期のときを迎えてしまった。僕が彼女の死を聞かされたのは、学校での休み時間でのことだった。
「最後に、桜が咲くの、見たかったな」
死に際に残した言葉は、それだったそうだ。
それから半年、僕は魂が抜けたように日々の生活を過ごしていた。修学旅行も気がついていたら終わっていたし、定期テストだって終わりのチャイムの音で意識が覚める。
白状しよう、僕は彼女のことが好きだったんだ。幼馴染ではなく、ひとりの女性として。
毎回見せてくれた、優しさ、穏やかさを具現化したような微笑みや、僕のなんでもないただの話を面白そうに聞いてくれるその姿に、趣味の裁縫でぬいぐるみをどんどん生産していって自分のベッドの周りを彩っていくその様子に、惹かれていたんだ。
そんな彼女の趣味の一環で渡されたぬいぐるみがひとつだけ、僕の部屋に置かれている。
「十六歳の誕生日プレゼントに」ってことで、貰った顔ぐらいの大きさの星型のぬいぐるみ。高校生にもなってぬいぐるみだなんてって思うかもしれないけど、当時の僕にとっては好きな人からの「手作りの」プレゼントなわけで、心躍るくらいには嬉しかったんだ。
今となっては、表面についたゴマのような目と糸のような口元が儚く見えてしまうけど。
彼女が亡くなった今も、それはベッドの枕元にそっと置いている。
つまりは。
「……ぁぁ」
毎晩毎晩零れる僕の泣き声もそれはしっかりと聞いているってわけで。まあ、ぬいぐるみに耳はついていないんだけど。
季節は巡って、春が来る。
というか、僕の部屋の窓から覗けば、川沿いに連なる桜並木が視界に入る。もうそろそろ、見ごろを迎える。今しがた降っている雨で、散っていなければ、の話だけど。
今日だって変わらずに、僕は彼女を失ってしまった空白を埋めることができずに、枕を濡らす。
長く続いた雨も終わり、迎えた三月のある日。
目覚めは相変わらず涙で濡れた枕のせいで最悪で、寝起き直後に目に入る星のぬいぐるみは嫌でも彼女の存在を思い出させてくれる。
嫌なら捨てればいいじゃないか、忘れろ忘れろなんて言うかもしれない。
……でも、そんなこと、僕にはできない。できるはずがない。
彼女から形のない思い出はいっぱい貰った。両腕のなかで収まりきらないほど貰った。きっと収まらなかったぶんが、涙になって溢れ続けているんだ。
だけど、彼女から貰った形あるものは、記憶の限りこのぬいぐるみしかないんだ。これだけは、これだけは絶対に失いたくない。
そうしないと、いつか、形ない思い出さえ、涙となって流れて忘れてしまうんじゃないかって。
「……行ってきます」
誰もいないけど、そう言い残して僕は、今日も高校に向かう。
機械的に過ごす学校での時間は、やはり気がつくと終わっている。
でも、ちゃんと出すべき提出物は出しているし、貰うべきプリントはしっかり貰っているし、授業のノートもきちんと取っている。赤のボールペンのインクが切れているのだから、間違いない。
帰り道、自転車を回して通る桜並木は壮観で、しかし、この景色を彼女は見ることができていないのかと思うとやはり切なくて。
「……ただいま」
そして、また無為に一日を過ごした僕はカバンを椅子に放り投げて、ベッドに飛び込もうとする。けど。
「……え?」
飛び込もうとした先に、星型のぬいぐるみはない。
「な、なんで……! 朝出たときにはちゃんと枕元にあったはず……! あっ……」
辺りを見渡し、ぬいぐるみの姿を探すと、意外にもすぐに見つけることができた。
ベッドのすぐ隣、窓とカーテンの間。
ちょうど見える桜並木をぬいぐるみが眺めるように、それは置いてあって。
そして。
私のために泣いてくれて、ありがとう。君の気持ちは、痛いくらい伝わってるよ。
星のぬいぐるみの、手に見える部分には、そんなことが書かれたメモ用紙が添えられていた。
「……は? ……え、ど、どういうこと……? だ、だって……」
母親が掃除したとか、そういうことは考えにくい。掃除したとしても、あったものはあった場所に戻すのが母親だから。
ということは。
「……そこに、いるの……?」
瞬間、星に向かって伸ばした右腕の袖から、帰り道に混じった桜の花弁が零れる。
ゆらゆら舞い落ちるそれは、ぬいぐるみの口元を掠め、彼女の筆跡が残るメモの上に着地する。
見間違いなら、それでいい。
僕の目には、彼女が「変わらない穏やかな微笑み」を浮かべたように映ったんだ。
「桜を見るんだ」と言った彼女は、星になって僕の側に 白石 幸知 @shiroishi_tomo
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