最後にもうひと仕事

まっく

最後にもうひと仕事

 電話が鳴る。午後十一時を過ぎている。


 港に近い雑多な街の片隅に、探偵事務所兼自宅を構える金田一誠かねだいっせいは、ベッド代わりのソファーから、のそりと立ち上がる。

 もうすぐ来る春には似つかわしくないボサボサ髪で、ヤニの臭いの染み付いた五十代の親父の見た目を持つ、「じっちゃんの名にかけて、仕事してくれるんですよね」という台詞を聞き飽きた三十八歳だ。


 こんな時間に電話とは珍しいが、仕事の電話なら有難い。


 四年に一度は、事件の捜査依頼が舞い込むなんてことは有るはずもなく。

 たまに身辺調査の仕事はあるが、丘の上の金持ち宅の犬の散歩や、蛍光灯の付け替え、買い物の運転手など、まるで便利屋かレンタル親父みたいな仕事で、何とか食いぶちを稼いでいるのが現状だ。


 受話器をあげると、男の声が聞こえる。外から掛けているようだ。

 慌ただしい声で「妻の浮気調査をしてくれ。金は書留で。詳しくは資料を送るから、それで頼む」と一方的に言い、こちらの返事も聞かずに電話を切ってしまった。

 悪戯じゃなければ、おそらくこれが探偵として、最後の仕事になるだろう。


 金田の探偵事務所のある、ビルとは名ばかりの建物は、この春、老朽化により取り壊しが決まった。

 どこに行くとは決めていないが、新しい場所で、また探偵をやることは、おそらく無いだろう。望んで始めた仕事でもない。



 資料はすぐに届いた。現金書留には五十万円が入っていた。

 同封の手紙には、妻の浮気現場の写真を撮ってくれるだけでいいと書いてある。金は全て受け取ってほしいとも。

 他には奥さんの写真が三枚、自宅の地図に、依頼人の免許証のコピーが入っていた。地図に張り込みやすい場所まで丁寧に記してある。

 依頼人の名前は伊来任いらいたかし、四十二歳。

 調査対象者は、來耶らいや、二十九歳。専業主婦。ロシア人とのハーフで、とびっきりの美人だ。


 翌日、金田は午前九時からマンション前で張り込んだ。

 今日出掛けるとは限らないが、専業主婦が浮気するなら、旦那が仕事に出た後から、帰宅するまでの間の可能性が高い。

 程なく、來耶が姿を現す。遠目にも派手にお洒落しているのが分かる。初日から当たりかもしれない。


 尾行を開始する。

 金田は、いつ対象者がUターンしてきてもいいように、警戒しながら尾行していたが、全く気づく素振りも見せず、一目散に目的地へと向かっている。


 來耶が入っていったのは、風俗店が多数入る雑居ビルだった。

 ビルに入っただけで、まだ確定的ではないが、嫁が黙って風俗で働いていたのを知ったら、旦那はかなりのショックだろう。調査依頼を後悔するかもしれない。

 この時間は『AnJuアンジュ coquillageコキヤージュ』というデリヘル店だけしか営業をしていないはずだ。

 ここなら、提携先のホテルが徒歩圏内なので、デリヘル嬢も徒歩移動でサービスに向かう可能性が高い。うまくいけば、客のいる場所まで尾行が出来る。

 しかも、店長とは飲み仲間なので、後で話も聞きやすい。


 しばらくすると、來耶がビルから出てきて、ホテルの方向へと歩き出す。サービスに向かうのだろう。

 金田は、再び尾行を開始する。


 來耶は、周りを気にする素振りも見せず、ホテルへ入っていく。

 後で確認を取らないといけないが、もうデリヘルで働いているのは間違いないだろう。

 時間を少し置いて、ホテルの受付に入ってみた。部屋は一部屋しか利用されていない。

 金田は、これなら客の方の写真も撮っておけるかもしれないと思った。このケースの場合、必要ではないが念の為。


 來耶が出てくるまでに、自家用車とタクシーが一台づつホテルに入った。

 最初の自家用車は、入ってすぐに出ていった。何が気に入らないのか、金田には、ホテルなんてどこでも関係ないと思えるのだが、そんな考えだから、さっぱりモテないのかと思い直す。

 タクシーは、來耶が出てくる直前に入った。

 來耶がホテルから出る瞬間をしっかり写真に撮り、時間差で出てきた男の写真も撮った。綺麗な顔立ちをしていて、女に不自由しなさそうな印象だが。

 タクシーが入った時間を考えると、客はこの男で間違いないだろう。



 金田は探偵事務所に戻り、まず缶ビールを空けた。こんな仕事ばかりだと探偵も悪くない。「まだ探偵という職業に未練があるのかもしれないな」と、独り言つ。

 金田は冷蔵庫から、もう一本缶ビールを取り出した。

 念の為、來耶が雑居ビルに入る写真は、後日撮るつもりだ。

 デリヘルの店長に、明日、事務所に行く事を伝え、それから、報告書の準備を軽くしておく。

 金田は今日の仕事は、これで終わりにした。




「最近、調子はどうです?」


 デリヘルの事務所に出向くと、愛想のいい笑顔で店長が言う。いつもの挨拶だ。

「良い訳ないだろ」と、金田もいつものように返す。


「今、この辺一帯で、春の大風俗祭が開催中なので、金さんも是非」


 店長がスタンプラリーのカードを金田に渡す。

 五店舗制覇で、どの店でも一回無料の券が貰えると書いてある。


「こりゃ最高のお祭りだな」


 店長が「よろしくっす」と頭を下げる。


「それはそうと、この女ここで働いてるよな」


 來耶の写真を見せる。


「確かに働いてましたけど」


「働いて……ましたけど? 昨日、客とってたろ」


「もうそこまで調べてんっすね。それなんですがね……」


 來耶は二週間ほど前に面接に現れた。美人な上、ハーフは人気が高いので、即採用だった。一応、経験もあると言っていた。

 しかし、そこから一度もシフトに入らなかった為、冷やかしだったかと思い、ホームページから削除しようと思った。

 その矢先、昨日初めて事務所に顔を出す。

 しばらくして、來耶に指名が入る。延長までこなした。事務所に戻るなり、今日はもう帰ると言って、さっさと帰ってしまったらしい。


「電話繋がらないし、もう来ないっぽいっすよ」


 この雑居ビルに入る來耶の写真は無理かもしれないが仕方ない。

 入れ替わりの激しい世界だし、この類いの話も少なくないのだろうが、店長は残念そうな声だ。來耶なら売れっ子になるだろうし。

 金田は「また飲みに行こう」と店長の肩を叩き、事務所を後にした。

 來耶の調査は継続しなければいけないようだ。やはり、仕事は甘くないと金田は思った。


 奥様方に話を聞こうと、來耶のマンションに向かう。噂の種の拡散は、誰にも防げない。男関係の噂が出ないとも限らないし。

 向かう途中、金田のスマホに電話が入った。警察からだった。


 自宅マンションで伊来任の死体が発見された。


 伊来のスマホに発信履歴があったので話を聞きたいと、刑事二人が探偵事務所に来た。

 依頼を受けた経緯から、昨日の出来事を包み隠さず話して、撮った写真も見せる。

 酔った状態で風呂で溺死していたので、事故死の可能性が高いが、一応、一通り確認をしないといけないと、刑事はいかにも面倒くさそうに言う。

 何日か前に起きた無差別大量殺人の捜査から、呼び戻されたのかもしれない。まだ犯人は捕まっておらず、こちらは早く切り上げたいのだろうと、金田は勝手に想像する。

 偶然にも、金田は妻である來耶の、死亡推定時刻のアリバイを証明した形である。最後に少しでも刑事の役に立てたなら良かったのかもしれない。小説の中の探偵には程遠いけれど。



 ついに、この探偵事務所兼自宅とも、お別れの日がやってきた。

 調査の報告書は、一応、完成させた。報酬はきちんと受け取っているのだし、そうするのが礼儀だと金田は思った。これをどうするかは、まだ決めていない。


 改めて考えてみると、最後の仕事には不自然な点が多い気がしてくる。

 無能な探偵に神様が温情を掛けてくれたかのように、事が運んだ。


 死亡推定時刻に旦那を殺すのは可能か。


 金田は、ホテルの前で來耶が入ってから出てくるまで見張っていた。しかし、男が入ったのは見ていない。

 二人が出るまでに、車が二台駐車場へと入った。そこに無理矢理にトリックを見出だす事は出来る。男が共犯なら可能だ。


 旦那が風呂に入っている隙にスマホを持ち出して、外にいる男に、探偵に浮気調査の依頼をする。

 探偵の尾行を確認したら、作戦の開始だ。

 金田と來耶が来る前に、男が入室した後、すぐにホテルを出る。ここは非常階段があったはずで、それを使えば、受付を通らずに駐車場に出て、外へも行ける。

 男はどこかで車で待機しておき、來耶が入室後、連絡を受けてホテルへ。

 同じく非常階段で駐車場へ降りた來耶を車に乗せ、マンションへ。

 車はコインパーキングにでも停めておいて、凶行に及んだ後、タクシーで再びホテルへ。非常階段で部屋に戻り、それから、延長の電話を事務所に入れて、万全を期す。

 最後に、何食わぬ顔で一人づつホテルを出て、まんまと馬鹿な探偵にアリバイを証言させる事に成功といったところか。

 これなら、デリヘルの仕事を、あのタイミングで一回だけしたのも頷ける。

 少し考え過ぎかもしれないし、残念ながら証明する手立ても持ち合わせていないが。



 金田は、久々に故郷の駅に降り立つ。

 有名な温泉地だけに、人の数が多く、感慨に耽らせてもくれない。

 何の気なしに辺りを見回していると、先程まで思い描いていた顔が、そこにあった。

 來耶と客の男が、楽しそうに手を繋いでいる。

 偶然とは、本当に恐ろしいものだ。


 金田は、二人の写真を素早く撮り、刑事から貰っていた名刺の番号に電話をした。


 來耶は、仕事もせず昼間から酔い潰れる夫に嫌気が差し、離婚もしてくれないので、殺すしかないと思った。探偵を利用して、アリバイを成立させる事を思いついたと供述。

 金田の推理は、ほとんど正解だったということだ。


 図らずも、金田は探偵として、最後にもうひと仕事をしてしまった。

 まるで、小説の中の探偵のような仕事を。


 だけどそれは、金田が探偵をこの先も続けるきっかけにはならないだろう。




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