ソルトフィンガー
管野月子
楽園であってはならない
また、姉妹が一人死んだ。枯れるような死に方だった。
楽園であるはずの、楽園になるはずのこの
「後……どれだけ、私たちを使い捨てれば気が済むのかしら」
吐き捨てるように呟く私の顔は、さぞ醜く歪んでいるだろう。
コロニーとなる母船から抜け出して清らかな風吹く大地を走る。
どこまで行っても生き延びられる場所は無い。ならば私は私にしかできない事をしてやるのだと、岬の祭壇に向かった。英知を極め何世代もかけて宇宙を渡って来た人々が、何故このような施設を必要としたのかずっと理解できなかった。けれど今なら分かる気がする。
人は他から奪う存在だから。
だから
息が切れる。
祭壇へと続く道標の石に掴まり、私は足を止めた。手にはナイフが光る。
見上げれば二つ連なる恒星が輝き、青く澄んだ空には白い雲がたなびいている。途方もない時間をかけて、この地は母星であった惑星の太古の姿に近づいた。更に深い緑が森を形作る日も遠からず訪れるだろう。
けれど
名前も無く、番号で呼ばれる実験動物として作られた私たちを、人のように扱ってくれたのは博士だけだった。
「博士……それは何の映像?」
姉妹たちが駆け寄って、ぼんやりと浮かび上がるモニターの3D映像を覗き込む。無精ひげを生やし所々を機械化させた博士は、目尻の皺を深くしてゆっくりと説明した。
「二つの平行板で囲まれた二重拡散対流――ソルトフィンガーのモデルだよ」
「そるとー?」
ほほ笑みながら、首を傾げる姉妹の頭を撫でつつ博士が続ける。
「気体や液体が、低温は下層に、高温は上層に分かれていくのは教えたね」
「ちゃんと混ぜ続けないと、水槽のお湯は下から冷たくなっていくの」
「そう、それだ。そして例えば同じ温度の、濃度の違う塩水があったととする。濃度の濃い重たい塩水は下層に、薄い水は軽いため上層に分離していく」
姉妹たちは頷き、博士の次の言葉を待つ。
「では、上層に熱く濃い塩水があった時、下層の冷たく薄い水に対してどう動くだろう?」
「熱いから上……でも、濃いから下に?」
姉妹たちは顔を見合わせた。
博士はその様子を優しく見つめてから、先ほどの不思議な動きをする映像を再生した。
「熱の方が拡散が速いからね、境界面はまるで細長い指のように伸びていくんだよ、これがソルトフィンガー型対流だ」
姉妹たちが瞳を輝かせてモニターを見上げる。
「生き物みたいな動き」
「シダ植物の芽にも似てるよ」
「本当に……命があるような動きだね」
理屈よりも、ただ奇妙な動きをする姿が好奇心をくすぐっていく。船外で、辛く重い仕事を課せられるだけの毎日に、博士との僅かな時間は私たちのよりどころだった。
死ねばただのゴミとして処理される。
この惑星で人が何故生き続けられないのか、それを探るためだけの実験体――奴隷なのだ。なのに博士は何故、私たち
「悪魔の指みたい……」
私には、冷たく清らかな海に食い込む、穢れた指のように見えた。
遠くから、私を追うホバーバイクの音がする。
閉じていた瞼を開き、光射す祭壇に向かって再び走り始める。
私も最初は姉妹たちと同じように、博士たちの期待に応えたいと思った。
けれど役に立たなくなれば捨てられるのだと知った。姉妹が一人また一人と死んで最後の一人となっても、新しい
果てしない星を渡って来た人間達が、何故そんな無益な事を繰り返しているのか分からない。
博士の言葉が蘇る。
「私の
「奴隷が荷を持つ様子ですか?」
姉妹たちの
「そう……だから私は、命が生まれるもとには、何か重荷となる物が必要なのではと、暗示されている気がしてならなくてね」
その時は、博士の言う「重荷」が何であるか
捨てることのできない、人の重荷とは何だろう。
細々と、人類は宇宙を渡る間は命を繋ぐことができていたというのに、やっと辿りついた
必要な要素は揃っているのに、自然に、命が生まれ育つことができない。
受け入れられていないのだ。
「人は……楽園に生きる事ができないのよ」
忘れてはならない重荷……それは人が「命を奪わずにはいられない存在」だという事。
海に
岬の風が頬を撫でる。眩しく温かな光が辺りを照らす。
不安に押しつぶされそうになりながら、僅かな希望を抱いて暗い宇宙を渡って来た人類にとって、ここは夢に見た世界だろうというのに、その顔には悲しみしか見えない。
だからこそ私は、怒りをあらわに言い捨てる。
「博士を拘束したぐらいで、
「博士は余計な知恵を与えた。お前たちはただ従順であればいい」
無表情に返される冷たい言葉。
私は己の中に獰猛な獣を見る気持ちで血をたぎらせる。
「そうやって従順であった者たちを、どれほど使い捨てれば気がつくの!」
吼える声に、管理者に続く者達は
ただ一人だけ臆することなく対面する管理者に対して、私は目をそらさずに言い重ねる。
「姉妹たちは皆、この星で人間が生まれ生きていける、その
何のために生まれたのだろうと、思う事があった。
だから死んでいく姉妹たちを見て自分が最後の一人になるのだと。大切にしてくれた博士に……たった一つでもいいから、役に立って私は往く。
「これは……私の役目よ」
「EX-Sa1395!」
「人という
手にしたナイフを自らの首に当てる。
鮮やかな花が開くように鮮血があふれ出す。
これは儀式だ。野蛮だといって人々が
けれど人という種は他の命を奪って生きていく生き物なのだと、それを忘れないために生贄は捧げられる。
「生贄――血を注ぐことなく、この
岬の祭壇から捧げた身は、冷たく清らかな海の上に落ちていく。
溢れる深紅の血。
熱く濃く深く、怒りと悲しみを抱え、悪魔の腕となり海底まで伸びて爪を立てる。やがてそれは拡散して、この
ソルトフィンガー。
いつか私の血は、姉妹たちが想像したような命の芽になることを祈って。
岬の祭壇で、管理者は手にした無線機を使い報告する。
「EX-Sa1395――ラシェルは生贄として使命を全うした……これでいいんだな?」
『……すまない、大切な
無線機の向こうで、博士の呻くように震える声が響く。
『命の犠牲を必要とする、それが人という
ソルトフィンガー 管野月子 @tsukiko528
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