ボクらのワンコたち

あきらっち

第1話

 『女心と秋の空』なんて言うけれど、男心だって移ろいやすいものだ。気まぐれに吹く乾いた秋の風に雲がちぎれていくように、つないだその手はいともたやすく離れていく。


「午前中は晴れても夕方から雨雲が広がるでしょう」

 気象予報士はそう言っていたと、ついさっきまで付き合っていた男が教えてくれた。


 今朝は寝過ごしたせいで天気予報を見逃した自分が悪いのだ。おかげで、仕事帰りにコンビニで、安っぽいくせに割高なビニール傘を買う羽目になった。そして、そのビニール傘をさして、彼氏と約束していた待ち合わせ場所に向かう。すでに彼氏がいた。待たせたことを詫びると「自分もたった今着いたばかりだから」と控えめに笑う。

 駅ビルのレストラン街。すぐに座れそうな店に入る。そして、料理が運ばれてきて、箸を手にしたと同時に、彼氏が意を決したように口を開いた。

「別れて欲しい」

 理由は単純明快だった。他に好きな人ができたらしい。「そっか。じゃあ、仕方ないな」

 事も無げに言えた自分を誉めたい。お詫びにここの食事代は自分が出すと、たった今まで彼氏だった男が言うから、ささやかな抵抗のつもりでデザートも注文した。

 男同士の恋愛なんてこんなもんだ。別れはいつだって簡単であっさりしている。


 三好和哉(みよしかずや)は、街灯の明かりを反射させながら波打つ水たまりをよける。本当は、思い切り水たまりに飛び込みたい気分だけれど、スーツをクリーニングに出す手間を考えるとそれは得策じゃない。まだ冷静さは残っていたようだ。けれど、こんな雨の日に別れを切り出さなくてもいいじゃないか、と恨めしげに真っ黒な秋の夜空を見上げる。


 人気の少ない通りの角を曲がる。晴れていたら、夜でも和哉の住むアパートのエントランスが見えるのだが、雨にけぶっている今は、それが見えない。しかし、和哉は勝手知ったる足取りで歩みを進める。十歩ほど歩いたところで、奇妙な違和感を覚える。

 ようやくおぼろげに見えてきたエントランスの横に、黒い固まりが鎮座している。一瞬、食器棚かソファーといった粗大ゴミかと思ったけれど、どうやらそれは人の形をしているようだ。さらに歩みを進める。それに近づくとやはり人だった。

 水たまりを踏まないようにうつむきがちに歩いていたから、まず真っ先に目に入ったのは、薄汚れたスニーカー。もとは全体的に白かったのかもしれないが、灰色の汚れが模様を描いている。かかとの部分がすっかりすり減っている。和哉が少し顔を上げると、裾を折り返したジーンズが雨に濡れて重たそうに足に張り付いている。そして、緑色のくたびれたリュックサック。大切に守られているかのように、両腕の中に収まっている。抱きしめられてペチャンコに潰されている様子から、中身は少ないようだ。その腕を包むのはフードのついた赤一色のパーカー。リュックを抱いているから見えないけれど、おそらくロゴも模様もない無地のパーカーと思われる。

 エントランスの横に腰掛けてうつむいているから、表情は見えなかったけれど、髪の長さからして男性だろう。和哉は一瞬にしてそこまで見取った。

 職業病だな。和哉は自嘲するようにため息をついた。和哉は製造会社の営業マンだ。日々、あらゆる人間に接するせいか、息を吸うように人間観察してしまう。だから、さっき別れた彼氏からも「俺も観察されているみたいで怖いな」と冗談混じりの口調で言われたことがある。今思えば、あれは冗談ではなくて本気で思っていたのかもしれない。

 和哉の背後にある街灯が、和哉の影を、彼に向かって淡く延ばす。和哉の影が彼のスニーカーにかかると、彼は驚いたように和哉を見上げる。お互いにしっかり目が合ってしまった。


 彼の顔は思いの外に幼かった。確実に未成年だろう。もしかしたら高校生なのかもしれない。しかし、その子犬のように潤んだ瞳には邪気を感じさせない。非行少年ではない、和哉は直感した。おそらく訳あって家出したのかもしれない。そして、このアパートに住む誰かを頼ってきたはいいけれど、おそらく不在だったのだろう。つい癖のように推測してしまった。

 ここのエントランスはひさしがあるとはいえ、少しでも風が吹けば雨に打たれてしまう。いつからここにいたのかは分からないけれど、全身ずぶ濡れの様子を見ると、長い時間ここにいたはずだ。ましてや秋の雨、ここまで濡れたら寒いはずだろう。


 少年は何か言いたげだったけれど、すぐに和哉から目をそらしてしまった。和哉も、関わらない方がいいだろうと、少年を極力視界に入れないように、無言で素早く彼の横をすり抜けてアパートの通路に入った。

 そこで和哉は気がついたように足を止めた。ここはオートロックじゃない。あんな雨が吹き込むエントランスよりは、通路の方が雨風をしのげる。それだったら、この部屋の主のドアの前で待っていればいいはずだ。なぜ、少年はあんなところにいるのだろうか。和哉は少年を振り返るが、彼は何も見えない真っ黒な空をぼんやり眺めていた。

 和哉は自室のドアの前で、水滴を払うようにビニール傘を振る。またビニール傘が増えてしまったな。げた箱の横に立てかけられたビニール傘の束を思う。営業で外回りしているから、折りたたみ傘は常に鞄の中に入れてはいる。それでも、たまに干したままにして、鞄の中に戻すのを忘れてしまう。そんな時に限って、予報外れの雨に打たれることもあるのだ。実は今日も、折りたたみ傘を忘れてしまっていたのだ。

 そんなうっかりものの自分だから愛想を尽かされたのかもな……。さっぱり別れたつもりだけど、未練たらたらの自分に気がついてしまった。ビニール傘を処分しなきゃな。和哉は今来た通路を引き返した。


「よかったらこの傘、使っていいよ」

 和哉は背後から少年に声をかけた。少年はゆっくり振り返った。訳が分からないという表情を浮かべている。少年は何一つも声を発さない。

「誰を待っているのか分からないけれど、せめて傘は差した方がいいよ」

 少年の警戒心を解くように、柔らかい口調で言う。営業マンたるものこれくらいは朝飯前だ。しかし、少年は何も答えない。しかし、傘は欲しいのだろうか。腕を伸ばしかけた。けれど、すぐに手を引っ込めて、またリュックを抱きしめてしまった。まるで暖をとるように。

「遠慮しなくていいからね」

 和哉は少年の横にしゃがんで、傘を握らせようと、その手を取った。その手の冷たさに、思わず和哉が手を引っ込めてしまいそうになった。いつからここにいたのだろうか。こんなに身体が冷えるまで。しかし、それでも少年は何も声を出さない。傘を受け取らず、戸惑った表情で、和哉から視線を逸らしてしまった。結局、自分のしたことはお節介だったのだろうか。それとも、この傘に切ない感情がこもっていることを感じ取ったのだろうか。和哉は急に自分のしたことが申し訳なく感じた。受け取ってもらえなかった傘を持ち直して、立ち上がる。今度こそ自分の部屋に入ろうと、きびすを返した。

 玄関の鍵を開けて、ドアノブを握った。あとは手首を回すだけなのに、手首が固まったように動かない。

 和哉は足早に少年の元に戻って、その手首をつかんだ。少年は、肩をビクッと震わせて目を見開いた。口がわずかに動いたけれど、その口から声が漏れることはなかった。

 和哉はお構いなしに、少年の手首を握ったまま、通路を歩く。少年は引きずられるように、けれど抵抗を諦めたように引っ張られるまま。空いた手でドアノブをつかむと、今度は難なく手首が回ってドアが開く。


「こんなに濡れていると風邪ひくよ。この服、洗濯してあげるから、まずお風呂に入っておいで」

 玄関で呆然と立っている少年を後目に、バスタブにお湯を張る。タオルとかごを玄関に持っていって、バスタオルを床に敷いた。

「恥ずかしいかもしれないけれど、ここで服を脱いで、このかごに入れてくれるかな。濡れた身体はタオルで拭いてね」

 こちらの言うことを理解してくれたのだろう。少年は、コクリと頷く。少年はまず靴を脱いだ。玄関のたたきにつま先で立ちながら靴下を脱ぐ。靴下をかごに入れて、裸足になった足をタオルに乗せる。何も言わないけれど「床を濡らさないでくれ」という意志は伝わったようだ。

 和哉は安堵して、少年を玄関に残して寝室に入る。スーツを脱いでハンガーに掛けてクローゼットにしまった。そしてベッドの上に脱ぎ散らかされていたスウェットに着替える。

 一方、少年は水を含んで重くなったパーカーとジーンズも脱ごうとする。生地が身体に張り付いて、なかなか脱ぎづらいようだ。ようやく服をかごに入れることが出来た。そして残るは下着一枚だ。少年が穿いていたのは白いブリーフだった。少年は少し迷ったのち、ブリーフも脱いでかごに入れた。そしてタオルで濡れた髪を拭いて、腰にタオルを巻いた。

 ちょうどそのとき風呂が沸いたことを知らせるチャイムが鳴った。和哉はまた玄関先に戻る。濡れた衣類の入ったかごを受け取って、少年を浴室に案内した。

 シャンプーは右、ボディソープは左ということだけを教えて「ゆっくり温まってね」と浴室の扉を閉めた。


 少年の衣服を洗濯機に入れてスイッチを入れた。今時ブリーフなんて珍しいと、和哉は思った。あいにく和哉はトランクス派だった。新しいシャツとトランクス、洗い替えのスウェットを出して、浴室の扉の前に置く。

 濡れた靴もそのままにするわけにいかない。ドライヤーを当てて半乾きになったところで、丸めた新聞紙を詰め込んだ。

 そこまでやって、和哉は我に返った。「僕、なんでこんなことしたんだろう」とつぶやく。和哉はゲイだけれど、年下は恋愛対象外だ。和哉は二十八歳。おそらく少年とは十歳は離れているだろう。だから、少年に対してなにも下心はなかったはずだ。現に少年の裸を見ても性的に興奮はしなかった。だから、あの少年を連れ込んだのは、純粋な心配からだ。とは思いつつ、彼氏と別れたばかりで、本当は寂しかったからなのかもしれない……。


 洗濯が終了したことを知らせる軽快な音が鳴った。乾燥機能がついていたら、すぐに着ることができたのだろうけれど、あいにく和哉の洗濯機には乾燥機能がついていなかった。手慣れたこなしで、少年の服をかごに放り込んでいく。

 そして、リビングのカーテンレールに、少年の服をハンガーでかけていく。ロゴもなにも装飾もない無地の赤いパーカー。洗濯してみて気がついたけれど、少年の服はかなり汚れていたようだ。何日も洗濯されていなかったような、くすんでいた赤色は、鮮やかさを取り戻していた。やっぱり家出少年なのだろうか。彼はどこに行くつもりだったのだろうか。

 夏が終わってから使っていなかったエアコンのリモコンを手にとって、除湿モードを稼働させる。少しは早く乾くだろう。

 浴室の扉が開く音がした。和哉は洗面所の入り口から、彼の様子をそっと伺う。やましい気持ちは一切ない。そう言い聞かせながら。

 少年はタオルで身体を拭いている。水の粒が、彼の背中てコロコロと音が聞こえてきそうなほどに、なめらかに転がっていく。若々しい肌に、和哉はうらやましく思った。

 少年は、足下に新しいシャツがあるのに気づいたけれど、自分が着ていいのか迷っているようだった。

「服が乾くまで、それを着ていてよ。下着はそれしかなくて悪いんだけど」

 少年は頷くと、シャツと下着を身につけて、スウェットを着た。

 秋の雨に打たれて、色素が抜けたように白くなっていた少年の肌は、血が通ってほんのりと桃色に上気していた。頭にべったりと張り付いていた黒髪は、艶やかに立ち上がり、エアコンからの乾いた風に控えめにそよいでいる。

 年下は恋愛対象外だと思っていたのに、幼さの残る風貌の中に、ドーベルマンのような精悍さを感じ取って、和哉は妙にドギマギしてしまった。

「なにか飲む? 夜だから、ホットミルクの方がいいかな?」

 少年をリビングのソファに座らせる。彼は膝を抱え込むようにして、身体を縮めていた。まだ、和哉に対して警戒心を解いていないのだろう。

 和哉自身は、ゲイバーやアプリで出会った男を、自宅に誘い入れた経験がそれなりにあるから、男のあしらいには慣れていた。

 しかし、少年はなにも言わない。彼の声を、和哉はまだ一度も聞いていない。けれど、少年の瞳は、和哉に何かを訴えたいように、潤んでいた。

「……もしかしてだけど?」

 和哉はマグカップを手にしながら、ゆっくり尋ねた。

「声が出せなかったりする?」

 少年は反射的に顔を上げて、目を丸くした。そして、覚悟を決めたように、まっすぐに首を縦に振った。

「そっか。じゃあ、聞き方を変えるね。ホットミルクは好き?」

 和哉が訊くと、少年はおずおずと頷いた。

 その反応を見て、和哉はホッとして、牛乳をマグカップに注いで、電子レンジで温めた。そして、蜂蜜を注ぐ。

 テーブルにマグカップを置くと、彼はそっと両手でマグカップを包んだ。冷えた指先を温めるかのように。

 少年の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれた。

 和哉はなにも言わず、ホットミルクをすすった。なんとなく、少年の気持ちが分かった。和哉もついさっきまで泣きたい気持ちだったからだ。


「ここのマンションになにか用事があったの?」

 和哉は、ようやく涙が止まった彼に尋ねた。少年は首を振る。

「誰かに会う約束とかでもあった?」

 彼は首をぶるぶると振った。

「そっか。きみが心配だったから、部屋に連れ込んじゃったけれど、迷惑だった」

 少年は一瞬だけ考えて、大きく何度も首を振った。

 その仕草を見て、和哉は安堵した。自分がとんでもないことをしていたらどうしようかと、一抹の不安があったからだ。端から見たら、未成年を略取誘拐しているようなものだし、少年が騒いだら弁解のしようがなかったからだ。

「それなら良かった。まだ、服が乾いていないから、今夜はここで泊まっていくといいよ」

 和哉は、冷めかけたホットミルクを口の中に流し込んだ。少年はちびちびと飲んでいるからか、まだマグカップにたっぷり残っていた。

「じゃあ、僕もお風呂に入ってくるから、ゆっくり休んでね」

 少年は頷いて、動かしづらいように口をもごもごさせた。なんとなく彼の言いたいことが聞こえてきたように、和哉は感じた。

「ありがとう」

 と。


 それにしても、今日は予想外のことが立て続けに起きた。本当だったら、彼氏と別れたことにもっとショックを受けてもいいはずだったのに、それすらも忘れてしまうような出会いだった。

 失恋したときには、浴槽につかりながら、悲しみが癒えるまで一人涙を流していたものだ。けれど、今日の泣きたい気持ちは、すっかり消えてしまっている。

 和哉は湯船に口元まで身体を沈めた。なんとなく、彼の成分が溶け出しているような気がしたから、若返ったらいいな、なんて考えていたくらいだった。

 和哉が風呂から上がってリビングに戻ると、少年はソファの肘掛けを枕にして寝息を立てていた。

 先に来客用の布団を出しておけば良かったと、和哉は少し後悔した。よっぽど疲れていたのだろうか、彼の寝息は深かった。起こすのも忍びなくて、少年に掛け布団をそっとかけた。

 時計を見ると二十三時を回っていた。

 少年の寝顔を見ると、和哉も急に睡魔に襲われてきた。部屋中の電気を消す。エアコンの、緑色に光る小さなライトだけが、闇の中に浮かび上がった。

 そして、和哉もベッドの中に潜り込む。


 ピピピッ――。

 その音に和哉は目を覚ました。いつもの時間に設定した目覚まし時計が鳴ったからだ。

 カーテンの隙間から差し込む朝日に、夜のうちに降った雨が止んだことを知った。

 大きなあくびをしながらリビングに出ると、少年の姿はなかった。

 掛け布団は丁寧に三つ折りされて、ソファの上に置いてあった。少年の服は全て無くなっていて、シャツはスウェットはきちんと畳まれて、掛け布団の上に重なっていた。

 小走りで玄関に向かうと、彼のスニーカーとリュックサックは無くなり、彼の靴に詰めていた新聞紙の固まりは玄関の脇にまとめて置かれていた。

「せめて、朝ご飯食べて行けば良かったのに」

 和哉はつぶやきながらリビングに戻ると、テーブルにチラシが置いてあった。余白に、最初は文字だとは思えなかったくらいに、文字のようなものがたどたどしく並んでいた。

『あ り が と う』

 かろうじて、そう読めた。

 少年は、声だけではなくて、文字もうまく書けないのだろう。

 少年がどこに行くのかもう知る由はない。けれど、少年の無事を願わずにはいられなかった。


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