拡散する種と待っている私

砂田計々

拡散する種と待っている私

 ついに種が拡散されました、と早朝のニュース番組で今日一番の報せであるように女性アナウンサーは言った。拡散されたのは未明のことらしく、私は全く気付かなかった。画面には、羽をつけた種が風に舞って、暗闇の中を緑色の光を放ちながら飛散してゆく様子が何度も繰り返し映し出されていた。神秘的ですね、と女性アナウンサーが言うと、脇にいる誰もがそれに頷いていた。

 私はカーテンを開けてベランダを確認した。準備していた鉢の中で、土が朝の冷えた空気を吸って生き生きとして見えた。うまく受け取ってくれればいいなと思った。


 これまで、種が拡散すると聞いても全然ピンとこなかった。時期的にまだいいと思ったし、そういうものは自然の流れという考えもあった。でもここ最近になって、中学からの付き合いの江梨子や職場の後輩のところにも種が来た、花が咲いたということが続いて、いよいよ重い腰を上げた。


 長い間、無関心を決め込んでいた私は、一体なにから始めればよいのかさっぱりわからず、それでもホームセンターに行けばなんとかなりそうな気がして、さっそく着替えて家を出た。

 ホームセンターに着くとすぐ、異様な騒がしさに気が付いた。店外にまであふれんばかりの人だかりができていて、園芸用品売り場にはそうそう近づけない状態だった。

「今年は四年に一度の拡散年です! 早ければ今週中に拡散されますので、園芸用品はぜひ本日お買い求めください」

 拡声器による店員の声掛けで、店内は一層お祭り騒ぎの賑わいをみせていた。

 ここにいる人たち全員が次の拡散に向けて真剣に準備しているのだ。私はいったい今まで何をのんびりしていたのか。喧噪の中で時々はっきりと聞こえる「準備しすぎなくらいでちょうどいい」「これを逃したら最後かも」という言葉にますます焦りがこみあげてくる。周りの様子を窺っていると、どの人も熟練者のような顔つきで品定めしていて、私はそれに気おされてしまい、整然と棚に並ぶ商品に遠慮がちに目を泳がせた。

「いらっしゃいませー」

 声のした方を振り向くと、男性店員が手のひらを顔の横で上下させながら問い合わせを拾っているのが見えた。黒い短髪で前髪が少し跳ねた男性だった。私は思い切って聞いた。

「すいません、……拡散のあれで。私なにもわからなくて。何を準備すればいいのでしょう」

 男性店員は慣れた感じで「鉢はお持ちですか?」と尋ねるので「いいえ」と答えると「それでは、鉢コーナーにご案内しまーす」とすたすた先を歩いて行ってしまった。私は男性店員の背中を見失わないように人混みをかき分けて追うのに必死だった。

 角を曲がり、筋に入って鉢コーナーに到着すると、男性店員は踵で真円を描くように振り返り「こちら鉢コーナーでございます」と言った。

 棚に並んだ大小さまざまな鉢やプランターを前に戸惑っていると、それを察した男性店員が「初めてですと、こちらがおすすめですよ」と言って、よく見かけるえんじ色の素焼きの鉢を指さした。

 私は言われるがまま素焼きの鉢を手に取ると、持ったかんじの重みと値段も手ごろなところが気に入りすぐにそれに決めてしまった。男性店員は満足そうな顔をして「お客様、土は……」と言うので「いいえ」と言うと、嬉しそうに「土コーナーにご案内しまーす」と再び綺麗なターンをきめて歩き始めた。

 途中、一つ筋を間違えた男性店員が「違う」と小さな声でつぶやいてUターンするのに振り回されながら土コーナーに到着すると、土にもいろいろ種類があって驚いた。私にはどれでも良さそうに見えた。値段が高いとやっぱり綺麗な花を咲かせるのだろうか。目移りしてしまいながら、結局定番の土を男性店員に教えてもらった。

 鉢と土を両手に持って、ふと、土コーナーの隣の肥料が目に入ったので「こういうのも買った方がいいですか?」と聞くと、男性店員は目を細めて「肥料は芽が出てからで大丈夫ですよ」と笑って教えてくれた。何も知らなくて恥ずかしくなった。レジは長蛇の列だった。


 あの人が選んでくれたのだから間違いないという自信があった。

 私の鉢にも種はちゃんと届いたはずだと信じて待っていた。拡散の日から、毎日欠かさず水をやり、今日こそ芽が出ていないかと気になって毎朝早起きになってしまった。

 種が届いたのかどうかは芽が出るまで分からないらしく、ネットでいくら調べても知りたい部分は誰もあまり詳しくは書きたがらないのか判然としなかった。こういう部分はやはりまだ神聖なこととして残っているようだった。


 夕方のニュース番組で、種を受け取った家族が取材を受けて元気な花を見せびらかしていた。特別かわいいわけでもないのに、と強がってみたけどやっぱり花はかわいかった。

 公園や商店街にも花はあちこち咲いていた。いろんな花を見ながら私の花はどんな風なのだろうかと思いをめぐらせて、水をやり続けた。もしかすると種は届いていないのかもしれないし、届いていたとしてもすでに死んでしまっているのかもしれない。そう不安に思うこともあったけど、信じて待つことにした。最初の頃より、土はいくらか痩せて見えて、肥料くらいは買っておけばよかったなと少し後悔していた。準備しすぎなくらいでちょうどいいという言葉が頭に浮かんでいた。


 それからひと月が経ち、ふた月が経ち、季節が過ぎてだいぶ暖かくなった。

 あれからどれだけ水をやっても、私の鉢は芽が出なかった。この頃は水をやり忘れた日も多くなってきていた。

 コンビニ帰り、何げなく自宅マンションを見上げて気が付いた。私の部屋のベランダを取り囲むように、上下左右のべランダで花が咲いているのだった。右隣は背の高い元気な黄色い花が二輪。左隣は白い小花がひっそりと覗いている。下は大きな花びらにマーブル模様が彩っていて、真上は紫色の花をつけた蔓が柵にしだれ掛かって私の部屋に届きそうになっている。私は部屋に走った。

 鍵を開け、靴を脱ぎ捨てると、一目散にベランダに行き鉢を引き上げた。ひび割れを起こすほど硬くなった土を掘り起こして中身を確かめずにはいられなかった。床にこぼれ落ちる土の粒のひとつひとつまで、種ではないかとすべて潰して確認した。結局、私の鉢に種はなかった。


 休日。拡散の日以降、ホームセンターは通常営業に戻り店内の雰囲気も落ちついていた。

「いらっしゃいませー。あっ」

 男性店員は私を覚えていた。

「土がなくなったので。買いに来ました」

「土、なくなりましたか?」

「なくなりました、全部」

 男性店員は作業の手を止めて、くるりと方向転換すると、土コーナーに連れて行ってくれた。

 今度は違う土がいい、と私が言うので、男性店員はパッケージの裏面を見ながらいろいろと説明しはじめた。正直、説明は上の空で、あまりよく聞いていなかった。それがばれたのか「お客様?」と問いかけられて、咄嗟に、

「やっぱり、肥料が足りなくて種が死んじゃったんじゃないですか? 水だけじゃなく、ちゃんと肥料もやって。私、あなたが言ったから、肥料買わなかったんですよ」

 と言うと、男性店員は露骨に困ったという顔をした。

 これではクレームのようになってしまっている気がした。そんなことを言いたい訳じゃなかった。私は意を決して言った。

「じゃあ、それじゃあ、一度見に来てくれませんか、私の鉢植え」

 男性店員の口から、ひぇ、という音が漏れた。その一瞬だけ、仕事用の顔を忘れたようだった。園芸用の土に埋もれて、私は男性店員の言葉を待った。



おわり

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