幸せ種の運び屋

三浦常春

幸せ種の運び屋

「ね、言った通りでしょ?」


「ああ、きみの言った通りだ。本当に綺麗な場所だね」


 先日、俺は婚約した。相手は行きつけの酒場で給仕として働いていた、艶やかな黒髪に凛々しい眉の美しい女性。気立て器量ともによし。都会の掃き溜めのような場所で育った俺にとって、まさしく高嶺の花だった。


 そんな花を、どのような巡り合わせか、俺は手中に収めた。


 事実上結婚に近い婚約――それを報告するべく、俺は妻の実家を訪れていた。


 彼女の実家は、山間にある小さな村だ。山の斜面には青い房を実らせるブドウの木。谷間を流れる川沿いには水車小屋が建てられている。サワサワと草木を揺らす風は心地よく、長旅に疲れた身体を労わってくれる。


「ワインが有名なの、ここ。お店におろしていたワインも、ここ出身なのよ」


「道理で美味しいわけだ」


 そう頷けば、彼女は心底嬉しそうに俺の手を取る。そのまま彼女はどこかへと歩き出した。


 長いこと通路として生きてきたのか、すっかり草の剥げた小道。その中央や両脇の草地にはヤギや猫、犬などといった動物が気持ちよさげに転がっている。


「しっかし、のどかだなぁ」


「でしょう。でも、今はこんなに綺麗な景気だけど、昔は雑草すら生えないほどの荒れ地だったそうよ。ね、おばあさま?」


 彼女が顔を向けた先には一人の老婆がいた。く者のいなくなった荷車に腰を掛け、白い猫を侍らせている。


 おばあさま――そう呼ばれた老婆は、しわだらけの唇を動かしてゆっくりと頷いた。



   ■    ■



 ブドウとワインの製造が盛んに行われるこの村は、かつて何もない、荒れ果てた場所だった。


 作物を植えようにも根はすぐに腐り、葉は萎び、谷を流れる川の水は一滴でも飲もうものなら腹を下す。とても人が生きていける土地ではなかった。


 そんな場所に定住することになった理由は二つある。


 まず一つに、住民に与えられた働き口が、谷合の村のさらに奥にある鉱山であったこと。


 もう一つに、居住地を選ぶ自由がなかったこと。選ぶ余地がなかったのではない、選ぶ権利を与えられなかったのだ。


 だから生きていかなければならなかった。草も木も人も殺す、荒れ果てた大地で。


 そのような土地に放り込まれた人々は、神にすがるしかなかった。輸入した動物を捧げ、鉱山で堀り当てた鉱石を供え、毎日毎日背中に貼り付く死に怯えながら、自らの処遇を呪っていた。


 ある時、木が生えた。岩間を裂くように、青房をつける木が突如として現れたのだ。


 その翌日も、そのまた翌日も、次から次へと新しい命が生まれていく。


 村人は喜んだ。同時に不思議がった。どれだけ植えても根が張らなかった土地に、どうして青葉が宿ったのかと。


 そこで村人は、なぜブドウの木が生えるのか――その真相を探ることにした。


 村人は睡眠の時間を削って、日がな一日緑が増え始めた山肌を見守ることにした。しかしいつまで経っても犯人が村人の視界に入ることはなく、一つの季節が巡った。


 大半の村人が犯人の確保を諦めた頃、その姿を初めて見たのは、村に住まう一人の女性であった。


 夕飯を終え、その女性はいつものようにブドウの木が生える山の斜面を見守っていた。


 谷合の村には街灯がない。陽が落ちると、山の斜面はもちろん、サラサラと水の流れる谷間、住宅の周辺すら闇に飲まれる。谷合の村の住民は、皆は早寝であった。


 だからこの時間、に明かりが揺れるなんてことはあり得ないのだ。


「ねえ、お母さん。ブドウ畑に光が見えるわ」


「ブドウ泥棒かい?」


「分からない。わたし、見てくるわ」


「男衆に行かせればいいよ」


「お父さんもお兄さんも、今は鉱山にこもってるじゃない。大丈夫よ、少し見てくるだけだから」


 それだけ言うと、女性はランプに火を灯してブドウ畑へ向かった。


 そこにいたのは小人だった。膝丈ほどの小さな人。それは体格に似合わぬ大きな布袋を背負い、手に持つ杖の先に小さなランプをぶら下げている。


 家から見えた光とは、小人の持つランプの光だったのだ。


 布袋に手を差し入れては、パッとそれを撒く。右へ左へ、小人は忙しなく動き回り、ランプを揺らす。そのたびに地面から淡い緑色が伸び、やがて砂利まみれであった辺り一帯は、緑の絨毯に覆われる。


「すごい……」


 それはほんの小さな呟きであった。


 ぴたりと小人の手が止まる。突如として聞こえた声に驚愕したのであろう。小人は跳ね上がり、ブドウ畑の奥へと消えていった。


 女性は走り出すが既に小人の姿はなく、代わりに足元には、小人の軌跡を辿るように大小さまざまな種子が落ちていた。



   ■    ■



「――あの小人は、きっと今でも荒れた土地に種を撒き続けているのでしょう。我々は彼を、最大の敬意を込めて〈幸せ種の運び屋ハッピーシードウェイター〉と呼んでいます」


 語り終えた老婆はもぞもぞと口を動かす。


 聞き慣れた話なのか、妻は時折よそ見をし、どことなく落ち着かない様子であった。やがてくるりと俺の方を向いて、花のような笑みを見せる。


「素敵な話だったでしょう?」


「いささか信じられないけどな。けど、この景色を見てしまったら……」


 絵画のごとき景色、それはとても自然にできたとは思えなかった。誰か――神の手が隅から隅まで加えられたかのようであった。


 この景色がなければ、妻は生まれなかった。荒れ地で、身を蝕む水を浴びながら、子孫を残すことすらできずに絶えていたはずである。


 〈幸せ種の運び屋〉はこの村の、強いては俺の恩人である。


「温かな家庭を営むべく、俺たちも種を撒いていこう」


「ええ、そうね。家庭という花を育むために」


 老婆の言う通り、小人は今なお種を撒き続けているかもしれない。痩せた土地に救いの手を差し伸べているかもしれない。


 どこで何をしているとも知れぬ小人を思いながら、俺は妻の手を取るのだった。

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