江戸の夜(短編)
萬 幸
江戸の夜
ジンエが夜の江戸を歩いていた時だ。
「もし、そこのおにいさん」
道端から声をかけられた。
おかしいな、ジンエはそう思った。
今の時刻は丑三時。自分のような変わり者以外は寝ている頃だ。
「何用だ?」
ジンエは寛容な心で返事をした。
怪しい動きをすれば、ただちに逃げればいいだけだ。変人に答えるぐらいのことは、夜更かしの醍醐味であろう。
「あたし、どこか変かい?」
はて?
変なことを言う女だ。
必死に夜目を使って、女を観察する。
濡れているように見える赤い着物。見た目もそこらの町女と変わりない。
あえて、気になったところをあげるとすれば、首に赤い筋が走っていることぐらいだろう。
「特には」
気にすることもでないだろうか。
ジンエは適当に返事をした。
「そうかい、そうかい」
「女、何か不自由なことがあるのなら、同心を呼ぼうか?」
「いや、そこまでのことじゃないんだけどね」
「一体どうしたというのだ」
「いや、あたし、何か急いでいた気がするんだけどね。変な男とすれ違って以来、思い出せなくなってしまってね」
「ふむ。旦那なんかはいないのか?」
「い、いたような、いなかったような」
一体なんなのだ。
この女は何かの病気か。
貧乏ではないようだが、養生所にでも預けた方がいいだろうか。
「あ、あんた、誰だい?」
む?
何やら女の様子が変だ。
「俺を呼び止めたのはお前だろう」
「そ、そんな、わ、わけ、あるか い」
「おい!女どうしたというのだ!」
「わ、わか 、らない」
ジンエはとっさに女と距離をとった。
何事かと、女を凝視する。
「てめえ!」
ジンエは思わず声を上げてしまった。
女の首がズレていっているではないか!
首はズリズリと胴の上を滑り、やがて、「あっ」
と声を上げて地面に落ちた。
「おい」
女からの返事はすでにない。
不思議と血は出ていなかった。
否、赤い着物は血が染みた後だったのである。
ジンエと話している時に、すでにこの女は死んでいたのだ。
鼻唄三丁矢筈斬り。
ジンエは岡っ引きを呼びに行きながら、辻斬りの恐怖に慄いた。
江戸の夜(短編) 萬 幸 @Aristotle
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