摂氏五十度の雨
時雨薫
摂氏五十度の雨
背中に当たる風で谷底を感じる。空が嫌に青い。太陽は相変わらず難解で高尚な理論言語学の分厚い論文みたいに毅然としていて、目に映るもの何もかもを鋭くとがらせている。空気の塊が鼓膜を激しく叩く。突風を受けて体が翻る。火星らしい赤い壁が両側に迫る。この峡谷では土も風も錆の匂いがする。ダリアは崖から落ちたところだった。何故落ちてしまったのだかわからないが、落ちる前に誰かの手を放してしまったことだけは覚えている。長い思考の果てにダリアは大地へたたきつけられた。直前に崖の上に人影が見えた気がした。しかし、死んでしまうわけにはいかなかった。
5月27日の火星の朝だ。ダリアは床で目を覚ました。夜のうちにベッドから転げ落ちていたらしい。額も頬も汗でべたついている。テーブルの上に昨晩の宴の跡を見つけたが、何も覚えていない。その代わり夢を思い出した。敢えて夢解きをするまでもなく後悔の夢だ。タオルケットを頭からかぶりベッドに倒れ込んだ。収入が絶えてしまったというのに酒にお金をかける余裕などあるはずがない。空になったウイスキーの瓶の横で機能眼鏡のランプが点滅するのが見えた。弦をつまみ上げて耳に当てる。
「ダリアです。ダリア・ブラウン」
『仕事だ。来てくれ』
ダリアはそれまで眼鏡を左手で弄んでいたが、正しく掛けた。部屋がひどく汚いし下着しか着ていないので、レンズ横の小さな物理ボタンでこちらからの映像を遮断する。鼻の先30センチのあたりに電話の主の名前が表示された。院生時代の恩師、シュナイダーからだ。
「間違い電話ですよ」
『合ってる。君に頼みたい仕事がある』
一方的に通話が切れた。胡坐をかいて座るダリアの姿がベッドの横の鏡に映っている。緩い天パのかかった肩くらいの髪はしばらく手入れをさぼっているので光沢がない。それと、白いことには白いけれど荒れている肌。引きこもり特有のそれだ。外出しようという気にはなかなかなれない。
通勤ラッシュさえ過ぎればここ火星最大の都市、美麗心臓(スイートハート)の鉄道も随分すいている。床に散らばったゴミの中からダリアは今朝の新聞を拾い上げた。大きな見出しで「7月に計画降雨実施」とある。電車がトンネルに入るたびに車窓にダリアの姿が映る。人に見せられる程度には整えたつもりだが自信はない。もっとも今日会う相手はがさつさで悪名高いあのシュナイダーだ。容姿に気を使う必要などないのかもしれない。ダリアは大学前の駅で降りた。この惑星の他のありとあらゆるところと同じ、灰色の多い古びた街並み。ダリアは生まれも育ちも火星だから実感したことはないのだが火星の空気は土の色が混ざっていくらか赤いらしい。右に見える林の奥にあるのが大学。目指す建物はその向かい、少し離れたところにある大学所有の宿泊施設だ。無機質な雑居ビルが並ぶ中でこの建物だけが装飾的に見える。機能眼鏡でシュナイダーに電話を掛けた。短く『5階』とだけ返事が返ってくる。
「こっちへ」
ダリアの乗ったエレベーターが着くなり奥の部屋からチェロのA線のような声が呼びかけてきた。廊下の先のドアが開け放たれている。シュナイダーは第二大学の教授で言語学者だ。柔らかい長髪と筋肉がうっすら見える腕。成熟した落ち着きを感じる。無性化手術を受けた人間にはよくあることだが、年齢がはっきりしない。その人が窓の前の椅子に掛けてコーヒーを啜っている。よれたシャツに茶色い染みができている。三年前から変わらない生活力に欠ける無性別の学者だ。
後ろから軽快な足音がして誰かがダリアに抱き付いた。
「おひさです!」
小柄で細い女の子が、手をほどいてダリアの前に現れた。ショートの黒髪と大きな目。サチコだ。今度はダリアが正面からサチコへ抱き付いた。サチコの小さな体を包んでいると、砂糖水で動くちっちゃなエンジンを得たみたいに体があたたかくなり心がはずむ。これほど女の子らしい付き合いのできる相手をダリアは他に知らない。
「あたし、先輩なら来てくれると思ってました!」
サチコが心からの笑顔で言う。ダリアも微笑み返そうとしたが、どうしても口角が上がらない。サチコは怪訝そうに首をかしげる。
「笑ってくださいよ」
サチコがダリアの頬を持ち上げた。細い指の感触が心地よい。
シュナイダーがカップを置いて口笛を吹いた。話を始めるときのお決まりの合図だ。
「先週、火星領月世界の開拓地で大断絶前の遺跡が見つかった。この遺跡はちょいとわけありなものだから、政府は調査隊を結成することにしたんだ。そのメンバーの一人が僕だ」
「まったく初耳ですよ。今朝の新聞にも載ってなかったですし」ダリアが言った。
「報道規制を敷くだけの理由があるんだよ。というのも、その遺跡で人間が見つかったんだ」
シュナイダーが人差し指と中指でテーブルを二度軽く叩いた。サチコがその少し上に視線を向けたので、ダリアはヴァーチャルの映像が表示されたのだと気づいた。鞄の奥からがさごそと眼鏡を取り出して掛ける。サチコやシュナイダーはとうの昔に角膜に埋め込むタイプの端末へ乗り換えてしまったのでダリアだけが時代遅れだ。テーブルの上に小さな箱の模型が浮いている。
「一人暮らしのアパートくらいの大きさの箱が地中から掘り出されたんだ。そしてその中に人が横たわっている」
シュナイダーの指が部屋の模型をすり抜け、その中の直方体をつまみ出した。それをシュナイダーが指ではじく。無数の写真が飛び出してきてダリアらのいる部屋の壁面に整列した。雪のように白い少女が仰向けに横たわっている。赤い髪が腰まである。紅葉の葉が茶色く変色してしまう前に冬が訪れたような姿。地球育ちの人間ならそう表現するだろう。その少女が収められている箱は透明なガラスの棺だ。
「綺麗なもんだろう。冷凍睡眠だ」
「大断絶前の人間が生きているって言うんですか?」ダリアが聞いた。
「ああ。前代未聞だよ。ただし覚醒させるにはとんでもない手間がかかる。調査隊の仕事はこの子が何処の誰でどんなことを知っているかを明らかにすること。政府はそれに基づいてこの少女を覚醒させるかを決めるつもりらしい」
「すると、あたしと先輩は何をするんです?」サチコが尋ねる。
「部屋の中に少女の手記らしき手書きのノートがあった。これを手掛かりにしてどうにかしたい。仕事は明日から始める。どんなに些細な発見でも隠さないことと、この調査で知りえたことを口外しないこと。その二点さえ守ってくれればいい」
「言語学のキャリアがある人でなくて私と先輩を使うのはなぜです?」
「火星には職業的に言語学をやっている人間が僕くらいしかいないからさ。上の人間は地球の手を借りたくないらしい」
シュナイダーが隙間なく文字の詰まった書類を二枚取り出した。ダリアとサチコの分の契約書だ。ダリアはそれを生真面目に読み進め、報酬のところで視線を止めた。ダリアのそれまでの収入の5倍にもなる。ダリアはそれ以降を読み飛ばして誓約書にサインした。お金が必要だった。
「それにしても、先輩はよくこんなに突然休職させてもらえましたね」
資料に目を凝らしながらサチコが言った。28日、ダリアらは少女の手記の調査を始めていた。ダリアは「そうだね」とだけ答えて話題に関心がないふりをする。テーブルの向かいで作業しているシュナイダーはくすりとも笑っていない。実のところ、ダリアは前職で解雇されたことをシュナイダーにだけは伝えてあったのだ。そのときのシュナイダーからの返信には「フィールドワークお疲れ様」とだけ書かれていた。
「疲れましたよ。もう4時間もやってるんですもの」
ダリアが返事をしなくてもサチコは一人で話し続ける。ダリアらは少女の手記に現れる文字をリストアップする作業をしていた。とても退屈で眠くなる。この文字体系ではどの字も縦長の六角形のような形をしていて、それぞれどこかの辺が欠けていたり二重だったりする。
「こんな表記体系が存在するって知識としては知っていましたけど、実際に相手にするのは初めてです。単語ごとに字を当てようだなんて正気の沙汰じゃない」
サチコの言葉には若干の怒気がにじんでいる。それも仕方のないことだとダリアは思った。少女の手記は全く未知の言語で書かれていた。しかし、大断絶以前の史料を相手にするときそれは特別珍しいことでもない。問題はむしろ文字なのだ。そもそもラテンアルファベットでないというだけでも音価の推定に非常に難儀するし、その上、表音文字でさえないとなれば負担は圧倒的に増える。
「大断絶以前の言語なんですから素直に表音表記さえしてくれていればすぐに樹形図モデルが使えるはずなんですよ。ほら、記録のある言語どうしから語形が似ているものを見つけてきて特定の規則群を適用していくことで両言語に共通の祖型を推定するっていう大昔に流行ったやつ。樹形図の中での位置づけが明らかになればこの子の生きてた時代とか地域とかに見当を付けられるのに。それから、あの棺みたいな箱がやたらめったら丈夫だってのも腹が立ちます。あの子の体に直接触れられるなら遺伝子を取ってみるとか出来るでしょうに」
「ああ、それじゃ今いちばん調査が容易なものは私たちが扱ってるこのノートなんだ?」
ダリアが言った。シュナイダーがうなずく。
「しかももっとも有利なのが僕ら言語班だよ。考古学班はノートの炭素年代測定を試みたのだけど、どれだけの期間どれだけの宇宙線を浴びる環境にあったのかわからないからどうにもならなかったそうだ」
それからシュナイダーはすくりと立ち上がり鞄を持った。
「それじゃ、僕は講義があるから」
部屋はダリアとサチコの二人きりになった。20分も作業したところでサチコが席を離れた。しばらくしてダリアの前に紅茶と豆菓子が置かれた。
「あんまり疲れちゃうと効率が落ちますから」
ダリアはサチコが淹れた紅茶を飲んだ。普段はめったに飲まない香り付きの高級品だ。
「先輩の髪、いじっていいですか?」
小さくうなずく。サチコはダリアの髪をほどき手櫛で梳いた。それからダリアの髪で三つ編みを作り始める。
「先輩とこうやってびっちり顔を合わせるのは三年ぶりということになりますね」サチコが言った。
「すごいですよ、先輩は。修士を出てから働きながら論文を書いたり学会に出たり。私もそのくらいタフになりたいです」
「そんなに褒められたってな。それにここ一年は言語学のことは何もしていなかったし」
「サバティカル・イヤーってやつですよ」
「実はね、先月に仕事やめちゃったの。上司とひどく不仲になっちゃって耐えられなくて」
「あらら」
「それとさ、先輩と呼ぶのやめてほしい。サチコはいま博士課程でしょう? 学年上は私よりむしろお姉さんじゃない」
「うーん」とうなりながらサチコはダリアの背中に体重を預けた。
「あたしが先輩と呼びたいのだから先輩と呼ばせてくださいな」
三つ編みが一本完成した。サチコは二本目に手を付ける。
「ここでの研究を博士論文にするつもりなの?」
「口外厳禁なのでそれは難しいでしょうね。でも必要な経験なんです。あたしは大断絶以降に通用する新しい言語変化のモデルを打ち立てたくて。ほら、大断絶の後は言語獲得や言語運用の局面が時と場の制約を離れたからそれ以前の理論があれこれ廃用になってしまったじゃないですか。歴史言語学はその最たる分野で、系統的な分類がちっともできなくなってしまってるんです」
「新しいモデルって、無数の変数を用いて変化の方向を予想する気象予報みたいなやつ? こないだ何かの雑誌で読んだよ」
「あんなものはモデルとは言えませんよ。現象の再現ではあるかもしれませんけど、ブラックボックス的なものであって説明にはなりません」
「それならば、どうしたいの?」
「大昔、言語学が自然科学の領域の問題として扱われるようになったころに盛んに言われたことなんですけど、言語というものは自律的で独立した体系ではないんです。むしろヒトという種の生得的な能力であって、一つの心理現象。だから時間的にも空間的にもかけ離れた言語同士の間にも多くの類似点が存在している。情報を伝える機能を十分持った体系のすべてが人間の言語としてありえるわけではなく、どのような体系が用いられうるかは脳みそにもともと備わっている仕組みによって決まってしまっている。それで、これがちょっと面白いところなんですけど、ピジンやクレオールといったそれ以前の段階に辿れない新しい言語というものは互いによく似ているんです。これはきっと根源にある生得的な言語の反映だろうと言われていて。あたしはそういった根源の言語からの変化の方向と程度のベクトルによって各言語の絶対的な位置を定めていきたいんです。そうすれば、言語の変化は変数の数と同じだけの次元を有する空間に打たれた無数の点をつないだ線としてたどれるはずです。変数の数はきっとそれほど多くは必要なくて、せいぜい10個くらい。言語の系統は多次元の空間の中に延びた、分かれたり交わったりする線として表現されるわけです」
「根源にある生得的な言語って、世界祖語と同じ?」
「大断絶前に私と同じようなことを言った人は、むしろきわめて抽象的な唯一の計算規則だと考えたらしいですよ」
「計算規則ねえ。そういう無機質さがもっと際立っていれば言語の問題はずっと簡単だっただろうに」
少しの沈黙の後にサチコが言った。
「先輩、それ名案です」
シュナイダーが機械班へ棺の操作画面について情報を請求した。5分も経たないうちに返信が来た。向こうもまさにこちらの協力を仰ごうとしたところだったという。メールには棺の側面に青い文字が表示されている画像がいくつも添付されていた。文字はダリアらが数え上げているものと間違いなく同じだ。
「冴えてたね。僕らには都合の良い文字ベースのUIだ。しかしサチコ、この棺があらかじめ組み込まれたプログラムで動くだけというわけではないとなぜわかったんだい?」
「想像力ですよ。私が長い冷凍睡眠をするとして、起きた時に持っている唯一の資産がその棺ですから。ベッドにしかならないんじゃあまりに損です」
「するとあの手記の内容はこのコンピューターの操作説明かもしれませんね。照らし合わせていけば解読が進むかもしれない」
「たとえば、この文字の意味は『起動』だろうな」
シュナイダーが一枚の写真を指した。開始時の画面とメモが付されている。
「それじゃ『終了』は?」とサチコ。
その答えも送られてきた画像の中にあった。終了時の画面と書かれてある写真には二つの文字が並んでいる。
「一つの文字は『開始』と同じで、その前に余計な字が一つ付いてる」
「でも先輩、おかしくありませんか? 『終了』という語を『開始』という語に接辞を付けて作るというのは、どうも妙な感じがします」
「おそらくだけど、すべての形態素と文字との間に一対一の関係があるわけではないんだよ。『開始』という語は一文字で表されるけれど、『終了』という語にはそれに対応する唯一の文字がない。だから『開始』を指す文字に意味の反転を表す記号を加えて『終了』を指す文字として使っているのだと思う」
「これもダリアの仮説を補強する例だね。『記憶』であろう語と『消去』であろう語が同じ関係になっている。ほかの表現についても同じ原則で表記されているんだろう。この様子じゃ明日からの仕事は機械班と共同で進めた方が都合がよさそうだ」
その日のうちに、ダリアらは意味の転換に用いられる記号を4個と固有の意味を持つ文字を15個見つけた。しかしこれは手記に用いられている文字全体のうちではせいぜい3%にもならない量だ。シュナイダーは機械班との連携を密にするため、彼らのいる月へ渡ることを決めた。講義を当面休講とするにあたって、シュナイダーは大学病院の精神科から偽の診断書を手に入れた。
「事情を知ってる上の人間に頼んだらすぐ取れたよ」
3日後、シュナイダーは港へ見送りに来たダリアとサチコに診断書を見せた。「鬱病」とある。実際のシュナイダーの様子はむしろ反対でこれからの滞在に胸を躍らせているようだった。
ダリアとサチコのもとへ、現地入りしたシュナイダーから毎日報告があった。二週間もたった頃には言語の文法が一通り明らかになり、技術的な場面で使われる語についてはかなりの数の意味が明らかになっていた。喜ばしくない発見もあった。コンピューターの中をくまなく探しても、少女の氏名や出身地、誕生年に関わる記述は一切なかった。棺の操作可能な部分は完全に空だったのだ。一方で深まった謎もある。手記の前半の内容は大部分が棺の操作方法で、その他には簡単なゲームのソースコードがあるばかりだった。しかし後半部分は全く解読が進んでいない。あまりにも語彙が異なるのだ。ダリアとサチコはひとまずこれを少女の個人的な日記の類であろうと推測したが、この説には無理があることにダリアは気づいていた。後半部分には誤字の修正の跡が一切ないのだ。しかしダリアと違って文献学をバックボーンとしないサチコはこの点について何も気にしてはいなかったし、ダリアも他の説を唱えられるわけではなかった。もしかすると後半部分は何か化学的な方法で誤字を消していたのかもしれない。実のところ未だこのノートに用いられた筆記具さえもわかっていないのだ。考古学班の報告によれば少女の文字は紙の表面を焦がすことで書かれていたらしい。はんだごてのような道具で文字を書くのはあまりに難しいだろうとダリアは思った。
7月になった。6月の初め頃から計画降雨の実施期間について侃々諤々の議論があったが、結局は財務省の主張が通って2週間に及ぶかつてない長雨ということになった。細かい雨を何度も降らせるよりずっと安上がりなのだという。ダリアは山脈の向こうにある実家が心配になった。父も母も女性に学問は不要だという考えの人だったから、都会の大学に進学すると決めたときにダリアは事実上勘当されてしまっていた。そんな人たちを少しでも心配したことはダリアにとっていくらか意外で腹の据わりの悪いことだ。直接聞いたわけではないが、シュナイダーが若いころに無性化手術を受けたのも案外そんな理由からかもしれない。
雨が降り始めてからというもの電車は前よりずっと混雑するようになった。美麗心臓(スイートハート)の排水設備は400年も前に作られたものだからあちこちにがたが来ている。現代の火星圏はもはや開拓者の住まう土地などではなく、彼らの遺跡に寄生する人々の土地だ。火星人はみな自分の生活に汲々としていて、それ以外のことには関心がない。現状を保つことに精いっぱいで変化が嫌いなのだ。慢性的な財政難に拘らず政府が月の裏側を購入しても政権の支持率は高いままだった。それも当然で、多くの人にとって政治に新しい局面をもたらすよりは今の生活を耐えしのぐ方が好ましいのだろう。政府は内政の努力で経済を好転させるつもりなどまるでなく月の地下資源で一攫千金を狙っている。もっともその結果として月の少女が発見されたのだからこの件についてダリアはあまり文句をつける気になれない。
ダリアがエレベーターを降りると奥の部屋から電子音でできたチープな音楽が聞こえてきた。サチコが巻き取り式のスクリーンの前でゲームに興じている。端末を組み入れた眼を酷使して失明したという話を聞いたことがあったから、ダリアはサチコの両眼がすっかり赤くなっているのを見て心配になった。後ろからコントローラーを取り上げた。プラスチックの板につまみとボタンを付けただけの簡素なものだ。スクリーンが暗転しゲーム・オーバーの文字が現れる。少女の手記に使われている言語だ。
「これは?」
「ノートにあったゲームを書いてみたんです。自分で音楽もつけてみたらずいぶんそれらしくなったものだから。先輩が邪魔しなかったら調査隊の最高記録更新したかもしれなかったんですよ?」
「他にやっている人がいるの?」
「みんなやってますよ。やってないのは先輩くらい」
「それじゃ私はまた流行に乗り遅れたのね」
簡素だが見たことのないゲームだった。プレイヤーは白い円を上下左右に動かすことができる。2回の点滅で予告された後に画面上にブロックが現れる。円がこのブロックに触れてしまうとゲームオーバーだ。厄介なことに、円はプレイヤーの操作と関係なしに縮んだり膨らんだりする。その動きが妙に生き物に似ていて愛おしい。
「不思議なもんですよね。大断絶前の女の子と同じ遊びができるんですから」
「うん。経験の共有はよいものだ」
ダリアは取り上げたコントローラーでサチコに代わってゲームを始めた。何度やっても1万点に届かない。横からサチコが口うるさく指示を出してくる。ダリアが失敗するとダリアより大げさに声を出して悔やんだ。二人がスクリーンを片づけた時にはもう正午になっていた。簡単な昼食をとってから、手記の言語で接続詞が現れる文脈をあれこれ照らし合わせた。ここ3日はこの作業を続けていたが、この言語の接続詞はかなり種類が豊富でまだ意味が判然としないものが少なからずある。二人の集中力は10分と続かなかった。計画降雨への不満やらシュナイダーの服の趣味やら、何でもないことを話題に世間話が始まる。ほどなくして二人の会話は先ほどのゲームのことへ戻ってくる。扱っている例文がゲームのシステム文から取られたものだったからだ。
「先輩みたいなカタブツさえ虜にしてしまうんだから、すごいものですよ」
「未来へ持っていくものにゲームを選ぶだなんて妙な話だと思ったけれど、あれは納得するよ。とてもやめられない」
サチコが紅茶を飲み干してから、言った。
「もし少女もあのゲームに熱中していたとすれば、そのことについて日記に書きはしませんか?」
「私も同じことを思ってたんだ。出てくる語はおそらく、上、下、右、左。それから縮む、膨らむ、嬉しい、悔しいあたり」
「そのくらいの内容なら、あたしらの語彙力でも問題なく読めますね」
サチコが検索をかけた。気の遠くなるような作業の末に手記は既に全文が電子化されていて、単語を入力すればそれが使われているページと行数がわかるようになっていた。上下左右に当たる語が繰り返し使われているページが未解読の後半部分にいくつかあった。それに近いところに頻繁に出てくる語がある。意味を反転させる記号が付く場合もあるようだから、これが『膨らむ』だろう。ダリアらは既に『失敗』に当たる語を知っていた。その語と同じ文に決まって現れる形容詞が『悔しい』に違いない。
「先輩、感情に関わる語がわかったのはこれが初めてですよ!」
「どれだけ使われているか調べてみよう」
ダリアは『悔しい』に当たる語を検索窓に入力した。すぐに結果が出る。分布は未解読の後半部分全体に広がっていて、この部分がやはり思ったことをありのままに書いた日記であることを示唆している。ただし、ヒット数が予想より1桁ほど多いことだけが引っ掛かった。
計画降雨は予定通りの期間で終了した。雨に洗われた空気が怖いほどに透明だった。景色の彩度がいやに高く、灰色だらけの街さえ不思議と色にあふれて見える。ダリアにとって火星の土の色が抜けた空気を見る経験は初めてだった。どこまでも遠くを見通せそうな心地がする。
先の発見を経て解読が再び一気に進展していた。感情の表現が明らかになったことによりノートに書き残されていたもう一つのゲームがペット飼育のシミュレーションだと判明した。これが実に都合の良い作品で、『座る』『走る』といった基礎的な動詞が一通り登場している。だというのに今まで誰も手を付けていなかったのは、ドット絵があまりに下手でそれが犬なり猫なりの表現だとは誰も気づかなかったからだ。連鎖的に考古学班が新たな事実を発見する。このゲームに登場している動物の飼育方法は大断絶直前に地球で行われていた犬のそれと同じだとわかったのだ。大断絶の前後は人類史における最大の暗黒時代だ。大断絶400年前までに人類圏は月の地球側と火星にまで拡大したが、それ以降文明がことごとく崩壊してしまったかのようにほとんど遺物の見つからない時代に入る。そののちある時点を境に再び記録の量が増加するが、人類の分布はユーラシア大陸中央の一帯にまで縮小していて、文明は古代から中世の過渡期程度レベルにまで後退していた。しかしそれ以降の発展は異常に早かった。なぜというに、通信と交通についてだけは大断絶前の知識と技術が細々と継承されていたからだ。ほんの200年後に人類は再び宇宙へ進出する。ともかく、大断絶直前の時代から来たこの少女は今日の人類が歴史の空白を知るための最大の鍵なのだ。
以後の解読作業は快調そのものだった。日に日に語の意味が特定されていき、少女の言語の辞書は実用に耐える厚さになった。ダリアらは今までに明らかになった事実を一度共有すべくシュナイダーに一度火星へ帰ることを提案したが、返事がなかった。技術班からシュナイダーは考古学班と連携するために地球へ渡ったと知らされた。もはや手記の内容は完全に解読された。調査隊全体への報告のためにダリアとサチコはそれを翻訳せねばならなかった。初めは二人で一緒に訳していくつもりだったが、実際にやってみるとお互いの言葉の調子がうまくかみ合わず難儀した。そこで前半の技術的な文章をサチコが、後半をダリアが訳し完成してから確認しあうことにした。
まず第一に意外だったことは、日記だと思われていたこの文章が実は3日間程度の期間で一気呵成に書き上げられていたということだ。日記というよりは随筆だ。その文章は次のように始まる。
「私の筏はもう完全に地球の重力を振り切った。一人きりの旅は地球側の港へ着いた時には始まっていたけれど、本当に孤独を意識するようになったのはやはり宇宙港を出てからだ。というのも、それまでは内側があまりにざわついていて、自分が一人ぼっちになっているとはとても思えなかったから」
少女の筆致は回想の底へ沈む。少女が生まれ育ったのは巨大な原子力潜水艦の中だ。その船は一年に一度しか海上へ上がらず、常に地球の海洋の奥深くを巡行している。少女の家族は両親と一人の兄だ。彼らは居住区に一室を与えられて生活していた。少女らの他にもおよそ50の世帯が船で生活していて、役職や家柄の違いによる格差は存在しない。その船の船員たちは飛びぬけて高い共感力を共有していた。共感力という訳は適切でないかもしれないのだが、ダリアには他の言い方が思いつかない。原文では単に『力』に相当する語で書かれている。少女らの力は遺伝子組み換えによって得られたものだ。少女の曾祖父母らが力を持つ最初の世代だった。彼らは人類の躍進を推し進めることを目的に作られ、人の心を覗くことができた。瞬きや呼吸、声の調子、手の動きから一般の人々よりずっと多くの情報を引き出すことができる。そればかりでない。少女らは他の人々の精神に干渉することにもたけていた。首をほんの少しひねる何気ない動作だけで、人を悲しませることも喜ばせることもできる。これは人々を恐怖させるには十分すぎる力だった。そのために彼らは迫害を受け、一隻の原子力潜水艦に身を潜めた。そののち、この共感力を持つ人々は一世紀にわたってその船の中で子を産み育ててきたのだった。
少女が15歳になった年、地上では全人類が赤の陣営と青の陣営に分かれ戦争が始まった。赤の陣営はもはや存続が不可能となったコロニーからの難民で構成されていた。彼らは肥沃なユーラシア大陸東岸の割譲を要求し、それ以前から地球に生活していた人々からなる青の陣営に宣戦布告した。彼らは数と資源には劣ったが技術では優位だった。青の陣営の拠点である地球の諸都市は赤の陣営による超高高度からの爆撃のよってなすすべもなく破壊された。青の陣営は戦況の打開を目論み、少女らの船へ接触する。それは交渉ではなく武力による説得だった。その混乱で船長と少女の父が死ぬ。船員の多くが青の陣営により連れ去られたが、少女とその兄、それと数名の若者だけは脱出することができた。
かつての船員たちは青の陣営によって高感度のセンサーとして使われた。人工衛星軌道上を飛行する赤の陣営の爆撃機が次々と撃ち落とされていく。対抗して赤の陣営も少女らへ接触した。少女の兄は青の陣営への報復のために赤の陣営へ加わった。
過酷な生活の中で少女の能力は強化されていく。
「違う人の声が自分の内側から聞こえるのだ。そういうとき、私はその人が自分でない人だとは思えない。むしろ奥底でつながっている意識の中で、今まで気づかれず放っておかれていた自分の一部を見出したような気持ちになる。私にだけ聞こえることもあるし、相手にも私の声が聞こえることがある」
戦闘はますます激化していった。赤の陣営の無慈悲な戦略によって、少女の兄は青の陣営に徴用されたかつての船員との同士討ちで死んだ。少女にはすべての死んでいく者たちの声が聞こえていた。彼女の巨大な感情が自身の並外れた共感力と感応し、他社の精神に干渉する彼女の能力がけた外れに強くなった。
「私の力はもうそこが抜けてしまったらしい。仲間たちの声ばかりでなくて、何でもない、関わりのない人々の声までもが聞こえる。起きているときも寝ているときも、私の心の中ではあまりに多くの声が嘆いたり悲しんだりしていて、私が私でいられる隙間がない。声は熱いシャワーみたいだ。それにも拘らず私はその人々の方へ引かれる。私はその人々へ語り掛ける」
少女と仲間らは無数の軍事衛星をジャックし少女の声を全地球圏へ放送した。彼女の声がそれを聞いた人々の怒りや憎しみを沈めた。この事件を機に戦争は急速に終息へ向かっていく。力の猛烈な消費によって少女はもはや能力を失った。彼女は戦後の世界で政治的に利用されることを拒み、秘密裏に軌道エレベーターに乗った。彼女が入ったコンテナが宇宙港から射出された。数週間後、このコンテナは月の引力に捕まってその表面に落下する。少女は誰もが自分を忘れ去った遠い将来で第二の生を送ることを願い、自ら冷凍睡眠装置に入ったのだった。
ダリアは今まで生きてきてこれほどまでに読み物の中の人物に感情を引っ張られたことが無かった。翻訳をする間、ダリアは夜ごとに少女の夢を見た。深い水の底に少女がいる。ダリアにはそれが不思議と鮮明に見える。突然、天地が反転する。大地はあの赤い峡谷を落ち続けている。今更になって気づいたが、この峡谷はダリアの故郷の景色だ。ここは少女のいた地球からも月からも遠くかけ離れた火星なのだ。崖の上にこちらをのぞき込む人影が見えた。それは間違いなく少女だ。
サチコはダリアの翻訳を読んだ。これといって手直しするところもない。そればかりか、一つの誤字も見当たらない。少女が書いた手記の原文と同様に、説明が付かないほどに完璧だ。
「先輩はいつになく疲れているように見えます。大仕事が終わって肩の力が抜けたんですか?」
「そんなことじゃない。でも、確かに気分がすぐれない」
「悩みでも?」
ダリアはサチコに夢の話をした。のぞき込んでくる少女の顔が日に日に近くに見えるようになること。だというのに、その目や鼻の形がいつまでもぼやけたままだということ。
「紅茶でも入れましょうか」
サチコが立ち上がった。ダリアの耳に『先輩のことだから、どうせ過労だろう』という言葉が聞こえた。
「『先輩のことだから』だなんて言われるほど普段から無理してるわけじゃないよ」
サチコが動きを止めた。それからダリアに恐る恐る聞く。
「私、さっき声に出ちゃってましたか?」
ダリアは部屋に泊まることを思いついた。籠ってやらなければならないような仕事は今更残っていなかったし、自分の部屋の方が冷房の効きもよい。それなのにそんなことを始めたのは電車への嫌悪感が日増しに強くなっていたからだ。人の不機嫌さに敏感になってしまったとでもいおうか。混雑した電車に詰め込まれて周りの人が不機嫌になっていることがはっきりと伝わってきて、それが好きになれない。そんな不機嫌さに囲まれていては自分も不機嫌になる。周りの人は自分の不機嫌さを感じ取って、なおさら不機嫌になる。不機嫌のハウリング現象だ。地球にいるシュナイダーへ翻訳が終わった旨を知らせたとき、この頃の心身の不調について書いた日記のような文章もそれに付した。サチコに相談するのはなんとなく好きでなかった。ダリアはサチコには人の不調を過少に見積もりたがる傾向があると思うようになっていたからなのだが、そんな考えが何処から降ってきたのかわからない。シュナイダーからは大学病院の精神科で診てもらうことを勧められた。シュナイダーが「偽の診断書を作るしか能がないわけではない」と書いてよこしたことがどうしようもなく面白く感じられて笑いが止まらなかった。医者にかかるとただの過労だと言われた。
サチコは昼過ぎに来た。言語班だけで解決するようなことはもはや残っておらず、日に二つ三つ来る技術班や考古学班からの質問に答えるだけで仕事が追わった。サチコはまじめなもので、暇な時間には論文を読み込んだり本を読んだりしている。その中に言語学らしからぬ内容のものがあった。ギリシア文字と少数の図形で書かれた式が何行にも渡って書かれている。
「形式意味論ですよ。自然言語の意味を数理論理学的な手法で扱おうとする分野」
難解だが興味深かった。少数の規則で文の意味が計算されていく。言語をすっかり骨組みだけにしてしまう試みなのに、神秘性とでもいうべきものが減じないばかりかむしろ増していく。これほど立派で洗練された仕組みでできているのなら、自分たちが使う言語によるコミュニケーションも案外少女のものに劣らないかもしれないとダリアは思った。
「調査隊が解散された後、先輩はどうするんです?」
「正式にサチコの後輩になってみてもいいかもしれないな。放り投げてしまっている研究の続きがしたい」
「統語構造が詩の構成に与える影響ですよね。先輩の論文を読まなかったら私は文学よりの方面についてはきっと何も勉強しないままでしたよ」
「うん。でも、今読んでるこの本にそれ以上に心惹かれてしまってる。もしかすると今までとは全然違う研究をするかもしれない」
冷凍睡眠からの安全な覚醒の方法のめどが立ったと機械班から報告があった。手記の少女がまだ生きているのだということをダリアは急に意識するようになった。ダリアが見る夢はますます鮮明になっていった。夢の中でダリアと少女の距離はもうほとんど届きそうなくらいに縮まっていて、ダリアは少女に触れようと必死に手を伸ばす。少女もその手を掴もうとして身を乗り出す。指先がもう少しで触れあおうというところでダリアは谷底へ向かって落ち始めてしまう。ダリアは夢の中で叫んだ。少女に自分の声が届いてほしかった。
ダリアは手記の文構造について研究を始めた。内容の凄惨さばかりが印象に残ってしまうが、あの手記を読み進めるときの不思議な心地よさが忘れられなかった。あるいは少女が目を覚ます可能性を意識して何かせずにはいられなくなったことが研究の最大の動機かもしれない。8月の終わりには手記の文章が文のレベルを超えた構造を持っていることが明らかになった。あらかじめやっておいたこの言語の接続詞についての研究が助けになった。手記の言語においては一つ一つの文ばかりではなく、文章全体が階層構造を持っている。これは飛びぬけて大きい発見だったから、ダリアとサチコは抱き合って喜んだ。そしてこの発見は少女の手記に一切誤字のないことがいよいよ無視できない問題であることを示唆していた。
秋学期を前にシュナイダーが地球から帰ってきた。5月と比べるとずいぶん日焼けしている。少女の棺とよく似たものが地球でも発見されていて、シュナイダーはそれを見てきたのだそうだ。
「地球にあるものはすっかり壊れていて何に使う機械なのだか誰も知らなかったんだ。使われている言語は月のものからそう遠くはなかったよ。しかも喜ばしいことに、こちらは表音文字だ。手記の言語についてもその音声を明らかにできる」
「地球にいる間どうしてもっと連絡をくれなかったんですか?」ダリアが聞いた。
「地球当局に僕らが月の件で来ていると知られてはまずかったんだ。火星に売り渡した領土だといっても、そこから価値のあるものが出てくるようなことがあれば彼らは権利を主張するだろうから」
ダリアとサチコはシュナイダーに自分たちの成果を報告した。案の定、シュナイダーは文章全体が一つの階層構造をなしているという話に興味を示した。
「文章全体が一つの構文木で書けるのなら、文章全体の意味も計算できるかもしれない。しかし、もしそんなことができるとすれば、それは人類を超えた認知の方法だ」
音韻についての研究がこの手記の研究で最後の驚くべき事実を明らかにした。文章全体が同じレベルの句を単位として頭脚韻を踏んでいることが分かったのだ。
10月1日、調査団の解散が宣言された。その3日後、政府が月の少女発見を公表する。少女の覚醒は行わず地球当局へ売却するという。手記については言及されなかったが、これは火星政府が手元に置いておくのだとダリアは元調査隊の筋から知らされた。
「最後に会いに行ってみたらどうだい? 地球への引き渡しは技術班の担当だから君は入れてもらえる」
大学のカフェテリアでシュナイダーがダリアに月行きの航空券を渡した。サチコではなく私だけにその機会を与えたのだから、シュナイダーは私の感じていることを完全にではなくとも理解していたのだろう。ダリアはそう思った。いや、むしろシュナイダーの心の中を覗いたというのが適切かもしれない。それとも、互いに覗かせ合ったからこんなことになったのだろうか。
「サチコを呼んでください。三人でしたい話があります」
このエレベーターに三人が一度に乗るのは初めてだった。5階のいつもの部屋へ着き、各々が好きなところへ腰かける。シュナイダーは窓の前の椅子、サチコはソファ、ダリアは作業用のテーブルの縁だ。三人の向いている先はバラバラというほどではないけれど、一点にはまとまらない。三人の意識がぼんやりとした束になっているのをダリアは感じた。
「話さなくてはいけないことというのは、少女の手記の翻訳の後に私に起こった変化です」
サチコが不安げにダリアの目を見た。
「少女の手記の翻訳を始めてから、私が彼女を夢に見るようになったことは既にお話ししました。私はまだその夢を見つづけています」
「恋しちゃったんですかね」サチコが言う。
「変化はそれだけではありませんでした。私は、人の心の中の声が聞こえるようになりました。サチコはそれを何度か目撃しているはずです」
「それじゃあ、ダリア。君はまるで……」
「はい。手記に書かれていた少女の力が、私にも使えるようになったらしいんです」
「手記の翻訳を契機にしてかい?」
「ええ。そもそも不思議でした。全く忘れ去られてしまうことを願った少女が、なぜ手元に自伝を綴ったノートを残しておいたのか。なぜ解読のヒントになるように都合よく棺の操作方法やゲームのソースコードを書き残したのか。今の私には理由が分かります。彼女は、一人になりたくなかったんです。だから手記を読み解けるようにした。しかもその手記は読んだ人に魔法をかけるように仕込みがしてある」
「あの手記のあまりによくできた構造は、読んだ人に彼女と同じ力を与えるための手段だったというんだね」
「納得いきませんよ!」
サチコが立ち上がって言った。
「それならなぜ調査団が解散される前にそのことを知らせてくれなかったんですか。報告書の中にその事実があれば、政府は少女を売却しなかったかもしれないのに」
「それでは駄目だったんだよ。少女がまだいくらか力を持っていてしかもその力を人に分け与えられると知れたら、政府はまず間違いなく彼女を覚醒させるでしょう。でも、それは国策に利用するためだ。それは彼女が拒んだものじゃないか」
「先輩は、目を覚ました月の少女と会いたくはなかったんですか?」
ダリアは黙ってしまった。サチコの目が潤んでいる。
「会いたかったよ。でも……」
着陸船がシャトルから打ち出された。ダリアは座席越しに逆噴射の推力を感じた。カートが横付けされ、太いホースで着陸船と接続される。月は引力が小さいから全体を覆う大気もなければシャトルが直接着陸することのできる滑走路もない。火星とはまるで勝手の異なる星だ。ダリアが降り立ったのは薄暗がりの環(トワイライトゾーン)にある工業都市だ。泡(バブル)が都市を包んでいて、その内側にだけ空気がある。技術班の女性がダリアを迎えに来た。二人は薄暗がりの環(トワイライトゾーン)を何キロも走った。薄暗がり(トワイライト)の名に反して、景色は白と黒にはっきり分かれている。宇宙服越しにも日向と日陰の気温差が伝わってくる。何もかもが平坦に見えて距離感がつかめない。箱は丘の陰にあった。ヘッドライトなしでは何も見えない完全な闇の中だ。二人は箱の正面に立つ。女性が箱の表面に手を触れると、それまで少しの隙間もなかったところに扉が現れた。
壁自体が発光しているらしく、箱の中はまぶしいほどに明るかった。ダリアはヘルメットを脱いだ。部屋の中央にガラスの棺が安置されている。息を飲んで、一歩踏み出す。ダリアは膝立ちになって少女の顔を覗き見た。肌には子供らしい柔らかさがある。髪は写真で見たよりずっと赤い。胸の上で組まれた手の指が細く長い。ダリアは少女を覆うガラスの上に手を置いた。
その瞬間、感じたことのないほどのやさしさがダリアに流れ込んできた。ダリアにはそれが血管を通って体中に行き渡っていくのがありありと分かった。ダリアはまたあの赤い峡谷にいた。空に空いた穴から少女が手を伸ばしている。今はもうその目が、鼻が、はっきりと見える。ダリアは少女の手を掴んだ。峡谷と海の底の景色とが勢いよく混ざり合った。ダリアは少女の体が自分に沈んでいくのを感じた。
「そろそろ行きましょうか」
女性がダリアに声をかけた。ダリアは同じ姿勢のまま少女の目を見つめていたところだった。帰りの車は行きほど長い路程のようには感じられなかった。泡(バブル)がもう目の前に見える。ダリアはふとこの土地での生活が気になった。
「月の都市にも雨が降りますか?」
「降りますよ。摂氏50度に温められて降るあつーい雨が」
「それはやだなあ」
「浴びたことありますか?」
「ええ。ずっと昔にいくらか」
摂氏五十度の雨 時雨薫 @akaiyume2
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