私が帰った理由

@ie_kaze

第1話

 側溝から聞こえる、合唱のような蛙の歌が耳に入り、私はようやく地元へと帰ってきたという実感がわいていた。

 街灯もろくにない田舎道は足元もおぼつかず、前もって用意をしていた懐中電灯で照らしながら、家路を急いでいた。

 大学を卒業後、俺は実家の家業を継いでほしいという両親の頼みを聞いて帰ってきた。

 本当はやってみたかったこともたくさんあったが、学費を出してもらったこともそうだし、大学に行くためにも無理をした。できる限りその恩を返したいと思ったら、その申し出を断ることはできなかった。

 実家に着くと見飽きた我が家が目に入った。長い事街の方に行っていたせいか、新鮮味を感じたが、一歩玄関を入ると記憶が刺激され、えも言われぬ安心感が押し寄せてくる。

 外観的な変化は分からない、数年程度では何も変わらないのかもしれない。

「ただいま」

「おう」

 ぶっきらぼうに挨拶をする父は、少し背が小さくなっていたような気がした、実際にどうかはわからないが、父も年を取ったという事なのかもと思った。

 だけど身体はとても50代の物とは思えない、自分よりもがっしりとしていて、今日も畑仕事をやっていたとは母の言葉だった。

 俺が継いでほしいと言われたのは農家の仕事だった。

 幼いころから仕事を手伝わされていたからある程度の仕事はわかる、ただ一つだけ分からなかったことがある、それはもし家業を継がせたいのだったら、大学を自由に行かせてくれた理由が無いのだ。

 大学の専攻は農業ではない、むしろ真逆とも言えそうな電子情報系だ。これも自分が行きたいと思った大学だったが、いざ入って勉強をしてみると、何かが違うような気がした、だけど何が違うかまでは分からなかった。

 だからでこそ、父が最初から仕事を継がせるという目的があったとは思えなかったのだ。

 もちろん俺だって最初は考えた、昔から継いできた農業を終わらせたくないだとか、いろんな理由があるのかもしれないと。だけどベッドでいくらそのことを考えても、結局答えは見つからなかった。


 次の日の朝から早速畑仕事に駆り出された、朝のまだ薄暗い時間に畑へと出た。

 冷たい空気だったが、身体を動かしているといつしか気にならなくなっていた。

 確かに農作業は辛いものがある、大学に行ってる間、あまり運動もしていなかった俺の身体は早い段階で悲鳴を上げ始めたが、それを騙し騙しやっていると、なんとか一日を乗り切ることができた。

 初日ということもあったし、繁忙期でないという事で仕事が早く終わった俺は、近所に用事があるという父と離れて家に帰ることにした。

 家に帰ると母が出迎えてくれる。大学生時代に誰もいないアパートに帰るのとは違う、人の温かさのようなものを感じていた。


「あのさあ、母さん」

「なあに」

「なんで親父は俺に家を継いでほしいって言ったんだ」

 そのことがずっと頭の中から離れなかった。種をまいているときもそう、土壌の整備をしているときもそう、どうして父は急に仕事を継いでほしいと言ったのか、そのことだけが頭に残り続けていた。

 もしそのまま毎日続けていたら、何時しか事故でも起こしてしまうかもしれない、それは冗談ではなく、本当に気になるからありうることだと思っていた。

 そう思って母に聞いた、母は顎に手をやって考えるそぶりをした。

 そのことで何かしらの理由があるのはわかった、だけどそれは俺に言えない事なのだろうか。

「そうね、お父さんには内緒にしてくれるなら」

 そうして母は何故父がおれに家業の農家を継いでほしいと言ったのかを話し始めた。


「ほら、近所に宗谷君って年上の男の子いたじゃない」

 どうして宗谷の名前が出てきたか分からなかったが、俺は宗谷君の事を知っている、いや、もう宗谷さんか。

 3歳年上で、小さいころは良く遊んでもらったものだった。だけど3つも上だと学年が変わるときに分かれていく、小学校は大丈夫でも中学で会えなくなり、そしていま彼がどうしているのか俺は知らない。

「その宗谷さんがどうしたって」

「実はこの町を出てたらしいんだけど、少し前くらいに帰ってきたんだけどね、ちょっと仕事場の方で、その、心の方をちょっとおかしくしちゃったらしいの」

「そ、そうなんだ」

 いきなりヘビーな話を振られた、そんなことになっていたのかと。

 だけどそれと、家業を継いでほしいというのとでは何の関係があったのか。

「ご近所だし、それなりに親しいところだからいろいろと話も聞いてね、仕事先でいろいろあったんだってことをお父さんにも話したの」

「そしたらお父さん考え込んで、あんたのことも大丈夫なのかって言いだしたのよ」

 家に帰って、冷凍で保存していたご飯をレンジでチン、おかずは惣菜で手早く済ませ、自分以外の生き物を感じない冷たい部屋、一人暮らしをしていた時に唐突に感じた、あの孤独感がその瞬間俺を覆った。

 それは遠い世界の話ではなく、すぐ身近にありえた話なのだと俺は気づいた。

「そしたらある日ね、あんたを実家に呼び戻そうって。いまって就職だって難しいんでしょ、だったら確実に仕事に就けるし、実家から通えるってこともあるんだから、家を継いでもらえれば全部解決じゃないかってね」

「そう、だったんだ」

「お父さん喜んでたんだからね、家業ならあんたを宗谷君の様にはしなくて済むって、あ、もちろん仕事に手を抜いて良いとかそういう意味ではないわよ」

「そう」

 溢れる涙を抑えようとした、確かに一人暮らしは寂しかった、大学の同期を家に呼んで遊んだりしたこともあったが、いざ彼らが帰ると家からは火が消えたように静かになって、より一層寂しさを増すのだ。

 遠い未来に俺が宗谷さんにならない保証は確かになかった。

 家を出た俺をそれでも心配してくれる父と母の気持ちに触れて、俺は目頭を押さえた、泣いているところを見られたくなかったからだった。

「うん、わかった、ちょっとすぐにメール送らなきゃいけないから部屋に戻るね」

 顔を見られないように、すぐに後ろを向いて自分の部屋へと向かおうとすると、その背後から声が聞こえてきた。

「あ、でもこの話お父さんには内緒だからね、お父さん、あんたが帰ってくるって聞いてからほんと嬉しそうにしてたんだから」

 どぼどぼと零れ落ちる涙は止められなかった。

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