ずっとU(う○こ)のターン!

草薙 健(タケル)

トイレはどこだ……どこにある!!!

 俺は重さ約十キロの登山用装備を担ぎながら、足下の悪い山道を全力疾走していた。


 ハァ……ハァ……。どうしてこうなった……どうしてこうなった……!


 息が上がる。心臓が破裂しそうだ。

 足先が猛烈に痛い。あれだけ慎重に選んだ新しい登山靴は、自分の足に合わなかったらしい。靴擦れを起こして今にも皮がずるむけそうな感覚だ。恐らく、出血もしているだろう。実際に使ってみないと、本当に相性が合ってるかどうか分からないものだ。


 だが、そんなことは今どうでもいい。


 走り続けろ。走り続けるんだ、俺!

 止まるわけにはいかない! 絶対にだ!

 止まれば、の大惨事が待ち受けている!!


 俺に迫り来る、一つ目の危機――


 今、猛烈にう○こがしたい!!!


 ! なんで山を登り始める前にトイレにいっておかなかったんだ、俺!


 人間には三大欲求があると言う。

 食欲、性欲、そして睡眠欲だ。

 このうちどの一つが欠けても、人間のクオリティオブライフは大きく下がる。


 よく食べて、よく寝なければ生きていけない。

 セ○クスをしなければ子孫を残せず、種が存続しない。


 だが、あえて言おう。我々には四番目の欲求があると!


 それは、排泄欲だ!


 嗚呼……人間はなんで社会規範などというデタラメなものを造り上げてしまったのだろう。


 ヒトは、その昔サルだった。

 したいときにして、後始末なんてしない。むしろその方が自然にとって有益だった。アレは鳥や虫や微生物のエサとなり、もしくは直接的に植物の肥やしとなり、栄養が循環する。


 それが今はどうだ? ヒトは自然の摂理を無視していると思わないか?


 


 みんなはこのルールを何一つ疑問に思うことなく、素直に受け入れている。


 だが間違っている! これは社会が作り出した巨悪だ!


 う○こがしたいのにトイレがないときはどうすればいいんだああぁ!!!


 ……冷静になるんだ、俺。

 俺は今、山道にいる。今こそサルに先祖返りUターンして、社会から自由になるときだ。ちょっと脇道にそれれば木々が視界を遮ってくれる。息を潜めて行為に及べば、気付かれることはないはずだ。


 嗚呼、野○そがしてぇ。


 ……だが、二つ目の危機がそれを許さない。


 俺は今――謎の女に追いかけられている。


 その追跡者は見るからに怪しい風貌をしていた。


 長袖ウェアに下がタイツ、上下共に色は黒い。登山歴の長い俺に言わせてみればちょっと無謀に思える格好だ。黒色のスポーツハットを被り、顔はサングラスとマスクに覆われていてどんな表情をしているのか確認することは出来ない。


 怪しい。怪しすぎる。どこぞのスパイか? 暗殺者か!?

 いや、スパイならあんなあからさまな格好はしないだろうし、俺を殺したい奴なんてこの世にいるはずがない――と信じてる。


 正直、外見で性別を判断するのは難しい。それでもなお、追跡者は女だと俺は断言できる。


 何故かって?


 登山を始める前に立ち寄ったコンビニで彼女とぶつかってしまったとき――その、なんと言うか、確認してしまったのだ。


 彼女の胸のふくらみを。

 大きくて、柔らかくて、それでいてとても弾力のある二つのおもちを。


 言い訳をさせてくれ。あれは事故だ。


 俺がコンビニで買い物を終えて外に出ようとしたとき、躓いて転びそうになったんだ。そして不幸なことに、丁度俺の目の前にいたのが彼女だったという訳だ。


 あれは全部新しい靴のせいだ。間違いない。


 ちゃんと俺は謝った。誠心誠意謝った。

 彼女は笑って「大丈夫ですよ」と言って許してくれた――と思ったのに!


 何故だ! 何故彼女は俺のことを追いかけてくる!?


 ! 今すぐこの道を引き返Uターンしてコンビニのトイレに駆け込みたい! だができない! そんなことをすれば、追いかけてくる彼女に向かってこちらから突進していくことになる!


 自殺行為だ! 何をされるか分からない!


 ――こうなれば、目指す場所はただ一つ。山の中腹にあるお寺の境内に行くしかない。


 あそこには来訪者用のトイレがあったはずだ!


 足が痛い。腹も痛い。何もかも痛い。痛すぎるぞ、このシチュエーション!


 全力で走っているのに、彼女を振り切ることが出来ない。彼女が速いのか? いや、俺が遅いんだ。こんな靴、買わなければよかった!


 俺は二の腕に固定したスマホでGPSを確認する。お寺まではあと少しだ。


 もうちょっとの我慢で、俺は聖域サンクチュアリに逃れることができる。そこに入ることが出来れば万事解決だ。


 う○こを漏らす恐怖から解放される。そして、彼女に追いかけられるという恐怖からも解放される。


 彼女がに入ってこれるはずがない!


 神様――いや、お寺だから仏様か――懺悔します。俺はさきほど社会のルールを否定しました。でも俺は今、その社会のルールで救われようとしています。

 これからはルールに従ってまっとうな社会生活を送ります。全てを包み込む慈悲の心でもって、俺のことを許し給え――


 俺は足の痛みをこらえながら、参道の石段を駆け上がった。立派な門をくぐってお寺の境内に入ると、俺はなおも走り続けながら必死にトイレを探した。


 彼女はまだ追いかけてくる。一向に諦める気配がない。

 境内には二、三人の登山者がいた。俺があまりにも必死だったせいか、皆一様に俺のことに注目している。


 別に恥ずかしくなんか無い……恥ずかしくなんか無いぞ……!

 そんなことより、人前でう○こを漏らしてしまう方がよっぽど恥ずかしい!


 トイレはどこだ! どこにあるんだ!


 そのとき、案内表示の看板が目に入った。トイレは……あっちか!


 矢印の方向に従って俺は全力で右に曲がり、鐘楼の横を通過する。

 もうすぐだ。あと少しだ。頑張れ……俺……!


 そして、俺は念願のトイレにたどり着いた。しかし……!



『現在、このトイレは改修工事中です』



 ノオオオオオォォォ!!!


 何故だ!? 何故このタイミングでトイレが閉鎖されているんだああ!!


 神様、仏様、これは何かの試練なのですか? それとも罰なのですか? 教えてください!


 ! ! ! 


 嗚呼……もうダメだ! 限界だ!


 幸い、この周囲はたくさんの建物があって見通しが悪い。うまくやれば、彼女をやり過ごすか振り切ることができるはずだ!


 俺は再び走り出した。


 建物という建物の間をすり抜け、曲がり、乱数機動によって敵を攪乱する。振り返りはしない。そんなことをすれば、スピードが損なわれてしまう。


 俺は十分な時間をかけてからお寺の境内を抜け出した。流石に、お寺の境内で野○そをするほど罰当たりではない。


 山道の脇に入り、そこでようやく周囲を確認した。


 静かだ。周りには誰もいない。どうやら彼女を無事に振り切ったらしい。とりあえず、危機は一つ脱したようだ。


 俺は手で汗を拭った。

 急に、全身の力が抜けるような感覚に襲われる。それと同時に、もう一つの危機が臨界点に達した。


 うっ、やばい!


 急いでベルトを外し、ズボンとパンツを下ろす。そしてその場にしゃがみ込み、俺は行為を始めた。


 ……嗚呼、なんという至福の時。


 この喜びを言葉では完全に表現できそうにない。愉悦ゆえつ? 恍惚こうこつ? 夢見心地?

 どんな言葉を並べても足りない気がする。

 言うなれば、本当に愛している女とセ○クスをしたときと同じくらいの快感だ。


 そうだ、女と言えば……。

 一体彼女は何故あんなに俺のことを追いかけてきたのだろう……?

 やっぱり、胸を触られたことを恨んで、俺を殺そうとしたのか?


 あり得る。何せ二つの鷲掴わしづかみだったからな。あんなことをされて怒らない女性はいないだろう。


 俺がそんなことを考えながら顔を上げると――目の前に彼女が立っていた。


「……!?」


 言葉にならない悲鳴を上げる。


 え? どういうこと? 振り切ったと思っていたのに……!


 彼女の息が少し上がっている。その声のなんと艶めかしいこと。彼女はサングラスもマスクも外していた。その表情は驚きに満ちている。


 それはそうだろう……。


 目の前には、屋外で、顔を赤くしながら、う○こをしている、貧相で哀れな男がいるのだから!


 見られてしまった……。恥ずかしい姿を。あられもない姿を。

 山の中で脱○している情けない姿を!


 終わりだ。俺の人生お終いだ。


 俺は今、身動きが取れない。襲われれば確実に殺される。ケツ丸出しの最悪な姿で警察に発見され、きっと新聞には「山中でズボンを下ろした状態の男性変死体発見される」などと報道されるのだろう。


 ごめん、母ちゃん。親不孝な息子をお許しください。


 ……いや、待てよ? 実際に殺されなくても、俺のことなんか簡単に抹殺できるではないか。

 そうしたければ、胸をお触りしたセクハラ野郎に加えて、山の中で醜態を晒した男として写真をSNSに流せば済む。その写真は『デジタルタトゥー』として一生、いや永遠に社会に残る。


 俺は消えない心の傷を抱えて生きていかなくちゃいけないんだ……。


「あの……」


 彼女が小さいバッグから何かを取り出そうとしている。


 ん、どうした? ナイフか? スマホか?


 俺の覚悟はできている。

 殺しても殺さなくてもどっちでもいい。俺の醜態を写真に収めるがいい! そしてツイッターかインスタにでも流すがいい!








「この財布」


 …………え、どういうこと? 財布?


「……あなたのですよね?」


 彼女が差し出してきたのは、黒い革製の長財布だった。


「あぁ!」


 間違いない、俺の財布じゃないか!


「どうして!?」

「コンビニでぶつかったときに……落とされたみたいです。私、トレイルランが趣味なんですけど、あなたを追いかけるのは大変でした」


 俺はようやく理解した。

 彼女は俺の財布を返そうと、こんなところまで追いかけてきてくれたのだ。

 そして、彼女の怪しい格好は全部スポーツウェアだったのだ。


「それから……その……」

「はい?」

「よろしければ、これを使ってください……」


 彼女は、顔を真っ赤にさせながら俺にティッシュペーパーを差し出した。


 俺は涙を流しながらそれを受け取る。


 これが、俺たち二人の出会いだった。


(了――そして本当にごめんなさい!)

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