ピアノとショコラの繰り返し

蜜柑桜

前に戻るはUターンにあらず

「はい、もういっかーい」

「えぇ〜っ」


 掲示物もない防音壁で囲まれた殺風景なレッスン室。グランド・ピアノの横に立っていた響子の師匠である小川が、譜面台に乗った楽譜の頁を曲の始めに戻す。モーツァルトのピアノ・ソナタ、K. 310、イ短調。ソナタ形式の提示部を楽譜通り冒頭から繰り返し、小結尾の終止に来たところである。本来なら繰り返し線を越えて曲は展開部に進むはずだ。


「うー……先生、これ三回目ですよぉ……」


 行進のような付点リズムと和音の連打に疲れた指を、響子は鍵盤の上にだらりと寝そべらせた。楽譜から手を離した小川はにこにこと笑っている。


「ねえ響子ちゃん、繰り返しで初めに戻る時に、さあUターン、とか思ってなぁい?」

「ええー?」


 小川の意味するところがいまいち掴めず、響子は半眼で楽譜を睨んだ。確かに手が楽譜の頁を前にめくる時の気持ちは、踵を軸にくるっと回る時と似ている感じもするけれど。


「あのねえ、繰り返しっていうのはね、今きた道をもう一度、じゃないのよ」


 女性にしてはしっかり角張った長い指で譜面をなぞり、小川は続ける。


「例えば……少なくとも十九世紀に変わるくらいまでの曲なんて、楽譜が綺麗でしょ。まあモノにもよるけれど、モーツァルトのアレグロ楽章とか見ると、装飾音なんてリストとかみたいに細かく書き下してないじゃない」


 確かに、ベートヴェンの後期作品などでトリルだのターンだのが十六分音符や三十二分音符を駆使して細かく書き込まれている割に、モーツァルトの楽譜は装飾記号で済まされるところが多いように思う。


「だから繰り返しで弾く時には同じ装飾にするかちょっと変えるか考えなくちゃ……っていうのは前にも言ったわね」

「あ、うー、はい」


 確かに、装飾を変えてみろというのは前にも受けた注意だ。だからこそ適切な装飾を選べるよう、昔の人が書いた鍵盤楽器奏法の理論書もちゃんと読め、と。

 なんとなく小川の言いたいことがわかってきて、響子はゆっくりと鍵盤に触れた。関節を曲げて神経を張り、腕まで力を入れて第一拍のA音上の和音を掴む。力強いフォルテで一小節。そして同じ小節をもう一度、次は脱力して軽く爪弾く。


「んー、まあ今ので満点かはおいておいて、つまりそういうこと」

「楽譜で書いてある通りに繰り返すだけじゃだめってこと、ですね?」


 首だけ回して響子がふり返ると、小川は赤鉛筆を響子の鼻先に向ける。


「もっと後の時代の曲でも考えてみなきゃ駄目よ。もちろん、単調に繰り返したあとで変えて、一層の効果を狙うっていうのもあるから場合によるけど……大体響子ちゃん、Uターンしてもう一度同じ道をくる時、まったく同じように歩いてくる?」

「え?」

「汚れた廊下の雑巾掛けして、一回目はしっかり拭いたら二回目どうする?」

「えーっと……ちょっと軽めにするかも」


 でしょう、と小川はうなずき、楽譜にフォルテの「f」を大きく一つ、そしてもう一つ、少し小さいめの「f」をその下に書いた。


「フォルテもピアノも、記号は一つでも表現は色々でしょ。速度だって同じ。響子ちゃん、初めて来た街を歩くとき、行きは景色見ながらじっくり歩いても、帰りはちょっとすたすた歩きになるでしょう」

「音楽も、常に変化を考えてってことですね」


 どの音を同じように再現し、どの音は変えるか。鍵盤に触れる指の力、角度、速さ。反復記号によるものであっても、常に考えろ、と。


「響子ちゃん、聴き手の私としては、ちょっとお飾りが変わったくらいじゃ面白くないのよねぇ。はい、もういっかーい」


 いつもながら朗らかに笑いつつも、小川は容赦無しに響子を鍵盤に向き直させる。譜面の情報だけに囚われまいと、響子は楽譜を閉じ、息を深く吸って指を鍵盤上に降ろした。イ短調の和音がもう一度、レッスン室の壁を震わす。


 ***


「あれ、なんか昨日と違う」


 夜のことだ。自宅のピアノでレッスンの復習をしていたら、座卓で季節商品のショコラの皿を前に材料費の計算をしていた匠が、ペンを動かす手を止めた。


「一回目より軽い?」

「分かった?」


 ちょっと休憩、とピアノの椅子から降りて匠の正面に座ると、響子は皿から桜の形のショコラをつまみ上げる。


「あ、これ去年もあったね。桜抹茶のクリーム入りの」

「ああ。今年は増税したから、材料費の計算し直さなきゃなんだよ……で?」

 口の中でビターチョコレートが割れ、ほろ苦い抹茶の香りが広がるのを楽しみながら、響子は今日のレッスンの話をした。


「頭では解ってたつもりだったんだけど、まだまだ実践の時に注意が足りてないみたいなの」

「なるほどね、文章もそうだけど、まったく同じ反復が効果的な時とそうじゃない時があるよな」

「ショコラティエはそういうのある?」

「あんまり……その意味ではないかもなぁ」


 再びノートに目を落とし、匠はスマートフォンの電卓を叩く。


「定番商品とか毎年出してるやつは、同じの作れる技術がないと。お客さんがまたあの味を食べたいって買ったのにこの間と違った、じゃがっかりだろ」


 ショコラ一つ一つ、機械ではなく手作業で質は均一に。十個入りのトリュフのどれかひとつだけ突出している、なんて話は言語道断だ。


「でも新しい味は常に追求するよ。定番商品だってもっといいものができると思えば、材料は同じでも配合や形を変えるのに躊躇はしないかな。同じだけど、違うのを作り出す」

「うーん、バランスですかー……」


 焙じ茶を一口飲み込み、響子はもう一つつまんで思いついたように匠を見つめた。


「あ、たくちゃんのショコラ、同じの食べても違う味する時ある」

「え、それいつの話」


 同じクオリティを目指して作った時にそれはまずい。


「たくちゃんが優しい時は甘くて美味しいんだけど、不機嫌だと苦い」

「響子それ没収」


 ショコラを取り上げようと伸びた匠の手をかわし、響子は笑いながら桜の形の粒を口に放り込む。


 繰り返し鳴る音、繰り返し作り出す味。

 それを同じに感じるか、違うと感じるかは、常に作り手の技量と受け手の心次第。


 春の味がする小さな花びらは、舌の上で甘くとろけた。


 完

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ピアノとショコラの繰り返し 蜜柑桜 @Mican-Sakura

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