駆けよ! 紀之介!

佐倉伸哉

本編

「ふぁあ~……退屈だのう」

 天正十一年(西暦1583年)三月、近江国木ノ本。陣幕の中で床几に腰掛ける猿顔の小柄な男が大きな欠伸あくびを漏らす。この男こそ、先日山崎の戦いで謀反人明智光秀を破り、日の出の勢いにある羽柴秀吉であった。

 目の前には大軍が陣取っている光景が広がる。越前の柴田勝家が与力衆を引き連れて近江に進出、柳ヶ瀬に布陣したのだ。両者睨み合いで膠着状態となっていた。

 涙目を擦りながら、側に控えている若者に声を掛ける。

「のう、紀之介」

「はっ」

 紀之介と呼ばれた男が間を置かず応じる。

「お主、この場面どう見る」

「はっ。こちらは大軍で要所を抑えていることもあり、敵方は守りを固めながら付け入る隙を窺っているのかと」

 紀之介の返答に、秀吉は一つ二つとうなずく。

「では、亀のように引っ込んでいる敵方にどう対処すればいいかのう?」

「そうですね……調略で内側から揺さぶりをかけるか、敢えて背中を見せておびき出すのがよろしいかと」

「ふむ……背中を見せる、か」

 そう言うと秀吉は持っていた扇子で肩をポンポンと叩き始める。

(市松なら『数で圧倒している以上、一気呵成に攻める』と言うだろうし、佐吉なら『持久戦で相手が音を上げるのを待つ』と答えただろう。だが、紀之介は敢えて隙を見せて相手を誘い出す、か)

 市松(福島正則)は腕っ節自慢の武辺者、佐吉(石田三成)は頭が切れる利発者。どちらも秀吉子飼いの小姓である。元は尾張の百姓の出である秀吉は家付きの家臣を持たず、尾張や近江で才能ある若者を多く抱え育てていた。その中でも智勇兼ね備えた存在として秀吉から注目されていたのが、この紀之介だった。

 大谷“平馬”吉継(幼名:紀之介)。生国は近江、秀吉が長浜城主になると小姓として仕官。その後順調に出世を重ね、馬廻衆に抜擢された。吉継は昨年十二月に柴田方の長浜城主・柴田勝豊(勝家の養子)の内応させており、それを秀吉から褒められている。

(やはり紀之介は目の付け所が違うな)

 秀吉は吉継の言葉を何度も脳内で思い起こしながら、しばし思案にふけった。


 四月十六日、一度秀吉の軍門に降った岐阜の織田信孝が再び兵を起こす。秀吉は木ノ本に抑えの兵を置いて信孝討伐の為に美濃へ移動するが、大雨で増水した揖斐川に行く手を阻まれ、止む無く大垣城に入った。

「早く水が引かないかのう……」

 ウロウロと落ち着かない様子で呟く秀吉。

 伊勢の滝川一益の動きも活発で、近江・美濃・伊勢と三方向に敵を抱える状況だけは何としても避けたい。一番与しやすい信孝から先に片づける算段だったが、まさか四日も足止めを食らうとは思ってもいなかった。

「水位も下がってきていますので、明日には岐阜に向けて進軍出来るかと」

 その場に居た吉継が取り成すと、秀吉はやや留飲を下げたのか幾分表情が和らいだ。

「注進ー!!」

 そこへ使者が慌てた様子で駆け込んできた。

「申し上げます!! 昨日、佐久間盛政率いる柴田勢が大岩山を急襲!! 中川清秀様、御討死!!」

「何と!?」

 飛び込んできた一報に、秀吉は驚きの声を上げる。

 秀吉が大軍を率いて戦場から離れることで隙を見せた形だったが、まさか中川清秀が討たれるとは夢にも思っていなかった。だが、大岩山を奪取したとなれば盛政は手放したくないと思うのが人の道理。逆に考えれば、これは反撃の絶好機だ。

「紀之介!!」

 秀吉は側に居た吉継の肩を掴むと、興奮した面持ちで命じた。

「近江路を我が軍が滞りなく進めるよう手配せよ!! この軍の命運はお前の双肩に掛かっているぞ!!」

 吉継は瞬時に、先日の備中高松から播磨姫路まで一気に駆け抜けた“中国大返し”の再来を狙っていることを察した。

 前回は幾日か猶予があったので武具を海から運ぶなど行軍の為の準備を整えられたが、今回はその余裕はない。しかし、前回と比べて距離は短い上に、木ノ本までの道中は以前秀吉が治めていた北近江も含まれている。突発的とは言え、出来ないことではない。

「畏まりました!!」

「ここが天下獲りが成るか成らぬかの瀬戸際! 欲しいものがあれば何でも申せ! 頼んだぞ!」

 秀吉は吉継の両肩を力強くバンバンと叩くと、慌ただしく去っていった。これから始まる歴史を大きく変える疾走劇の段取りをするためだろう。

 羽柴軍の命運を託され、身が引き締まる吉継。他の誰でもない自分に任されたことに誇りを覚えた。


 午の正刻(午後0時)、吉継は秀吉から飛び切りの駿馬しゅんめと数え切れない程の一貫文の束を貰い受けると、そのまま馬にまたがって街道を西へ走り出した。

 羽柴勢の大半は急遽反転(Uターン)することを知り、その準備に大忙しである。だが悠長に構えていては大岩山の柴田勢が退却してしまい、折角の攻める好機を失ってしまうばかりか、アタフタと翻弄される様が全国に広められてしまう。秀吉の天下獲りに向けてここは正念場で、一刻を争う状況だった。

 吉継は大垣から暫く馬を走らせ、一番最初の村に到着するや否や大声で叫んだ。

「皆の衆!! 一大事である!!」

 その声に何事かと家々から村人が出てくる。すかさず吉継が戦場で鍛えた銅鑼声で叫んだ。

「間もなく、羽柴秀吉様の軍がこの村を通過する!! 女子衆は急ぎ米を炊き、味噌や水の用意を致せ!! 男衆は急いで草鞋を編み、松明を集めよ!!」

 突然現れた吉継から伝えられた内容に、困惑する一同。村に来た者が開口一番にそんなことを言われてもどうすればいいか分からないのは当然だ。

 だが、吉継も怯まない。畳み掛けるように、馬の背中に乗せた袋から一貫文の束を手に取ると見せつけるように言った。

「金ならたんまりある!! なんなら今手付金として十貫文!! 無事に用意した暁には通常の二倍、いや三倍払う!!」

 一貫文は当時の庶民から見ればとんでもない大金で、しかも今言われた品々を用意すれば三倍の金額を払うと言う。これで村人達の目の色が変わった。大わらわで吉継の言われた通りに動き始めた。

 その様子を確かめた吉継は約束通り十貫文を置いていくと、次の村に向けて走り出した。

 こうして道々の村々で同じことを繰り返しながら進んでいった。段々と喉が嗄れ、駿馬に疲労の色が見え始めたが、それでも吉継は前に進んでいった。途中、秀吉の旧領である北近江東部に差し掛かると空になった竹筒に水を補充して馬に暫しの休息を与えると、再び木ノ本へ向けて急いだ。


 酉の正刻(午後6時)、大垣から十三里(52キロ)の木ノ本本陣に到着した。

「紀之介!? 大丈夫か!?」

 疲労困憊の態で文字通り転がり込んだ吉継の姿に、すかさず駆け寄り抱えたのは秀吉の弟で本陣の留守を任されていた秀長。秀長は急いで水を持ってくるよう指示を出す。

「小一郎様……」

「何だ、如何いかがした?」

 最後の力を振り絞り、掠れる声で吉継は進言する。

「間もなく、殿がお戻りになられます……道しるべとして、篝火かがりびを煌々とお焚きになられませ……」

 陽も沈み、辺りは暗くなっている。自分は馬に乗って十三里の道のりを走破したが、徒士かちの者達からすれば鎧をまとって走っている以上、到着地点を赤々と照らしていた方が最後の踏ん張りが効く。

「分かった。すぐに用意致そう。……よく知らせてくれた、よく頑張った、紀之介」

「ありがたき……幸せ……に……」

 直後、緊張の糸が切れたのかドッと疲れが出てきた。吉継はそのまま意識が遠ざかっていくのを止められなかった。


 未の正刻(午後2時)に大垣を発した羽柴勢は、駆けに駆けて十三里の距離を五時間で走破した。途中、将兵達は村々で女子達が握った屯食とんじきを頬張り、用意された水で喉を潤し、ボロボロになった草鞋を取り換え、何の憂いもなく走ることに集中することが出来た。これも吉継が事前に手配したお蔭であった。


「……ここ、は?」

「安心せい。木ノ本ぞ」

 意識を取り戻した吉継に、上から落ちてくる聞き馴染みのある声。どうやら自分は寝かされているらしい。

 目を開けると、隣に居たのは他の誰でもない、秀吉だった。

「……殿!?」

 慌てて起きようとする吉継を、秀吉は無言で制する。

「心配したぞ。丸二日眠っておったからな」

「丸二日……はっ、戦は、戦はどうなりました!?」

「勝ったぞ」

 二十日夜に秀吉本軍が木ノ本に戻ってくるとは思わなかった柴田勢は同日夜半に退却を開始、しかし秀吉もこの機を逃さず柴田勢を追撃、柴田方の前田利家が戦線離脱したことも加わり、勝敗は決した。この“賤ケ岳の戦い”では吉継と共に子飼いの若手将校が活躍し、後に“賤ケ岳の七本槍”と呼ばれることとなる。

 自分が寝ている間に戦が終わってしまった……この戦に加われなかった悔しさに吉継は唇を噛んだ。

「お主は立派な働きをしてくれた」

 吉継の胸中を察してか、秀吉は優しい口調で語りかけた。

「お主があれだけの手立てをしてくれなければ、他の者は満足な働きを出来なかった。つまり、お主の働きの上に皆があるのだ。他の家にも自慢できる家臣だ」

 自分が無我夢中で取り組んできたことを最大限の言葉で讃えてくれる秀吉。その言葉が胸に沁みて、自然と涙が零れた。


 これは“賤ケ岳の七本槍”に隠れた、勇士のお話。


(了)


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