鯨の見る夢

瀞石桃子

第1話


こぽこぽ。こぽこぽ。


無限の泡が水面にゆっくりと浮き上がっていく。泡の中には、何にも入っていないけれど、その薄い膜には、夜や白亜紀の楽譜がかすかに刻まれている。


真珠のような泡に包まれているのは、鯨の死骸だ。

寿命、飢餓、捕食、どんなことが彼を腐らせてしまったのかわからない。とにかく目の前を、一頭の鯨の死骸が、海流とワルツを踊りながら、孤独に耐えられない深海の巣、静寂の底に沈んでいく。


くるくる、くるくるり。


ぼろぼろに崩れた豆腐のように、鯨の身体がことごとく分解していく。オリーブの実のような黒い目は闇に祈りを捧げ、半開きになった口は諦めの残響をどこかにいる仲間のもとへ届けようとしている。

何かに打ち付けて傷がぱっくり開いたらしい頭部からは、濃い赤い血が、舞い上がる布のような軌跡を描きながら海面へと手を伸ばしている。


「でかいですね、まるで沈没船のようです」

「そうね。彼はそのうち厖大なプランクトンのかたまりになって、海底の生き物たちの餌として役立つことでしょう」

年老いたシーラカンスの夫婦が、海底に埋没してゆく鯨を眺めながら、そうぼんやりと漏らした。

「しかし、私たち以外にも彼を見ている魚たちはいるのに、どうして彼を食べようとしないのでしょう」

「彼はこの海を見守ってきたものですからね。しかも非常に長期に渡って。もちろんみんな食欲を満たすことは考えているのでしょうけど、彼に対する敬意の念から遠慮をしているのかもしれません」

「死んでしまったものに対してまで尊敬をしなくちゃいけないなんて、不思議なものね」


妻のシーラカンスがそう言うと、餌を求めて南のあたたかい海に移動をしてしまった。夫のシーラカンスは雑然と取り残されて、ただただ鯨の死骸が海底に沈んでいくのをずっと見守っていた。

「あの鯨は生前、どんな気持ちでこの海を見守っていたんだろう」と夫のシーラカンスはぼそりと呟いた。


すると、海底の微小な餌を吸い込みながら歩いていく一匹のアンモナイトと目が合った。

「やあ、これはこれは。こんなところでお目にかかるとは、奇妙な縁ですね」

「アンモナイトさん。どうも」

「この鯨は我々を惹きつける魅力に満ち溢れていますね」

「ええ、見ていて不思議な気持ちになります。なぜでしょうね。彼に自分の姿を重ねてしまうからかもしれません」

「ご自身の姿を?」

「はい。もう、この時代シーラカンスはほとんど見ません。新たな時代に差しかかり、自然淘汰によって周りのものは次々と息絶えています。おそらく私たちが最後の生き残りではないかと」

「はあ、そうでございますか。ということは、この沈みゆく鯨は、あなた自身のほろびの姿であると」

「……その通りです」


夫のシーラカンスはそう言って、自分の身体に触れてみる。ごつごつとした手触り、思うように動かないヒレ、喉を通らない食事、自分は以前にくらべると驚くほど衰えている。

正直に言うと、今の環境がさほど自分に向いていないということをひしひしと感じていた。

「この鯨はきっと、自決をしたのです」

「自決、ですか」アンモナイトは触手をいじりながら、聞いていた。

「この世界が自分に向いていないことを悟ったのです。そしておそらく彼には、仲間などおらず、そもそもこの時代に生まれるべき存在ではなかった」

「つまり彼は孤高であったと」

シーラカンスは小さくうなずいた。

「ではせめて、彼の最期くらい我々が見ていてあげましょう。孤独のまま死んでしまうのはつらいですから」


もうすでに死んでいるのに、と思うシーラカンスだったが、何も言わないことにした。

鯨がだんだん海底に近づいていく。その真下がちょうどアンモナイトの位置だったので、彼は少し移動をして、シーラカンスのそばに留まった。


こぽこぽ。

こぽこぽ。


——おやすみ。

シャボン玉がはじけるように、鯨が破裂した。

「お悔み申し上げます。どうか安らかに」

「安らかに」


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