喫茶店と甘いホワイトデー

無月弟(無月蒼)

ホワイトデーにチョコレートを

 鼻孔をくすぐる珈琲の香りが漂うそのお店は、私の行きつけの喫茶店。

 通い慣れたお店で、普段なら気軽にドアを開けて、「こんにちはー、カフェオレくださーい」なんて言えるのだけど、今日はそんないつもとは違う気持ちで、お店の前に立ってた。


 今は三月。辺りには冷たい風が吹いていたけど、私は下げているバッグの紐をギュッと握りしめながら佇むばかりで、中々お店の中に入らない。


 落ち着け、落ち着くんだ私。こう言う時こそ、平常心が大事。これ、重要だから!


 そう自分に言い聞かせながら、勢いよくドアを開く。そして……。


「こんにちハー、カフェオレくりゃしゃい!」


 ……思いっきり噛んじゃった。

 ああああっ、もう、何をやってるのー!?


 たぶん今鏡を見たら、信じられないくらい顔が真っ赤になっているに違いない。

 そしてそんな私を見ながら、カウンターの奥でクスクスと笑みを浮かべている、ウェイター服に身を包んだ若マスターが一人。私の大学の先輩でもある、野上君だ。


「いらっしゃい永井。カフェオレでいいんだな」

「う、うん。お願い……」


 間違いなく噛んだことに気づいているだろうけど、その事には触れずに普通に注文を受ける、優しい永井君。

 私は恥ずかしいのを我慢しながら、カウンター席へ腰を掛ける。


 ……よし、気持ちを切り替えよう。さっきはちょっぴり失敗しちゃったけど、引きずってちゃいけない。

 しっかりしないと。今日は野上君に、チョコレートを渡さなくちゃいけないんだから。


 下げていたバッグの中には、可愛くラッピングされたチョコレートが入っている。

 これは、バレンタインのチョコレート……じゃないんだよね。だって今日はバレンタインから1ヶ月も過ぎた、ホワイトデーなんだから。


 カフェオレができるのを待ちながら、1ヶ月前のことを思い出す。

 あの頃私は、バレンタインに野上にチョコをあげるべく、何度もシミュレーションを繰り返していたっけ。


 私と野上君は、別に付き合っている訳じゃない。ただの大学の先輩と後半の関係。

 だからこそ気合いを入れすぎないで、普段お世話になっているからそのお礼にと、自然な感じで渡す。

 あくまで自然に、重くならないように。そう自分に言い聞かせながら、迎えたバレンタイン。


 結論から言うと、その日私はチョコをあげることができなかった。

 なぜなら、インフルエンザにかかって家で寝込んでいたから。


「ウイルスのバカヤロー、何でこんな日に寝てなきゃならないのさー!」


 布団の中でそう叫んで、咳き込んでいたっけ。

 あれだけ入念にシミュレーションしたのに、チョコあげる段階にもいけないなんて、あんまりだよ。

 これならいっそ、要らないとUターンしてくる方がまだマシだった……いや、Uターンよりはいいかな?


 とにかく、バレンタインにチョコを渡せなかったのはショックだった。

 その後インフルエンザが治ってお店に顔を出した私に永井くんは、「体は大丈夫か? これ飲んで元気になれ」と言って、ココアをサービスしてくれたっけ。

 あれはとても甘かったはずだけど、チョコを渡せなかった切なさで、若干しょっぱく感じていた。


 それから何度かお店を訪れて、2月29日には苺パフェを食べたりもしたけど、ずっと心の中で引っ掛かっていた。


 野上君に、チョコをあげたい。だから1ヶ月遅れのホワイトデーの今日、改めて用意し直したチョコを持って、やって来たのだ。


 回想を終えてカウンターの奥を見ると、野上君カフェオレを淹れている。

 ドキドキする胸を落ち着かせながらその様子を見ていると、不意に振り返ってきた。


「さっきから視線を感じるけど、何かついてる?」

「ふおっ!?」


 やっちゃった! 意識しすぎて、つい見いっちゃってた。


「ち、違うの。これはええと……野上君の腕、綺麗だなーって思って」

「腕? そんなこと言われたの初めてだなあ。つーか、長袖着てるのに分かるのか?」

「ーーっ!」


 墓穴の下に更に墓穴を掘っていく。

 腕が綺麗って、咄嗟に言うこと? そりゃ私は腕フェチで、普段洗い物をする時、腕まくりする野上君を眺めて眼福眼福なんて思ってるけど、誤魔化そうとして性癖を暴露するだなんて最悪だよー!


 ああ、野上君はこんな私のことを、変な奴って思っちゃったかなあ。うう、私はただ、チョコを渡したいだけなのに。


 一人でテンパって、一人で落ち込んで。

 野上君はそんな私を不思議そうに見ていたけど、気を取り直したようにカフェオレを出してくる。


「どうぞ」

「ありがとう……」


 冷たかった手を、カップにくっつけて暖める。

 あんなに意気込んでいたのに、野上君を前にすると、全然上手くいかない。だけど、いつまでも躊躇っていても始まらないよね。


 私は気合いを入れるように、カップにつがれていた珈琲を喉に流し込んだ。

 そして「一気に飲んだな」と驚いている野上君を一瞥してから、バッグの中から包みを取り出した。チョコレートの入った、ラッピングされた包みを。


「野上君、これ」

「ん、これって……」

「チョ、チョコレート。今日、ホワイトデーだから」


 ピンと腕を伸ばしてチョコを差し出したけど、野上君はキョトンとした様子。

 そうだよね。バレンタインならともかく、ホワイトデーに女の子がチョコをくれるなんてなったら、そんな反応になるよね。


「せ、先月、インフルエンザが治った後で、ココアをくれたじゃない。あの時のお返し。あれ、バレンタインからそう日も経ってなくて、ココアもチョコも似たようなものだから、貰ったからにはお返ししなくちゃって思って……」


 ギュッと目をつむりながら、一気に言い放つ。

 だけど、言ってて思うよ。我ながら、メチャクチャな理屈だって。

 ココアもチョコも原料は同じだけど、似たようなものってさあ。しかもそれなら、お返しにチョコをあげるというのも、何だかおかしい気がする。


 どうしよう。取り返しのつかないところまで来て、今さらやってしまったって気がしてきた。


 野上君は、こんな私を見て呆れてるかな?

 もしかしたら『は? あのココアをバレンタインのプレゼントだと思ったの? いやいや、ただサービスしただけだって。それなのにその気になるだなんて、痛いわー、引くわー。ていうかホワイトデーに女からチョコって言うのが、そもそもおかしいから』なんて思っているかも!


 ダメだ。不安な妄想ばかりしちゃう。

 受け取ってくれずに、チョコはUターンしてくるんじゃないか。ついそんな風に考えちゃう。


 て言うか、私ってばもう結構長い間、妄想の世界にトリップしてるよね。なのに野上君、どうして何も言ってくれないんだろう? 


 目を閉じているから、様子がまるでわからない。

 どんな反応をしているか、見るのが少し怖いけど、私は意を決して、少しずつ目を開いていく。するとそこには……。


「くっ……くくっ……」


 手で口許を抑えながら、必死で笑いを堪えている野上君の姿があった。

 ひ、酷いよ笑うだなんて!


「の、野上君。いくら変だからって何も笑わなくても……」


 泣きそうな声で抗議すると、笑いを含んだ声で、「ごめんごめん」と謝ってくる野上君。


「悪い、あんまり真剣に言うもんだから、つい。だけどあのココアのお返しって、永井は律儀だな」

「や、やっぱり変かな? ホワイトデーに女子がチョコレートなんて」

「いや、別に良いんじゃないか。少なくとも俺は、貰って嬉しいって思うよ。ありがとな、永井」


 笑顔でそう言いながら、チョコを受け取ってくれる野上君。

 良かった、ちゃんともらってくれた。Uターンしてくるものと覚悟していたけど、野上君は細かいことを気にするような、小さい人間じゃなかったんだ。


 無事に渡せたことに安心して、ホッと胸を撫で下ろす。


「そうだ。それじゃあこれは、このチョコのお返し。実は、さっきから用意はしていたんだ」


 え、どう言うこと?

 すると野上君は、カップに入った白い飲み物を、私の前に差し出してくる。これは、牛乳かな? 

 ううん、違う。この甘い香りはココア。ホワイトココアだ。


「ホワイトデー限定メニューってことで永井に飲んでもらいたくて用意していたんだけど、受け取ってくれるか?」

「ええっ、けどチョコのお返しって。元々私がココアを貰ったのが始まりだったのに」

「お返しにお返しをしちゃいかないなんてルールはないだろ。それとも、受け取ってくれないのか?」


 少しだけ、残念そうな顔をする野上君。

 切なそうな表情に思わずキュンとさせられて、それは私の心を動かすには十分だった。


「飲む、飲みます! 飲むに決まっています!」

「良かった。もし拒否られたらどうしようと思った」


 野上君がくれる物を拒否るだなんて、そんなのあり得ないよ。

 差し出されたココアを、今度はゆっくり、少しずつ喉に流し込む。


 柔らかくて暖かなホワイトココア。それはとても甘くて、幸せな味だった。


「永井は本当に、幸せそうに飲むよな」

「えへへ、しょうがないじゃないですか。だって美味しいんですから」


 まさかホワイトデーにあげたチョコレートが、ホワイトココアに姿を変えてUターンしてくるなんて。

 甘い香りを感じながら、幸せの味を堪能していく。


「はあ~、美味しい。野上君ありがとう~」

「ふふ、どういたしまして」


 カウンター越しに見る、野上君の笑顔が眩しい。

 野上君には言えないけど、幸せそうに飲むのは、好きな人がくれたものだからだよ。

 これ、とってもとっても重要だから!


 おしまい☕


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