第11話
父さんの肺に癌が見つかったのは、父さんの定年から三か月、僕が二十歳になった事を家族で祝ってくれた、僅か四日後だった。年齢の所為か、進行は遅いが、既に他の場所にも転移が見つかっており、完治は難しいと言うのが、僕達がお医者さんに手渡された現実だった。
体力が落ちきる前に、父さんを旅行に連れて行こうと計画をし、告知から二日後の昨日、強行スケジュールでの旅行は幕を開けた。
今回の旅行は、僕は言わずもがな、反対だった。
まるで最後の思い出作りのようなスタンスが、僕には理解出来なかった。だけど、純二兄の提案に嬉々として顔を綻ばせ、それなら鬼怒川に行きたいと笑う父さんの顔を曇らせたくなかった。父さんの反応を見て、三葉姉も渋々賛同したし、それなら僕は、父さんが安全に旅を楽しめるようにしようと、考え方をシフトする事にした。
父さんが、もう一度来たいと思えるように、病気と闘う原動力になるような旅にしようと、そう思ったんだ。
旅館に戻った僕達は、折角だからもう一度、と朝風呂を浴びた。部屋に戻り、未だに寝ていた二人を起こす。寝ぼけ眼の二人を引き連れ朝食を頂き、帰り支度を済ませてチェックアウトをした。
「あ~あ、私も最後に温泉入りたかったなぁ」
「俺もだよ」
漸く目が覚めて来た二人が、車に乗り込みながらそんな事を呟いた。
一泊二日の旅行が、名残惜しくも過ぎ去ろうとしていた。
窓の外で流れていく景色が、まるで手を振っているように感じられるのは、この旅行が楽しく、そして、日常に戻ってしまう事が堪らなく寂しいからだろう。
残酷だからこそ、輝くものもあるのかもしれない。そう自分に言い聞かせても、胸の内で眠らせている寂しさに、気付かないふりは出来そうになかった。
そう、魔法はいつか、とけてしまうのだ。
時間は過ぎ去ってしまうし、僕らはいつまでも子供でいられないし、都合のいい事ばかり起こったりはしない。
明けない夜が無いように、止まない雨が無いように、割れないしゃぼん玉なんて、どこにも無いと言う事に、気づいてしまうのだ……。
行きはのんびりだった旅だが、帰りは寄り道をせずに真っ直ぐ帰る手筈になっていた。
「楽しかったね」
「ああ、楽しかった」
「父さんはどうだった?」
「ああ、とても楽しかった」
「本当に?」
「勿論だ。みんなのお陰で、とても楽しい時間だった」
「そうか、父さんがそう思ってくれて良かった」
「……このまま、どっか行っちゃいたいね。帰らないでさ、ずーっと、日本中を旅したり、してさ……」
「……それいいな。帰らないで、ずっと旅すんのか、悪くねぇな!」
そう言いながら、純二兄は進路を変更する事は無いし、三葉姉も、それ以上この話を広げようとはしなかった。
家へ着いたら、父さんを病院へ連れて行く準備をしなければいけない。その事を考えると、気が重かった。
だけど、楽しかった旅の最後に、僕が湿っぽい顔をしても、何の為にもならない事は分かっている。
「父さん、また来ようね」
後ろを振り向かず、前を向いたまま、僕は父さんにそう声を掛けた。
「ね? 純二兄も、三葉姉もさ、また家族みんなで、絶対来ようね!」
「そうね。また来ようね」
「ああ、また来よう」
僕の声に追従するように、二人の声が重なる。
「ね、父さん」
「ああ、そうだな。今度は、回りの温泉全部入りたいな」
「いいね! 全部、全部入ろう。三日位泊ってさ! 純二兄、僕、免許取るよ。今度は僕が運転する。大きめのワゴン車とか借りてさ、ゆったり出来るようなやつ、そしたら、三葉姉の旦那さんも、子供も、み~んな連れて、行けるし。ねぇ、いいよね、純二兄も、三葉姉も、絶対また行こうね! 絶対、絶対……」
「……そうだな」
運転中にも関わらず、純二兄が、左手で僕の頭を撫でる。
幼い頃、父さんが魔法をかける前に強く願った事を、僕はふと思い出した。
しゃぼん玉が割れてしまう事が悲しくて、泣き叫んだ時に、父さんと言う魔法使いが現れた事を思い出した。
分かってる。
時間は過ぎ去ってしまうし、僕らはいつまでも子供でいられないし、都合のいい事ばかり起こったりはしないし、魔法なんてある訳無い。それでも、誰かが助けてくれるなら、何かが助けてくれるなら、僕は何度だって泣き、叫び、強く、強く願ってやる。
しゃぼん玉よ、どうか、どうか割れないで……。
割れないしゃぼん玉 泣村健汰 @nakimurarumikan
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