第10話
父さんと二人で、鬼怒川の畔を歩く。6月だとは言え、早朝の川縁は冷える。そう言っても父さんは、いいからいいからと笑うだけだった。
明け方の澄んだ空気が肌に刺さる。太陽の入りにはもう少しかかるのだろう。忙しなく流れる鬼怒川も、朝靄の中、未だ夢うつつのような印象を受けた。
父さんの少し後ろを歩きながら、その後ろ姿を眺める。幼い頃は、あんなに大きく感じられたその背中。それは、僕が成長したからだけでは、無いのだろう。
整備された川沿いの遊歩道を歩きながら、父さんがふと、口を開いた。
「鬼怒川温泉はなぁ、父さん達が、新婚旅行で来た場所なんだ」
立ち止まり、川に向き直り、父さんは続ける。
「一美は……、母さんは、温泉が大好きでな。教師になる前の大学時代、全国の温泉を旅行して回っていた程だったらしい。そんな母さんが、新婚旅行で父さんを連れて来てくれたのが、ここだったんだ」
「ねぇ、母さんって、どんな人だったの?」
「そうだな。兄弟の中では、伸五、お前が一番、母さんに良く似ている」
「僕が?」
「ああ、穏やかで、優しい雰囲気を持ってる。母さんもそう言う人だった」
「そう、なんだ……」
「お前達の名前をつけたのも母さんだ」
「名前?」
「そう、純二に、三葉、そして伸五。全部数字が入ってるだろ? 数学が好きだった母さんらしい名前だよな」
「数字か。でも、だったらなんで純二兄が二なの? 純二兄が、二番目だったって事?」
「そうじゃない。これは母さんなりのこだわりらしいんだが、父さんの名前が、一郎、母さんの名前が一美。二人とも、一がつくんだ。だから、純二には二、三葉には三、伸五には、五と言う訳だ」
「素数って事?」
「ああ、知らないのか。1、1、2、3、5、と並べる、フィボナッチ数列と言う数列があるんだ。隣同士の数を足して、その隣に置く、そうしてどこまでも続いて行く。自然界では、花弁の数なんかにも現れるらしい。全部母さんの受け売りだがな。初めて父さんが母さんに話しかけられたのも、職員室で席が隣になった時に、一郎と一美で、フィボナッチですね、と言われたのが始まりだった。変わってるだろ?」
「それ、父さんはなんて返したの?」
「意味が分からなかったからな。何言ってるんだって顔をしながら、はぁ、とだけ言ったよ。それが、一美が居なくなった後でも、ちゃんとこうして繋がっていくんだから、不思議なもんだ」
今日の父さんは、いつになく多弁だった。
僕には口うるさい父さんの思い出は無い。いつも寡黙で、何か考え事をしながらも、僕に微笑んでくれる、そんな父さんの印象しかない。
「ねぇ父さん、純二兄も三葉姉も、父さんが昔は、すごく厳しくて、怖かったって言ってるんだ。でも僕には、父さんがすごく厳しかったってイメージは無いんだ」
「伸五、父さんはな、一美のようになろうと、思ったんだ」
「母さんみたいに?」
「あいつが死んだ時、お前はまだ小さかった。一美の葬式が終わって、まだ幼いお前を見た時、今までの父さんだけだと、きっと駄目だと思ったんだ。だから、俺は、一美になろうとしたんだ。一美のようにならなければと、思ったんだ」
父さんから、俺と言う言葉を聞いたのは初めてだった。母さんの事を、一美と呼んでいるのを聞くのも初めてだった。
父さんは今まで、本当の自分を押し殺して、母さんになろうとしていたんだ。
そしてそれはまぎれもなく……。
「……ありがとう、父さん」
こちらを向き、穏やかに微笑む父さんが、水底に沈む。両手で目を擦り、視界から水を拭う。その時、鬼怒川に朝日が差し込んで来た。
「そろそろ、戻ろうか」
「ああ、そうだな」
朝日に照らされキラキラと輝きながら、今日も鬼怒川は流れていく。
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