あの夏、一番静かな夜

ボンゴレ☆ビガンゴ

あの夏、一番静かな夜


 スマホだけを握りしめ、泥酔して眠る父に気づかれないよう慎重に外に出た私は、ボコボコの軽自動車の運転席から顔を出す佐久間さんを見て固まってしまった。

「美波、ようやく準備ができた。二人で逃げよう」

 佐久間さんは真剣な表情だった。

 愛しい佐久間さんが現れたのに、私は嬉しいって感情よりも、彼女が軽自動車を運転して現れたことに驚いて固まってしまった。

「どうしたんですか、それ。まだ免許取れる歳じゃないでしょ?」

「かっぱらってきた。それより、早く乗んな。気づかれないうちに行こう」

 佐久間さんの表情は真剣だった。

「……わかりました」

 私は頷くと助手席に乗り込んだ。着替えも荷物も何も持たなかったけど、あの家から持っていきたいものなんて何もなかった。

 車はゆっくりと動き出す。

「逃げるって言っても、どこに逃げるんですか」

 佐久間さんと出会うまで、あの父親から逃げることなんて考えたこともなかった。私は父親のものだから、どんな酷い事をされても耐えるしかないんだって思っていた。殴られ蹴られ犯されても、それは愛の裏返しなんだって、思い込もうとしていた。

 羽をもがれ暗い部屋に閉じ込められていた私に手を差し伸べてくれたのは佐久間さんだった。

「どこへ……って。そこまで考えてなかった。美波、行きたいとこあるか?」

 場当たり的な佐久間さんに苦笑しながら考える。思い浮かんだのはいつかの夏の思い出だった。


「海が見たい……かも、です」

「よっしゃ。了解っ」


 そう言って佐久間さんはハンドルをきった。


 佐久間さんは上級生だったけど、私の学年でも噂になるほど有名な問題児だった。

 教師にもクズ呼ばわりされていたけど、誰よりも優しかったし、誰よりも暖かった。


 うまくクラスに馴染めない私がクラスメイトの小さな楽しみのためだけにスカートを切り裂かれた事があった。

 取り囲まれて小突かれカッターを向けられても、虐げられることは家の中でも毎日のことだから、悲しいとかそういう心情はなかった。

 ただ、帰り道をどうしようかと考えていた。

 その時、校則違反の金髪をたなびかせた佐久間さんが教室の前をたまたま通りかかったのだ。


 佐久間さんはちらりと教室の中を見た。足をとめ、方向転換するとズカズカと教室に入ってきた。

 そして、無言のまま私のスカートを切った女子達の鼻を残らず折った。


「うーん、こりゃ退学かな。そしたら、あんたに私のスカートあげるよ」

 血のついた拳を解いた佐久間さんは、ニカっと笑った。

 あの時の佐久間さんの笑顔を私は一生忘れられないだろう。




「いやー、結構かかったね。砂浜で波の音を聞かないと、海に来たって気がしなくってさぁ」

 慣れたハンドル捌きで海岸線に車を停めると、佐久間さんは車の窓を開けてそう言った。

 夜の海は怖いくらいに静かだった。

 ねっとりとした潮風が彼女の長い髪を弄ぶ。暴れるアッシュベージュの横髪を佐久間さんは耳にかけた。佐久間さんはコロコロ髪の色をかえるけど、どれも似合っている。

 整った横顔が露わになる。私が誕生日にあげた小さな星型のピアスが耳元に光るのが目に入って、心の温度が上昇した。


「東京とか川崎とか、海は一応あんじゃん。でもさ、埋立地なんかだと、こう、『うみーっ!』って感じがしないんだよね。海って言ったら湘南っしょ。わかる?」


 私のささやかな幸せには気づかずに佐久間さんはこちらを向く。運転席と助手席。こんな至近距離に佐久間さんがいるだけでも幸せなのに、こんな美しい瞳を独り占めしてるんだと思うと顔が火照ってしまう。


「えっと、なんとなく海の種類が違うってのはわかる気がしますけど。泳げる海じゃないと海って感じがしないとか、そういう事ですか?」


「んー、そういう感じでもないんだけど、まあいっか」


 佐久間さんはタバコに火をつけると、窓の向こうの夜空に吐き出した。私を犯した後に父が決まって吸うタバコの煙は大嫌いなのに、彼女の口元から吐き出される煙は不思議と嫌な気はしない。


「ごめんな、美波。全然気づいてやれなくて……」

「いえ、いいんです。本当は知られたくなかったですから」

 佐久間さんには父からされていることを知られたくなかった。

「なんで世の中って真面目な奴が虐げられるんだ。美波は優しくて真面目で、私と違って誰にも迷惑かけてないのに。どうして、こんなにひどい目にあうんだよ」

「それは……。私が弱かったからです。弱いことは罪です。お父さんに抵抗することだって本当はできたんです。でも、しなかった」

 母に逃げられた父が酒に溺れていくのを私は止められなかった。父に暴力を振るわれた時にも、誰にも助けを求めなかった。私がもう少し強ければ、強くあろうとしていれば、こうはならなかった。

「だけど、今は幸せです。佐久間さんとこうして一緒にいられるんですから」

 私が言うと、佐久間さんは細い手を私に伸ばして頬に触れて髪に触れた。人に触られることが嬉しいって教えてくれたのは佐久間さんだった。


「それより佐久間さん。この前に会った時は電子タバコにしてませんでした?」

 私は話題を変えた。だって、せっかく二人でいるのに、父の話なんかしたくなかったから。


「ああ、コレ? 電子タバコってなんかしっくり来ないからやめちゃった」

 私の気持ちに気づいたのか、佐久間さんはふっと表情を和らげた。


「あれはタバコじゃないよ。埋立地とおんなじ。人工的で風情がない。それに好きでもない人から貰ったもんだから思い入れもないし」


 そして、耳朶のピアスを細い指で差してニヤリと佐久間さんは笑った。


「……これと違ってね」


 その仕草にドキッとして何も言い返せなくなる。


「なーに照れてんの。ほんと美波は可愛いなー」

 運転席から身を乗り出した佐久間さんはドギマギする私の頭をくしゃくしゃってして笑った。

「か、からかわないでください」

 火照る顔を伏せて精一杯の反抗をするけど、佐久間さんの柔らかい手が心地よくて、形だけの抵抗になった。

 ひとしきり私をからかった佐久間さんはシートに身を戻すと、

「海はいいねぇ。デカい。いろんなことがちっぽけに見えてくる」

 ポツリと呟いてタバコの灰を空き缶に落とした。

 その横顔が少しだけ寂しげだった。

 その時、私のスマホが鳴った。


「……お父さんだ」


 車内に緊張が走る。

 私はスマホを握ったまま動かなくなった。


「美波、大丈夫。出るなよ」


 佐久間さんが私の手を握る。

 しばらくすろと、留守電に繋がった。


「美波、てめえどこ行った!?」


 口泡を飛ばして怒鳴る姿が思い浮かぶ。目を覚まして私がいないことで父は激怒している。


「どこにも逃げさねえからな! お前は俺のもんだ。娘は父親のもんだ。さっさと帰ってこい!」


 激昂した父の半分聞き取れない声がスマホのスピーカー越しに車内に響く。

 叫ぶだけ叫んで、喚くだけ喚いて電話は切れた。


「……佐久間さん。ダメだよ。逃げられない。お父さんは絶対私を手放さないよ」


 努めて冷静に言おうとしたが、声が震えた。どこいても父は追いかけて来る。どうしようもない無力感が全身を包む。


「どうしよう……佐久間さん。私、お父さんに殺されちゃうかも……。お父さんがいる限り、私、逃げられないよ。どうしよう……」


 佐久間さんは黙ったままタバコを捨てた。


「殺そう。」


 佐久間さんが言った。

「え?」

「逃げられないなら立ち向かうしかないだろ。美波の人生は美波のもんだ。そうだろ?」

 私の両手を握って佐久間さんが言う。


「そうして、二人で生きよう。ずっと一緒に二人で」


 佐久間さんの瞳は私のことをまっすぐに見つめていた。


 私は佐久間さんが好きだ。佐久間さんと一緒にいたい。

 そのためには、あの家から、父から逃れなければならない。佐久間さんの言うように、逃げられないなら立ち向かわなければいけない。そうか、なぜそんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。


「二人なら大丈夫。私は美波を裏切らない。ずっと一緒だ」


 私は佐久間さんの瞳を見つめたまま頷いた。


 佐久間さんは微笑んで私の頬に触れ唇を寄せた。

 暖かい佐久間さんの体温が唇に伝わる。


「行こう」


 佐久間さんは車を発進させた。


「うん」


 私は佐久間さんの手を握る。

 車は駐車場でUターンして来た道を戻る。


 もう戻れない道を、私たちは進む。


 たとえどんな結末が訪れても、この道は未来に向かっていると信じて。


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