綴られた1994
七紙野くに
綴られた1994
ライヴハウスの最前列で男が口を開けて突っ立っている。手が届く距離にいるギタリストは嘲笑うかのようにギターヘッドを彼の頭上へ突き出し楽しそうにソロを弾いている。
男の名は富樫順司。某大手鉄鋼メーカーに務めるロックとはまるで無縁の一般人だ。そんな奴が何故ライヴハウスの、しかも最前列にいるのか。
ここに来る少し前、彼は駅前の西急ハンドというD.I.Y.雑貨店で買物をしていた。いや、正確には、ただ店内をうろついていたと述べるべきか。
普段は残業ばかりで帰りは家へ直行するか仕事仲間と一杯やるところだが、この日はたまたま全ての仕事が順調に片付き定時に退社という珍しい事態となった。少し機嫌も良いし時間もある。かといって飲みに行くにはやや早いし仲間は出払っている。そこでハンドの中を彷徨っていたのだ。
サラリーマンが独りで来るような店ではない、と思われるかも知れないが彼はこの店が好きだ。彼だけではない。ちょっと洒落た小物が好きで、近ごろ流行のD.I.Y.も、やってはみないまでも興味はあるという連中は、ほぼ間違いなくこの店を訪れている。彼らは他の所謂ホームセンターにはない独特の雰囲気に惹かれるのである。そう聞いて周りを窺うと結構スーツ姿の男性が目に入るはずだ。
で、一通り売場を回り、結局、何も買うことはなく店を後にしようとした。その時だ。勢いよく一人の娘がドアから飛び込んできた。不意を突かれた彼は避けきれず、ほぼ正面からぶつかってしまった。
人間と人間が真面に衝突すると実に悲惨な結果となるのはご存知の通りだ。双方ともカバンの中身は散乱し、不幸にも順司は鼻血まで流していた。この際の人類とは面白いもので彼は鼻血も拭かず己の持ち物を拾おうともせず、況してや相手に文句を垂れることもなく、ただ黙々と彼女が荷物を纏めるのを手伝っていた。その最後の一つがライヴのチケットだった。彼がそれを手渡すと彼女は初めて口を開いた。
「拭きなよ」
ハンカチを受け取り間抜けな鼻の下の血を拭った。
「オジさん、ロック好き?」
「別に嫌いじゃないけど」
順司は少し間を置いてから答えた。まだ三十になったばかりだしポールシミズをさらりと着こなすとは言えないまでもファッションセンスもある方だ。初対面の人間にオジさん呼ばわりされる筋合いはない。それにロックどころか音楽自体、取り立てて興味があるでもない。日頃、聴くのはカーラジオから流れるFMくらいだ。
「これからヒマ?」
何だこいつは、と思いながら特に嘘を吐く理由もないので自分の持ち物を整理しつつ答えた。
「ああ、そうだね」
この一言が後々、順司を別世界へと引き込んでいく発端となるのだが、そんな事は知る由もない。
「じゃ行こうよ」
「え?」
「ライヴ。このチケットのラ、イ、ヴ」
「あの、急にそんな事、言われても、、」
「どうせ暇なんでしょ。いい刺激になるよ。それにチケット一枚、余ってんの。勿体ないでしょ」
何故か返す言葉が見付からなかった。
こうして彼は訳の分からない小娘とライヴへ赴くこととなった。
連れて来られたのはハンドから歩いて北へ一分の黒い建物だ。まあ音楽好きなら誰もが心得る天下のシェイキンジョージなのだが彼は辛うじて名前を覚えている程度だ。
店の前には長蛇の列が出来ている。彼女はその一番前へ入った。順司はその行動を不思議に思い尋ねた。
「これ、全部ここに入るために並んでるの?」
「そう」
素っ気ない回答だ。
「なんで後から来て列の先頭に割り込むの?」
「これはチケットに書いてある整理ナンバーの順よ。私とオジさんのは一番と二番。だから先頭でいいのよ。でも開場に間に合わないと後の人に先に入られちゃうでしょ。だから急いでたのよ」
なるほど、それで近道であるハンドを駆け抜けようとしたのか。順司は納得した。それにしても数百人はいる。とてもこんな小さなところに入れるとは思えない。
「これ全員、入れるの?」
「平気。オールスタンディングだもん」
「オールスタンディングって?」
「立ち見よ。立、ち、見。さっきから質問、多いねぇ」
文句を付けているようだが機嫌は悪くない。知らない者に知っている者が教えるという行為は大体、多少なりとも優越感を伴うものである。
店員らしきお兄さんが叫ぶ。
「間もなく開場です。クルマの邪魔にならないよう片側に並んでください。尚、入り口でドリンク、フードチケットを購入していただきます。千百円ご用意ください」
順司は流されながらも何か冒険心とも呼べるべき初めての感情が沸き上がるのを理解した。
「オジさん、入ったらカウンターで缶ビールもらってきて。私、前で場所とっとくから」
「そんな事、言われたって分かんないよ。こんなとこ来た事ないもん」
いつしか会話は砕けていた。それに妙に素直になっている。
「大丈夫。入ったら分かるよ。そこでドリンクチケット渡してビール二つって言えばいいの」
「二つ?」
「あれ、オジさん飲めないの?」
「あぁそうか、俺の分か」
俺、順司は普段この一人称を使わない。ビジネスにおいては私だし親しい友達に対しても僕などと接する。結局もう雰囲気に飲まれているのである。例えるならヤクザ映画を観終わった善良な市民が映画館から出てくるなり肩で風を切っているようなものだ。順司の場合、未だライヴハウスに足を踏み入れてもいないのだから、かなり染まりやすい性格には違いない。
また、さっきの店員の登場だ。
「開場しまーす」
「行くよ」
微笑みながら彼女が店内へ消えた。順司も遅れまいと続く。千百円を手渡し捥られた半券とドリンクチケット、それに見たことのないチラシの類いを受け取り教えられたまま真直ぐカウンターへ向う。
「いらっしゃいませ」
ソフトな対応だ。接客業では当たり前のことだが「ロック」に身構えていた順司にとっては少し意外だった。
「ビール二つ」
「どうぞ」
予めカウンターに出してあった缶を取り彼女を探す。
「こっち、こっち」
声に誘われ視線を動かすと彼女はもう数人の客に囲まれている。どうやら、あの辺りが一等席らしい。順司は短い階段を使い一段、低いフロアへ下りた。店内をざっと見渡し前列に重なる客を掻き分け彼女の横に並ぶ。
「ここが一等席かよ」
「そうだよ」
振る舞いが「ロック」になっている事には順司自身もう気付いているが、何だか気分も浮くので戻すまでもない。
「なんていうバンド、っていうか、誰が出るの?」
目の前にドンと置かれたマイクスタンドを指差し本来、最初に訊くべきことをやっと口にした。
「Psychedelix。Charよ、チャー」
相変わらず素っ気ない答えだ。サイケデリックスとはどんなバンドなのかCharとは誰なのか全く説明しない。だが、順司もCharという名前は聞いたことがある。確かエレキギターを弾きながら歌う長髪の男だ。確かめるように復唱する。
「Charって、あの昔からいるChar?」
「あったり前でしょオジさん」
腑に落ちたところで腑に落ちない部分でボルテージを上げる。
「そのオジさんて言うの止めてくれない」
「あ、気にしてたのオジさん」
「だから、それを止めろって」
「ゴメン。じゃあ名前なんていうの?」
「順司。富樫順司」
「じゃ、順ちゃんでいいね」
順ちゃん、何とも照れ臭い響きだが他に適当な呼ばれ方もない。小娘に順司と呼び捨てにされるのも癪だし、このシチュエーションで富樫さんも無いだろう。
「君、名前なんていうの?」
「私、伶子。レイでいいよ。順ちゃん」
レイとはベタな名前だ。ベタとは勿論お笑い用語のベタ、詰まり決まり切った、又は典型的と語ろうか、兎に角この場における彼女の名前としては嵌り過ぎである。ストレートのリーバイスを苦も無く穿きこなす長身、歳の割に落ち着いたトーンの声、ぶっきらぼうな口のきき方、ドライというかあっさりした態度、缶ビールを扱う仕草、どれをとっても他にはないと思わせるほどレイはレイだ。順二は背中だけで笑った。
「何がおかしいの」
「いや、何でもないよ」
鋭い女だ。
「前の方、少し詰めてくださーい。後が一杯で入れません」
ナイスなタイミングで遠くからスタッフが声を掛ける。すると驚いたことにレイが大声で返した。
「前も一杯よ!」
「ヒュー、よ! いいぞ!」
余りにも間が良かったので混雑したフロアから拍手が沸き起こり歓声が上がった。順司は感心して直球を投げた。
「カッコいいね」
「バッカじゃないの」
バカと漏らされても一つも腹が立たない。それどころか順司は何だかイイ感じになってきた。このイイ感じを具体的に表現するのは難しいが二人の間にノリが生まれた、とでもしておこう。
さて、少し落ち着いてきた順司は店内を物珍しそうに観察し始める。天井からぶら下る暗い裸電球、壁に掛けられたコーヒー豆の輸入袋、低いステージ、今にも崩れそうなスピーカー、割と普通っぽい客層、気に入った。全て気に入った。心地好い。そして何よりも気に入ったのはステージバックの壁、中央に掲げられたスローガンらしきものを伴うネオンサインだ。そこには、こう記されていた。
- THE LIVE HOUSE
SHAKIN' GEORGE
IT HAS ALWAYS BEEN OUR POLICY TO
SUPPORT GREAT "ROCK" MUSIC -
「ロックだな」
思わず呟いてしまった。レイが問う。
「何?」
「あの看板だよ」
「あぁ、ロックだね」
言葉は少ないが十分、伝わったようだ。
「そろそろ客電が落ちるよ」
レイがそう告げた直後、BGMが絞られ暗い裸電球は柔らかく消えていった。
綴られた1994 七紙野くに @namelessland
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