オリンピック島(KAC20202)

つとむュー

オリンピック島

 息子の翔太の手を引いて、陸上競技場の観客席に立つ。

 目の前に広がるオレンジ色のトラックを眺めながら、俺は息子に語りかけた。

「このグラウンドはな、昔、海の上に浮いていたんだぞ」

「えっ? 海って……?」

 ぽかんとする翔太。俺は大事なことを忘れていた。

「そうか、翔太はまだ、海を見たことが無かったか……」


 海までの距離、およそ九キロメートル。

 そう、この場所からは、たった九キロなのに……。

 百年の年月を経て、この距離は人類にとって近いようで遠いものとなってしまった。


「僕、見たことあるよ。海に潜るって冒険動画で。青くて深くて、どこまでも広がっているんでしょ?」

 俺は子供の頃に見た景色を思い出す。

 ――広くて、青くて、太陽の光にキラキラと光る水面。

 そういえば、あの時以来、海を見たことはない。


「そうだな。実はパパも、海を見たのはもう何十年も昔のことなんだ」

「なんだ、パパも同じじゃん」

「そうだな。でも、じいちゃんからいろいろ話を聞いているぞ」

「どんな話? じいちゃんは海を冒険したことがあるの?」

「ああ、泳いだこともあるって言ってた」

「ええっ、それってホント? 聞かせて、聞かせて……」

 こうして俺は、翔太に祖父から聞いた海の話をすることになった。



 ◇



「じいちゃんが若かった頃、ちょうど百年前かな、地球温暖化が騒がれ始めたんだそうだ」

「地球温暖化って常識じゃん。僕だって知ってる」

「あの頃はね、まだあまり深刻に考えられていなかったんだよ。オリンピックだって、海で泳ぐ競技もあったんだ。じいちゃんはその競技の選手だった」

「嘘!? そんなことやってたの?」


 翔太が目を丸くする。

 その反応は当たり前だろう。俺だって、じいちゃんからその話を聞いた時はびっくりしたんだから。


「地球温暖化はだんだん深刻になっていった。でもね、人類はオリンピックの八月開催を止めようとしなかった」

「それはなぜ?」

「お金を出す人の希望だったんだって」

「へえ……」


 地球温暖化が当たり前になった今でも、俺達が住む社会はお金を中心に回っている。翔太だって、いつかはそんな社会の仕組みを理解してくれる日が来るに違いない。


「流石にそんな暑い中で競技なんてできるわけがない。じいちゃんだって、その頃はかなりキツかったと言ってた」

「そりゃそうだよ。僕も学校では、夏に運動しちゃダメって言われてるもん」

「そうだよな。それでね、人類は八月でもオリンピックが開催できる都市を探し始めたんだ」


 最初は、北半球の高緯度地域が選ばれていたという。

 しかし、そんな地域にも地球温暖化の波が押し寄せる。

「ついには八月に開催できる大都市がなくなっちゃって、人類は総力を集結して造ったんだ。海に浮かぶ、このオリンピック島を」


 ――オリンピック島。

 全ての競技が実施可能な、夢の巨大人工島。

 競技場だけではない。選手村、観客が泊まるホテル、そして人々が移動するための空港も備わっている。

 八月にオリンピックを開催するために、海上を移動して競技に適した気候の場所を探す。だから開催場所は、北へ北へと移動して行ったそうだ。

 もちろん検疫も完璧だ。世界でどんな疫病が流行っても、オリンピックだけは中止されることは無かった。


「へえ、この場所って本当に昔は海に浮かんでいて、世界を旅してたんだ……」

「だからそう言ったろ? さっき」

 もしかしたら、このグランドの観客席の最高部に登れば、昔は海が見えたのかもしれない。

 俺と翔太は、そんな観客や選手の気持ちになって、グランドを改めて見渡した。



 ◇



「でもな、翔太も知ってる通り、地球温暖化はさらに深刻になって、海はどんどん高温化してしまったんだ」


 北極と南極の氷が全て融けてしまい、海水準はどんどん上昇していく。

 それと同時に地表面の気温も、人が住めないほど上がってしまった。

 海はかつての涼しさを失ってしまう。生物を寄せつけない、温泉のような熱い巨大な水塊に変貌してしまったのだ。


「それで、オリンピック島はどうなったの?」

「人間は標高の高い地域に移住した。でもオリンピック島はそうは行かない。海から離れることはできないからね。だから氷がすっかり融けた北極点に固定して、少しずつジャッキアップしていくことになったんだ」

「ジャッキアップって?」

「高度を少しずつ少しずつ上げていったんだよ」

 四年に一度、八月にオリンピックを開催するために。


「それでパパ。北極点はどこ?」

 思い出したように翔太が俺に訊く。俺もはっとした。

 そうだよ、そもそもここに来たのは地球温暖化の話をするためではない。翔太と一緒に北極点を見に来たんじゃないか。

「あれだよ、あの真ん中のポール」

 トラックの真ん中を指差す。

 そこには真っ赤なポールが、存在を主張するようにそびえ立っていた。夜になれば、あのポールの先に北極星が輝くことだろう。


 と、俺は、激しい息切れで腕を下ろす。

「パパ、大丈夫? いきなり九千メートルはキツかったんじゃない?」

「ああ、なんとか大丈夫だ。五千メートル世代の俺たちには厳しいけどな。翔太は大丈夫なのか? そうか、お前が生まれたのは……」

「そうだよ、僕は七千メートル生まれだからね。これくらい平気だよ」

「それはすごいな」


 今俺達がいるオリンピック島は毎年のように高度が上昇し、今年はついに九千メートルを突破した。標高七千メートルでも夏場の運動は無理になった。八月にオリンピックを開催するためには、これだけの標高が必要だったのだ。


「僕も将来、オリンピック選手になってここで入場行進してみたいよ。じいちゃんのように」

 来月の八月になると、この場所で第五十七回オリンピックが開催される。

 標高九千メートル。文字通り、世界最高のお祭りだ。


「お前ならできるよ。五千メートル世代にはもう無理だがな。息が続かない」

 オリンピック島が上昇し始めてから、オリンピックはより高所で生まれた若者に有利な大会になってしまった。低所生まれの中年は、この薄い酸素濃度に対応することができない。

 キラキラと輝く瞳でトラックを見つめる翔太。

 そんな息子の肩に手を当て、将来彼が出場するかもしれない世界最高所の祭典を、意識が薄れそうな空気の中で俺は夢見るのであった。


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オリンピック島(KAC20202) つとむュー @tsutomyu

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