君と永久に明けない夜を

戸松秋茄子

happy holiday

   1


 待ち合わせ時刻の午後六時を迎えたとき、僕は六本目の煙草に火を点けようとしていた。


 駅前広場の時計を眺めながら、ライターを点火する。十五の誕生日、幼馴染みの歩がくれたオイルライターだ。三日月の図案には何本も傷が走り、それなりに使い込まれていることが一目でわかる。


 少し前、警官に未成年と間違われたときはそのことを指摘されるのではないかとひやひやしたものだ。


 そういえばさっき刑事風の二人組がうろうろしていたな――思わず周囲をうかがう。コンビニ前の喫煙所では、僕の他にもう一人、ダウンコートのおじさんが紫煙をくゆらせている。広場には、無数の慌ただしい人々と、立ち止まってスマホを眺めている人々がいた。


 誰も他人のことなんて気にしてはいない。わかってはいてもつい確認したくなるのは、長年の習い性だろう。人前で煙草を吸うのは落ち着かない。手が震えて、点火に手間取っているとなるとなおさらだ。


 ようやく煙草に火が点いたとき、広場の時計が六時を回ったことに気づいた。煙を吐き出しながら彼女のことを考える。大学で知り合った彼女。栗色のショートボブがよく似合う彼女。おしゃべりでグルメな口を持った彼女。


 もう彼女がいつ来てもおかしくない。


 そう考えるだけで胸が高鳴り、手が震えるのだ。


 しっかりしろ。


 そう自分に言い聞かせる。


 ビビってる場合じゃない。


 きっとチャンスをものにしてみせる。


 彼女が来たらこう言って迎えるのだ。


 メリークリスマス!

 

   †


 ハッピーホリデー!


 今日は一段と寒かっただろう。ささ、早く中に入りたまえ。


 しかし、よく来てくれたね。助かったよ。こういうのは人数が少ないと寂しいものだからね。


 去年まで来てた奴がいたんだけど、今年は彼女とデートだそうだ。ああ、そうそう。進学のため上京した彼だ。やはり知っていたんだね。まったく田舎は世間が狭いな。


 ん? まあ、つまりそういうことだね。十二月二四日にデートなんて言ったらやることは決まってる。


 困ったものだね。彼ったら経験もないのに張り切っちゃってさ。調子に乗って身を滅ぼすのが落ちだっていうのに。


 まあ、われわれを捨てた薄情な奴の話はこれくらいにしておこうじゃないか。


 今日は冬至のお祭りだ。


 飲んで騒いで貪って、長い夜を楽しもうじゃないか。


 

   2


「あそこのディナーコースおいしかったね」


 彼女はベッドに身を投げ仰向きになると、突然そんなことを言い出した。


「ん? ああ」面食らってろくな返事もできない。そもそも自分は何を食べたのだろう。それすら咄嗟に思い出せないほど意識が前のめりになっていた。


「ときどき不安になるんだよね。どこに連れてってもあんまりおいしそうな顔してくれないんだもん」


「ああ、それむかしからよく言われるんだ。もっとおいしそうに食べろってね」


 僕は苦笑した。そして、彼女に覆い被さり、自分の唇で彼女の唇を塞ぐ。


「食べ物の話はもういいでしょ」


 ホテルに来たのだ。やることはひとつしかない。


「先にシャワー浴びたいんだけど」


「だから脱がせてあげるんだよ」


 こうなったらもうムードなんて関係ない。僕は彼女の服をまくり上げた。あらわになった素肌には目もくれずブラジャーに手をかける。そして、彼女の体を持ち上げながらブラジャーを外し、お目当てのものと対面した。


 まろび出た慎ましやかな双丘――思わず唾を飲む。


「ごめんね。ちいさくて」


「このくらいがいいんじゃないか」僕は胸に手を這わせながら言った。「知ってる? 吸血鬼は元々、首筋じゃなく心臓に直接牙を立てて血をすすると言われてたんだよ」


「急に何?」彼女は冗談の続きを期待するかのように問うた。


「つまりこういうことさ」僕は手を離し、胸に顔を近づけた。「胸に脂肪があればそれだけ邪魔になる」


「それってどういう――」


 僕は最後まで言わせなかった。彼女の胸に牙を突き立て、血をすすりはじめたのだ。



   ††


 ふふ、すごいがっつきようだったね。


 悪いものじゃないだろう。お互いの肌をまさぐり合い、体液を交換する営みは。


 人間とくらべて、われわれの性衝動は微々たるものだが、決してゼロではない。その気になればこうしてセックスだってできる。そうでなければわれわれも生まれ得なかったわけだしね。


 吸血なんかよりこうして乱交パーティーでもしていた方が安全に楽しめるというものさ。セックスというのは誰も不幸にしない素晴らしい営みだと思わないかい?


 なのに、たまにわたしの幼馴染みのような馬鹿が出てくるんだ。吸血行為に過剰な幻想を抱く馬鹿がね。


 わたしだって吸血鬼だ。血を吸いたいと感じるときはある。しかし、煙草でも吸うか、何か飲み食いすればそんな衝動は収まるものさ。君だってそうだろう?


 あるいはキスだっていい。求められれば、わたしはいつだってあいつに応じて唇を差し出し、舌を吸わせてやったんだ。指だって、胸だって何でも吸わせてやったんだ。


 それの何が不満だっていうんだろう。それ以上、何を求めようっていうんだろう。


 草食系と揶揄されようが、これが今日の吸血鬼のあり方なんだ。吸血なんてちょんまげと同じさ。時代遅れもいいとこだよ。


 何より、吸血には常に危険が付きまとう。


 そう、さ。


 これは吸血鬼が太陽を克服する前から伝わる古い諺だが――決して明けない夜はないんだよ。



  3


 僕はいったい何を期待していたんだろうか。


 ホテルを後にするとき考えたのはそんなことだった。


 吸血鬼のコミュニティにはまれに自らのを語る先輩がいたりする。吸血に及んだ状況や、感想、証拠隠滅のノウハウなどを得意気に語るのだ。


 その全部が本当のことだとは思わない。故郷にも、明らかな嘘で周囲を白けさせる先輩がいた。


 しかし、嘘であれ真実であれ、そこには決して揺らぐことがない認識があった。


 吸血鬼にとって吸血に勝る快楽はないのだと。


 吸血は確かに気持ちよかった。セックスなんかとはくらべものにならないほどに。牙が彼女の柔肌を突き破る感覚。体に流れ込む暖かな血液。それらはいずれも脳がとろけるような快感だった。


 しかし、それだけだ。


 彼女の血を吸い付くした後、残ったのは虚無だった。セックスのように語らう相手も抱き締める相手もいない。冷たくなった骸が転がっているだけだ。


 現実に引き戻された僕は、予定していた後始末すら億劫がってホテルから立ち去った。


 クリスマスで賑わう街を一人、彷徨っている。ショーウィンドウに映った顔は、吸血行為で火照っているにも関わらず、死人のように見えた。


 いったい、僕は何のために東京まで出てきたんだろう。故郷を離れ、歩に別れを告げたのだろう。


 不意に、歩の声が聞きたくなった。しかし、彼女はきっといま別の男と交わっていることだろう。電話に出るとは思えないし、そんな状態の彼女と話したくもない。


 僕は煙草に火を点けた。煙草の味なんてわからない。なのに、どうしてやめられないんだろう。紫煙は何も答えず消えていく。


 何事もはじめはうまくいかないものさ。


 そう言ったのは歩だった。彼女に勧められてはじめて煙草を吸ったときのことだ。僕は盛大にむせかえり、隣で煙草を咥える彼女に笑われたものだ。


 煙草でむせかえることはなくなった。だけど、吸うことで何か楽しいことがあるわけじゃない。やめられるならいつやめたってかまわない――その程度のものでしかないのだ。


 僕は煙草を踏みしめた。執拗に、何度も何度も足で踏みにじる。手が煙草の箱に伸びようとしたとき、肩に手を置かれた。


 振り返ると、二人組の男が立っていた。二人ともくたびれたトレンチコートを着ていてる。


 さっき見た刑事風の男たちだ。


「お兄さん、ちょっといいかな」 



   †††


 この国が開国したとき乗り込んできたのは何も吸血鬼だけではない。


 当然、狩人たちだって上陸してたんだ。


 何せ猫も杓子も西洋に倣えって時代だからね。吸血鬼という馴染みのない怪異の存在も、当時のお偉いさんたちにはわりとすんなり受け入れられたって話さ。


 もちろん、一般市民は何も知らない。しかし、狩人が国内で権限を持つのにそう時間はかからなかった。


 また、彼らは日本人の弟子を育てていてね。大正にはもう、吸血鬼狩りは国内の人材だけで賄われるようになっていたそうだ。


 吸血事件なんていまとなってはそうそう起こらないと言われている。それでも、吸血鬼狩りは組織として運営されていて、国から予算も下りてるって話さ。


 狩人彼らはいまもあなたのすぐ隣に潜んでいるかもしれない。


 信じるか信じないかはあなた次第――というのが吸血鬼の間で噂される都市伝説さ。


 何せ、吸血鬼のコミュニティも横の繋がりが弱くなってきてるからね。吸血鬼狩りの存在だって都市伝説以上の情報はなかなか出回らない。


 ただ、これは逆に言うと、情報統制が行き届いているということかもしれないね。この情報社会で、ここまで完全に吸血鬼の存在が黙殺されてるなんてそれはそれで変な話だろう? 吸血鬼狩りがいまでも機能して、ひっそりと吸血鬼絡みの事件を処理してるとも想像できる。


 陰謀論だって? そうだね。そうであることを望むよ。わたしだって自分や仲間たちが狩られるのはごめんだ。想像するだけで胸が張り裂けそうになるよ。


 え、東京に行ったあいつのこと? 何であいつの名前が出てくるんだい。


 あんな奴のことなんて知ったものか。彼は自ら故郷を離れたんだ。わたしを捨てて血を求めたんだ。好きだって言ったのに、好きだって言ってくれたのに。そんな人間の真似事みたいなことはもう飽き飽きだって手を振り払ったんだ。


 どうしてそんな奴の心配をしないといけない。


 さあ、おしゃべりはこれくらいにしておこうじゃないか。明けない夜はない。君のことは気に入ったし、夜が続く限りは相手をしてもらうよ。

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