山脇正太郎氏を推す

読者はおよそ100ほど前、芥川龍之介と谷崎潤一郎の間で、有名な論争が交わされたのを覚えていらっしゃるだろうか。
あれほど、技巧に凝った作品を残した芥川龍之介が、志賀直哉の「焚火」という小品をもちだして、谷崎潤一郎を批判したのだ。芥川は「話らしい話のない話」にこそ、美があるのだと説いた。対して構造的美観を特徴とした谷崎は、これに対して、小説の結構こそ、その美があるという。これは、現在に至るまで、小説を批評する際に形を変え、論争が続いている。

山脇氏のこのエビフライの作品は、この二つの美観を兼ね備えている。というのが、私の主張である。すなわち、素朴にして大胆。繊細にして華美とでもいえるだろうか。

まず、冒頭から見てみよう。エビフライを擬人化したところが、新しいというわけではない、私が注目するのは、この一節である。
「キャベツは長野県産の新鮮なものであったし、その千切り具合も彼の好みに合うものだった。」

夏目漱石は、愛の場面を描くのに、やたらに「好きだ」などと書くものではないと新進作家にいうのである。男女二人が月を眺めて、月が美しいですねと言えば、それは相手を愛しているという符牒だというのだ。

また、教科書に載っている有名な評論「水の東西」で山崎正和は、日本人の「独特の好み」として、間接の美をあげている。こうしたことから重ね合わせて考えれば、この山脇氏の一文からはもはや、世界の終末を間接に読み取れるではないか。

否!我々は、この小説を論じるのに、もはや読む必要もないと考える。間接に、山脇氏が書いていることを感じられればよいのだ。
それは、モーツアルトの音楽であり、ドストエフスキーの詩である。そう思いさえすればよいのである。

読者諸氏は信じられるだろうか。私はこの文章をパフュームを聴きながら書いているのである。

いずれにせよ、団地妻のコメントにエビフライの書評を書くことに意味があるのである。団地妻というと、すぐ団鬼六氏を想起しがちだが、これは違う。だん違いの作品である。具体的にいえば、団鬼六のようなしばりを欠いている。

私は山脇氏はこのような作品を残し、プロレタリアートの気持ちを代弁しようとしたのだろうと考える。しかし、芥川がプロレタリアートにひどく共感したのにもかかわらず、プロレタリアートの側からは、そういう態度がブルジョワ的だと言われ、困窮したことと同じように、もともと、フランスの侯爵であられる、山脇氏がこうした作品を残すことに、困惑するのである。すなわち、これはブルジョワから見たプロレタリアートであって、生きたプロレタリアの文学ではないのではないかと。

しかし、時代は、島崎藤村に、「夜明け前」を書かせた。私は山脇氏が、貧富の格差のひろがるこの社会に提言するために、「エビフライ」と「団地妻」によってプロレタリアートとブルジョワジーの接点を、芥川と谷崎の接点を、見事に描き切ったと、そう言いたいのだ。
時代を画する、団地妻、エビフライと筆を重ねた山脇氏の文筆の冴に感嘆の念を起すとともに、時代を代表する文学としてこれを讃えたい。

                        嘘宗白鳥