遠洋の宴

水涸 木犀

遠洋の宴

 遮るものがない、薄暗い水の中。五つの黒い影が走る、走る。


 止まることを知らない影たちは、潮の流れに乗りひたすらに前へと進む。水の抵抗など感じない、さりとて無重力かのような頼りなさもない、不思議な滑らかさがそこにはあった。

 人間のように、急いでいるから速く走っているわけではない。潮に乗り、流れに任せ一番適した速さで進む。その結果が今の速度だ。五つの影は同じ速度を保ったまま、何十キロも走り続けてきた。だからこそ、自分たちは一緒にいられる。


 別の場所では、人間が水に投げ下ろす鋭い針に捕らえられ傷ついた仲間もいると聞く。彼は陸の世界に引き上げられず、どうにか逃げおおせたらしい。しかし、針が与える一撃は重い。えらに刺されば息が詰まる。口に刺されば食事が辛い。くだんの仲間の負傷箇所が何処だったのかまでは知らないが、五体満足とはいかなかっただろう。彼自身の群れで無事生き延びていることを願う。


 不意に、水面を光がなでる。空の遥か遠くからさしこむ光は水の中まで注ぎ込み、暗かった世界を照らす。視界が晴れると不思議なことに、自分の感覚も鋭くなるような気がする。口を通り抜ける水温、僅かに感じるざわついた気配から感じ取る。


――今日は、最高の宴が待っている――


 そう感じたのは自分だけではなかったらしい。ここまで行動をともにしてきた仲間たちは自分の反応に合わせて、僅かに向きを変えた。そうだ。こっちだ。この方向に向かえ。足はこちらの方が速いんだ。絶対に間に合う。走れ、走れ。


 なおも走り続け、空の光を背中で受ける頃、自分は感じた。不自然な波を。何も生物がいない場所では決して発生しない、いくつもの塊がうごめく波を。

 無形の波が次第に力を増したとき、ついに塊が姿を見せた。それが視界に入った途端、五頭の仲間はいっせいに飛びかかった。さあ、宴のはじまりだ。


  ・・・


 遠い水中で感じた通りだ。滅多にお目にかかれないくらいの巨大ないわしの群れだ。自分は鰯の数を数えることなどしないが、少なくとも今の仲間たちと生活をともにしていて、ここまで巨大な群れは見たことがない。

 いくら小さな魚とはいえ、心してかからねばこちらが傷つく。欲張ろうとすると何も得られない。ここは慎重に、五頭で群れを追い込んで、小さな塊にわけていく。


 遮るものがないから、どこか狭い場所に追い込むことはできない。しかし、巨大な群れも小さな塊に分けてしまえば自分たちの身体を「狭い場所」にして追い込める。自分たちの身体は動く檻だ。囚われた鰯は、もうこちらのもの。良いタイミングで檻の入口に回り込んだ仲間から順に、鰯の許へ口を運ぶ。あごの上にモノが乗った瞬間、口を閉じれば完了だ。

 鰯より小さい有象無象がここにはたくさんいる。だが、自分たちの身体を満たす生物は鰯の他に存在しない。だから姿を見るまでもなく、顎の上で動いたものはすべからく体内に納めていく。仲間皆が満たされるように、何度も何度も繰り返す。


     ・・・


 いくらか数を減らしたであろう鰯の群れは、いつの間にか去っていた。巨大な群れを見つけるとこうなる。小さく分けた群れに専念しているうちに、大きな方が消えてしまう。それでも自分は満足していた。充分に身体を満たすことができたのだ。最高の宴の時間だった。


 宴の時間はもう終わりだ。鰯を追って随分道を外れてしまった。五頭の仲間はまた並び、水面に映る影となって走る、走る。まだ見ぬ最高の宴が、きっといつか現れる。

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