第13章
私は朝から、あの日のことを、それまでの日々を思い返していた。君が死んだ日、私は消えた。今までの時間も、あの日の展示も、君たち二人の、二人だけの愛だと思った。そこに私が入る隙間はない。私たちは恋人だったけど、それは私がタイミングよく君の側にいたからだ。そして私は女だった。私たちは愛の定義を性別で決めるなんてことはしなかったけれど、それでも自分以外の人間に行動は批判される。安全なところにいる人間ほど凶暴だ。君は親友を愛しているから、親友を好奇の目に晒す覚悟を持てなかったのだろう。視線が付きまとうのは、きっと私も理解できている。愛を伝えることも、縋ることも、困らせることもできなかった優しくて不器用な君のことを私だって愛しているよ。君は私を守ることで自分を守った。性を売る私を助け出すことで、君は自分を救おうとした。でなければわざわざ私を選ぶ必要は無かった。私は君の親友の心の支えになるために選ばれたのだと分かった。私は安心した。貰ってばかりの自分が嫌だったから、私にも役目があったことが分かって安心した。よかった。愛とはそんなものだ。私に必要な愛は許すことだ。アルコールに負けた父親も、私を追い詰めた母親も許すのだ。私の恋人の心を独占する彼も、私を利用した君も許す。上手く出来るかはまだ分からないけど、心の中で許す行為は気持ちがいい。私は家を出てアトリエへと歩き出した。
ほとんど諦めた気持ちで時計を見る。
思い出に浸ると、弱気な自分が顔を出す。生きるってなんだろう。死んだら君に会えるのだろうか。良いことも悪いことも死んだら無くなって、それでおしまいだ。この上なく分かりやすい現実の中で、僕には死ぬ勇気が足りなすぎる。もし痛みが自分の存在を明確にするのなら、僕は永遠に痛みから逃れ続けたい。君はそれを許してくれないけれど。君はいつもこんなふうに生に捉えられていたのだろうか。自分が生きていることを実感する。君の死で。僕は君について何も知らなかった。それで良いと思っていた。それこそが真の友情であり愛情だと思っていた。でも違かった。僕は君の弱さを考慮している体を装って、君を受け入れる一歩を踏み出すことができなかった。君に拒絶される勇気を持っていなかった。自分を曝け出す勇気が足りなすぎた。変えられない過去こそ一度受け止めるべきだった。僕はロマンティックな逃避行を夢見ていた。逃避行の先にあるのは現実だ。現実を知らないものに見る夢などない。最後の煙草を吸い終わってなんだか急に心細くなる。帰ってしまおうか。それでもゆっくりと君の最期を思い出すと、君が死を天蓋に重ねていたことはそれほど悪いことでは無かったのだと理解する。君は強くて勇敢だった。
「有名監督さん、大ヒットおめでとう。」
懐かしいその声に僕は掬い上げられる。彼女はいつだって僕たちの太陽だ。そんな恥ずかしいこと今は言葉にできないけど、いつか伝えよう。そう決心して彼女を抱きしめる。言葉を交わす。お互いの存在に慣れるために近況を報告して、どちらからともなく天蓋の前に行く。天蓋の前で手を合わせる。二人とも示し合わせたように涙を流す。それから天蓋を取り外す。取り外すのは少し苦労した。紐は想像以上に強く縛り付けられていた。まるで僕と彼女が君をこの世に縛り付けていたように。電飾を外して、天蓋を二人で運ぶ。僕たちは君を近所の川辺で燃やすことにした。川辺に着くと、彼女が最後を惜しむように、君と両手を取り合い踊り出す。穏やかな風が君たちの踊りを手助けする。彼女が僕を呼ぶ。今度は三人で踊る。一瞬大きな風が吹き、真っ白な天蓋が僕たちを包み込む。君が僕と彼女を抱きしめる。君が僕たちを抱きしめた。僕たちはいつまでも愛し合っている。僕たちの思い出は僕たちのものだ。人生なんてうんざりだ。ご飯の味もろくにしない。涙も止まらない。君との思い出だけが、頭に、心に、身体に染み付いて離れない。君を無駄にするものか。一生君を思い出し続けてやる。作品の主役にし続けてやる。見ていろよ。
僕は悪くない。僕は叫ぶ。
私は悪くない。彼女が叫ぶ。
君を連れて行ったのは君自身だ。
君を連れて行ったのは君自身だ。彼女が繰り返す。
勝手に行きやがって!
馬鹿野郎!
セックスしたかった!
頑固!根性なし!
嫌い!嫌い!嫌い!嫌い!愛してる!愛してる!愛してる!
愛してる
君に火を点ける。
火はゆっくりと勢いを付け、ある瞬間に一瞬で君を包み、呆気なく君は消え去る。
本当に呆気なくいなくなる。
アトリエの真ん中に吊るされた真っ白な天蓋は、これからも永遠に揺れ続けるだろう。
全てから解放された君は僕たちの中で自由に優しく揺れ続ける。
白い夢 千尋 @la_t_r
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