バカと煙は
真野てん
第1話 バカと煙は
エベレスト――。
標高じつに8848メートル。
ヒマラヤ山脈にある世界最高峰の山である。
その頂上はネパールと中国の国境上に存在し、過酷極める環境からいまなお多くの登山家の侵入を阻んでいた。
いまその標高8000メートル付近。
もはや肉眼で頂上をとらえることすら叶う場所にふたりの日本人が、その他多くのエベレスト登頂を狙うアタッカーらとともに存在した。
標高5300メートル付近にあるネパール側のベースキャンプを出発したのが三日前。
登山のプロや現地の山岳ガイドのサポートを受けながら、天候に恵まれ素人である彼らのペースに合わせつつもここまで順調にやってきたのは奇跡に近い。
だが――。
入山からベースキャンプに至るまでに一週間。
そして高所に身体を順応されるためその場にとどまること、さらに二週間。
しかしこれらはすべて登頂へとアタックするための準備期間であり、決して足止めではない。
エベレスト登山にはまずは入念な下準備と過酷な環境にも耐えうるトレーニングが必須だ。
だがこれらを怠ることなく万全にこなしたとしても、最後にもっとも重要なファクターが欠けていればそれらはすべて無に帰すことになる。
それは「運」だ。
エベレストを制するには、よい天候に恵まれていなければならない。
逆にいえばどれだけ熟達した登山者であろうとも、「運」を持ちえないものは登頂を許されない。これは神による選定とも言えるものだ。
神なる山は、特別なるものを求めているのだ――。
「先輩……」
突如として荒れ始めた天候。
猛吹雪が吹き付けるテントのなかで、青年はうめくようにして呟いた。
「先輩……」
かたわらで極太ソーセージのような寝袋にくるまっていたもうひとりの日本人は、ひげ面を真っ白に凍らせて、おっくうそうに振り向き「なんだよ」と。
「横になっとけよ。無駄な体力使うな」
「そりゃ分かってんですけど……」
「なんだよ?」
男は後輩の不安げな顔を見て、身体を起こした。
テントにはあとふたりほど同行スタッフがいたが、いずれも頭まで寝袋におさまり暖をとっている。この状況下での体温の低下は命にかかわる。
みな誰かを構っている余裕もない。
「ここまで来といてなんですけど……おれたち社長にからかわれているんじゃ……」
「あ? いまさらなに言ってんだよ。来年のわが社の創立記念日には『最高の祭り』をやる。そのためにエベレストの山頂を会場として押さえに来たんだろうが」
「お酒の席だったし冗談だったんじゃ……それに『最高』って高さのことじゃないのでは……」
「ばっか言え! 社長は冗談とハンパが嫌いなおひとなんだよ。『最高』ったら高さのことしかあんめえだろうが!」
「で、でも、この出張も先輩の独断でしょ?」
「てやんでえ! ほかのやつに先超されてたまっかよ! てめえだって結局ついてきてるじゃねえか」
それは会社に無許可だったのを現地に着くまで、先輩が黙っていたからでしょ――。
青年は言いかけたが、ばかばかしくなってやめた。
この先輩は学生のときからこうだ。
バカだが、どうしようもなく放っておけない。
しかしその無鉄砲さで不可能を可能にする男でもある。
だからこそこの青年は無性についていきたくなるのだが――。
しばらくしてテントの外側を誰かがたたいた。
一緒にアタックをしているプロの登山家である。
どうやら吹雪が収まったらしい。
彼らは嬉々として起き上がり、テントを撤収した。
それからさらに何時間が経過しただろうか。
道なき道を行き、崖を這い上がり、氷に足をとられながらも。
ついに――。
「やった……」
つにに彼らはたどりついた。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
先輩の雄たけびに青年の頬もゆるむ。
標高8848メートル。
それはこの大地で一番高い位置にある偉大なる出っ張りである。
選ばれしもののみに与えられる雲海の祝福は、いま自分が世界のてっぺんにいることを実感させるのだった。
「先輩。やりましたね。これで社長にも……先輩?」
雲一つない真っ青な空を見上げて、先輩はぽかんとしている。
そして一言。
「ダメだ」
「え?」
「ここじゃダメだ」
「なにを言って……」
青年の問いかけは、先輩が指し示す蒼穹の先へと吸い込まれていった。
彼は見た。
大気の層にかすんだその姿を。
ISS――国際宇宙ステーション。
地上400キロ上空に建造された、地球圏でもっとも「高い場所」である。
「行くぞ」
青年は隣から漏れ聞こえてきた声に耳を疑う。
「嘘っしょ……」
氷に白んだひげがニヤリと笑う。
彼もまた、冗談やハンパが嫌いな男であることを青年は知っていた。
バカと煙は 真野てん @heberex
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