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 起業して30年が過ぎ、増田は56歳になっていた。会社は存続していた。社員は最大30人ほどになったときもあった。現在は起業時と同じ5人である。だが起業時とまったく同じ5人ではない。起業時のメンバーで残っているのは、増田と亀井、それにあの晩帰宅せずにホステスと過ごした、村井という男の3人だ。

 増田は15年ほど前から拡大志向を捨て、裾野すそのを広げず、取り扱い分野を特化し、ミニマムだが堅実にビジネスを進めることにしていた。オフィスは、同じ青山でも4階建てのもっと狭いフロアのビルに移転した。すると波乱のない、安定した経営となった。会社が存続しているのは、この方針変更によるものが大きかった。村井に言わせると、「増田さんが亀井さんになって、会社に亀井さんが二人いるみたいだ」という状態だった。


 増田は29で結婚し、子どもが二人できたが、35で離婚した。親権は母親のものとなった。その頃、会社はかなりの負債を抱え、増田は倒産も覚悟していた。夫婦仲は非常に険悪で、ほとんど話すこともなく離婚となった。一方の亀井は、恋人がいる時期はあっても、結局籍を入れないまま別れ、独身を貫いていた。


「ちょうど30年だな」増田がグラスを軽く掲げて言った。

「早いもんだ」亀井もグラスを掲げた。

 二人はグラスを鳴らさず、掲げることで乾杯とした。居酒屋での一次会が終わり、二人は場末のバーのカウンターに並んでいた。

 ウィスキーを一口飲んだ後、タバコに火をつけて増田が言った。「あの時はお祭り気分だったな。あの時期が最高だった。何の心配も不安も抱えてなくて、希望だけだった……。まあ、能天気な世間知らずだったってことだけどな」

 そう言って、増田はタバコをぼんやりとふかした。亀井は何も言えず、グラスを傾けた。

「覚えてるか? あのママ?」増田が訊いた。

「ああ、あのクラブのか? 覚えてる。いい人だった。」

「あそこのママ、少し前に死んじゃったらしい」

「そうか……。俺は10年以上行ってないからなあ」

「おれも1年に1回行くかどうかだったよ」そう言って増田は少し咳き込んだ。

 二人はしばらく言葉を交わさず、それぞれに思いを巡らせていた。


「俺たち、このままうまく老後迎えられそうだな」増田がニヒルな笑みを浮かべ、思い出したように言った。「ある内部留保は俺たちのもんだ。それが目減りしそうになったら、会社を潰しちまえばいい。みんなで山分けだ」

「うん……そうだな……」亀井の表情は曇っていた。

「どうした?」

「お前、本当は……つまらないだろ?」

「え? 何が?」増田は亀井の顔を見た。

「こんな経営が……」

「何言ってんだよ。いろいろあって、今ベストな経営ができてんじゃねえか。実際かなりうまく回ってるだろ。こんな時代に俺たちみたいな零細が……、奇跡だよ」

「いや、安定しすぎてるというか、守りに入ってるだろ。何にもチャレンジせず……。それに、将来が見えてるってのも――」

「ハッキリと見えてるわけじゃない。将来は何が起こるか分からない。このまま行けば会社も老後も大丈夫そうだけど、それは可能性であって保障はない。だったらこの安定した、ベストな経営を続ければいいだろ。俺は別にスリルなんか求めてない。そんな歳でもない」

 やや声の大きくなった二人に、白髪はくはつのマスターが眼鏡越しにチラリと警戒の視線を向けた。二人はそれに気付かなかったが、自ら制御できていた。マスターは警戒を解いて、次のグラスをきはじめた。


「――俺はさあ……」亀井がぎこちなく言いはじめた。「後悔してるんだ。あんまりにも事なかれ主義で、無難にやってきたことを……。こんな俺が近くにいたせいで、お前がチャレンジをやめて保守的になっちまったんじゃないかと思って――」

「そんなことはない。お前のせいじゃない。むしろ……お前の堅実けんじつさのおかげでここまで来れたと思ってるし、感謝してる。守りに入ったのは俺自身の選択だし、つまらないにしても俺自身の問題なんだ。お前のせいじゃない」

 増田は亀井の背を軽くたたいた。亀井は微かに震えて俯いた。


「そういや……」増田は晴れ間がのぞいたような顔で言った。「小耳に挟んだんだが、あの晩寝た子が、あのクラブに戻ってきててさ、今、彼女がママやってるらしいんだ」

 亀井は顔を上げて増田を見た。

「彼女があの店を離れてから、もう20年ぐらい会ってないんだけど……、彼女、もうなかなかのもんだったよ。今じゃ立派に熟してるだろうけどな」増田はニヤけた顔で言った。「久しぶりに、来週あたり行ってみようぜ!」

「ああ!」亀井は笑った。

 増田は気分良くタバコをふかし、たっぷりと煙を噴き出した。頭上に漂う煙を眺めていると、その先の丸くまぶしいあかりがメッセージをささやいたような気がした――守りに入ろうがつまらなかろうが、チャレンジしようがしくじろうが、歓喜に浮かれようが不幸のどん底に沈もうが、それらすべてを含む人生そのもの、こうして生きていることが、最高の祭なのだ――。そうだ、この瞬間も。


(了)

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囁き ひろみつ,hiromitsu @franz

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