初恋

千羽稲穂

パパとあたし

 パパの胸に頭をのせて心音を聞く。胸が膨らんだり萎んだりしてゆっくりと息をしているのにあたしは耳を傾けてる。隣に小さな小さな妹が寝てる。パパは腕を広げて、腕枕してる。網戸からふわっと風が吹いて、カーテンの裾が上がる。そこから漏れる日差しに昨日の熱帯夜を思い出す。あつくって寝つけないのにパパのぬくい手を頬にやるとなんでか落ち着いて、夢にするっと入ることが出来た。あたしの好きな位置は腕枕じゃなく胸の上。呼吸で動く肺。心音がするとこ。どくどくいう血の音がしてる。


「ねえ、パパ、死なないよね」


 いなくならないよね、死なないよね、怖いの。

 なんども確かめて、怖さを沈めていく。夢のまどろみをぬぐうとなんでか知らないけれど、次の日になってる。もう昼だっていうのに、みんな気持ちよく寝てる。こうしてゆっくりと心音を聞く昼下がりが好き。


 これがパパとの集合時間前に思い出す幼い日の記憶。

 あたしは集合時間になる前に来ているパパを見て、あの日の鼓動を思い出し落ち着つく。そうしないと思い出と今とがこんがらがっちゃう。パパはそこにいて、優しい目をしている。今もパパの胸に耳をあてると変わらない心音が聞こえるのかな。あの心音を思い出してここはどこだろうって、確認するんだ。


 集合場所は駅。時間は十二時。

 今日は四年に一度、パパに会える日。


 あたしが静かにパパに近づくと、パパはこっちを向く。ちょっとだけ大きくなったあたしを感慨深そうに見る。


 パパの肌は黄色っぽいし、ぼろぼろになってる。髪なんか前からはげてきてる。


 ちゃんとご飯食べてる?

 煙草やめれてないでしょ。


 頭の中に無数に浮かぶパパを気遣う言葉はなんでか口から出ないんだ。さっきしっかり落ち着いて何をいうか決めていたのに、またこんがらがっちゃう。


「今日はどこにいくの?」


 あたしはいつもパパにエスコートを頼む。デートみたいに手をつなぐこともなくなっちゃったもんだから、おかしいくらいに距離をあけ、気恥ずかしく顔をそむける。


 ねえ、パパ、最後に手をつないだ時のこと覚えてる? 最後にお風呂に一緒に入ったのは小学生の時だったよね。あたし、パパの煙草の匂い、好きだったよ。パパが咳をした時の音を知っているくらいに、パパのこと大好きだったよ。


「ふぐ、食べたい?」


 聞きなれない食べものだ。パパはなんでか美味しいものを知ってる。


「食べたい」


 でも、それって高くない? あたしだって、物の価値がわかる年齢になったから知ってるよ。ふぐが高いことも、料理が面倒くさいことも。男の人が女の人にしてくれるエッチなことも。階段を上がるみたいに、ひとつひとつわかってきたんだ。


「予約してるんだ。行こう」

「うん」


 あたしはヒールのある靴で道を歩く。


 中学校から三回目の四年に一度のパパとのデート。かなりそっけないデート。こんなデートでもあたしの頭の中はいつだってパニックしてる。頭蓋骨の表面があっつい。なんでか後頭部から考えが溢れて、頭蓋骨の表面を滑るんだ。マグマが流れ込んでるんだと思う。パパを見ると、いたるところに記憶や言葉が溢れてくる。それが脳みそをちくちく刺していく。


 お前は罪を犯したんだ。誰かがあたしにひっそりと告げてくれる。これが罪の痛み。パパと会ったらいけない理由なのかもしれない。


 パパは罪を犯したんだ。これは家族のみんなが四年に一度あたしがパパとデートするときに思ってること。目を見ればわかるよ。だから、あたしはパパと会っちゃいけないってことも、これが彦星と織姫みたくロマンチックなデートじゃないことも。あたしは頭の中のマグマが教えてくれるんだから。


 パパが運転して、車でふぐのお店に向かう。パパの運転は上手なんだ。くるくるとハンドルを器用に動かして、連れてってくれる。


 妹とコンビニに連れてってくれた時、パパは「なんでも好きなものを買っていいよ」って言ってくれたの覚えてる。コンビニの中を駆け回った。あたしは足を棚にひっかけて転んで、頭をけがして、病院にも連れてってくれた。あの時の頭の傷はどこに行ったんだろうね。


 ふぐのお店に背筋を伸ばして入ってく。パパは猫背気味に前を歩いてくれる。


 四年前よりあたしの方が背が高くなったんじゃないかな。とってもみすぼらしい背筋にあたしはまた胸を大きくして息を吸い吐く。髪がところどころ白い。まだらになった髪は三毛猫みたいに可愛くはない。でも、パパだから許せちゃう。パパ、そんなところも大好きだよ。


 お座敷に来て、足を組むパパと正座するあたし。たった二人の空間にまたどぎまぎする。何を話せばいいのかわからない。四年に一度会えるんだから、逆にいえば四年間猶予があるのにあたしはいつも会話のストックを作り忘れる。作ってもやっぱりマグマで溶けてしまってどうしようもない。


「元気にしてるか」


 そんな普通のことを、パパはいう。パパの痛ましい目の下の隈があたしの目にこびりついてる。パパは元気にしてない。心の中で笑っちゃう。


「うん」


 元気だよ。妹なんてこの間大学生になったんだ。あたしはもうすぐ社会人。順調に階段をのぼってる。あたしは元気だよ。ママも、多分、パパといたときよりかは元気だよ。


 こんなこと言えない。ごくっと水と一緒に飲み込む。


「まあ、食べよう」

 パパはあたしのことを見ているのかわからない。


 ふぐの刺身が運ばれてきた。薄く切ったいかみたい。でも噛んでみるといかより芯があって、不思議な食感。知らないうちに癖になって、刺身がなくなっていく。あたしは食べてるのに、パパの皿は一向に減っていない。


 パパはいつも美味しい料理をママよりも作ってくれた。ママは料理下手だからね。餃子を一緒に皮で包んだり、つやつやしたご飯を炊いてくれて、餃子パーティーなんかした。パパの作ったハンバーグは絶品で、妹と取り合いになった。ハンバーグの中にチーズが閉じ込められてるの。ふぐよりも家庭的なのに、あたしはあの美味しさが忘れられなかった。


 パパの掌も、忘れてない。大きくって、分厚く温かい。怖くてたまらない夜には、明かりよりもくっきり見えた。漠然と怖かったんだ。この日常が壊れる死という事象がなんでか毎晩毎晩考えるほどに。明日、あたしの命が消えるとしたら、あたしはどこにいくのだろうか。夢を見ていない時の何もない闇にいくとしたら怖い。そんな時、パパの掌を頬に持ってくる。温かかった。胸に頭を置く。パパの汗のにおいがする。寝息がする。するとこのまま寝ていいかなって思えてくる。闇の中は案外居心地のいいものだった。


「パパ、食べないの?」


 あたしは首をかしげる。いつだったか、四年前だったか、その時もこの言葉を投げてた気がします。ううん、もっと前から、あたし達が家族だった時からこんな会話してた。


「ああ、食べる。うん、食べるよ」

「食欲ないの?」

「そうでもないよ」


 パパの嘘はわからない。本当にそうなのか、そうでないのか探りをいれるつもりもない。


「そっか」


 妹とあたしでパパ特製の料理を食べている時もビールばかり飲んでいたな。


 パパとの思い出はあたしにとって痛い。鎖のよう記憶がつながってるから痛みと共に思い出す。こうして対面してるのも、あたしは平然としてるけれどつらいのかもしれない。


 パパ、やっぱ、あたし本当はパパのこと大嫌い。


 のどにつっかえていた言葉をふぐの美味しいため息の後にくみ取ってくる。


「パパ、今幸せ?」


 あたしが中学生になる時だったっけ。パパは突然、家族じゃなくなった。大きな大きなスーツケースを転がして、玄関にパパが立っていた。あたしはそれを見てよくわからないかった。あたしがのぼっている階段はまだ半端なまんまだったから、察せずにいた。


 そういえば、前からパパはママに内緒でどこかに行ってたっけ。

 あたしがパパとデートするみたいに、パパはどこかで私達家族より大切な誰かと一緒にデートしてたんだろう。このふぐのお店もきっとその人のため。あたしのためじゃない。


 パパは嘘が得意なんだ。


 あの日の幸せなパパとの思い出は今では毒になっちゃった。嘘で固められちゃって、パパはあたしのパパじゃなくなっちゃって、あたしはロマンチックじゃない四年に一度を過ごしている。


「幸せだよ」


 パパの何気ない返答だって、あたしにはつらいんだ。

 だって、パパが大好きだから。


 あたしを捨てて知らない家庭で幸せに過ごしているんだろうな。そう考えるだけで、毒がこみ上げてくる。頭の表面にマグマが流れる。


 そっか、そうだよねって良かったねって目の表面にうっすらと水面を浮き上がらせてほほ笑む。


 だって、言えるわけない。言えないよ。

 あたしがいない方が幸せだったんだねって。今が幸せならあの時は幸せじゃなかったの? って。パパのことが大好きだった。でもパパはそんなにだったのかもしれない。なら、四年に一度会わなきゃいいのに。でも、パパは死にたくなるほど優しいから、パパの今の家庭を顧みずあたしと会ってくれる。


 パパは罪を犯したんだ。だからパパなんて大嫌いだ。


 それでも、あたしはパパのことを心の底から好きだから、会わずにはいられない。毒だろうと思い出す。パパと雑魚寝したことも、料理も、パパの咳の音、心臓、温かさも。


 料理を堪能した後、パパはあたしを駅までまた送ってくれた。そして、駅の改札前でそっけない会話で時間をつぶす。また四年後って、約束をとりつける。四年後、パパはどうなってるんだろうか。もっとはげてたり、腰がより曲がっていたり。


 そこでパパはぎゅっとあたしを抱きしめた。ハグをして距離が縮まった。変わらない心音がどくどくと響いてる。パパは、死んでいない。でも四年後は分からない。


 ねぇ、大好きで、大嫌いなパパ。


「あたし、彼氏ができたんだ」


 そっと告げてあたしはパパにさよならをした。

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