ウイルスは素数ゼミに倣う
湫川 仰角
ウイルスは素数ゼミに倣う
北アメリカに生息するセミの一種は、発生から成虫に至るまでの間隔が毎世代正確に13年を刻むという。13年毎に大量発生を引き起こすが、それまでの間に同種のセミは一切発生しない。また、発生間隔を17年で繰り返すセミも存在する。周期ゼミといわれるこれらの種は、捕食者や寄生虫といった自らに害をなす他の生物と発生周期が被らないよう、地表に顔を出すまで10年以上もの時間をあけている。単独で発生するために最も効率の良い間隔が13年や17年といった素数であることから、これらのセミは素数ゼミとも呼ばれる。
同様の現象は真竹などの植物においても知られており、一定間隔の発生周期を持つことは、種々の生物が生き延びるための強かな生存戦略の一つであると言えよう。
そして、その戦略は肉をもった動植物のみならず、生物と無生物の狭間で生きる
ただ一点、彼らが顔を見せる舞台は大地ではなく、遺伝子という茫漠とした海であることを除いて。
「こんなところか」
某大学の一室。薄暗い研究室のデスクで一人、姿勢悪くキーボードを叩く男が呟いた。窓越しに聞こえてくるセミの声は、夕暮れ時を告げていた。
男は論文ではなく、自身初の単著となる書籍を執筆していた。それも、ベストセラーが約束されていると信じて疑わず、出版社すら通していない。
嘘は書かずに淡々と、しかし出来るだけ思わせぶりで不安を煽るように。そうすればこの本は売れる。そう確信するだけの根拠がある。考えるだけで、男の顔には笑みが浮かんだ。
「あとは発現を待つだけだ」
男が書いているのは、あるウイルスに関する本だった。その性質から予防法、潜伏期間から対症療法まで、専門用語を噛み砕いて説明した一般家庭向けのもの。
四年に一度訪れる祭典に胸を踊らせ、その後に脚光を浴びているであろう自身の姿に思いを馳せながら、男は再びキーボードを叩き始めた。
事の発端は八年前、2012年の初夏。
蒸し暑い研究室の中で、男の研究は煮詰まっていた。
ミトコンドリアをはじめとする細胞内小器官の動態を蛍光指標を使って観察していた時、実験ではあり得ない場所にわずかな蛍光の瞬きを見た。
不審に思った男は、相応の設備申請を行い、少なくない時間をかけ、やがてその正体がウイルスであることを突き止めた。
通常、ウイルスを光学顕微鏡で観察することは不可能であり、男がその
6つの足を持ち、ねじくれた尾部に歪んだ双頭を持つナノスケールの構造体は既知のいかなるウイルスとも似ておらず、恐らくは新種だろうと思われた。
男は興奮のままにウイルスを培養し、株としての確立を試みた。この時点で論文にまとめることも考えたが、男はさらに調査を進め、ラットを用いて性質を調べることにした。
結果、わかったことは3つ。
ウイルスは宿主細胞が一定温度以上に晒された時に活性化すること。
ウイルスに致死性はないが、感染した宿主は赤色に執着を示すこと。
一定期間の経過後、回復期にある宿主は極度の不安を感じること。
ウイルスにとってこれらがいかなる生存戦略の結果なのか、当時の男には見当もつかなかった。ともかく、ウイルスによる病態はラットに赤色を好ませたし、治療段階では物音に過敏に反応するようになり、攻撃的とすら言えるほど周囲への不信に苛まれるという結果が手に入った。
作用の機序もわからないまま、やがて世間ではロンドンオリンピックが始まり、半月ほどの間喧しい報道が続く。そして季節は巡り気温が下がっていくと、ウイルスの発現自体が難しくなっていった。
男は翌年以降も調査を続けたが、生体から再発見することはおろか、保存したはずの株からもウイルスは消失してしまっていた。
書きかけだった論文も再現性が見込めず、いらぬ誹りを受けぬよう世に出すこともしなかった。
男が再びウイルスを発見したのは、最初の発見から四年後、2016年リオオリンピックが始まる年だ。
その時もやはり、熱の籠った暗室で実験中だった。
星のように煌めくウイルスを眺めながら、ふと、男はあることに思い至る。
以前調査したウイルスの性質に、活性化する温度に関するものがあったはずだと。
記録をひっくり返すと、やはりウイルスの活性化温度は高い値を示していた。細菌ではおよそ考えられない高温湿の範囲にあり、夏場の暗室か、そうでなければ屋外で運動でもしなければここまでの値にはならない。自然、このウイルスの発生時期は夏季に集中すると男は考えた。
そう思うと、前回はロンドンで開催された夏季オリンピックの直前に発見したのであり、同時に、発現に伴って現れるもう一つの病態のことが芋づる式に思い出された。
ウイルスに感染した宿主は、赤色に執着を示す。
ただ、それが示されたのはあくまで実験の中、一定条件下に置かれたラットの話である。このようなウイルスの影響が人間に及んでいくなど考えられないし、新種のウイルスが流行したという報道もなかったはずだ。
……恐らくは。念のためと男はパソコンを立ち上げ、検索をかけ、そして戦慄した。
2012年、ロンドンオリンピックの年の流行色はオレンジに赤みが差した『タンジェリン・タンゴ』。
2016年、リオデジャネイロオリンピック時の流行色は『ローズクォーツ』と呼ばれる薄い赤。
ケージに入れられたラットが、怯えたように身を縮こませた。
人類は既にこのウイルスに罹患している。
疑惑が一度鎌首をもたげると、ウイルスとオリンピックには関連も相関も随所に見られる気がした。
オリンピック後の開催国は、多少の差はあれど不況を経験する。このウイルスに人を殺すほどの致死性はなく、あるのは不信からくる外的要因への過剰反応の促進のみ。しかし、不信は不義を呼び寄せ、不義で得た富は浮雲の如く消えてなくなる。罹患した人間は経済に悪影響を与えることになる。つまるところ、ウイルスの病態として、不況がもたらされているのかもしれない。
眉唾物の仮説と一笑に付しても構わなかったが、利用する考えも浮かんだ。
男はこの発見を、世に公表しなかった。
そして四年後、2020年現在。
既に男の仮説は確信に変わっている。
マンセル値6.5R5/14、系統色名ビビッドレッド。たくさんの酸素を含んだような、鮮烈な赤。それが、日本における今年の流行色だった。
男は再び窓の外を見る。陽は沈み、闇を透かした窓に映る男の顔は、ほくそ笑んでいた。
男にはウイルスの生存戦略が理解できたような気がしていた。
なんのことはない、やっていることは周期ゼミと変わらない。
食うか食われるかの地上の話が、残すか消えるかの遺伝子の話になったに過ぎない。
人類が催すオリンピックの発生周期は四年に一度。
開催の間、世界中のあらゆる人種が一堂に会す。
人間を媒介とし、自らの遺伝子をあまねく世界に伝播させる。
種としての生存をかけた戦略と、一人の男の思惑が叶うのは、もうすぐである。
ウイルスは素数ゼミに倣う 湫川 仰角 @gyoukaku37do
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