時の狭間で逢いましょう
蟬時雨あさぎ
二月二九日の扉
カランコロンと鳴るベルが、来客を告げる。その音で、
視線を向けた店の入り口には、年若い女が一人。自ら店に入ってきたというのに、驚いた顔で店内を眺めていた。副業でも仕事は仕事か。ふうっと息を吐くと本に栞を挟んで閉じ、
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
訳が分からないといった様子で挨拶をする女。それは、
そのまま手を洗い始める
「……ああ、好きな席へどうぞ」
ようやく気が付いた
光当たるところには、必ず影がある。
その数ある
加えて、店を訪れることができる波長が合う者というのに、
なんでも、
実のところ、それは真実であった。
ただ、その運命というのは多岐にわたり、伴侶という意味だけでなく、今後の人生に多大な影響を与える者、心に深く禍根を残す者や、反対に遠くから覗き見をしている興味本位な偽者もやってきたりする。
(さて。面倒だが応対をしなければ)
カウンター席、それもわざわざ目の前に座った女を、
黒い髪、黒い目。髪の長さは短めでさっぱりとしていながらも、愛嬌がある顔立ちでバランスが取れているような気がした。
ケトルに水を入れて、火に掛ける。タオルで手を拭きながら視線と言葉を投げかける。
「……お客さん、名前は?」
頬杖を突きながら、店内を彷徨っていた視線が降りかかる。不審げに、それでいてムッとしたような表情で、ぼそりと女は呟く。
「
「ふうん、……それだけか」
「っ……!!
尋ねておきながらも心底どうでもよさそうな薄暮の返事に、女――
「ユイ、ね。……悪くはないけど」
「何よ。そういうアンタの名前は?」
「
「ふうん。変な名前ね」
「ああ、僕もそう思う」
意趣返し、と言わんばかりの言葉に同意が返って来たことで、またもや
ケトルがこぽ、こぽ、と音を鳴らし始める。
「それは、地毛?」
「これ? ……ああ、うん」
「じゃあその眼も、か」
「……珍しいのか?」
「珍しくはあるけど。……綺麗だと思う」
ふっと笑みを溢した
ケトルがごぽごぽ、ごぽ、と音を立てる。
「営業は、たった一人で?」
「ああ。まあ、道楽みたいなもの」
「大変ね」
「そうでもない。たまにしか客は来ないし」
「普段は何を?」
「読書」
他愛無い話を、ぽつぽつと繰り返して。その間に薄暮はそれとなく珈琲を入れる準備を行っていくと。
ケトルがきゅー、と鳴いた。
「沸いた沸いた」
火を止めて、ケトルの取っ手を握り締めると、怪訝そうな顔つきで
「……注文してないんだけど」
「でも飲みに来たんだろ?」
「まあ、そうね」
「じゃあ珈琲でいいよね」
最後、疑問形ではない音の波形で
それが、
明くる日も、明くる日も
カランコロンとベルが鳴る。
「また来たのか」
「何よ。定期的に来る客がいるだけで
ぱたり、と溜息を吐きながら本を閉じる
「……利益が目的でやっている店ではないから」
毎度のごとく、目の前の特等席に座る
「じゃあ、何が目的で
首を傾げながら尋ねる。その声に一瞬ピタリ、と手が止まって、それでも何事もなかったかのように準備を再開して
「人を待ってる、それだけ」
大切な人を、自分が愛した人を、待っているのだ。
それからも
しかし、六回目の来訪の時に、
「ユイ」
「何、どうかしたかしら」
「……老けたな?」
「唐突に女性に対して老けたって言うなんて、本当に失礼が過ぎるわね」
店を訪れる度に、
「……そう言う
「まあ、そう簡単に
「羨ましい限りだわ」
ほう、と息を吐く
「今日も珈琲でいいか?」
「勿論。というか、淹れる準備万端で尋ねるのは卑怯ではないのかしら」
それからも、七回、八回、九回と回数を重ね。十回目の来訪の後。
本のページを、ぺらり、ぺらりとただ捲る音だけが響く日々。ケトルも使われない。火を最後に見たのはいつだったか。
色違いの二つの珈琲カップが、流し台から仕舞われることも、ましてや使われることもない。
本の内容は頭に入ってこず、ただただ機械的にぺらぺらと最初から最後まで目で文字を追う作業と化している。
「何を待ってるんだ、僕は」
独り言ちた言葉には、沈黙しか返ってこない。
ベルが鳴るのを待ったまま、月日が流れた。
その沈黙は突如として破られる。カランコロン、と鳴るベルに、バッと立ち上がって入口を見る
「……こんにちはぁ」
立っていたのは、腰が曲がり、杖をつき、白髪の中に黒髪が混じった髪の――おばあさんだった。
見覚えのないおばあさんの登場に、よろよろと椅子へと腰を戻す。なんでこんなことをしているんだろう、とその一連の行動の意味を見いだせないまま、定型句を述べる。
「……いらっしゃい、ませ」
「はぁい」
こん、こん、と杖を使いながら店内を進み、おばあさんはカウンター席へと座る。それは、
「珈琲で、いいですか?」
「はぁい? 耳が、遠くてねぇ。……お任せしますねぇ」
「わかりました」
手早くケトルを火に掛け、湯を沸かす。珈琲を入れる準備をし、たまたま置いてあった色違いのカップを見て、少し迷う。これを使っていいものか、と。
ケトルがきゅー、と鳴いた音で、
結局、色違いのカップを使った。
「どうぞ」
「ありがとぉ」
そして。
「ああ。この味、この味よね」
――懐かしそうに、目を細めた。
その顔が、誰かの面影と重なる。目を見張る。言葉が出なくなる。
「美味しい、美味しい珈琲。四年に一度だけしか飲めない、この味が好きだった――」
「……
「もう耳もよく聞こえない。目も見えない。でも、この味は覚えてるわぁ」
緑を帯びた黒い目は濁り、髪は薄暮のような白が混じり。きっと、記憶は
「――意味はわからないけれど、
「ああ、そうか。そういうことなのか――ユイ」
唐突に、理解する。それは、自分の待ち人が誰なのか、このおばあさんが誰なのか。
「最後に飲めて、よかった。思い出の珈琲……」
その言葉で、急激におばあさん――
「待て、待ってくれ、ユイ!!」
手で触れようとするその存在は、もう既に遠く。声も届いていないのだろう。聞こえないのだろう。
「でも、出来ることなら」
「ずっと、待っている!! 待っている、から」
「もう一度、……逢いたかった――」
「必ずまた逢おう、ユイ。ずっと、ずっと、待っているから――」
月日は流れ。
読んだ本が堆く積み重ねられた頃。
カランコロン、とベルが鳴る。
「……いらっしゃいま――」
「久しぶり、
視線の先そこに立っていたのは――。
時の狭間で逢いましょう 蟬時雨あさぎ @shigure_asagi
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