時の狭間で逢いましょう

蟬時雨あさぎ

二月二九日の扉

 カランコロンと鳴るベルが、来客を告げる。その音で、薄暮ハクボは本から顔を上げた。

 視線を向けた店の入り口には、年若い女が一人。自ら店に入ってきたというのに、驚いた顔で店内を眺めていた。副業でも仕事は仕事か。ふうっと息を吐くと本に栞を挟んで閉じ、薄暮ハクボは定型句を述べる。

「いらっしゃいませ」

「……こんにちは」

 訳が分からないといった様子で挨拶をする女。それは、薄暮ハクボが歓迎の言葉を投げかけていながらも、無表情かつ棒読みという歓迎の意が全く感じられない空気を醸し出していたことに起因する。

 そのまま手を洗い始める薄暮ハクボに対して、入口に立ち尽くす女。そこからガサゴソと営業の支度をし始め、じーっと視線を注がれることに気が付くまでおよそ一分いっぷん

「……ああ、好きな席へどうぞ」

 ようやく気が付いた薄暮ハクボが口にしたのは、それだけだった。



 光当たるところには、必ず影がある。

 黄昏珈琲タソカレコーヒーという店をご存知だろうか。

 黄昏たそがれ時、つまり夕刻、日が傾き、東の空が赤く染まっている時間のみ営業している珈琲コーヒーであり、ごく限られたにしか訪れることができないという店である。

 その数ある黄昏珈琲タソカレコーヒーの内の一つを商っているのが薄暮ハクボであった。

 加えて、店を訪れることができるというのに、ひとまことしやかに噂される話がある。

 なんでも、黄昏珈琲タソカレコーヒーに入れるのは〈本来なら会える筈のない運命の相手〉との縁があるからだとか。



 実のところ、それは真実であった。

 ただ、その運命というのは多岐にわたり、伴侶という意味だけでなく、今後の人生に多大な影響を与える者、心に深く禍根を残す者や、反対に遠くから覗き見をしている興味本位な偽者もやってきたりする。

(さて。面倒だが応対をしなければ)

 カウンター席、それもわざわざ目の前に座った女を、薄暮ハクボは盗み見た。

 黒い髪、黒い目。髪の長さは短めでさっぱりとしていながらも、愛嬌がある顔立ちでバランスが取れているような気がした。

 ケトルに水を入れて、火に掛ける。タオルで手を拭きながら視線と言葉を投げかける。

「……お客さん、名前は?」

 頬杖を突きながら、店内を彷徨っていた視線が降りかかる。不審げに、それでいてムッとしたような表情で、ぼそりと女は呟く。

樫木カシキ、ですけど」

「ふうん、……それだけか」

「っ……!! 樫木カシキユイ、です」

 尋ねておきながらも心底どうでもよさそうな薄暮の返事に、女――ユイはいら立ったようにフルネームを告げた。

「ユイ、ね。……悪くはないけど」

「何よ。そういうアンタの名前は?」

薄暮ハクボ。意味は、日が落ちた頃の黄昏・日没後太陽が地平線より六度ぐらい下にある時間帯のこと、だとさ」

「ふうん。変な名前ね」

「ああ、僕もそう思う」

 意趣返し、と言わんばかりの言葉に同意が返って来たことで、またもやユイは訳が分からないという表情になった。

 ケトルがこぽ、こぽ、と音を鳴らし始める。

「それは、地毛?」

「これ? ……ああ、うん」

 薄暮ハクボが自身の頭髪を一房ひとふさ摘まんでみせる、その色はシロ。本来の色合いは、黄昏珈琲タソカレコーヒーの主になる際に奪われてしまっていた。唯一残っているのは、前髪に隠れている左目のダイダイ色だけ。右の目は色を抜かれて黄昏の群青グンジョウに染まっている。

「じゃあその眼も、か」

「……珍しいのか?」

「珍しくはあるけど。……綺麗だと思う」

 ふっと笑みを溢したユイの顔を、薄暮ハクボは思わず無表情を見返す。じーっと見ていると、黒だと思っていた眼が緑を帯びていることに気が付く。

 ケトルがごぽごぽ、ごぽ、と音を立てる。

「営業は、たった一人で?」

「ああ。まあ、道楽みたいなもの」

「大変ね」

「そうでもない。たまにしか客は来ないし」

「普段は何を?」

「読書」

 他愛無い話を、ぽつぽつと繰り返して。その間に薄暮はそれとなく珈琲を入れる準備を行っていくと。

 ケトルがきゅー、と鳴いた。

「沸いた沸いた」

 火を止めて、ケトルの取っ手を握り締めると、怪訝そうな顔つきでユイが行動に横槍を入れる。

「……注文してないんだけど」

「でも飲みに来たんだろ?」

「まあ、そうね」

「じゃあ珈琲でいいよね」

 最後、疑問形ではない音の波形で薄暮ハクボはまとめる。それに対して、丸め込まれている気がしなくもないが仕方ない、とユイは無言を貫くことで了承した。


 それが、薄暮ハクボユイの出会いだった。


 明くる日も、明くる日もユイは黄昏珈琲にやって来た。厳密には明くる日、という概念が薄暮ハクボにはないのだが、一度きり、という訳でなく比較的短い間隔を経てユイはやってきていた。

 カランコロンとベルが鳴る。

「また来たのか」

「何よ。定期的に来る客がいるだけでもうけものじゃない」

 ぱたり、と溜息を吐きながら本を閉じる薄暮ハクボに、ムッとした表情でユイは返す。

「……利益が目的でやっている店ではないから」

 毎度のごとく、目の前の特等席に座るユイ。それにしては慣れた手つきで珈琲を入れる準備をしている薄暮ハクボを、不思議そうに見て。

「じゃあ、何が目的で薄暮ハクボはお店を?」

 首を傾げながら尋ねる。その声に一瞬ピタリ、と手が止まって、それでも何事もなかったかのように準備を再開して薄暮ハクボは呟いた。

「人を待ってる、それだけ」

 薄暮ハクボにはかつて愛した人がいた。不慮の事故で亡くなった彼女を、永遠を生きる呪いを持つ薄暮ハクボは、待っていた。

 大切な人を、自分が愛した人を、待っているのだ。


 それからもユイは定期的に黄昏珈琲タソカレコーヒーに来た。


 しかし、六回目の来訪の時に、薄暮ハクボは気が付く。

「ユイ」

「何、どうかしたかしら」

「……老けたな?」

「唐突に女性に対して老けたって言うなんて、本当に失礼が過ぎるわね」

 店を訪れる度に、ユイが段々と老いていっていることにようやく、気が付いたのだった。

「……そう言う薄暮ハクボは、全く変わらないわね」

「まあ、そう簡単に見目みめは変わるものでないからな」

「羨ましい限りだわ」

 ほう、と息を吐くユイ。その頬には薄っすらとほうれい線が入っている。それに対して、全くもって肌艶さえも変わることない薄暮ハクボ

「今日も珈琲でいいか?」

「勿論。というか、淹れる準備万端で尋ねるのは卑怯ではないのかしら」


 それからも、七回、八回、九回と回数を重ね。十回目の来訪の後。

 ユイはピタリ、と訪れなくなった。


 本のページを、ぺらり、ぺらりとただ捲る音だけが響く日々。ケトルも使われない。火を最後に見たのはいつだったか。

 色違いの二つの珈琲カップが、流し台から仕舞われることも、ましてや使われることもない。

 本の内容は頭に入ってこず、ただただ機械的にぺらぺらと最初から最後まで目で文字を追う作業と化している。

「何を待ってるんだ、僕は」

 独り言ちた言葉には、沈黙しか返ってこない。


 ベルが鳴るのを待ったまま、月日が流れた。


 その沈黙は突如として破られる。カランコロン、と鳴るベルに、バッと立ち上がって入口を見る薄暮ハクボ

「……こんにちはぁ」

 立っていたのは、腰が曲がり、杖をつき、白髪の中に黒髪が混じった髪の――おばあさんだった。

 見覚えのないおばあさんの登場に、よろよろと椅子へと腰を戻す。なんでこんなことをしているんだろう、とその一連の行動の意味を見いだせないまま、定型句を述べる。

「……いらっしゃい、ませ」

「はぁい」

 こん、こん、と杖を使いながら店内を進み、おばあさんはカウンター席へと座る。それは、ユイがよく使っていた席。

「珈琲で、いいですか?」

「はぁい? 耳が、遠くてねぇ。……お任せしますねぇ」

「わかりました」

 手早くケトルを火に掛け、湯を沸かす。珈琲を入れる準備をし、たまたま置いてあった色違いのカップを見て、少し迷う。これを使っていいものか、と。


 ケトルがきゅー、と鳴いた音で、薄暮ハクボはハッと気を取り戻した。


 結局、色違いのカップを使った。

「どうぞ」

「ありがとぉ」

 薄暮ハクボが差し出した珈琲カップを両手で包むようにして持つと、おばあさんは口を付け、ゆっくりと傾ける。

 そして。

「ああ。この味、この味よね」

 ――懐かしそうに、目を細めた。

 その顔が、誰かの面影と重なる。目を見張る。言葉が出なくなる。

「美味しい、美味しい珈琲。、この味が好きだった――」

「……貴女アナタ、は」

「もう耳もよく聞こえない。目も見えない。でも、この味は覚えてるわぁ」

 緑を帯びた黒い目は濁り、髪は薄暮のような白が混じり。きっと、記憶は朧気おぼろげなのだろう。

「――意味はわからないけれど、薄暮ハクボ、というも……」

「ああ、そうか。そういうことなのか――

 唐突に、理解する。それは、自分の待ち人が誰なのか、このおばあさんが誰なのか。

「最後に飲めて、よかった。思い出の珈琲……」

 その言葉で、急激におばあさん――ユイの存在感が薄くなる。

「待て、待ってくれ、ユイ!!」

 手で触れようとするその存在は、もう既に遠く。声も届いていないのだろう。聞こえないのだろう。ユイは目を瞑って言う。届かないかもしれなくとも、薄暮ハクボも言う。

「でも、出来ることなら」

「ずっと、待っている!! 待っている、から」

「もう一度、……逢いたかった――」

「必ずまた逢おう、ユイ。ずっと、ずっと、待っているから――」



 月日は流れ。

 読んだ本が堆く積み重ねられた頃。


 カランコロン、とベルが鳴る。

「……いらっしゃいま――」

「久しぶり、薄暮ハクボ

 視線の先そこに立っていたのは――。

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時の狭間で逢いましょう 蟬時雨あさぎ @shigure_asagi

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