千手観音の憂鬱 ~本当は手は四十二本しかありませんが、何か?~

kanegon

千手観音の憂鬱 ~本当は手は四十二本しかありませんが、何か?~


 私は千手観音だ。


 正しく言えば千手観音菩薩という。日本史の教科書の写真でよく見かける「やたらと手がたくさんある仏像」というふうに想像していただければ、大体間違いは無い。


 そうなのだ。私の姿は写真でならともかく、実際にその目で見る機会は滅多に無いだろう。


 私は秘仏といって、とある寺の本堂の奥の、文字通り観音開きの扉の奥に隠されている。この扉は寺の僧たちによって四年に一度だけしか開けられることが無い。


 つまり私の境遇は、観音開きの扉の奥に四年間ずっと閉じ込められたままということだ。風通しが悪くて湿気は籠もるし、カビ臭くてたまらない。真っ暗な中で幽閉だ。


 なぜ、四年もの間、私を閉じ込めたままでおくのだろう?


「四年に一度のオリンピックの年に、外国人観光客が大勢押し寄せるから、そのタイミングに合わせて、じゃなかったっけ?」


 そう言ったのは私の冠に付いている小さな顔の一つだ。


 言い忘れていたが、私の更に正しい名前は、二十七面千手観音菩薩、という。


 人間と同じ普通の顔の他に、頭に被っている冠の部分に小さな顔が二十六個付いているのだ。だから合計二十七個の顔がある。


 千手観音というのは、十一個の顔が付いている十一面千手観音が普通なのだが、二十七面は珍しい。


 なお、余談だが、顔は二十七面あるけど、手は四十二本だ。残念ながら本当に千本あるわけじゃないのだ。顔をたくさん作る余裕があるなら、手の方を頑張ってたくさん作ってほしかったのが正直なところだ。


 有名な唐招提寺の千手観音菩薩は、本当に手が千本くらい作られたらしい。ほら、頑張れば手を千本作ることもできるという実例があるのに。


「いや、その理屈はおかしい。その年はたまたま日本でオリンピックがあったかもしれないが、毎回日本で開催されているわけじゃないだろう」


 別の小さな顔が否定意見を述べた。


 顔がたくさんあれば智恵を出し合うことができて便利かといえば、そんなことは無く、意見が出すぎてかえって混乱することも多い。


「オリンピックは無関係だろう。そもそも昔は四年に一度ではなく、一年に一度、扉が開かれて参拝者たちにお披露目されていたんじゃなかったか?」


「確かにそのはずだ。だから、どうしてそれが四年に一度になったかが問題だ」


「献血と似たようなものじゃなかったか? 献血は、男性女性の違いとか量の違いとかあるけど、四カ月に一度できるものだ。新たに血が貯まるまで四カ月かかるということだ。仏の威光を人々に見せて与えてから、次の威光が貯まるまでに四年かかる、ということだろう」


 冠に付いた小さな顔たちが、それぞれ別々の見解を言う。


「いや待て。私が千手観音としては珍しい二十七面ということに意味があると思わないか?」


 小さな顔たちの小さな声を圧するように、本体の大きな顔である私が厳かな声が、狭いカビ臭い空間に響いた。


「四年に一度、開扉された時に、参拝者にお披露目されるだけでなく、四年間分の煤払いが行われる。つまりそれは、四年分の煩悩が蓄積しているのを払い落としているということだ」


「東大寺の大仏の煤払いは、毎年やっているのではなかったか?」


「余所は余所。ウチはウチだ。人の世には百と八の煩悩があるという。その煩悩を、一年に一つずつ、二十七の顔で引き取ることによって滅すれば、四年で百と八の煩悩を全部滅することができるだろう。だから、四年に一度、煤払いをすれば、またその後四年間、煩悩を引き取って滅する働きができるようになる、というわけだ」


 私が珍しい二十七面であるというアイデンティティの部分も説明できる優れた説だ。と、自画自賛したいところだが、小さな顔たちは賛同できなかったようだ。


「その理屈はおかしい。そもそも煩悩の数は宗派によって違っていて、必ずしも百と八だとは限らないのでは?」


「一つの顔で一年あたり煩悩を一つ、という計算がケチ臭いのではないか? 我々の小さい手が何故四十本であるかの理由を思い出してみるべきだ」


 千手観音と言いつつ、私の手は、たった四十二本しか無い。たった、である。


 人間と同じ普通の手が二本あって、その二本は胸の前で合掌している。


 その二本とは別に、まるで後光のように、四十本の小さな手が背中から出ているのだ。


 この四十本という数字には意味があって、一つの手につき、二十五個の世界を救うという解釈なのだ。掛け算をすれば千の世界を救うことができて、それが千の手で千の世界を救う千手観音の御利益ということなのだ。


「そうだよな。小さな手が一つで二十五個もの世界を救うことができるんだ。一つの顔で一年に一個の煩悩、などとケチ臭いことなど言わず、一年に四個の煩悩を滅すれば、一年だけで百と八の煩悩を全滅させることができるじゃないか」


「そうだ、そうだ」


 小さい顔たちめ、屁理屈をこねやがって。


 だが私は反論は控えた。


 閉じられた扉の外から足音が聞こえてきたのだ。ついに四年に一度ということで、扉が開かれるらしい。この時を待ちわびていた。


 ガチャガチャと鍵を外す音が聞こえたかと思うと、錆び付いた蝶番が悲鳴を挙げながら、観音開きに扉が開けられた。


 四年ぶりの光の中、二人の僧侶の姿が見えた。


 一人は、骨と皮ばかりに痩せた老人だ。もう一人は黒縁の丸眼鏡をかけた中年の僧侶だった。


「では、参拝客にお披露目する前に、しっかり煤払いしておくのじゃぞ。このご本尊は、二十七面じゃ。一つのお顔で毎年一つの煩悩を消し去ってくれる。四年で百八全部の煩悩を消し去ってくれるのじゃ。次の四年間のために、しっかりと清めて差し上げるのじゃぞ?」


 年寄りの僧侶が嗄れた声で丸眼鏡中年僧侶に指示を出した。


 ほら、やっぱり。私の唱えた説が正しかったではないか。


「え? でも四年前には違うことを仰っていましたよね? 仏の威光が貯まるのに四年かかるから、四年に一回しかお披露目できない、とか」


 あれ? その説、小さな顔の誰かが言っていたような。


「その前には確か、オリンピックの年だから外国観光客増加を見込んで、とか仰っていましたよね?」


 あらら? その説も、小さな顔の誰だかが言っていたはず。


 結局のところ、開扉が四年に一度であることに、大した理由は無いらしい。この様子だとどうせ、毎年煤払いをしても、一年では大した汚れも積もらないので面倒くさいので四年に一度にした、とかいうオチだろう。


 私はちょっとガッカリした。屁理屈を言っていたのは小さい顔たちではなく、あの年寄りの僧侶だったのだ。私はすっかり忘れていたけど、小さい顔たちそれぞれが、老僧の屁理屈の内容を覚えていたということらしい。


 その後。


 私は中年僧の煤払いによって身を清められ、参拝客にお披露目され、ありがたやありがたやと合掌された。


 四年に一度の大仕事を終えて、また私は観音開きの扉の奥に閉じ込められる。また風通しの悪さとカビ臭さを我慢しなければならないのだ。そう考えると憂鬱だ。


 だけど。


 また四年後に開扉された時に、あの老僧が (まだ存命ならば、だけど) 今度はどのようなヘンテコな四年に一度の理由をこねくり回してくれるのかを楽しみにしたいと思う。


 それではまた四年後。おやすみなさい。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

千手観音の憂鬱 ~本当は手は四十二本しかありませんが、何か?~ kanegon @1234aiueo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ