【KAC2020】1 / 1461 の恋
白川嘘一郎
1 / 1461 の恋
僕には四年に一度だけ共に過ごす女性がいる。
そんなものは恋ではないと、誰もが言うだろう。
12歳。
初めて彼女に出会ったのは、雪がちらつく冬の日だった。
両親の帰りが少し遅い日だったので、僕は市の図書館で本を読んでいた。
「ねえ、なに読んでるの?」
ひとりの女の子がとつぜん僕の隣に腰を下ろして、声をひそめながらも馴れ馴れしく話しかけてきた。
彼女は初対面の僕に対しても屈託なく笑いかけ、戸惑いながらも僕は、彼女といろいろな話をした。
好きな本の話や学校のこと……。彼女は楽しそうにうなずきながら僕の話を聞いてくれた。
ふくらみかけていた彼女の胸が、妙に気恥ずかしかったことをおぼえている。
12歳の頃の僕は、苦笑いしてしまうほどに子供で、これが恋だなんて思いもしなかった。
どちらにせよ、その翌日からもう彼女を見かけることはなかった。
16歳。
学校帰りの駅のホームで、反対方向の電車から降りた人波とすれ違ったとき、僕はふと何か引っかかるものを感じて足を止めた。
「――くん?」
見知らぬ制服の上にダッフルコートを羽織った彼女が、僕と同じように足を止め、振り返ってこちらを見ていた。
駆け寄ってきた彼女が、もういちど僕の名を呼んでくれるまで、僕はそれが彼女だと確信できなかった。
16歳になった彼女は、驚くほど大人びていたからだ。
それでも彼女は、四年前のあの日と同じく、まるで昨日会ったばかりのような気安さで親しげに話しかけてきた。
駅前の商店街でちょっと寄り道をして、また他愛ない会話を交わした。
……彼女のほうは、どうしてすぐに僕に気づいてくれたのだろう。
背も伸び、声変わりもして、かなり大人に近づいたつもりだったけれど、彼女から見ればそれほど変わっていないのだろうか。
おしゃべりしながら、チラッと横目で彼女に視線を走らせる。
彼女はクラスの女子の誰よりも美人だと思った。
並んで歩いているだけで、なぜだか誇らしいような、くすぐったいような、変な気分になった。
これが恋になればいいのにと願った。
20歳。
また四年ぶりに会った彼女は、さらに綺麗になっていたが、今度はもう見間違えることはなかった。少し明るめの色に染めた髪も、よく似合っていた。
……その日はなぜだか朝から落ち着かなくて、僕は何かにせかされるように切符を買って特急列車に飛び乗った。
ひなびた温泉地の駅で下車すると、不思議なことに、そこに彼女がいた。
彼女は旅行用らしい小さなカートを足元に置き、手袋をした両手に白い息を吐きかけて暖めようとしていた。
彼女も僕に気づいてこちらを見た。
誰かと待ち合わせ? と聞くと彼女は、嬉しそうな、寂しそうな、不思議な表情を浮かべてうなずいた。
「……でも、もういいの」
僕はそれ以上何も聞かなかった。
黙ったまま二人並んで駅を出て、一軒しかない温泉宿に向かった。
どちらからともなく、僕たちは手袋越しに手をつないだ。
その夜、僕と彼女は初めて身体を重ねた。
彼女には、他に特定の相手がいるのだろうか。
……彼女の肉体の反応からすると、いるのだろう。
僕はその、見知らぬ男に嫉妬していた。
そんな資格なんて、ありもしないのに。
彼女にとっては、旅先でのたった一夜の秘密の思い出のつもりかもしれない。
これは恋ではないのだと、僕は自分に言い聞かせた。
24歳。
きっとまた彼女に会うだろうという予感があった。
四年に一度のこの時間以外は、全て何もない空虚な日々のように思えた。
気がつけば僕は見知らぬ街を歩いていた。
灰色の空からポツポツと雨が降り始めた。
そう言えば、傘を忘れないようにと誰かに言われたような気がする。
まいったな、とあたりを見渡すと、すぐ前のマンションのエントランスから彼女が出てきた。その手に黒い傘を持って。
僕の姿を見て、彼女はまたいつものように笑いかけてくれた。
彼女にうながされてエレベーターに乗り、僕は彼女の部屋に招き入れられた。
外では雨が激しくなり、雷鳴も入り混じるようになっていた。
その部屋は、明らかに彼女ともうひとりの誰かが共に生活している部屋だった。
並んだソファや、揃いの食器を見ると、なぜか胸がしめつけられるように感じた。
彼女は慣れた手つきで僕のネクタイをほどこうとして――その距離のまま上目遣いで僕を見た。
タイの結び目にかかる彼女の左手。その薬指に銀色の細いリングが光っている。
僕の視線に気づいた彼女は、もう一方の手で僕の左手に触れ、僕の薬指のリングをそっとなぞる。
そして彼女は、共犯だよ、とでも言うように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
――寝室の窓の外では、まだずっと激しい雨音が、まるでノイズのように鳴り続けている。
帰らなければ……。ベッドから起き上がろうとする僕を、彼女がそっと引き戻し、耳元で優しくささやく。
あの日の図書館で、小声で話していたときと同じような、無邪気な調子で。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから。……日付が変わるまでは、ここにいてもいいの」
彼女の笑顔を見ると、僕もあの日に戻ったような気がする。
きっと、どうしようもないほど、それは恋だった。
3/1の朝。
私は、いつものように彼を送り出す。
行ってくるよと彼は笑って手を振る。
きっと、明日も明後日もそうだろう。
雨はもうすっかり上がって、灰色の晴れ間が広がっている。
12歳のときに初めて出会い、15歳で再会して付き合い始め、昨年の夏に式を挙げたばかりの新婚の夫。
それが彼のデータだ。
私と彼は、とある平凡な男女のデータをもとにつくられたA.I.だ。
同じシチュエーションを男女双方の視点から検証する――おそらくそんな名目で用意された無数のサンプルの1セットにすぎない。
こうして俯瞰している私とはまた別の思考のレイヤーで、私はただ、
――昔、とある航空機が事故を起こしたことがあるらしい。
原因は、自動操縦プログラムの中で仰角と高度の数値を取り違えていたという、極めてシンプルなミスだった。
どれほど複雑で高度なシステムであっても、馬鹿馬鹿しいほどに単純な見落としをすることがある。
彼のほうのA.I.は、どうやら閏年の2/29の設定が抜け落ちているようだった。
だから、2/29の彼は、その前後の記憶と一貫性がない。
2/29の彼は、残りの空白の期間を補完するように、周辺のデータから彼なりの物語を作り上げて、それを通して私を見ている。
――『365×4+1』
365日が4年間。閏年の1日を足して、1461日。
彼と出会えるのは、その中のたった1日だけ。
その比率は、これからもずっと変わらない。
もし私と結婚していなかったら……彼はどんな思考を抱いて私を見るのだろう。
どんな気持ちで私に触れるのだろう。
それでも――たとえ『1/1461』であったとしても、私を好きでいてくれるのだろうか。
四年に一度のもうひとつの恋を、私だけが知っている。
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