裕子の実

讀月 彗

裕子の実

裏庭に今年も青々とした梅が実をつけた。父はそれをひそかに裕子の実と呼んでいた。そう呼ばれる事は恥ずかしく、くすぐったかった。それに親バカだと思っていた。


私が生まれた日に、父の提案で梅は植えられたが、庭には様々な樹木があり、裏庭の日当たりのいい場所に鎮座する事になった。

ひょろひょろだった苗木は、私が成長するよりずっと早い速度で成長し、数年もすると幹も太くなり身を結ぶ様になった。


そして父は、初めて実った梅をもぎると、嬉しそうにそれを家族に見せびらかし、毎年梅酒を仕込んだ。気づけばそれらは、台所にしまい込まれたまま、年数分だけの瓶が並々と琥珀色こはくいろの液体を満たし並んでいた。


私は後に知ったが、父は全くの下戸で、酒は飲まないと言う事だった『なんで梅酒を作るのだろう』と疑問を抱いたが、父には聞けずにいた。聞けずにいたと言うより、さほど興味がなかったと言うのが本当だった。


儀式のように続いた梅酒作りも最後を迎える時が来た。梅が枯れた訳ではない……父が倒れたからだった。私の年齢は、梅酒を飲める年齢をとうに過ぎていた。父も母も梅も……皆がそれぞれよわいを同じだけ重ねた。

倒れた父は、早過ぎると言われたが、一年余りの闘病生活を経て、呆気あっけないほど穏やかな死を迎えた。父の遺言を尊重して、葬儀は質素に執り行われ、梅酒は私の物になった。


梅酒の瓶には、父には似合わない小さな字で『裕子の実』と書いてあり、横にその梅が収穫された年の私の年齢が記されていた。

そのラベルを指でなぞると、不意に何かが胸に込み上げてきて、葬儀でも泣けなかったのに、涙が溢れて止まらなかった。私は父を亡くしてからやっと、父の愛を理解し、愛しい者を亡くす痛みを知った。


私は梅酒の瓶をずらりと並べ、年齢順に並べ変えた。父との記憶を辿りながら並べた。楽しい事も、嫌だった事も……全部何もかもに父が存在していた。

私は一番古い梅酒をコップに注ぎ、一口含んだ。甘くとろっとした思い出と、父の愛が胸に染み渡った……


裕子の実ーーそう呼ばれる果実は、今年はもぎる者がなくて腐ってしまった。私は自分が採ればよかったと悔やみ、父の作業を一度でも手伝えばよかったと悔やんだ。


来年もまた裕子の実がなる。今度は腐らぬ様、私がもぎるのだ。裕子の実を裕子がもぎるのだ。



ーー完ーー

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

裕子の実 讀月 彗 @ugetujinya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ