第9話『美しいとき』
気が付くとユーリカは、木漏れ日が差す森の中にいた。肩と膝の裏を抱き上げて、自分を救い出してくれたリューフが傍にいた。体にはリューフの羽織っていたマントが、柔らかく掛けられていた。
「気が付きましたか?」
どこまでも優しい声でリューフは聞く。透明なきれいな水が体に染みわたるように、彼の言葉は優しく癒してくれる。悲痛と絶望で荒れ切ったユーリカの心が解きほぐされる。体の傷はまだ痛むが、空っぽになっていた心に温かなものが注ぎ込まれた。
「どうして私を助けてくれたんだ?」
声はまだしゃがれていた。聞き苦しい思いをさせたかと思って、ユーリカは恥ずかしく俯く。
「人を助けるのに理由はないです。僕がそうしたいと思ったからそうしただけです」
「あれからどうなったんだ?」
「あなたはそんなことを考えなくていい。でもあんな国なくなった方が良いんだ」
こんなに優しい人の手を汚してしまったことが、心の底から申し訳ない気持ちになった。「僕が勝手にやったことです。あなたは気にしないで下さい」
「リューフ。見ず知らずの私なんかのために、本当は強くないお前に強いた。助けることなんてなかったんだ。あのまま、私はこの命をなくすことが運命だったのに」
「そんなこと言わないで下さい。生きていてほしいと思う人が一人でもいるなら、辛くても生きていなくちゃいけない。それが僕みたいなエルフでもあなたには生きていてほしいと思った」
嗚咽がこみ上げてくる。馬鹿。と彼の胸でまた涙が止まらない。体を通してリューフの体温が、温かくユーリカに伝わる。痛みが少し和らいだ気がした。
木漏れ日が反射する小さな泉に着いた。リューフはそのほとりにユーリカを降ろすと、剣を抜き、一本の木を断ち切った。着はやすやすと断ち切れ、これほどの力があればあの状況から自分を救い出すなど分けないのんだろうとユーリカは思った。切り株を作りそこに座らせる。そして、マントの裾を少し切って、泉の水に浸した。軽く絞ってユーリカの顔を拭う。冷たい水の湿り気が熱を冷やしてくれてとても心地よかった。
「痛くないですか?」
「ありがとう。お前は本当に優しいな。私だってお前が憎む人間なんだぞ」
「良い人間と悪い人間がいます。コインの裏と表のように。僕にだって人を見る目はあるんですよ。何よりあなたは困っている僕を助けてくれた。その恩には報いなくちゃ」
微笑むリューフ。ありがとう。そうまたユーリカが呟いた。顔の汚れは綺麗になった。服もドロドロに汚れていたが、返り血はなかった。
「体を自分で拭けますか?」
少しリューフも恥ずかしそうにしていた。
「水浴びをしてもいいか? 体の傷を冷やしたい」
「わかりました。後ろを向いているのでゆっくり浸かってください」
「その前に」
「何ですか?」
「もう一度抱きしめてくれ」
「わかりました」
リューフはユーリカの前に片膝をついて、柔らかい抱擁をした。回した右手が肩を抱いて、逆の左手が頭を撫でた。
「良く頑張りました。辛かったでしょう」
ユーリカは、リューフの腰に手を回し、ぎゅっと抱き返した。安心する。自分と大して差のない腰の細さに、頼もしい包容力がある。彼の中で内包する力の強さが纏う気となって、それが肌を通して伝わった。
「リューフ」
ユーリカが抱擁を解くと、リューフもそれに倣った。ユーリカはそのまま解いた手で、リューフの顔を包み唇を奪った。リューフは突然のことに、目を見開き、驚いたようだったが、ユーリカの気持ちがわかって、それを受け入れた。二人とも目を閉じしばらく互いの唇の感触を確かめた。どちらかと共なく顔が離れる。ユーリカの顔はいたずらをした子供のように笑んでいた。
「びっくりしました」
「私では不服か?」
「いえ、嬉しかったです」
「またしてもいいか?」
「はい、何度でも」
ふふふと二人は笑いあった。リューフは何か食べられるものを探してきますと、立ち上がった。ユーリカは僅かな時でも離れるのに寂しさを感じたが、その間に水浴びをすることにした。リューフが森の中に消えてから、マントとボロボロになった服を脱いだ。足先からゆっくり水面に浸ける。泉の水は冷たく冷えていて、傷に染みたが、熱をひかせてくれるだけでもありがたかった。背中の傷が特に痛んだ。自分で見ることが出来ないのが何より助かった。泉の水面に傷ついた自分の顔が映る。ひどく醜くなった気がして、ユーリカは泉に潜った。唇にはまだリューフの唇の感触が残っている。指先でそれをそっとなぞる。自分のとった大胆な行動に、さっきまであれほど辛い思いをしたのに、幸せな気分が体を満たした。少し火照った顔も水が冷ましてくれる。力を抜いて体を浮かばせる。森の音が聞こえる。風が木々の葉を揺らし、鳥が囁く。清浄な美しい風景だった。今が一番自分にとって美しい時間なのかもしれない。目を閉じ、森と一体になる。静寂の占める淀みない美しい世界。しばらくそうして水に浸かっていると、火の爆ぜる音が聞こえた。顔を上げてみると、リューフが後ろを向いて火を焚いていた。気遣いも申し分ない彼に、非の打ちどころはなかった。何となく面白くなくて、ユーリカは泉の脇に畳んであったマントを着けずに近寄った。足音でリューフが振り返った。傷だらけの体でも、何かリューフに思わせたかった。裸だったユーリカを見てリューフはすぐに後ろを向いた。
「何か着て下さい」
「私はお前と会った時より醜いか?」
「僕だって男です。今あなたを受け止めたら、きっとあなたにひどい目を合わせた人に近づいてしまうかもしれない。それに今はいろんなことを想像してしまって、あなたのように綺麗な人を前にしたら、自分が自分でいられなくなる」
「そんなこと……わかった。まだ後ろを向いていてくれ」
ユーリカはマントの元まで行って拾い上げた。窮地を救ってくれたヒーローは、純粋にまだ少年だった。歯がゆい思いをしたが、そんな些末な感情は、自分の隅に静かにしまっておくことにした。体は冷えていたが、まだ焚火の炎は熱かった。少し離れ気味で焚火に当たっていると、リューフが隣に座った。取ってきた果物が膝の上にあった。
「肉も焼きますけど、果実の方が食べやすいですか?」
「ザクロだな。食べられると思う、少し貰おう」
ユーリカが手渡されたザクロを手に取り、少しだけ齧る。甘やかな果実の味が口に広がった。
「美味しいな。生きている感じがする」
「お腹を空かせていることが、なにより不幸なんだって母さんが言っていました。辛い時もたくさんありましたが、美味しいご飯を食べると幸せな気分なります」
「今までずっと一人での食事だったから、あまり美味しいとも感じたことはなかったが、今はわかるよ。料理したわけではなくても、とてもあったかい」
「ユーリカさん」
「さん付けなどするな……ユーリカって呼んでくれ」
「ユーリカ。あなたは僕を利用して処罰を受けたかったんですか?」
ぎくりとした。幸せだった気分に冷や水をかけられたような、闇の中で心臓を握られたような心境になった。
「そうだ、私は罰を受けて当然の人間なんだ。ずるい女だよ」
「何故そんなことを」
「遠かれ近かれ私はそうなる運命だったのさ。あの塔に来た時からこうなることは決まっていたんだ」
「自分の人生を諦めるようなことは言わないでください。僕の妹は最後まで人のために生きてくれました。仲間たちも。もっともっと生きたかったと思います。少しでも長くあなたには幸せになってほしい」
「私のような女でも幻滅しないのか?」
「最初に見た時からあなたはずっと、自分が思っているよりもずっと綺麗なままですよ」
見つめるリューフの瞳があまりにも真っすぐで、ユーリカは目を逸らした。
「お前がそんなに優しいと不安になる。もっと横暴でいい。乱暴でいいんだ。お前は心根が優しすぎる」
「肉の様子を見てきます」
リューフはすくっと立ち上がり焚火のそばに寄った。優しくも寂しい背中をみていると、胸が締め付けられる。もし叶うならずっと傍で添い遂げたい。ユーリカは深くそう思った。自分が傍にいることで彼の凍った心を癒してあげたい。愛おしいと、生まれて初めて思った。その中で、求めてしまう自分が浅ましかった。つくづく女なんだなと自覚した。ザクロをもう一口齧る。一口目よりも甘酸っぱい味がした気がした。
リューフ 柳 真佐域 @yanagimasaiki
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