第8話『ユーリカ』

 体一つで逃れていたのでリューフは再び旅の荷物をまとめる必要があった。そこで一つの集落に着いた。人間の集落だった。リューフは外套を深々と被ると使えるものはないか物色をした。集落には高い塔が立っていた。この集落で作れる規模のものではない。石積みのそれも見上げるほどのものだ。何か神に捧げる供物があるかもしれないとリューフは思った。それを少し拝借するつもりでいた。村民から盗んだり奪ったりするよりかはマシな気がしたからだ。塔の鍵は固く閉ざされていたが、魔法を使って難なくそれを開錠すると、気配を消して階段を上がった。塔の中はひんやりと冷たく、少しの音でもとてもよく響く。慎重に慎重を期して歩を進める。階段の先に一つの部屋が見えた。扉に耳を当てて中の様子を探る。音はせず誰もいないようだった。ゆっくりと扉を開けて体を滑り込ませる。思った通りそこは祭壇だった。そこには、集落で採れたものとは思えないほどの、食べ物や美しい工芸品などが捧げられていた。いったい何の神を祀っている土地なんだろうと思った。もしかしたら近くに国があるのかもしれない。手際よく物色を進めていると、真後ろにあった扉がゆっくり開いた。

「誰だ?」

 若い女の声だった。リューフは素早く後ろを振り返り女に迫った。驚いて逃げるだろうと思っていたが、女は静かにリューフを見つめていた。とても印象的な目をしている。思わず虚を突かれ、リューフの動きが止まる。女の瞳に戸惑っているリューフが映っていた。

「盗みに入ったか、賊め」

 怖くないのか、女が軽蔑する声を発した。随分と勝気な性格をしている。女の格好は白のシルクのナイトドレスを着ていた。月明かりに浮かぶ白い肌は、ドレスの光沢と相まって、うっすらと発光しているかのようだ。腰まで届く長い翡翠色の髪も、人間味を霞ませる。猫を思わせる瞳は、小さな顔立ちの中で大きく異彩を放っていた。

 平静を保ってリューフはお辞儀をした。

「すみません、誰かいるとは思わず無礼な格好で。旅ものなのですが、追剥に旅の荷物を奪われてしまって。神様に捧げるものですが罰当たりとは思いつつも難儀していたもので」

「ほう、ならば佩いているその立派な剣はなんだ? 武器も奪わない追剥とは随分とお優しいものだな」

 リューフはぎくりとするより、やはり女の勝ち気が気になった。どこぞの姫でも幽閉されているのかと思った。それほどに女の美しさは超然としていた。実はエルフだと言われた方がしっくりくるが、女の耳は小ぶりで丸く、先が尖っていなかった。

「追われて荷物を失くしたのは本当です。あまり人に話せる理由じゃなかったので都合のいいことを言いました。あなたに危害を加えるつもりはありません。用が済んだらすぐにここを経ちます」

「賊にしては礼儀がなっているな。まぁいい独りじゃ持て余すほどの供物だ。好きに持っていくといい」

 意外にも女は納得したようだった。思慮が深い方ではないのかもしれない、それとも。リューフは物色を続けようと思ったが、女は面白いものを見るように、扉に凭れたままで動かない。リューフは手を動かしつつ、女の素性を探ろうと考えた。

「あなたはこの塔で暮らしているんですか?」

「そうだ、私に興味があるのか?」

「僕みたいな人を安易に受け入れるなんて普通じゃないことですから」

「普通じゃないとは失礼な奴だな。まぁ超俗的な生活をしているとは思っているが。賊」

「……リューフです。気が許すなら、そう呼んでください」

「リューフ、か。名前のわりに一人なんだな」

「エルフ語が分かるんですか?」

「私は日がな一日本ばかり読んでいる。他にやることがなくてな。やはりエルフ語のリューフの意する名だったか。その外套の下には尖った耳があるのか?」

 逆に自分の素姓を割ってしまい、リューフはしまったと思ったが、嘆息を一つすると外套の覆いを解いた。

「美しいな。艶めく髪、肌理の細かい肌、宝石のような瞳。これでは巫女の名折れだな」

「巫女?」

「そう、私は隣国カストラーンの巫女だ。祀られ崇められ国の吉凶を占う」

「それでこんな辺鄙なところに立派な塔が立っているんですね」

「災いよけの意味合いもあるのだがな。カストラーンは厄災の多い国でな。国が傾くほどの大事が幾度とあった。そこで王は国一番の美女を崇め奉り災いを取り払うことにした。だが妻の王妃が激怒してな。自分を差し置いて神にも近い待遇を与えられる女がいることに我慢が利かなかった。そこで国にではなく遠く離れたこの集落に、人と金を使って塔を立てさせた。そこで一生を暮らすように部屋も作って。もう十年になる」

 女の見た目は20代そこそこ。少女の頃から女はここに幽閉されているということか。なんとなくプラテナの面影が重なった。リューフの胸に微かな哀れみが過った。涙が一つこぼれた。

「どうした?」

「いえ、あなたの姿が何となく妹を思い出させて。でも全然似てないんです。体が弱くて花と動物を慈しむ優しい子でした」

「リューフ。良かったらその話を聞かせてくれまいか?」

 女はどうやらリューフに興味を持ったらしい。いや、外から来た者なら誰でも良かったのかもしれない。

「でも僕みたいな賊なんかが、ここにいたらいけないのでは。それにあなたの退屈しのぎに話す話ではないですから」

 リューフは長居するつもりはなく、女の誘いを断った。

「そうか?お前は誰かに知ってもらいたそうな顔をしていたが。安心していいここには誰も来ない。村民が気安く入っていいところではないからな」

 優しい微笑みをたたえて女が言う。話し相手が欲しいだけなのだろうか。

「ならあなたの名前を教えてください」

 リューフは女を見据えて言った。

「ユーリカだ」

 いい響きだ。女の醸す澄んだ空気にぴったりの名だった。

「部屋へ来てくれまいか?」

 ユーリカはリューフを自分のクラス部屋に招待した。机と椅子が二脚。ユーリカが促し、リューフは椅子に腰かけた。

「どこから話した方かいいのかな……」

 リューフは今まであった目まぐるしいほどの出来事を思い出した。ユーリカはただ静かにリューフの話し始めるのを待っている。そして、リューフはポツリポツリと今までのことを話し出し始めた。


 夜も更けて月も沈んだ頃、ユーリカはリューフの物語のような経緯を聞くと、スッと席を立ち無言で奥へと入った。リューフは語るべきではなかったなと後悔しつつ、静かに去ることにした。しかし勘が鋭いのかユーリカは、

「おい、どこへ行く」

 と呼び止めた。

「全く、あんなに辛いことを話させてそのまま返すほど私は不遜ではないぞ」

「すみません、あまり気持ちのいい話ではなかったので」

「それでも話してくれてありがとう。お茶の一つでも淹れさせてくれ」

 ユーリカの態度は、さっきとは打って変わって、淑やかな雰囲気だ。リューフは話したことをやはり後悔した。確かに誰かに話を聞いてほしかったのかもしれない。自分でも抱えきれぬほどの出会いと別れの数々に、混乱していて冷静に話そうと、配慮をする余裕もなかった。そんな様子が表に出ていたから、ユーリカは話を聞いたのだろうか。用意されたのは薫り高いハーブティだった。一口すすると気分がほぐれていくのが分かった。ドラゴンスレイヤーに襲われて、狼に追われたことで、張り詰めた緊張に包まれていたのだろう。不意に視界が揺らいだ。そして、座って至れないほどに強烈な眠気が襲った。お茶に何か混ぜ物が入っていたことは間違いなかった。昏倒した中でユーリカを睨んだ。ユーリカの表情は、酷く哀れみに満ちていて、リューフに憂いを湛えていた。意識が根こそかき消されて、リューフは深い眠りの底に落ちた。


 朝、頭の中が霞がかって、スッキリともハッキリともしない目覚めに、リューフは顔をしかめた。ベッドに寝かされていることに気づきハッとする。なにかされたのか、そんな様子はなかった。

「起きたか、すまんな。昨日はお前が疲れているようだったので眠ってもらった。悪かったな」

 ユーリカは正直に非礼を詫びた。

「あなたは……一体なんのつもりなんですか? 賊徒にこんな優しさなんて……」

「別に優しくなどない。一度だけでも男と寝てみたかったんだ」

「え?」

「ベッドは一つしかなかろう? 男とは温かいものなんだな」

 リューフは耳まで真っ赤になって、頭にあった靄などは一瞬で消し飛んだ。恥ずかしさに染まりながら急いで衣服の乱れを正した。

「歳のわりに初心なんだな。今度は毒入りじゃないお茶を淹れたんだが飲むか?」

「いえ、すぐに経ちます。泊めていただいてありがとうございました」

 リューフはそそくさとベットから出た。

「そうか、荷物はそこに纏めておいた。好きに行くがいい」

 リューフが奪うはずだった荷物が、綺麗に整頓してあった。リューフは恥ずかしさも伴って、いそいそと準備を済ませた。ユーリカの顔が見れないでいたが、別れをする時くらいしっかりの目を見て挨拶をしたかった。

「あの、お世話になりました。本当に助かりました。何のお礼もできずにすみません」

「いいよ、久し振りに刺激的な夜だった」

 どこまでもからかうつもりらしい。リューフはまた真っ赤に顔を染めるとお辞儀をして部屋を後にした。部屋を出て振り返る。

――人を喰ったような人だったな。

 しかし、これから先も彼女の人生は、この塔で暮らしていくしかないと思うと、何とかしてやりたいとも思った。でも、所詮は人の子。助ける義理はない。塔を出るころにはもうリューフの中で、ユーリカは去り行く人の中の一人、ということになっていた。これからどうするか、国があるなら行ってみるのもいいかと思った。リューフはユーリカがかつて暮らしていたカストラーンに行ってみることにした。


 突然の驟雨でリューフは、また濡れ鼠になってしまった。キャラバンが一つ、城門前で停留している。一つとはいえ大きいキャラバンだった。同じ色をした荷馬車が3つ。周りには、馬に乗った護衛が何人もいた。忍び込むのは難しいかと思った。ましてやこの雨だ。荷馬車の中に入ろうものなら、泥や滴る雨水で、入った痕跡が残ってしまう。城門を潜るための通行料を払えるだけの金はなかった。雲が掛かり明るくないので近づくことは可能だ。出来ることは普通の人間より多い。リューフは闇の魔法で身を隠す。荷馬車の下に取り付いてしまえば、紛れて入れるかもしれない。リューフは気配を消して、キャラバンに近づいた。

 すると、後ろから豪奢な装飾をした馬車が、物凄い勢いで迫っていた。それを躱し、様子を見る。馬車の馭者がキャラバンを囃し立てた。急いでいるらしく、入門の順番を変ってほしいようだ。キャラバンの主人が、何事かと外に出てくる。当然キャラバンの主人は、煩わしそうに苛立っていた。口論が始まって生じた隙に、リューフは馬車の下に取り付き入門を待った。馬車が城門を進んでいく。中に入ってみると、石造りの整然とした街並みが広がっていた。屋根は赤レンガで統一され、景観を気にしてか、街路樹も規則的に植えてある。屋根付きの井戸や、川も整備されていて、街の豊かさを物語っていた。だが薄気味悪いほどに街は静かだった。馬車はそのまま街を一直線に抜け、中心部にある城の跳ね橋の前で止まった。リューフはそこで馬車から離れた。その頃には雨は止んで、太陽の光が見え隠れしている。馬車はやはり慌ただしく城へと入っていった。

 身なりをまとめ、日雇いの仕事でもないかと酒場に入る。酒場の店主もチラホラといた客も、リューフに訝しんだ視線を寄越した。雰囲気が嫌に暗い。街の静寂と何か関係があるのかもと、温かいヤギのミルクをマスターに頼みつつ、耳をそばだてた。客たちはリューフに聞こえないように小声で話し始めたが、リューフの耳には届いていた。竜騎士の力で、どうやら聴力も遥か豊かにになったらしい。

「聞いたか、ついに疫病を何とかする算段が付いたらしいぞ」

「あぁ、これでこの国も救われる。こんなことなら、もっと早くこうするべきだったんだ」

「明日の正午広場で決行されるらしい、塔の魔女の処刑は」

 リューフは思わず席から立ちあがって、話していた客を振り返った。ガタンと音を立てて椅子が倒れる。客の方もリューフの様子に驚いたが、すぐに目をそらして残っていた酒を煽った。リューフは酒場の店主に尋ねる。

「私は先ほど町の外から来たキャラバンの一員なんですが、明日の処刑って何のことですか?」

「そうだな、あんまり風潮してもらっちゃ困るんだが」

 酒場の店主はそう前置きをして、リューフにだけ聞こえるように顔を近づけた。

「この街の少し離れたところに塔のある集落があるんだが、そこに国一番の巫女が祀られていてな。巫女は国の吉凶を占う役目を負っているんだが、最近災いが続いていてな。ついに街に疫病が蔓延して死人が大勢出た。王はその元凶が巫女が不浄の者になったのだと決めつけ、魔女として命を持って災いを払おうとしているんだ」

「そんな勝手なことが許されるんですか!?」

 塔の巫女というのはユーリカのことだ。さっきの馬車に、もしかしたらユーリカが乗っていたのかもしれない。リューフの心がまた暗くなる。どこまで人間というのは、勝手な生き物なのか。力のない弱者は強者の暴力に、運命さえも支配されなければならないのか。

 リューフはミルク代を払うと広場に向かった。広場には張り付け台だろう、十字をかたどった丸太が組み立てられ、その前には処刑の内容が書いてある張り紙があった。処刑台を見に来た野次馬をかき分けて見る。

『塔の魔女の処刑を執り行う。魔女は強い呪力を持っていることから鞭での百叩きの後、牢内に幽閉し、明日の正午火あぶりの刑を執行し、穢れた魔女の命を紅蓮の炎をもって浄化することで国に立ち込めていた暗雲を払う。その身を白昼のもとに晒すことにより、悪の元凶が灰になるまで燃え尽きる様を、国民の目にも刻んでほしい。国王、カストラーシン』

 好き勝手にユーリカに罵詈雑言を囁く野次馬たちの中で、リューフだけは強く拳を握っていた。


 次の日の正午。城から一台の荷馬車が、処刑台に向けて護送されてきた。ユーリカは檻の中、ただ朦朧とする意識の中で、打たれた鞭の傷の熱さに耐えていた。体中太いミミズが這い蹲っているように、傷は赤くただれ、血が噴き出していた。着ていた衣服も無残なもので、ボロボロに擦り切れて、乳房も尻も露になっている。雲間の日の光でさえも、灼熱のように暑く感じた。塔を一歩も出ない生活を、長年続けていたことで、久しく忘れていた痛みと再会は、そのあまりの暴力的な咎めだてに、ユーリカは絶叫し悶絶した。泣き叫び、声も涙もとうに枯れていた。あまりの痛さに意識が何度も飛び、この地獄はいつ終わるのだと神に嘆いた。いっそすっぱり殺してくれた方がはるかに楽だと、心の底から死を懇願したが、耐えがたい叱責は続いた。生きていることが、これほどに辛いことなのか。巫女としての定めを放棄したユーリカに、王が怒りを表したのもある。王は今処刑台を見下ろす高台に王妃と共に動向を見物している。二人とも汚いものを見るような、蔑んだ眼差しを当てながら。幽閉されていたとはいえ、自分は食うに困らない生活をしていた。子供が飢えて死んでいく世界で、それはあまりに贅沢なことなのかもしれない。だから呪いの言葉は吐かなかった。言ってしまえば、自分が汚れてしまうから。世界を憎んでも仕方のないことだから。これは自分に課せられた、使命や運命なのだと受け入れた。ここで自分の人生は終わる。次なる命に転生した時は、人間ではない、もっと優しいものに生まれ変わりたかった。人の踏み入らない山奥で静かにたたずむアルトトリネコの木がいい。鳥たちの羽を休めさせて、毎年違う葉を生やして、夏には青々とした緑を。秋には茶色になって枯れ落ちるまで、染色するよりおしゃれに雰囲気を変えて。ゆっくりと木肌に季節を感じる、水と光で育つのどかな暮らし。仲間もたくさんほしい。溌溂とした自分より若い木も、仙人のように尊敬できる年老いた木も。同じ大地から栄養を吸い上げ、森の色を作り、山を愛する生き方がしたい。誰も傷つけず、誰からも疎まれず、誰にも傷つけられないそんな生き方を。そう望んだ時、ユーリカの体に石が投げつけられた。処刑を見に来た人々に、口々に呪いの言葉を吐かれ、硬い石が体にぶつかる。生卵や熟れ過ぎて腐った野菜なんかもあった。体と顔はドロドロに汚された時、荷馬車を操る御者がユーリカを鼻で笑った。

「処刑される魔女の面になったな」

 枯れたはずの涙が、頬を伝ったような気がしたが、顔中の汚れに混じって、良く分からなかった。荷馬車が止まり、檻が開けられる。待っていた処刑人が、ユーリカの首に着いた鎖を乱暴に引っ張る。息が詰まり、思わず咳き込む。それでも容赦のない仕打ちに、ユーリカは力無く、成すがままになった。少しでも痛くないように、少しでも早く楽になるように。抗わず従順に。腕と足を毛羽立った麻縄で縛られた時、やっと苦しかった首輪が外された。髪が目の上に垂れ、そのカーテンから人々の恨みがましい顔が見える。とんでもない恐怖だった。こんなに恨まれるなら、生まれてこなければよかったと思い知るほどに。燃やせ。一人の見物人を皮切りに、燃やせ燃やせの怒号が飛びかう。あしからゆっくりだ。じっくり煙で燻して苦しめろ。ユーリカはただ力なく頭を垂れた。足元に枯れた草葉が敷き詰められた。足に鋭い痛みが走った。枯れ木に棘があったのだ。赤い鮮血が滴る。どこまでもひどい仕打ちをする。処刑人のマスクの奥の瞳が怪しく光った。

 ついに火を放つその時だった。広場の彼方に一人の人影が降り立った轟音が響いた。前髪がかかって良くは見えないが、あまり影は大きくない。少年か、青年のようだ。その人はゆっくりと処刑台に向けて歩いていた。何事かと思った衛兵が駆け寄り、槍の穂先を向ける。止まれ! そう命じられても、その人はそれを無視して、乱暴に剣で振り払った。

 高々に槍が舞い上がり、同時に槍を持っていた衛兵の首も跳ね上がった。見物人たちから悲鳴が上がった。広場はパニックに陥り、処刑人もあたふたとして、自分がどうしたらいいのかわからないようだった。その人はまっすぐ処刑台のもとに歩みを進めた。遮る兵がいても、歩く速度は変わらない。邪魔をするものは容赦なく切り捨てている。垂れた前髪を掻き上げる自由がないのがもどかしかった。その勇敢なその人を、この目に焼き付けたかった。自分に似た若草色の髪が見えた時、涙がユーリカの視界をふさいだ。止めどなく透明な水が溢れてくる。

「リューフ……」

 しゃがれた喉から彼の名前が零れる。

「リューフ」

 もう一度呼ぶ。さっきよりしっかりとした音が出せた。

「リューフ!」

 心が一杯になった。血しぶきが広場に飛び散る。鉄の匂いと、逃げ惑う人で広場がごった返す中、彼はその声をしかと聴いて、一直線に駆けだした。馬車に跳ね飛ばされるよりも大きく人が空を飛んだ。それが地上に落ちるころ、リューフはユーリカの元に駆け寄っていた。怖気づいた処刑人の首に、リューフの剣が吸い込まれた。目が合う。宝石のような緋色の眼に確かな怒りが宿っていた。ユーリカを認めて彼はフッと笑った。ユーリカの手足の縄がリューフによって同時に断ち切られ、フワリと抱き留められる。

「もう大丈夫です、助けに来ました」

 世界でいちばん優しい声を聴いて、ユーリカの意識は白らんで消えた。

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