約束ひとひら

 先崎せんざきくんに誘われるまま店を出て、歩くこと約五分。会話らしい会話もなく、たどりついたのはあの公園だった。この二年、春がくるたび理沙りさが願いをかけた一本桜の下で足をとめる。


 ――いつからかな。大学にいるときとか、ごはんをたべてるときとか、電車を待ってるときとか……ふと気がつくと、いつも山波やまなみさんのことを考えてるんだ。


 まだ冬芽のまま、かたく閉じている桜のつぼみ。公園灯にぼんやり浮かびあがっているそれを見あげながら、先崎くんは口火を切った。


 いったん気がついてしまえば、自分の気持ちを自覚するまで、そう時間はかからなかったという。ただ、当時は恋愛そのものがいやになっていたから、理沙に想いを伝えるつもりはなかったのだと。だけど……と、つづけようとした先崎くんはハッとしたように言葉をとめた。


 ――そうだ。キタエ……だっけ。彼のほうはその後どう? 大丈夫?


 思い出したようにそうたずねる先崎くんはなんだかすこし気まずそうで、理沙は思わず笑ってしまった。


 もうこのときには、挨拶メッセージのやりとりがあたりまえになっていて、そもそものきっかけとなった、大学の先輩である北江きたえたくまのことはほとんど話題に出なくなっていた。


 ――うん。アプローチは相変わらずだけど、北江さんはもうすぐ卒業だから。大学で会うこともなくなるし、就職したらきっとそれどころじゃなくなるんじゃないかな。


 理沙がそういうと、先崎くんはほっとしたように頬をゆるめた。しかしすぐに、やたらまじめくさった顔になって『油断は禁物』なんていうものだから、理沙はまた笑ってしまった。つられたように彼も吹きだして、ふたりでひとしきり笑いあう。


 ――エスカレートするのが心配だったのはほんとうなんだけど、それだけじゃなくて……その人のことを聞いて、気が気じゃなくなったんだ。


 まだ声に笑いをにじませながら、先崎くんはふたたび口をひらいた。


 北江はたまたま彼女が受けつけないタイプだった。でもじゃあつぎは? そう考えると、いても立ってもいられないような気分になった。それでもなかなか一歩がふみだせなかったのは、たぶん自分で思っていたよりもずっと、恋愛に対して臆病になっていたからだと、先崎くんは眉尻をさげた。

 しかし今日、チーフに『骨はひろってやる』といわれて、ふんぎりがついたのだとか。チーフには、ずいぶんまえ――先崎くん自身が自覚するまえから本心を見抜かれていたらしい。


 それで背中バッシーンだったのか。あれは、すごい音だった。


 チーフは、いっけんチャラいナンパ男に見えるのだけど、じつは愛妻家で子煩悩な家庭人なのだと従業員たちのあいだではもっぱらの評判だったりする。人は見かけによらないということわざの説得力をおおいに高めている人だ。そして、さりげなく面倒見がいい人でもある。『骨はひろってやる』というあたり、いかにもチーフっぽい。もしかしたら、理沙の気持ちもすでにバレていたのかもしれない。


 ――山波さん。ぼくは、山波さんが好きです。


 まえおきは十分すぎるくらいあった。その間ずっと、笑いで気をまぎらわせて、ドキドキで罪悪感をごまかして、それでも『くる』とわかっていたのに、いざそのときがきたら頭が真っ白になってしまった。


 ――ぼくと、つきあってくれませんか。恋人として。


 どう返事をしたらいいのか。

 こんな自分が彼の気持ちを受けとっていいのか。


 悩んで、困って、だけどうれしい気持ちを捨てられなくて――理沙も覚悟をきめた。


 せっかく先崎くんが好きになってくれたのに、幻滅されるかもしれない。嫌われても、軽蔑されてもしかたないと思う。思うけど、怖い。それでも、このまま黙ってつきあうことなんてできないから。たとえ失望されても、非難されることになっても、ぜんぶ自業自得だ。結果がどうなろうと、ちゃんと受けとめなければならない。


 ぎゅっと両手をかさねてにぎりしめる。


 ふるえそうになる足をふんばって、逃げ出しそうになる心を叱咤して、おまじない遊びのこと。二年まえ、願ったこと。


 理沙はすべてを打ち明けた。



 ❀



 ――ほんとにもう、山波さんは……


 まじめだなぁ……と、さえぎることなく、最後まで理沙の話を聞いた先崎くんは、泣きそうな顔で笑った。

 まじめだといわれるのは嫌いなのに、彼にいわれるそれは不思議といやじゃない。


 先崎くんは腰をかがめて理沙と目の高さをあわせると、ひとつひとつ、ゆっくりと言葉をつむいだ。


 ――真っ白な人間なんて、この世にはいないって、ぼくは思ってる。


 仮にいたとしても、そんなシミひとつない人間を信用することはたぶんできないと彼はいった。


 かなしいとき。つらいとき。苦しいとき。なにかとうまくいかないとき。余裕がないとき。誰だって、人の不幸を願ってしまうことくらいある。


 ――ぼくだって腹立ちまぎれに、あの教授、タンスの角に小指ぶつければいいのに……とかよく考えるし。


 ――小指……。

 ――地味にこたえると思うんだよね。

 ――先崎くんでも、そんなこと考えるの……?


 いつもおだやかな先崎くんが、信じられない。


 ――そりゃ考えるよ。ぼくだってそんなできた人間じゃないし。


 苦笑しながらうなずいて、先崎くんはどこかまぶしげに目を細めた。


 人の不幸を願うことは誰にでもあるかもしれないけれど、願ってしまった自分を責めて、罪悪感に苦しんでしまうほどやさしい人は、きっとなかなかいないと、その目はやわらかく理沙をみつめる。


 そして。


 ――ねえ山波さん。ぼくのために、二年まえの自分をゆるしてあげてよ。今日はほら、ぼくの誕生日だし。プレゼントだと思って。ね。


 どこかいたずらっぽく、先崎くんはそういった。


 泣くまいと思っていたのに。泣いてはいけないと思っていたのに。


 こんなの、反則だ。



 ❀



 はらひらと風と遊ぶ花片かへんに手を伸ばして、さっとこぶしをにぎる。


 おまじない遊びなんて、ただの迷信。ただの偶然だ。それでも、どうしても、彼とここにきたかった。


 先崎くんと恋人になって約一か月。満開をすぎた一本桜は豪快に花を散らせている。


「なにをお願いしたの?」

「来年の春まで、先崎くんと一緒にいられますように」

「……来年まででいいの?」

「いいの。来年になったら、また来年までってお願いするから」


 手のひらの上から、淡く色づいた花びらを指先でそっとつまみあげる。


 今年の願いを来年の約束に。


「ね、先崎くんもやってみて」

「できるかな」

「失敗しても桜いっぱい降ってるから大丈夫だよ」

「あ、やり直しOKなんだ」

「知らないけど、いいことにしようよ」

「はは。そうだね」


 この桜花おうか一片ひとひらの約束。


 先崎くんがすっと手を伸ばす。


 ひとり一片。

 押し花にして一年間、ふたりのお守りにしよう。



     (おわり)


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桜花は一片の約束 野森ちえこ @nono_chie

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