思い出ひとひら
その日出勤したら、休憩室のまえで先崎くんが待ちかまえていた。そして映画に誘われた。しかもそれは、
先崎くんは、キッチンのチーフから特別試写会のペア招待券をもらったのだという。なんでも、チーフの奥さんが映画グッズ目あてで応募したらチケットが当選してしまったのだとか。せっかくのチケットだけど、子どもがまだちいさいチーフたちは行けないから――とかなんとか説明されたような気がするけれど、正直あまり耳にはいっていなかった。
気まずさよりも、うしろめたさよりも、観たい気持ちが勝った。
❀
当日、待ちあわせた駅のホームから見た夕空は、理沙の目に、心に、くっきりと焼きついている。赤、朱、紅、紫、藍、黄金……先崎くんとふたり、しばらくのあいだ言葉もなく空を見あげていた。
しかし、沈黙を心地いいと思えるほどの関係でもなく、すぐにもぞもぞと落ちつかない空気が流れだす。困った理沙は、あの個包装された、レモン味の飴玉をカバンからとりだした。
――先崎くん。飴、なめる?
――すっぱいの?
――すっぱいの。
すっぱいのが好きなのかと聞かれたから否定した。むしろ苦手だ。
じゃあなんでと彼が驚いたのはあたりまえだろう。逆の立場なら理沙だって驚く。
――先崎くん、やさしいから。
素直に話す気になったのは、やっぱり浮かれていたからだろうか。
怒ったところを見たことがないし、ちょっと怒らせてみたくて。そういったら、まるくしていた彼の目がいっそうまるくなった。
――だってあたし、この飴をはじめてなめたとき、すっぱすぎて泣きそうになったし。さすがに怒るかなーって。
さらに言葉をプラスすれば、先崎くんはもう限界というように吹きだして、しまいにはお腹をかかえて笑いだした。
そして彼は『ありがとう』といった。
――
今度は理沙が目をまるくする番だった。
遠距離恋愛をしていた彼女と別れてから、先崎くんは笑わなくなった。笑顔で接していても、おだやかにほほ笑んでいても、彼は笑っていなかった。
それが今、理沙の目のまえでお腹をかかえていて、理沙といて楽しいという。
まばたきも、呼吸も忘れた。
涙がひとつぶ、ぽろりと落ちた。
――え、ちょ、なんで。まだ飴なめてないよね?
あわてふためく先崎くんの言葉につい吹きだして、ぽろぽろ落ちる涙はとまらなくて、理沙は声を立てて笑った。
十九歳の春。腹立ちまぎれに、彼の不幸を願った。
二十歳の春。自責の念にかられて、彼のしあわせを祈った。
身勝手な自分にあきれながら、先崎くんが心からの笑顔をとり戻せますように――と、
――飴、なめる?
オロオロしている先崎くんにあらためて飴玉をひとつ差しだした。
――すっぱいの?
――すっぱいの。
夕紅に染まる駅のホームで、ふたりでたべた飴はやっぱり泣きそうになるくらいすっぱかったけれど、すでに泣いていた理沙は逆に涙がとまった。思いがけない効果だった。
❀
映画は映画でとてもよかったのだけど、それよりも先崎くんと笑う場所がおなじだったり、感動するポイントが近かったりしたことがうれしかった。
それ以来、ふたりでよく遊びに行くよう……には特にならなかった。先崎くんは失恋の痛手からか恋愛に消極的になっていたようだし、理沙は理沙で心にこびりついた罪悪感がぬぐいきれずにいた。どちらも自分から手を伸ばすことができないのだから、進展するはずがない。
会うのはアルバイトのときだけ。あがり時間がおなじになったときは、また一緒にまかないをたべたりするようにはなったけれど、それだけだ。それだけで、理沙は十分だと思った。それ以上をもとめてはいけないと思った。
そんな日々が変わりはじめたのは、年末あたりからだろうか。そのころから、大学の先輩男子――
誘いはぜんぶ断っているし、その気もないとはっきりいっているのだけど……めげない。くじけない。今日がダメでも明日、明日がダメでもあさって――というような、恐ろしいくらいのポジティブ思考でアタックしてくる。
たとえば、好きな人がいるといっても『そいつより好きになってもらえば問題ないな!』といった具合である。
悪い人ではないのだと思う。むしろ理沙のように、なにかとグジっとジメっとしてしまう人間には、北江先輩のようなカラっとグイっとくるタイプのほうがあっているのかもしれない。
だがしかし。理沙は『がっしりしたスポーツマンタイプ』がダメなのだ。ついでに『おれについてこいタイプ』も苦手だ。そういう男の人がそばにいるだけで心が勝手に萎縮してしまう。こればかりはどうにもならない。
そして、理沙から見た北江先輩は、苦手方向にことごとくどストライクなのだ。だから、断るにも勇気とか気力とかたくさんのエネルギーがいる。しかしどう断ってもポジティブ変換されてしまうし、これからどうしたものか――という困惑が顔に出てしまっていたらしい。
新しい年が明けて数週間。『なにか悩みごと?』と、ストレートに聞いてきたのは先崎くんだ。やっぱり彼は、とても話しやすい。
――それ、大丈夫なの? ストーカーとか。
理沙がひととおり話すと、先崎くんは相変わらずつるんとした顔の眉を心配そうにひそめた。
今のところ、そちら方向に進む気配はないからたぶん大丈夫だといったのだけど、先崎くんの表情が晴れることはなく、眉間のシワはいっそう深くなってしまった。
とにかく、エスカレートしそうだったら早めに信頼できる教授とか、場合によっては警察にも相談しろと何度もくり返した彼は、驚くほど真剣だった。
そしてその日から、日に一度か二度、先崎くんから安否確認のような挨拶メッセージが理沙のスマホに届くようになった。
❀
苦手意識はぬぐえないまでも、人間というのは慣れる生きものである。北江先輩の積極的なアピールも、理沙はどうにか一刀両断できるようになっていた。そしておなじころ、先崎くんの二十一回目の誕生日がやってきた。
一年まえのその日に先崎くんが失恋したことは、当時おなじシフトで働いていた人間はたいてい知っている。
せっかくの誕生日がかなしい思い出になってしまった先崎くんをなぐさめる会をしよう。一年たってるけど――というチーフのなんともいい加減な発案で、ささやかな誕生日パーティーがひらかれることになった。
しかしそこは年中無休、二十四時間営業のファミリーレストランだ。夜、先崎くんが仕事をあがってから、休憩室でケーキをたべるだけの会になった。
でも、だからこそ――というか、ケーキだけは、みんなでお金をだしあって、名店といわれているパティスリーのものを用意した。
パーティーというにはささやかすぎるものだったし、参加者も当日シフトにはいっていた、チーフと副店長とキッチン担当のパートさん、それと理沙だけだった。それでも、いちおうサプライズにしたからか、先崎くんはとても驚いて、とてもよろこんでいた。
そしてチーフは、先崎くんになにごとか耳打ちすると、バッシーンと思いっきり彼の背中を叩いてさっさと休憩室をあとにした。
とても、いい音がした。
先崎くんはちょっと涙目になっていた。
副店長とパートさんもいつのまにかいなくなっていて、休憩室には先崎くんと理沙だけが残された。
いったいなにごとか。状況がのみこめない理沙に、先崎くんはしばらく視線をまどわせて、やがてなにかをふり切るように口をひらいた。
――このあと、すこし時間ある?
(つづく)
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