桜花は一片の約束
野森ちえこ
願いひとひら
春が、視界いっぱいに踊っている。
駅からアルバイト先のファミリーレストランに向かう途中にある公園。遊具はブランコと砂場があるだけだが、ボール遊びができる程度には広い。そして、その中央にどっしりと根をおろしているのは、見事な花をひらかせている一本桜。はらひらと、ほんのり赤い花びらが風と遊んでいる。
「
耳に心地いい背後からの声。確認しなくてもわかる。今日、待ちあわせている人。
ふり返れば思ったとおり、
二年まえ、理沙はこの桜の
花びらを地面に落ちる前にキャッチできたら願いが叶う――という、おまじないのような、占いのような、女の子たちのあいだでむかし流行した遊びだった。
❀
理沙は男らしい男の人が苦手だ。がっしりしたスポーツマンタイプなんて絶対に無理。特別いやな目にあったというわけでもないのだけど、いかつい人の圧迫感というか威圧感というか、とにかく男らしい男の人がどうにも苦手なのだ。
その点、バイト仲間の先崎くんは、身長はそこそこあるものの、線が細くて雰囲気もやわらかい。彼のあたたかな空気は、いつもまわりを安心させてくれる。実際、彼はとてもやさしい。そのつるんとした顔も少年みたいだ。
かよっている大学は別々だったけれど、年齢もおなじでシフトがかぶることも多い彼は、いつしか理沙が家族以外で気安く話せる唯一の男性となっていた。もちろん『仲間』として。それ以上でも以下でもないと思っていた。
しかしあるとき、彼に高校時代からつきあっている遠距離恋愛中の彼女がいると知って、どうしてだか、理沙はひどくショックを受けた。自分がなぜショックを受けているのか、わからなかった。いや、わかりたくなかったのかもしれない。
意味もなくイライラした。それまで心地よかったはずのやさしさにも気持ちがざわついて、彼のおだやかさに無性に腹が立つようになった。
そんなとき、この見事な花を咲かせる桜の木を見て、ふと思い出してしまったのだ。花びらキャッチのおまじない遊びを。
ほんの、気晴らしのつもりだった。ただの遊びだと。ちょっとした気休めだと。わずかなうしろめたさには目をつぶって、軽い気持ちで祈った。
ふたりが別れますように、と。
――先崎くんなんて、彼女にこっぴどく捨てられればいい。
はらはらと舞う花片にすっと手を伸ばし――にぎってひらいた手のひらには、一片の桜が淡く存在していた。
それから約一年がすぎた三月のはじめ。
数日アルバイトを休んだ先崎くんは、どこか憔悴していた。いやな予感がした。同時にほの暗い期待があった。聞くのが怖くて、だけど聞かずにはいられなくて、理沙は冗談まじりにたずねたのである。『彼女とケンカでもしたの?』と。
別れたと、先崎くんはこともなげにこたえた。
ほんとうはもう、とっくにおわっていたのだと。連絡がつかなくなってずいぶんたっていたのに、それでも彼女の心変わりを認めたくなくて、最後の約束にすがったのだと。彼は自嘲するように笑った。
最後の約束。それは、先崎くんの二十歳の誕生日。彼女が会いにきてくれるといっていた日。悪あがきでしかないとわかっていても、それでも、彼はどうしても、その日がおわるまでは納得したくなかったのだという。
そうして迎えた誕生日。先崎くんは約束の場所で、日付けが変わるまで待っていたらしい。だけど、やっぱり奇跡なんて起こるはずもなく――もう、納得するしかなかったと、疲れたように話す先崎くんをぼんやりみつめながら、理沙はほっとしている自分を発見した。彼が彼女と別れたという事実に、理沙の心はたしかによろこんでいた。
その瞬間まで忘れていた、あの日のおまじない遊び。手のひらにのっていた一片の桜が、目の奥であざやかによみがえった。
いやでも自分の気持ちを自覚した。
きっと、先崎くんの失恋と、理沙のおまじない遊びとはなんの関係もない。ただの偶然だ。それでも、願った事実は消えない。なかったことにはならない。
今さら自覚したって、もう伝えることはゆるされない。誰がゆるしたって、理沙自身がゆるせない。あんなことを願ってしまった自分が、どうして気持ちを伝えることができるだろう。
好きな人の不幸を祈るなんて、そんな意地の悪い人間が――いえるわけがない。
だから、かわりに願った。身勝手だと思いながら、一片の桜に、もう一度祈った。
先崎くんがしあわせになれますように――
心からの笑顔をとり戻せますように――
ほんとうは、アルバイトを変えるべきだったのかもしれない。それができなかったのは――未練、だろうか。
どの道、大学を卒業するまでのことだ。気持ちは伝えない。恋人になりたいとも願わない。だから、学生のあいだだけ、彼のそばで働くことをゆるしてほしい。誰にともなく心で懇願して、理沙は店にとどまった。
❀
先崎くんは変わらずやさしかった。いつもおだやかにほほ笑んでいた。
そんなすじあいなどないのに、理沙はやっぱりどうしてだかイライラして、彼を怒らせてみたい、そのすました顔をくずしてみたいと、たまに理不尽なやつあたりをしてしまうこともあった。そのたび自己嫌悪におちいりながら、どうすることもできずにいたある日。
大学の友人から、ものすごくすっぱいレモン味の飴をもらった。口にいれたとたん泣きそうになった。『これだ』と思った。
彼は最初、理沙が渡した飴をふつうに受けとって、ふつうに口にいれた。それから数瞬かたまって、思った以上にきゅーっとすっぱい顔になった。
二度目から、先崎くんはちょっと顔をひきつらせるようになった。
その瞬間だけ、いつも柔和な先崎くんの『素』の表情が見えるような気がして、理沙はすきあらば彼に飴をあげるようになった。我ながら性格悪いなと思ったけれど、ふだんとはちがう顔を見られることがうれしかったのだ。
しかし、そんな日々も長くはつづかなかった。
❀
夏もそろそろおわろうかという残暑厳しい九月。バイトの休憩中に『なんでそんなに、まじめだと思われたくないの?』と先崎くんに聞かれた。とうとつな質問だったけれど、以前彼に『まじめ』だといわれたとき、どうせ石頭で融通がききませんよーとかなんとか、理沙がひねくれた言葉を返して困らせたからかもしれない。
本来の意味がほめ言葉だということは理解しているし、先崎くんが口にするそれにも他意はないとわかっていた。けれど、ちがうニュアンスで『まじめ』という言葉をつかう同年代が多いのも事実なのだ。
理沙はまじめだから。山波さんはまじめだもんね。そういって、判で押したようにみな薄笑いを浮かべる。
頭がかたい。融通がきかない。まじめでつまらない。高校生の時はじめてできた彼氏にもそういわれてフラれた。
そう話すと、先崎くんはつるんとした顔をムッとしかめた。
そして。
――ほんとうに頭がかたくて融通がきかない人には接客業なんてできないよ。
ほとんどいいがかりのようなクレームをつけてくるお客だっているし、王様気分で無理難題をふっかけてくるお客もいる。そういうお客を相手にしてもうまくおさめることができる人間の頭がかたいはずがない。
――山波さんは誠実なだけだよ。
そういった先崎くんは、温厚な彼にしてはめずらしく必死で、ムキになっているようにすら見えた。
だけど、先崎くんが肯定してくれるほど、理沙のなかでは罪悪感がふくらんでいった。自分にそんなふうにいってもらう資格はないのだと。苦しくて、うれしくて、理沙はもう、彼の顔をまともに見ることもできなくなってしまった。
❀
シフトは二週間先まできまっているのでそこはもう、どうにか切りかえてがんばるしかない。だけど、休憩などはなるべくかぶらないようにした。
そうやって彼を避けているのは自分なのに、もうずっとこのままなのかと思うとかなしくなる。
まったく、ほんとうにめんどくさい人間だと、自分にうんざりしながら一週間ほどすぎたとき。思いがけないことが起こった。
(つづく)
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