3.四十一歳の今


 …………。

 ……………………。


 …………幸福は、砂糖のように、水に溶けていくといったのは、誰の本だったっけ?

 きみだったら、知っているのかもしれないね……。


 ………………。

 ……ごめんね、まだ、言葉が、うまくまとまらなくて。


 ……ええと。……うん。

 僕らは、結婚した。一年後には、息子も生まれて、幸せな生活だった。


 生活は、平々凡々、お互いの仕事も順調だったし、息子もすくすく大きくなって、目立ったトラブルなんてどこにもなかった。

 だけど……うん、三年前だったね、地球で戦争が始まったというニュースを聞いた時、きみはそれをいつも気にしていた。


 戦争が終結した後に、きみが、地球で地雷の除去する仕事をしたいといった時には、きみらしくて、そうした方がいいと背中を押した。

 ……あの選択は、間違っていないと、今でも信じている。だけど、同時に不安になる。もしもあの時、止めていたらって……。


 後悔しても、仕方ないけれどね。ともかく、僕たち家族は地球に引っ越した。

 きみは、地雷除去の仕事に精を出して、地雷ヶ原を子どもたちが走り回れるくらい綺麗にするのだと張り切っていた。僕も新しい仕事を始めて、息子も新しい学校に通い始めて……。


 ……………………。

 …………………………。


 ………。

 ………………。


 …………ああ、ごめん。

 あの時のことを思い出そうとすると、まだ混乱してしまうんだ。


 ……パワードスーツの耐久性が低かったのか? それとも、地雷探知機の精度が悪かったのか? もっと別の悪い点があったのか?

 賠償金という形でお詫びが来たけれど…………結局きみは、帰ってこないんだよね。お金だけもらっても、しょうがない。


 ……僕はぐじぐじと、いつまでも思い悩んでいた。会社もずっと休んでいる。もうすぐ一か月は経とうというのに。

 息子の方が気丈に振舞っていて、スティーブンスと一緒に家事をしてくれるし、もちろん学校にも行っているから、その点は安心してね。


 まあ、朝から晩までそんな感じだから……今日も自室にこもってぼんやりしていた。ここまで来たら、もう涙は出てこなくなるんだね。

 そんな時、スティーブンスが一人で入ってきた。食事かと思ったけれど、何にも持っていないで、ベッドの上でうずくまる僕の前で止まった。


『実は、奥様からメッセージが遺されています』


 僕は耳を疑った。

 だけど、きみらしいとも思ったんだ。これから危険な現場に行くのだから、気を使って遺言を用意していたのかと。


『そのメッセージは、ご主人様がプロポーズするその日に録音したものです』

「え? そんな昔に?」


 きみの意図が読めないまま、スティーブンスにそう尋ねていた。

 スティーブンスは頷いて、『実は……』と続ける。


『奥様から、もしも自分がご主人様よりも先に亡くなり、さらにご主人様がその死を深く嘆いている場合にのみ、このメッセージを再生するようにと仰せつかっておりました』


 スティーブンスの説明を最後まで聞いても、僕はぽかんとしていた。

 まさしく今のような状況を、きみは想定してたということだよね? なんでそんなことをする必要があったのか、全く考えもつかなかった。


『……再生しますか?』


 スティーブンスが、珍しく緊張して僕に伺いを立てている。

 きみがどんな言葉を遺したのか、今は彼だけが知っているからだ。これから開けるのは、パンドラの箱なのかもしれない……そんなことを思いながらも、僕は頷いた。


 ぴっ、と音がして、スティーブンスがきみからのメッセージを再生した。






『……彼、これからプロポーズするつもりでしょ?』

『……い、いえ、違いますよ』


『スティーブンスったら、ロボットなのに、嘘が下手なのね』

『申し訳ありません』


『いいのよ、心配しないで。どんな内容でも、OKを出すから』

『よろしいのですか?』


『気にしないでよ。私にとっては、これが最初で最後のチャンスだと思っているから』


『……本当の正解はね、二つ目だったの』

『ええと、何の話でしょうか?』


『私が、彼に告白した時に出したクイズの答え。私は本当は、本が大嫌いで、彼のことを愛していない』

『……申し訳ありません。仰っている意味が理解できないのですが……』


『うん、ごめんね。急にこんな話されても困るだけだね。最初から、順を追って説明するから』


『小さい頃に、みんな色んなテストを受けたでしょ? それに私は、引っかかってしまったの。良心と共感性の項目が、一般よりも明らかに低かった』


『その後もいろんなテスト行った結果、私は、他者に対して、どんなに残酷なことも平気でやってのけてしまうということが分かった』


『両親はかなりショックを受けていたわ。特に母親は中々結果を受け入れなれなくて、お医者さんと何度も揉めていた。私は、ただぼんやりとその様子を眺めていた。特に何の感情も湧かないまま』


『やっと受けれてくれた母親は、今度はとにかく厳しく私を躾けた。人間らしい振る舞いとは何かを、シミュレーションを用いて教えたの。それから、たくさんの本を読ませた』


『そのお陰で、私にも、どんなことが正しいことなのか、悪いことなのかを理解できるようになれた。だけど、納得はできても共感はできない。色んな小説とか哲学書とか読んでみたけれど、私にとっては教科書よりも退屈なものに過ぎなかった』


『だけど、本は読み続けてきて、正しいと教えられたことをとにかく守ってきて、お陰で、学校でもうまく立ち回れたし、友達もできたし、先生から疑われることはなかった』


『あ、本は好きになれなかったけれど、唯一、人間に交じって生きている怪物が、正体のバレることを何より恐れているという物語の、その怪物の気持ちには共感できたかな。怪物が、人間たちから石を投げられる姿をいつもイメージしていて、その絵は私の中にも強く刻まれていた』


『ラッキーだったのは、私は人の気持ちを予測して、その人が望んでいる通りに振る舞うことが得意だったということ。だから私は、彼が私に惹かれていることに気付いて、告白した』


『……では、ご主人様のことは……』

『うん。愛していない。あ、そもそも、誰のことも好きではないからね。でも、彼のことを選んだのには、ちゃんと理由はあった』


『彼と話しているのが楽しかったのは、本当なの。読んだ小説の感想を言い合ったり、本を読んで知った知識を教え合ったり。彼は私の話に目を輝かせて聞いてくれたし、私は彼の視点に驚かされることも多々あった』


『……私の母は、人としての幸せを手に入れなさいと、口を酸っぱくして言っていた。でも、人としての幸せって、一体なんだろう? 私はいつも考えていた』


『今は色んな選択肢があって、複数選ぶこともできるし、途中でやりたいことを変えることもできる。でも、私が人間らしくいられる幸せって何だろうと思ったら、彼と一緒にいることかもしれないって気付いた』


『私には、この先どんな未来が待っているだろうね。彼と結婚して、子供ができるかもしれない。仕事が忙しくて大変かもしれない。もしかしたら、どちらかが先に死ぬかもしれない』


『だけど、私が彼の、きみのそばにいることを選び続けているのなら、私は幸せなんだって言い切ることができるから、だから、安心してね』


『……でも、私が先に死んでしまって、きみがいつまでもくよくよしているのなら、自分のことを愛していなかった人のことなんてさっさと忘れて、自分の幸せを見つけなさいって、そう、彼に伝えてくれる? お願い、スティーブンス』

『……かしこまりました。この音声は、その日が来る日まで、ロックしておきます』


『うん……ありがとうね』

                                    」






 ……きみの掠れた声がして、スティーブンスが録音していた音声は止まった。

 …………きみの告白を聴いて、僕はどんな気持ちになったのだろう。


 「愛していない」と言われて、ショックはもちろんあった。

 ただ、それ以上に、きみが僕と一緒にいることを、幸せだと言ってくれたことが嬉しかった。僕ときみは、同じ気持ちで暮らしてきたんだってね。


 きみが、音声の中で共感できると話していた怪物の物語は、僕も読んだ覚えがある。あの本は、怪物は自分の正体を知った上で拒絶しない人間と出会い、一緒に暮らし始めるラストだったね。

 僕も、怪物にとってそんな人間になれたと思うよ。きみは最後まで自分のことを秘密にしていたけれど、僕はそんなきみの心の奥底まで、愛していたのだと思っているから。


 それに……こう言ってしまうのは無責任なのかもしれないけれど、きみが「正しくあろうと」した行いに、助けられた人はたくさんいたと思うんだ。

 きみは、自分のやってきたことに誇りを持っていてほしい。僕も息子もスティーブンスも、そう思っているからさ。


 こうして、僕の半生と、きみと過ごしてきた時間を振り返って、きみの嘘を知った後でも、僕の恋心は変わらなかったみたいだ。

 そして、僕たち家族が紡いできた幸福も。僕は死ぬ前の間に、あの日々を何度も思い返すだろうけれど、この気持ちは多分変わらない。


 ……今まで僕が読んだ本の中には、たくさんの「あの世」についての記載があったけれど、何千年経っても、人類は「あの世」があるのかどうかを証明できていない。

 でも、もしも、きみが今あの世にいて、僕がそこで行ってまた再会できたのなら、また一緒にいてくれるかな?


 …………スティーブンス、録音は、ここまでにして。

 そして、これは、彼女以外には、僕が死んでも聞かせないでいてね。お願いだよ。


















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きみの嘘、僕の恋心 夢月七海 @yumetuki-773

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