跨ぎたい猫

小余綾香

美女とお父様

 今夜は隣人が騒がしい。

 午前3時過ぎ、アパートの壁が振動し、時折、奇怪な声が判読不能な音列で響いて来る。


――あぁ、今年はあれだ……閏年。


 その滅多に聞かない女の声に記憶を刺激され、スマホで2月28日を確認すると、そろそろか、と私はコントローラーを置いた。

 丁度良いから、ゲームが佳境で我慢していたトイレに行っておこう。


 私の住む『後野井のちのいドボレッツ』は築30年超、夜行性人類限定アパートだ。入居の条件が「夜間生活音可、日中は睡眠可能な平穏を心がける」だから、この時間の騒がしさはここでは問題ない。

 何でも向かいの寺が墓地経営に乗り出し、アパートが安置施設・兼・葬儀場の裏となって大家が苦慮した結果の条件らしい。夜勤で昼しか家にいなければ余り怖がらないだろう、と考えた様だが、寧ろ出勤時に怖い、と実際には上手く行かなかったそうだ。

 そして、今、ここは必要最低限以外は引き籠りたい人向けに、低家賃でハイスペックなネット環境を提供するアパートとして、しぶとく生き残っている。

 私の様に遮光を愛し、新作ゲームを解禁すれば、エナジードリンク片手に意識が飛ぶのが先か、クリアするのが先かの勝負になる人間には悪くない環境だった。


 他の住人達も似たり寄ったりの人種だと思う。時々、見かけるのはオタクの中ではアクティブな人種、コスプレイヤーだろう。日本の現実とは少し違う服装を楽しんでいる。

 日常環境でコスをするのはマナー違反だが、人より墓石の方が多い場所では大目に見て良いと私は思っている。あれだ。一種の祭と思えば、お向かいさんたちが喜ぶかもしれない。


――ピンポーン


 トイレから出て、夕食だか朝食だか判らないカップ麺の湯を沸かしていると、案の定、インターホンが鳴らされた。


「はい」

「すみません! カルンスタインですー!」

「あぁ、はいはい」


 私は玄関に向かった。

 ここが夜行性アパートとはいえ、流石に朝の四時前に訪問されたら普通は驚くし、無視する。

 そうしないのは四年に一度の既知の用件だからだが、理由はもう1つあった。カルンスタインさんは本気で目の保養になるレベルの美女。向こうから来る時位、会っておきたくなる相手なのだ。

 とはいえ……。


根木ねぎさん!! またお父様を! 3日でいいんです、預かって貰えませんか!?」


 ドアを開けた途端、何とか何とかカルンスタインさんは勢い込んで喋り出した。

 相変わらず、見開かれたアーモンドアイはちょっと血走っているし、ブルネットのロングヘアーも振り乱されて、初対面を思い起こさせる。

 隣人が誰かも知らなかった八年前の2月28日夜明け前、コンビニ帰りを異国美女に取っ掴まり、いきなり「お父様を預かってください!!」と泣きつかれた時は私も何の無理ゲーかと思った。


『私の国の伝統で亡くなった祖父母の誕生日に集まらなければなりません! 私の祖母、この前、亡くなりました! 2月29日生まれです。だから、帰らないといけないません! ですが、私にはお父様がいます! お父様、置いてはいけません!! どうかお願い! 預かってください!』


 懇願され続け、私が精神的に昇天し掛けた頃、差し出されたのは、毛のない猫だった……。



 お父様、と名付けられているらしいドンスコイに似た猫は8年経つ今も存命の様だ。最初も仔猫ではなかったから、猫としては結構、高齢なのではないだろうか。そう思うと、カルンスタインさんの黒いロングコートから覗く不愛想な顔に貫禄を感じる。


「いいですよ。ああ、齢なら、気を付けること……」

「有難うございます! 大丈夫! これ、いつもの食事。これ、いつものトイレ。置いていきます。お父様、賢いです。ちゃんとします!」

「……あ、そうですか……」


 嬉しそうに笑顔になるカルンスタインさんは本当に美しくて、思わず鑑賞してしまう。そこに頬へのキスを加えられると、一瞬、意識が遠のいた。

 気が付くと、カルンスタインさんは黒いコートを翻し、駆け去るところだった。


 しかし、四年に一度しか預けに来ないのは助かるが、誕生日が閏日だと集まるのは厳密にその日限定になるのだろうか。一日ずらしたりしないのか。異国の習慣は解らない。


◇◆◇


 オホーツク海を漂っていた霧が夜の闇の中、蝙蝠の群れとなり、サハリン南端で次々と人の姿と化した。


「もう嫌! 日本、信じらんない! ニンニクの日、必要?」


 マーカラ・ミラーカ・カルンスタインは極寒の空気を深呼吸して天を睨みつける。瞳は一瞬、銀色に輝いて見えた。

 彼女と共に人型を取った者達が同様に殺気立った様子で口を開き出す。


「なんでもかんでも記念日作って!」

「大体、ニンニク食い過ぎだろう、日本人! ラーメン屋のない町はないのか」

「日本はヴァンピールの地獄だ!」

「あんな国で眷属を増やそうなんて、上は何考えてるの」

「現場を知らないと、これだから!」


 彼等は空気だけは清浄な森の中で血に飢えながらも安らぎを味わっていた。


「日本、火葬なんだから死体跨いでヴァンピールにするなんか奇跡だよな」

「今時のセキュリティ、私のクラッキングじゃ追い付かない。安置所入り込むの無理」


 マーカラより若い外見の吸血鬼が嘆く。彼女のはためいたコートの下からはヴィクトリアンなドレスが見えた。


「猫、近付けるなら安置所行く前の方が楽だから、根木が逝ってくれりゃ美味しいのは確かなんだよなぁ。四年に一度ってのが確率低いけど、身体に悪そうな生活してるから、生気吸った後なら、ちょっとした弾みで……」


 大家が企むのを聞き、マーカラは苦笑しながら頷く。


「私達以外がночной дворецのちのいドボレッツに住むとは思わなかったけど、お父様のターゲットがあって良かったわ。これで駄目なら日本から撤退を上が決定してくれるかもしれないし」


 人間ならば既に耐えられない寒さに肌と髪を晒しながら彼等は語り続けていた。


◇◆◇


 猫が死体を跨ぐと吸血鬼になるという。

 後野井ドボレッツの住人達は、直系の猫達によって人からヴァンピールへと変えられた一族だった。その血統の猫を彼等は「お父様」「お母様」と呼ぶ。

 彼等の家族を増やせるのは「お父様」「お母様」だけだ。


 ニンニクを嫌うヴァンピールにとって日本は四年に一度は逃亡を迫られる忌まわしい地ではある。

 それでも時に家族を失う彼等は猫を連れ、虎視眈々と機会を狙っていた。

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跨ぎたい猫 小余綾香 @koyurugi

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