第16話 帝、蛍の光で新尚侍の姿を見る

 夫は――― いつまでも子供の様な可愛らしい夫は、嫉妬するだろう。いや、するに違いない。

 おそらく今この時も、自分がここに居ることを知ったなら、もう嫉妬のし通しだろう、と彼女は見抜いている。

 帝が戯れに言ったことでも、兼雅は本気に取りかねない。下手なことをされても困る。自分はあくまで藤原兼雅の妻で居たいのだから。

 彼女は戯れは戯れのまま、全てを終えたいと思うのだ。


「参内致しますのを咎める者は居りませぬ。あてもなく参内するというのでしたら、夫も承知致しますまいが、主上の仰せということでしたら」

「そなたさえ堂々としていれば、何も心配は無いだろう。こそこそとしていればともかく。それにしても、そなたに対する気持ちはますます深くなるばかりだな。だがいつまでもこうしている訳にも行かない」


 そうだろう、と尚侍は思う。彼女としては、いい加減、家に戻して欲しい気持ちだった。


「そなたへの気持ちは誰よりも深いと思う。だがこちらばかり焦ったところで、そなたは里だ。私がそちらへ行く訳にはいかない。そなたがやって来るのがいいだろう」


 恐れ多いが、勝手なことだ、とも彼女は思う。


「近いうちに招きたいが、この月には色々と宮中も忙しい。そう、来月。十五夜にはきっと迎えを寄越そう。今日のこの琴の調子を、約束を違えない様に、必ず十五夜には、と思って欲しい」

「十五夜にやって来るのはかぐや姫ではないのでしょうか?」


 切り返す。

 細々と思いを込めた言葉を言い尽くされるのは嫌ではない。ましてや相手は他でも無い帝である。

 だがそれでも。

 帝はふと、尚侍が戻る前に、ぜひ一度その姿をはっきりと見てみたいと思う。だからと言って御殿油を灯すのは、明るすぎて露骨である。

 どうしたものか、と思っているところに、ふと螢がふわりと飛んで来る。


「おお、そうだ」


 帝は思わず立ち上がると、袖に螢を包む。この光で見えないものかと。

 だが三、四匹だ。まだ少ない。


「童部は居るか? 螢を少し取って来るのだ。あの有名な故事を思い出すが良い…」


 だが殿上童達は夜も更けたこの時間には居ない。

 代わりに立ち上がったのは仲忠だった。



「おや、何をしてらっしゃるのですか?」


 低く堂々とした声が、仲忠の耳に響いた。


「螢を取ろうと思って来たのですが」


 ふふ、と仲忠は笑う。

 帝が母の顔を見るために螢を求めているから、と出たはいいが、内裏の近くで螢が沢山居るところが仲忠には上手く判らない。

 とりあえず水のほとりや草むらで螢を探していたところ。


「螢ですか」


 響く低い声で相手は答える。


「お手伝いしましょう。帝のお召しなのでしょう?」

「いえ、それは……」

「螢の居場所なら、私は良く知っています」

「―――藤英どの」


 こっちです、と彼は仲忠を誘ってやや外れた水辺へと導く。

 そこには、一面の螢、螢。

 淡い光が舞い飛び、絡まり、―――何処かへ消えて行く。


「これは凄い」

「私にとっては、夏の夜の灯りでした」


 あ、と仲忠は藤英の方を見る。


「彼らはようやく私から解放されたと思ったでししょうが」


 ふわり、と藤英は袖に一気に螢を包み込む。


「どの位必要なのですか?」

「そうですね。あなたの顔がはっきりと判るくらいに」

「それは困った。ではもう少しお互いがんばりましょう」


 ははは、と藤英は笑った。

 二人でその場に居る限りと思われる程の螢を捕らえる。


「ご一緒に」

「ご冗談を」


 そう言って藤英は袖から袖へとそっと螢を移す。

 では、と手を振る袖から、一匹運のいい螢が飛んで行く。



 袖から袖へ。

 螢が今度は仲忠の袍から、帝の直衣の袖へと移し取られる。

 だがそれは几帳に隠れて尚侍の目には届かない。

 息子がやってきた。何かあったのだろうか。何処かでぼんやりとした光が洩れている。そう感じるだけである。

 帝は帝で、この企みがすぐに判るのはつまらない、と考える。

 螢を閉じこめたのは薄い羅の直衣。

 それを几帳の帷子の向こう側に隠したまま、戻ってきたとばかりに帝は尚侍に話を仕掛ける。


 と。


 ふっとその袖が動く。

 顔の間近に淡い光が寄せられる。

 あ、と尚侍は思わず小さな声を立てる。


「……駄目ですわ……

 ―――お召しになっている衣が薄いので、その袖から火が見えますが、びしょ濡れになった海女が住んでいることでございましょう… その姿にはがっかりなさる筈でございます―――」


 そう言いながら微笑む姿は、帝の思い描いていた様に――― いや、それ以上に美しいものだった。

 琴を弾くその才、それに加えてその容貌、並ぶ人などこの世には居ない、とまで帝には思われた。ほのかな光に見えるその姿は、切ない程である。

 満足した帝は尚侍に言う。


「年来の望みはこの螢の光で達することができた。

 ―――この年頃久しく涙に濡れて暮らしたが、袖の浦/袖の中の螢でほのかに姿を見ることが出来て嬉しく思う―――」



 それからも、しばらく話を続けるうちに、とうとう夜も明け、鳥の声なども聞こえる頃となった。


「『まれに逢う夜は』というのは本当だな。

 ―――暁を知らせる鶏の声を聞かないで、雛鳥/我々が同じねぐら/床に寝る工夫はないものだろうか」


 帝はふう、とため息をつきながら言う。


 と。


「―――卵の中で夢のうちに雛鳥になった私は、高いとぐらを身の及ばない所と思うのでございます/暗い中に帰る筈の私は畏れ多い御寝所とは縁の遠い者でございます」


 尚侍はそう返す。

 終わりなのですよ、と。

 夜が明けるから、と尚侍は退出を急ごうとする。

 すると帝がそれに言い返す。


「ご覧、これが暁か? 未明でも光は見えるものだ。右大将よ。兼雅よ。今は夜なのか? 暁なのか?」

「それは決めにくいことでございます」


 兼雅は答える。

 自分自身としては、暁だと言い張りたい。だが相手は帝なのだ。冗談であったとしても、暁と言い張ることはできない。彼は息子の様に強情になることはできない。


「ああ、でも木綿付鳥の『昼になる』という声も聞こえます。どちらでございましょう。どちらも違うのでしょうか。ああ、さっぱり判らない……

 ―――暁の東の雲はまだ暗いのであろうか。はっきりしないことだ。とは言うものの、鶏はせわしく暁を告げているな…―――

 そういう次第ですので、帝の仰せとは言え、はっきりした御返事は申し上げかねます」


 ふふん、と帝は笑う。


「尚侍よ、聞くがいい。この様に人が言っている。私はそれを聞いて、いよいよそなたへの思いが募るばかりだ。

 ―――たとえほのかにでも、木綿付鳥とさえ聞けば、逢う時が近づいたと思うだろう―――」

「―――『逢う』という名だけでも頼みにしたいものですのに、逢うことを許さない逢坂の関は越えることが出来ないそうでございます―――

 やはり判りませんわ。仰せのことは当たりません」

「ああ、言い甲斐の無いことを二人とも言うものだ。

 ―――ずいぶんとそなたを頼みにしたのに、縁が浅かったので、遂に結ばれずに絶えるのだろうか―――

 私がそなたを思うように、そなたは私を思ってはくれなかったのだ」


 それはそうだ、と尚侍は思う。そしてちら、と夫の方を横目で伺う。

 こういうひとだ。そして私は帝ではなく、このひとが大好きなのだ、と。  



 さて。

 その頃左大臣は、新尚侍への贈り物を帝に命じられ、蔵人所へ出向いていた。

 その彼がやがて様々なものを用意して戻ってくる。


「この辺りで宜しゅうございますか」


 帝の前には、すらりと用意されたものが紹介される。

 まず蒔絵の御衣櫃みぞびつが二十。これには布の台覆だいおおいを添えて。言うまでもなく、荷物を運ぶための木の棒も。

 綾のついた美しい箱が二十ほど。

 箱の覆いにする錦は、いざという時のために、と選んで揃えて作っておいたものである。だがこうやって見ると、まるで今日この日のために誂えておいた様にしか見えない。

 そして色々の趣あるものを入れた唐櫃。これは作物所の名人に作らせたものである。

 蔵人所の方では、唐人が来朝するたびに納め置く綾錦の中でも珍しいものや、香の優れたものを選んで、この櫃に納めていた。

 それもこれも、何か突然起こった素晴らしい事の折の料にと、ひつ懸子かけごに用意して、蔵人所に保管しておいたものである。

 左大臣はそれを思いだし、そうだこの折りに、と取り出したのだ。

 彼はそれらを眺めながら思った。これらの品物こそ、今夜の贈り物としては最も相応しいものであろう、と。

 まず何と言っても、贈り物を受ける相手は俊蔭の娘である。

 彼女の夫は右大将兼雅である。

 そして彼女の弾く手はかの名手俊蔭の残した秘曲なのだ。

 天の下、これほど優れた、心憎いまでの技が、いつの世にあろうか……

 左大臣はそう思い、取って置きの品を取り出したのだった。

 決して帝もそれを過分だと言って咎める様なことは無いだろう、と彼は信じた。

 その唐櫃が十掛。

 中には、まず花文綾の綾錦。

 そしてありったけの種類を尽くした香――― 麝香、沈、丁字など。

 これらの香は唐人が来る毎に持ってきたものから選んで取っておいたものである。

 やはりそこには美しい覆い布を添えて整えておく。

 またその上に、もう十掛の衣入れの櫃を持ち出す。

 その内五掛には、内蔵寮の絹の中でも最も良いものを五百疋選んで入れる。

 そしてもう五掛には、広さ五尺ばかりの、雪を振り掛けた様な真っ白な畳み綿を五百枚選んで入れた。

 また、后宮からからも左大臣同様に尚侍に贈り物をする。

 作物所の名工である「しづかはのなかつね」の作った蒔絵の衣箱が五具。

 そこに夏の衣類は夏のものとして一まとめ、という様にして四季それぞれの美しい衣装を用意する。

 衣装も、形木で染めたものもあり、その色も非常に美しいものである。唐衣、袿などは言うまでもない。

 それらをその箱に入れる時にまとめる包みや入帷子なども、素晴らしいものでである。

 入帷子は羅で作られ、包みは豪奢な「綺」という織物で作られ、海辺の空を緑色にした「海賦かいぶ」という模様が織り出されている。

 どれもこれも皆、唐の物である。

 大勢の女御達の中では、仁寿殿だけが贈り物をした。

 この夜の尚侍への贈り物として釣り合う様な豪華なものを、他の女御達はすぐには用意ができなかった。

 富貴な正頼の大事な娘である仁寿殿だからこそ、他の女御と違って、こういう時に贈り物ができるのである。

 ここで贈られたのは、まず銀で組まれた透箱三つ。これらの組目がまた非常に素晴らしいものであった。

 一具には、秋山を模して組み据えてある。野には草花や蝶に鳥、山には木の葉の色々に鳥がとまっている様子が、非常に素晴らしいものである。

 もう一具は夏の山である。山には緑の木の葉が繁り、鳥がとまってさえずり遊ぶ。また山河や、水鳥の居る様子、それに木の枝に虫達が棲む様子など、非常に生き生きとし、その山里に住む人々の気持ちまでが伝わってきそうな様子である。

 最後の一具は春の海である。浮かぶ島には春の桜が咲く様子、渡る船の様子、どちらも非常にのどかで素晴らしい。

 次に銀の高坏。これには金属の塗料を使って、足に至るまで、様々な美しい模様が描かれている。

 そして衣装。言うまでもなく立派な夏冬のものを透箱に入れて、敷物や上覆い、それを更に上で結んだ組み紐に至るまで、贈り物の包み方が非常によく考えられたものであることが判る。

 最後に髪飾りの一式も添えられ、揃えられたその様子ときたら、皆息を呑むしかなかった。


   *


 それらのものを携え、三条の家に尚侍が退出した時には、参内した時の供に加え、このたびの任官を祝う人々の群で大変な程であった。

 三条殿では祝宴――― 特に女宴が大々的に行われ、兼雅は妻を誇りに思うと同時に、更に愛しさが増し―――

 そしてその一方で、また参内する様なことがあったらどうしよう、と気を揉むのであった。

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うつほ物語②~仲忠くんの母上が尚侍になるはなし 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo

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