クォン・ジエ『師任堂(サイムダン)の真紅の絹の包み』

クォン・ジエ『師任堂サイムダンの真紅の絹の包み』国書刊行会、2019年。


16世紀ごろ、朝鮮王朝の封建制度のもとに生き、絵と書に打ち込んだひとりの両班階級の女性の生涯を描いた小説。

主人公とその息子にはモデルがおり(名前も同じ)、主人公の娘時代の友人ふたりにも、名前はちがってもはっきりとしたモデルがいるそうです。


序盤から中盤にかけては、主人公仁善インソンの結婚前、少女のころの生活と恋、友情が、丹念でうつくしい朝鮮半島の季節・時候にあわせた風俗習慣、自然の描写とともに描かれ、そのなかでも女性に対する抑圧(近世の東アジアでは共通するように思います)をひたひたと描いて、どちらかというとゆっくり読んだのですが、中盤、その抑圧によって仁善の恋が破滅的な展開になるにあたり、ぐぐっと惹きつけられ、全体で450頁ほどの長い作品ですが、以降は最後までほぼ一気に読めました。


中盤以降、わたしはこの物語を藤沢周平の描いた世界と非常にちかいように思い始めました。とくに『蝉しぐれ』。なんども映像化された有名な作品なので、紹介はあっさりめにしますが、江戸時代、下級武士に生まれた主人公が、少年時代に思いを寄せた女性のために、中年になってから命をかけるという物語です。封建制度に押しつぶされて生きなければならないひとびとの苦悩を描き、真摯で朴訥とした下級武士のひとびとを主人公にした藤沢周平の作品群。両班と武士、このふたつの制度にはかなりおおきなちがいがあるように思えますし、朝鮮半島と同時代の日本でも価値観は異なる部分がおおいように思いますが、男女ともに生きることに対してつよい抑圧の働いた時代を描いていることは共通しているように思います。男も女も、支配階級にありながら、儒教的価値観や地域社会に縛られ、「自由に」生きることの叶わなかった時代。


「自由に」生きるとはどういうことか、この『師任堂の真紅の絹の包み』でもくり返し語られます。鮮烈な恋に破れ、強いられて結婚し、望んでもいないのに子どもを産み続けた仁善。そのなかでの彼女の自由とは、恋の相手を思い続け、絵や書に打ち込んで現実の残酷さから逃れ、作品を通じて宇宙の真理にちかづき、その上で現実で子どもを産み育てる喜びを得て、親族や夫となんとかこころを通わせることでした。


封建制度の社会は、平和な時代であるといわれがちですが、とくに支配階級の下部にいるひとびとにとっては、残虐非道な時代でした。生まれる前から人生がすべて決まっていて、目上の人間に奉仕しつづけ、個人的な喜びはないがしろにされる。社会がさきにあって、個人はほとんど存在しない。仁善がこの時代に生まれなければ、どんな人生だっただろうと考えます。好きな、その上才能のあることに打ち込み、愛するひとと結ばれる人生が、現代であれば可能だったかもしれません。


仁善が、齢を重ねることで、恋を引いた視線で見つめ、思っていた恋人とは別に生きることを受け入れていく過程もみごとに描かれます。人間はほかの人間、夫や子ども、姑や母と一緒に生きていく。狭い場所に閉じ込められた両班女性でもそれは変わりません。家のなかで生きながら、庭の草花、虫を描き、草書を書いて、仁善はそれをなぐさめに、それがなければ普通の生活はできないと思いながら、生きていきます。そして、その作品たちは、自分と同じ才能を持った娘に遺した青い絹の包みと、恋や欲望、他人に打ち明けられなかった本心を反映した真紅の絹の包みとなるのです。絵や書が、それをつくったひとの人生を表わし、その上、そのひとが亡くなっても残り続けることについて考えます。仁善はその真紅の包みのほうを、人生の最後で焼こうとします。自分の作品が、目をそむけたい、自分を傷つける過去を反映し、ずっと存在し続けることに耐えられない、ひとりの芸術家がそこに現れるのです。その包みがどうなるかは、小説を読んでたしかめて頂きたいですが、ひとつは、わたしも、そうして作品に復讐される可能性があるのだろうな、と感じました。


最後に、この小説の翻訳についてですが、正直に言えば、最初は非常に読みにくいです。句読点が少ないのです。韓国人の方が訳されていますが、日本人の感覚には馴染まない語彙選びも感じます。ですが、中盤まで耐えていけば、物語の奔流に乗って、最後まで読み通せました。


「兄のことはあふれる恨みの泉だった。懐かしさ、会いたさの溢れた泉だった。その泉に筆を湿らせて生きてきた。」441頁

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2020年に読んだ本のこと 鹿紙 路 @michishikagami

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