2020年に読んだ本のこと

鹿紙 路

イーユン・リー『独りでいるより優しくて』

イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳『独りでいるより優しくて』河出書房新社、2015年。


読み終わった。そう言いたくなるほど、重いものを背負ってのろのろ歩くような読書だった。人生は苦役のようなものだが、凍えるような孤独と、にじみ浸すような温かい優しさを持っている。その、そのもののような読書。


物語は時間軸を複数持ち、主人公はおそらく一人だがそのほかにも二人重要人物がおり、その三人の高校時代の四ヶ月と、そこから二一年経ったあとの三十代後半になった三人の暮らし、ふたつが基本的な舞台となる。かれらはかれらより数歳年上の女性――シャオアイの服毒に人生を歪まされることになる。


小説の冒頭はシャオアイの死から始まる。彼女は三人の高校時代に服毒し、その後二〇年ほど脳やほかの障害を持ちながら生きていたのだが、三人のうちの一人、泊陽(ボーヤン)に火葬される。


わたしはこの物語の主人公は黙然(モーラン)だと思う。ほかの二人、泊陽と如玉(ルーユイ)は、物語を進め、クライマックスを演じはするが、内面の変化がない。黙然だけが、物語の終盤でこころのうちに変化を持つ。それは「独りでいるより優しい」状態を手に入れることである上、服毒事件から距離を取った状態への移動だ。


この三人の名前の漢字にも意味がある。原書は英語なので漢字はないが、イーユン・リーが日本語訳出版にあたり登場人物の名前の漢字を指定したという。その指定の意味を感じ取れるのは、日本語読者のおおきな特権だと思う。黙然。黙っていることを宿命づけられたけれど、一度だけ口を開き、しかしそれで決定的な失敗をしたひと。泊陽。あたたかな場所にとどまり、服毒に直接的な影響を受けないと思われたひと。如玉。玉のように美しく、しかし鉱物のように変化しないひと。


ウィリアム・トレヴァーは「ツルゲーネフを読む声」で平凡なひとびとのおぞましい行いを書いたが、「ウィリアム・トレヴァーのように書きたい」と言ったイーユン・リーは、この小説で平凡でいられなくなったひとびとのいたましい行いを書いた。文体のはしばしに残酷な真実を突きつける感じはまさしくトレヴァー直系なのだが、トレヴァーが「悪意」や「憎しみ」を(それと感じさせないような端正な文体で)描いてしまうのに比べ、この小説にはそれらがほとんどない。悪意も憎しみも抱かないのに、なすすべなく痛ましい生き方をするひとびとが描かれる。


「経年劣化でボロボロになった合皮の服を掻き分けたらドロドロの傷が現れた」みたいな展開

徹頭徹尾真っ赤な鮮血が噴き出す爛れた傷を見せられているような、鉄の熊手でこころのやらかいところをゾリゾリ掻きこそげられてるような小説


これらはわたしが読んでいるあいだに漏らしたTwitterのつぶやきだが、このように痛ましい。痛ましいのに読み続けたいのは、かれらのうち二人は「善良であること」「善人であること」を求めているからであるように思う。やりがいのある仕事、楽しい趣味、結婚や子育て、両親への孝行など、世間のひとびとが手に入れる善良な幸福は、二人からは遠い。シャオアイの服毒によって遠くなり、けれど善を求め続ける生き方。黙然は元夫がガンになり、かれと一緒に暮らすことを選ぶこと、かれとことばを交わすことを辞めないことによって、最後優しさを得る。元夫がまもなく亡くなるだろうことは、読者はみなわかっているのだが、黙然はかれを失っても、優しさを失わないのではないかとわたしは考える。それはこの物語の数少ない救いだろう。


痛ましさのなかにも真実はある。それを凝視して、読者は慰めを得る。


「それはほがらかだと褒められたいからではなく、世の中にふりまけるどんな小さな明るさも慰めになると、本当に思っていたからだった。彼女は(中略)善人だった。善人以外の何者になれるだろう。でも結局のところ、善人でいてもこの世の中ではほとんど意味がない。」(206頁)


如玉の冷徹さについてはどうだろうか。彼女は容易に悪役になれるのだが、読者は北京への列車に乗る寄る辺ない孤児である彼女のことを知っている。他人を幸福なのか不幸なのか知りたがる黙然に対して、如玉と同じ感想を持つこともできる(わたしはできた)。物語のクライマックスで、彼女が旅立ち、再会することもまた変化なのだが、どうも道連れも含めて地獄へ一直線なような気がする。彼女の選択はやむを得ないと思うのだが、どうにも痛ましい。


小説全体を通して、迫真的な描写と豊かな情緒が横溢する。稀有な小説である。

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