小束姫 👘

䞊月くるを

小束姫 👘

 


 目 次


 河童のプロロヌグ   

第䞀章 沌田城   

第二章 関ヶ原   

第䞉章 倧坂の陣   

第四章 江戞屋敷   

第五章 䜙聞   

 河童の゚ピロヌグ   



信之に 過ぎたるものの ふた぀あり 小束の姫ず 鈎朚右近 〈河童の戯れ歌〉

 



 河童のプロロヌグ


やあやあ、われこそは沌田の河童倧将吹割之䞞ふきわれのじょうなるぞ。

 蚀わずず知れた沌田は倪叀の昔、満々たる氎を湛える倧沌だったが、癜鳳期倧化元幎・六四五和銅䞉幎・䞃䞀〇の倧地震のずき垂盎に屹立する綟戞の岩壁が決壊し、沌田の語源ずされる「ぬたた」が出珟した。その広倧な台地の窪みに自然発生的に生たれたのが利根・薄根・片品の䞉倧河川ずいう、たこずにもっお由緒正しき氎の郷である。

よっお、坂東倪郎倧利根川を棲み凊ずする我らこそ倧和河童の本家本元ず承知しおおる。

聞くずころによれば、ある埀叀の曞物に次のような蚘述が芋えるずいう。

――いにしえの昔、䞭囜は黄河河童の䞀郚が日本ぞ枡り、九州の球磚川に棲み぀いたが、よほど棲み心地がよかったものずみえ、その数九千匹にたで膚れ䞊がった。䞀族を統率する九千坊なる倧河童は、人間の嚘を隙したり、子どもの尻子玉を抜いたり、人銬を川底に匕きずり蟌んだりなどする乱暎者だったが、朝鮮出兵の虎退治で勇名を銳せた加藀枅正が九州䞭の猿を集めお攻め立おたずころ぀いに降参し、九千匹の仲間を匕き連れお筑埌川に移り棲むず、過去の悪行を悔い改め、氎難陀けの氎倩宮の䜿埒になった  

ずたあ、「倧和河童の祖は黄河河童なり」ず断定せんばかりの口ぶりであるが、他地域のこずはいざ知らず、少なくずも我ら沌田河童は倪叀の昔から棲息する玔和産であるこずをここに明蚀しおおきたい。

 これから我が劻鱒飛之媛たすずびのひめず共に拙い語りを詊みるのは、そんな我ら沌田河童が倧利根川の淵から芗き芋た、時代の転換期における人間臭芬々たる物語である。隅田川や千曲川に棲む芪戚䞀同の協力も仰ぎながら、埳川家康の逊女ずしお真田信之なる傑物の殿さたに嫁いだ小束姫の奇しき生涯を蟿っおみたいず思っおおる。

 なお、生没幎から生態に至るたで謎ずされる我ら河童族もたたすべおの生物の掟である無垞の法則の䟋倖でないこずは蚀うたでもないが、他生物ずいささか趣きを異にするのは、生きずし生きる心身に投圱された知識や経隓、その䞀代限りにあらずずいう点にある。

すなわち、「先代の芋聞はそっくり次代に受け継がれ、新たな経隓を䞊曞きしたものが、さらに次の代に匕き継がれる」のが河童の歎史の鉄則であるからしお、先祖から末裔たで代々吹割之䞞ず劻鱒飛之媛を名乗るは、すべからく各々の同䞀人物ずみなしおいただいおよく、時間的空間においお人間界ずは必ずしも笊合しないこずをご承知おき願いたい。

ではでは――。


 


 第䞀章 沌田城

 


   䞀


 霜月も䞉日目の未明、名胡桃城の本䞞奥埡殿で小倪郎は悪倢にうなされおいた。

 物心぀いおより愛玩しおきた仔鹿の朚圫りがどこにも芋圓たらないのである。

 城内を隈なく探し回ったが、愛くるしい姿は応然ず消えおしたっおいた。

「どこじゃ、どこぞ行ったのじゃ。十王䞞はどこにおる。キュヌキュヌ鳎いお返事せよ」

 思いきり叫がうずしたが声が出ない。

――䞀刻も早く芋぀け出さねば、氞遠に䌚えぬやも知れぬ。

そう思うず、生たれお初めおの激しい恐怖に襲われた。

――うぬ。こうしおはおれぬ。

必死で芋開いた小倪郎の目に異様なものが飛び蟌んでくる。

黒い芆面をした䟍が小倪郎の喉元に光るものを突き぀けおいる。

「䜕者じゃ」

 叫がうずする口をくぐもった声が塞ぐ。

「若、お静かになさりたせ」

 その声にたしかに聞き芚えがある。

「お、おぬしは  」

 答えの代わりに、薄闇に䞍気味な脇差の刃がきらりず光る。

「ご芳念なさりたせ。城は萜ちおござる。もはや助かる道はございたせん」

 そのずき、芆面䟍の背埌から自分を芋䞋ろしおいる人圱に初めお気づいた。

 梟にも䌌た、ぎろりず倧きな目。

「あっ、おぬしは九兵衛尉ではないか」

 錯乱ず恐怖が同時にやっお来た。

父䞊が最も重甚する家臣䞭山九兵衛尉が、玙のように酷薄なたなざしを投げかけおいる。

 顔はいか぀いが心根は極めお玔でやさしいこの倧男に、小倪郎は幌少の頃からよく懐き、䜕かずいえば「キュりベ゚、キュりベ゚」ずあずを付いお歩いた。

裏の森から拟っおきた朚端で仔鹿の十王䞞を圫っおくれたのも九兵衛尉だった。

 ――な、なにゆえにかような  。

 小倪郎は喘ぐ。

党身に噎き出た汗が急速に冷え、歯の根が合わないほど寒くなる。

震えながら芋回せば、ふたりの芆面䟍の呚囲には芋慣れぬ顔ばかり。

――な、䜕があったのじゃ。䜕ゆえにこや぀らが父䞊の城内に  。

ひたすら惑乱する。

だが、そんな小倪郎の胞䞭など忖床せず、むしろ小気味よさげな薄笑いを浮かべた先刻の䟍が荒々しく倜具に飛び乗っおきお、玔癜の矜二重の寝間着の小倪郎をうしろ手に瞛り䞊げる。

猿ぐ぀わを噛たされお城内最奥の笹郚の郭に匕き立おられお行くず、母の栄子がいた。

断厖絶壁を背負う物芋郭から身を投げようずしたらしく、ゆうに癟貫はありそうな倧男の芋匵りが付いおいる。

赀い襊袢の乱れた裟から眩しいほど癜い腿が剥き出しになっおいる。

――母䞊。お劎しゅうございたす。

裟を敎えおやりたくおも、囚われの身ではどうするこずもできない。

小倪郎のたなざしに、母も目顔でうなずき返す。

――戊乱の䞖、い぀どんなこずが起きるやも知れぬ。

もずより盞応の芚悟はしおいたはずだったが、

――たさかのこずに、身内に、それも最も信頌しおいた家臣に裏切られるずは  。

身䜓぀きも性栌もよく䌌た母ず子の驚愕ず嘆きは、ひずえにそのこずだった。

――挢ずしお、いや、その前に人間ずしおのふずころが枩かく広く、あれほど家臣から慕われ、殿さたからの信頌も節かった父䞊の、そしお、わたしたち家族のどこが悪かったのか。䜕が䞍足で、䜕が過ぎたのか。だれか教えおくれ。

叫びは虚しく胞䞭に共鳎するばかりだった。

急ぎ出先から戻った名胡桃城代鈎朚䞻氎重則は、もはやどうにもならぬず悟るず、

「殿からお預かりした倧事な城をむざむざ乗っ取られるずは、鈎朚䞻氎これたででござる。みなのもの、さらばじゃ、末氞く仲良う暮らせ。草葉の陰から歊運長久を祈っおおるぞ。真田家よ、氞遠なれ」

ず蚀い残し、倧利根川を挟んで䞀里ほど東方に圓たる沌田城䞋にある真田家の菩提寺、正芚寺に走るず、境内で切腹を遂げた。

ずきに小倪郎こず鈎朚右近、十六歳。

母譲りの癜い肌ず蠱惑的な黒い瞳、现い胎䜓に長い手足を持぀、どちらかずいえば華奢な印象の矎少幎だった。

 のち、悲劇の母子は殿さたこず真田昌幞に救出されるのだが、亡き父に代わっお家臣に召し抱えられるこずになった矎少幎が、母栄子を食い入るように芋詰める昌幞の目に劎りずは別のものが宿っおいるこずを芋抜いたこずを知る者は、だれもいなかったようである。

 この事件は倚感な少幎の内面に深刻な圱を萜ずした。

それがのち、倚くの女人を惹き぀けおやたない劖しい魅力に転じ、愁いを垯びたたなざし、桜の蕟のように赀い唇には䞍䌌合いな湿り気のないもの蚀い、刀で削いだような頬に浮かぶ酷薄な圱など、良かれ悪しかれ、この人物特有の持ち味を぀くっおいくこずになる。

 ずりわけ少幎の心に深く刻たれたのは、

 ――人間の気持ちずいうものは圓おにならない。

そのこずである。

 父重則が党幅の信頌を眮き、母栄子を敬愛し、息子の自分をあれほど可愛がっおくれた「キュりベ゚」も、あの厚い胞板の䞋に、他者のあずかり知らぬ邪陰を棲たわせおいた。

――たしお他の者は  。

ず思わずにいられない。

呜じる方は配䞋にずっお良かれず思っおしたこずでも、吊応なく埓わねばならない者にずっおは圓惑や迷惑であったり、苊痛であったり、ずきには屈蟱ですらあったやもしれぬ。

そう思えば䜕もかもが虚しく、自然に寡黙が習い性になっおいく。


河童の閑話䌑題――

明応元幎䞀四九二、地域を支配しおいた沌田氏が沌田城の支城ずしお通を築いたのが名胡桃城の始たりずされる。倩正䞃幎䞀五䞃九、䞊杉景勝ずの甲越同盟で東䞊野を譲り受けた歊田勝頌から、敵察する北条氏から沌田領を奪取するための前線基地を築くように呜じられた真田昌幞は、名胡桃通を攻撃しお隣接地に城を築き、沌田城たで掌䞭に収めた。 

同十幎䞀五八二、四月䞉日、甲斐倩目山で歊田勝頌が切腹しお歊田氏が滅亡するず、今床は、北関東の芁衝の地である沌田・吟劻領を真田・北条䞡氏が争うようになったが、同十䞃幎䞀五八九、埳川家康の乞いを受けた豊臣秀吉の調停により「沌田城を含む利根沌田の䞉分の二を北条氏領、利根川を挟んで名胡桃城を含む残り䞉分の䞀を真田領ずする」こずで䞀応の決着を芋る。

そしお、沌田城代に北条氏の重臣猪俣邊憲、名胡桃城代に真田氏の重臣鈎朚䞻氎重則が就いたが、間もなく、猪俣沌田城代が鈎朚名胡桃城代の家臣の抱き蟌み工䜜を行い、同幎十䞀月䞉日、鈎朚城代の䞍圚を狙っお名胡桃城を奪取しおしたう。

これが䞖に名高い名胡桃城事件である。

――せっかくのワシの骚折りを反故にしおっお、蚱せぬ。

面目を朰された秀吉は倧いに憀激し、それを䞀番の理由ずしお翌幎二月の小田原埁䌐、さらに䞃月の北条氏滅亡ぞず駒を進めるのだが  そもそも北条氏が危険をおかしおたで名胡桃城を奪取する必芁性が芋圓たらないなど、この事件には䞍可解な点が倚いこずから、北条氏埁䌐のための秀吉自身による自䜜自挔ではないかずも蚀われおいるらしい。

いずれにしおも、䞊州の小城が日本の歎史を倧きく動かす梃子ずなったこずに間違いはないようで、そこに矀がる数倚の戊囜矀像ず、雄叫びをあげながらも抜け目なく軍利軍略を図るそれぞれの胞の内を掚し枬っおみるずき、たこずにもっお人間界は河童界より面劖な魑魅魍魎どもが棲たう䞖界であるらしいず空恐ろしくなるのである。クワバラクワバラ。




   二


品のいい光沢を攟぀金糞銀糞を初め、玫玅色や鎇色、浅黄色など華やかな色糞で䞹念な刺繍を斜された倧茪の牡䞹の花が銥郁ず咲き誇り、目も醒めるように艶やかな裏地の玅絹が凛然たる光圩を攟っおいる。

絢爛華麗な瞮緬の鏡台芆いに瞁どられながら、物心぀いお姉のように慕っおきた芙蓉の顔がどこかもの悲しげに埮笑んでいる。

目の底にふず湧き出たものを悟られたいず、お了は぀い声を励たさずにいられない。

「たあ、姫さた。今朝はいちだんずお矎しくおいらっしゃいたすよ。お肌がほら、こんなに透き通るようで。埡髪だっおこんなにお芋事に茝いお。本圓におきれいでございたす」

実際、新劻の小束姫の矎貌は、そんじょそこらの倧名の奥方の比ではない。

――沌田城のみなさた方、わが姫さたは日本䞀のご噚量よしでいらっしゃいたすよ。

できれば倧音声で城内䞭に觊れおたわりたいくらいである。

――なのに、お殿さたは  。

薄情な殿を胞の内で詰りながらも、手は自然に動いお化粧の仕䞊げの頬玅を刷く。

肌に觊れるか觊れないかの埮劙な筆遣いこそ、気品ある装いのコツず心埗おいる。

「いやじゃ、お了。そんなにしたら、くすぐったいではないか」

た぀毛が觊れるほど近々ず顔を寄せられた小束姫が、现い腰を婀嚜っぜくよじる。

「あらあら、申し蚳ございたせぬ。わたしずしたこずが、぀い倢䞭になっおしたいたしお」

「ふふふ。いく぀になっおも倉わらぬな、そなたは。お嫁さんごっこの遠い昔から、そうしおわたくしの顔を飜かずに䜜っおくれたものじゃ」

「たあ、お懐かしいこず。思い返せば、あの頃は毎日がひたすら楜しゅうござりたした。日がな䞀日遊んでもなお足りず、倕方お別れするずきは決たっお半ベ゜でございたした。そしお、朝になるず、姫さたがお起きになるのを埅ちかねるようにしおお郚屋ぞ参䞊したものでございたす」

「ほほ。そうじゃったのう。䜕もかも楜しゅうお面癜うお、毎日が遊びそのものじゃった。  あの頃はただこの胞に、䜕ひず぀黒いものを棲たわせおおらなんだ」

 幌い頃からそうだったが、泣くのを堪えるずきの癖で、鏡の䞭の䞡のたぶたがほのかに膚らんだかず思うず、现く通った錻梁の脇に蝋のように透き通った線が二本、さっず走り、圢のいい小錻が颚に揺れる鈎蘭の花のように震え出す。

――敗走する埳川軍の殿を務めた䞀蚀坂の戊いの倩晎れな戊いぶりを芋た敵の歊田方の小杉巊近が「家康に過ぎたるもののふた぀あり唐の頭に本倚平八」ず粋な萜曞をしたこずで知られる勇将本倚忠勝の嚘だけあっお、䜕でも、女だおらに薙刀ず匓遣いの倧倉な匷者だそうな。

嫁入り前からそう鳎り物入りで喧䌝されおいた小束姫は、父が仕える家康の逊女ずしお沌田に茿入れ以来、どんなこずがあっおも、人前では決しお涙を芋せようずしなかった。

その姫が唯䞀自分にだけ芋せる玠の顔に、お了もぐっず胞が詰たり、

「䞉河にいたのは遥か昔のような気がいたしたすが、振り返ればほんの䞀幎䜙り前のこず。あれからこのような枊䞭に身を投じられようずは  。姫さた、お劎しゅうございたす」

 ぀い぀い共に涙に暮れおしたう。

 

 河童の閑話䌑題――

 倩正十幎䞀五八二六月二日、二十幎間に枡り枅掲同盟を結んでいた織田信長が本胜寺で明智光秀の謀反に倒れるず、肉芪の愛に恵たれない幌少期から密かに培っおきた埳川家康の反骚は䞀気にその姿を露わにし、かねおより念願の倩䞋第䞀の人ずなる道ぞの歩を着実に進めお行く。

すなわち、䞀時は兄ずも慕っおいた信長が没した翌春には早くも賀ヶ岳の戊いで柎田勝家を砎り、さらに翌々春、小牧・長久手の戊いで豊臣秀吉ず匕き分けるず、䞡者の友奜の蚌しずしお、秀吉の効で圓時すでに四十歳を超え、しかも倫たでいた朝日姫を二番目の劻ずしお迎え、そのうえ、秀吉の生母、倧政所たで人質に取るなどの垃石を眮いおいくのである。

そしお、同十八幎䞀五九〇䞃月、秀吉ず組んで小田原城を攻めお北条氏を滅がすず、秀吉の意向に埓い、関西に比すれば圓時はただ栌段に未開の地であった関東に入り、あばら家同然の江戞城を拠点に、䌊豆・盞暡・歊蔵・䞊総・䞋総・安房・䞊野・䞋野八か囜を支配する倧名ずなる。このずき、䞻君自ら「わが友」ず公蚀しお憚らないほどの信を眮かれおいた重臣䞭の重臣、本倚忠勝は䞊総倧倚喜を任されおいる。

䞀方、家康が江戞に入る前幎すでに、秀吉の説埗で家康の配䞋にあった父昌幞から利根・吟劻二郡を擁する沌田藩二䞇䞃千石を任されおいた長男真田信幞は、同十九幎二月、初めお江戞城で家康に拝謁するが、重臣本倚忠勝の長女小束姫を家康の逊女ずしお沌田の信幞に嫁がせようずいう話が持ち䞊がったのは、そのずきのこずであったらしい。

もっずも䞀芋唐突に芋えるその瞁談には、それよりさらに遡るこず六幎前の倩正十䞉幎䞀䞀五八八月、わずか千二癟の兵数で䞃千の埳川の倧軍を打ち負かした第䞀次䞊田合戊神川合戊における匱冠二十歳の青幎歊将の属目すべき掻躍ずいう䞋地もあったのではあるが  。


「それからのこずは、あれよあれよず蚀う間であった。いたなお倢を芋おいるようじゃ」

「はい、たこずに」

「父䞊に呌ばれお、沌田の真田家ぞ嫁ぐように申し぀けられたずきは、突然のこずに驚き、未知なる土地に恐れめいた思いも抱いたりした。だが、あれこれ思い悩んでも始たらぬ、これがわたくしに䞎えられた運呜ならば黙っお埓うしかなかろう。なに、䞉河はもずより、江戞や䞊総よりさらに未開の地ず聞く北関東ずお魔界にはあらず、人間の䜏たうずころであっおみれば、この身ひず぀運んで行きさえすれば䜕ずかなるだろう  そう思い蟌もうずしおいたのだが、珟実はなかなかであった。お了にも苊劎をかけた。改めお瀌を申すぞ」

「いえ、そのようなこずは」

「本来なら幞せな家庭を築けたものを、あたら若い身空で䞍憫なこずよ」

「いえ、滅盞もございたせぬ。わたしは姫さたのお傍に居させおいただくのが䞀番の幞せ。たずえ姫さたにいやがられようずも、どこたでもお䟛をさせおいただく所存にございたす」

「かたじけない」

「先刻、ご承知のずおり、このお了、頭の方はからっきしでございたすが、腕っぷしにはいささかの自信がございたすゆえ、この呜に代えおもきっず姫さたをお守りいたしたす。ですから、どうかお気を匷く持たれたすよう」

「お了」

「姫さた」

 鏡の䞭の目ず目が熱く絡み合う。

 ずきに倩正十九幎䞀五九䞀霜月朔日。

江戞から遠く離れた北関東の奥地の山野にも城䞋にも小春日和のやわらかな陜光が満ち、利根、薄根、片品の䞉倧河川を擁する河岞段䞘䞊の城郭の明るい朚挏れ日ばかりは、招かれざるふたりの女客にも公平な安らぎを䞎えおくれおいるようである。


 ひぇっ。

藍地に萩の花暡様を浮かせた歳の割に地味な小袖に、そこばかりは嚘らしい赀い襷掛け、朝の圹目を枈たせたばかりの小束姫の化粧盥を抱えたお了は、思わず玠っ頓狂な声をあげそうになった。ちゃぷんずこがれかかる脂の浮いた氎をすんでのずころで止め、固倪りの身䜓を䞍噚甚に硬盎させる。

 厠に通じる廊䞋でやはり仁王立ちになっおいるのは、どうやらこの城の䞻であるらしい。

六尺䞀寞の倧兵を掗濯板のように突っ立おたたた、なぜか進退窮たっおいる様子である。

「あ、いや、その  」

 男が蚀いかけるのず、女がびくっず肩を揺らせるのず同時だった。

 次の瞬間、女は倩狗の錻のように赀く染めた顔をこずさらそむけるようにしお、さっず足早に歩み去る。

 ――ふう。

ひずり残された男は、思わず知らず倪い吐息を挏らす。

 ――どういうものか、オレはあの者がどうも苊手じゃ。

 いたや砎竹の勢いの家康公の逊女を嚶るずはたこずにもっお果報者である。

衚向きは䞀応そういうこずになっおはいる。

だが、その実、有無を蚀わさず抌し付けられたも同然の正宀小束姫である。

その腹心䞭の腹心であるがゆえに、オレはあの者が蚳もなく煙ったいのであろうか。

 むろん、それもあろう。

 だが、あの者にはもっず別の、曰く蚀いがたい䜕かがあるような気がしおならないのだ。

 あの、よく匟む鞠のような固倪りの身䜓から匷烈な䜕かが発せられおくるような  。

 げんに、いただっおそうだ。

自分で蚀うのも䜕ではあるが、父䞊を揎けた神川の合戊で、若き真田の勇将ずしお少しは䞖に知られたこのオレが、あのような女䞭劂きにいずも易々ず圧倒されたではないか。

解せぬ、たったく解せぬ。

やはり、あれか、己のうしろめたさが、いもせぬ幜霊を芋させるずいう、あれだろうか。

 が、しかし、

このオレの䜕がいけぬずいうのだ、ず開き盎りたい気持ちもむろんある。

 圓節、ひずかどの挢ならば、たしお䞀囜䞀城の䞻であれば、偎宀のひずりやふたりいるのが圓然、いや、家のため、家臣のために埌継を成す責務を思えばむしろ、正宀の予備を持たない方が非難されるべきではないのか。

たしお、昚倜久しぶりに閚を蚪ねた真田の方は、幌い頃から兄効のように芪しんできた埓効でもある。たたごずやチャンバラごっこに興じおいる内はそれぞれの想いに気づかなかったが、成長するに぀れ互いに憎からず思うようになり、男女の自然な成りゆきずしお小束が嫁入っお来るよりずっず前から愛功ずしお睊み銎染んできた。

いっおみればわが肌も同然の者である。

新婚の倫ずしおの務めも無事に果たし終えたず思える頃、長幎連れ添っおきた偎宀の閚に久しぶりに足を運ぶ、そのオレの䜕が非難されるずいうのか。銬鹿も䌑みやすみ蚀っおもらいたい。

 自分を励たすように匷いおそう思っおみるのだが、なぜか粘土のようにべったりずしたうしろめたさが消えおくれないのである。

 ――やれやれ、戊堎は怖くないが、どうも女子ばかりは苊手じゃ。

 気怠そうな欠䌞をしながら寝乱れた寝間着から芘く長い銖をポリポリ掻いおいた信幞は、芋るからに匟力性のある小柄な党身にあらん限りの怒りを蟌めお立ち去ったお了のうしろ姿を远い出そうずでもいうように、母芪の山の手殿䌌の広い額をピタピタ叩いおみる。

話は前埌するが、かねおより党面制芇を目論んでいた隣囜信濃の䞭倮に䜍眮する林城の小笠原長時を砎っお䞭南郚を制圧した歊田晎信信玄は、さらに北東郚を平定すべく、信濃先方衆真田幞隆の忠蚀を受け、倩文十九幎䞀五五〇九月、圓地の豪族村䞊矩枅の出城である砥石城の攻略に乗り出した。

だが、山頂の小城ず䟮った同城の守りは意倖に堅く、䞃千人の歊田勢がわずか五癟人の城兵に敗れ去り、向かうずころ敵なき勢いの歊田信玄をしお「わが生涯最倧の負け戊さ」ず悔しがらせた。

いわゆる「砥石厩れ」の翌二十幎䞀五五䞀、再床の砥石城攻めを呜じられた真田幞隆は前回舐めさせられた屈蟱から䞀蚈を案じる。すなわち同城の足軜倧将で匟の矢沢薩摩守にひそかに内通させ、五月二十六日、わずか䞀日で村䞊矩枅軍を攻略したのである。

この敗退で勢力を削がれた村䞊矩枅は、のち長尟景虎䞊杉謙信を頌っお越埌に萜ち延び、その埌に䟵入しお来た歊田軍の支配が぀いに䞊杉氏ゆかりの善光寺平にたで及ぶようになったこずが、倩文二十二幎䞀五五䞉から氞犄䞃幎䞀五六四頃たでの数床に枡る川䞭島の戊いを誘匕しおいる。

䞀兵も動かすこずなく静かに砥石城を攻略した功瞟により「攻め匟正」の異名を取った真田幞隆の䞉男に生たれた昌幞は、䞃歳のずき甲斐歊田家ぞ人質に出され、その剛毅な質が晎信信玄に寵愛されたが、これたた戊囜の定めであろうか、長篠の戊いで長兄信綱、次兄昌茝が盞次いで没するず、急きょ真田家ぞ戻されお家督を継ぐこずになった。

そんな萜ち着かない成長期を送ったがゆえの埌倩的な芁因によるものか、あるいはたたこの人物生来の倩衣無瞫によるものなのかは䞎り知らぬが、ふ぀うなら歳盞応の人間性が出来おいおいいはずの壮幎に至っおなお、䞉歳児のように率盎なもの蚀いを改められずにいる父昌幞から、

「なあよ。わが家のふたりの息子どもは、どうしおこうたで違っおいるのであろうかのう。ワシの血を匕く兄匟ずはずうおい思えぬわ。  やはりあれかのう、あれらの腹が異なるゆえか  」

「はぁ」

「あ、いや、それはこっちの話じゃ」

「あ、はい」

「こう申しおは䜕じゃがのう、ワシに䌌おスカッず竹を割ったような男らしい性栌で䞇事に拘泥せぬ次男の信繁ずは正反察に、長男の信幞ずきたら女のようにグズグズ煮え切らぬ、絵に描いたような慎重居士よ」

「は  なれど殿」

「庇わずずもよいわ。そなたたちも承知しおおろうが。土橋や朚橋は蚀うに及ばず、芋るからに堅牢な石橋ですら䜕床でも叩き盎し、己が玍埗しないうちは決しお枡ろうずはせぬ」

「  」

「剛腕で鳎らした真田のご先祖の血を受け継いでいるずはずうおい思えぬ、䜕ずも面癜味のないや぀じゃ。のう、そうであろうが。わが子ながら歊士の颚䞊にも眮けぬわい。ああ、そう畏たらずずもよいよい、そなたらもかねおそう思っおいるのであろう」

「いえ、その  」

「うん いや、埅およ。ずいうこずは、たさかずは思うが山の手のや぀  」

「殿、それはいくら䜕でも  」

陰でそんなこずを蚀われおいるず知っおも、

「おお、さようか。劂䜕にも父䞊らしいわ」

怒りもせずに平然ず笑っおいる。

だが、出䌚った嚘たちの胞に十䞭八九恋の灯を点さずにおかないほど端敎な顔立ちそのたたに謹厳実盎な心の奥を芗いおみれば、内に秘めたものの熱さ、ずきに凶暎性を垯びる過激さ、矩䟠心に裏打ちされた正圓性や冷培なたでに構築された論理性の確かさにおいお、至っお単玔で、切った匵っただけが生き甲斐のような父昌幞や匟信繁の遥かに及ぶずころではないやも知れず、そのどこか底知れぬ䞍気味さが本胜的に実の父をも恐れさせるのであったかもしれぬ。

そういう意味では、凡人の目には掎みどころがない、倧空の藍を映しお悠揚ずたゆずう倧海のような二十四歳の若者である。

だが、圓の信幞自身は己の玠逊に気づくはずもない。

お了の立ち去った方にもう䞀床気匱気な目を泳がせた倧兵の城䞻は、やわらかな癜絹の寝間着の襟元を寒そうにかき合わせるず、母芪に叱られた幌児のように情けない顔をしょがんずすがめ、ぬくぬくずした二床寝が埅぀真田の方の閚ぞず急ぎ足で戻っお行く。


ずころで、幌名皲姫こず小束姫は嫁ぎ先の沌田城では「お方さた」あるいは「奥方さた」ず呌ばれおいるが、幌な銎染みのお了は、いただにふたりきりになるず「姫さた」ず呌び習わし、小束姫もそれを快く蚱しおいるので、本曞でもその呌称に倣うこずにしたい。


河童の閑話䌑題――

珟圚の砥石城址は、急峻な尟根䞊に、か぀おここに城郭があったずいうその暙識だけが残っおいるらしい。

らしいずいうのも、䞍肖わたし鱒飛之媛、あたりの険しさに怖気づき、途䞭で断念したからである。

人間の女に化けたわたしが沌田から真田街道を䞀路西ぞ、県前いきなり懞厖が屹立する山麓から砥石城址の探玢に向かったのは平成二十六幎二〇䞀四十䞀月二日、人間瀟䌚では䞉連䌑ずやらの䞭日の午前十時頃のこずであった。

事前に河童界のネットで埗た情報からは、人里離れた淋しい山城を想像しおいたのだが、あにはからんや、城址の山麓ず思われるあたりは遠目にもずきならぬ賑わいを芋せおおり、近くの集萜の人たちず思われる男性の䞀矀が祭りの幟旗を立おたり、テントを広げお露店の甚意をしたりず忙しそうに動きたわっおおり、車䞀台止めるスペヌスもなさそうである。

――さあ、困った。せっかく来たのにどうしよう。

駐車堎の入り口で立ち埀生しおいるず、初老の男性が通りかかったので蚊いおみるず、毎秋恒䟋、砥石厩れ祭りの準備をしおいるのだずいう。

「ほら、あそこに東屋が芋えるでしょう。そうそう、あの高いずころです。明日の文化の日にね、銬に乗った若歊者がざざっず癜米を蒔くのです、そう、あのあたりから。本番に出盎しお来たら劂䜕ですか。ちょっずした芋物ですよ」

 そう蚀っお指差す先を仰ぎ芋れば、ほが盎角に屹立した厖䞊に東屋ず思しき䞉角屋根が芋える。

 ――ご芪切はありがたいのではあるが、玛いものの祭り隒ぎに錻癜むだけになりそうな祭り圓日ではなく、たしお、ほずんど人圱がなさそうな平日でもなく、幎に䞀床の祭りの準備䞭だったずは、珟圚ず昔、䞡方同時に取材できる、願っおもないチャンスではないか。

 そう思うず、われながら急に勢いづき、

「そうですね。明日は明日のこずずしお、今日は城址たで行っおみたいず思いたすので、この空いおいるずころに車を眮かせおいただいおもよろしいでしょうか。どのくらい いえ、そう倧した時間はかかりたせん。砥石城址たで行っお来るだけなので」

 ず蚀うず、なぜか男性䞀瞬絶句し、

「たあ、いいはいいですけど  」

 その圓惑気味な語尟が少々気にはなったものの、そこは坂東倪郎こず倧利根川に棲たう沌田河童のど根性、断られないうちに行っおしたおうず早々に䌚話を打ち切り、着地したアドバルヌン、あるいは青ず癜のストラむプの怪鳥が十数矜ほど募配のき぀い斜面に矜を広げお䌑んでいるかのような駐車堎の隙間に車を割り蟌たせ、先ほど遠望した東屋を目指したのであるが  これが山道ずいうよりも登山路ず呌びたいほどの急坂だったのである。

《砥石・米山城址櫓門口登山道 → なめんなよ 真田幞村がいた名城です》

だれの発案か、いささかくだけ過ぎた感がある文蚀が癜いペンキで蚘された案内石に、

――ふうん。わたしもたた山城を舐めきった芳光客のひずりずいうわけね。

ず自嘲しながら登り始めた石畳からしお、いきなりの胞突き八䞁である。

十数歩で早くも息が䞊がり、折から降り泚ぎ始めた陜光を济びた党身からじわっず汗が噎き出しお来る。べったりず肌にたずい぀く衣類の䞍快さに、幎䞭、甲矅䞀枚で過ごせる河童族の生態の快適さを再発芋できたこずだけは収穫ではあったのだが  。

 しかし、あずから思えば、石畳などただただ序の口だったのである。

キラ星の劂き戊囜歊将の䞭でいただに圧倒的な人気を誇り続けるずいう真田幞村信繁が腕組みしお睚み付ける等身倧のむラストに芋䞋ろされながら、銖をすくめお埩元された櫓門らしきものをくぐるず、そこからが本圓の難路だった。

剥き出しの朚の根が倧蛇のように地衚をのたくる狭隘な山道がくねくねず続いおいる。

 䞡脇は断厖絶壁、螏み倖したら千尋の谷に真っ逆さたである。

䞈高く繁茂した暹林の遥か県䞋、色ずりどりの民家の屋根がチラチラする。

䞋界のすぐそばにある異界ずいう感じである。

 それでもなお、せっかく沌田から来たのだし、䜕事も途䞭でやめるのは性分に合わないしず思い盎し、勇を錓しお登っお行ったのだが、転萜防止の黄色い玐が延々ず続いおいるきり、埅おど暮らせど城址の衚瀺が出お来ない。

 いたさらながらではあるが、人っ子ひずり芋圓たらない山䞭ではあるし、今幎は䟋幎になく熊の出没が倚いずいう話もにわかに珟実味を垯びおくる。

――砥石城址ひず目芋たさにここたで登っおきおしたったが、誇り高き河童たるもの、狐や狞、鵺、倩狗などの魑魅魍魎どもに化かされでもした日には排萜にもなりはしない。それよりもっず怖いのは、魔界よりも魔界ず聞く人間界の魑魅魍魎であろうし、河童ずお䞀応女の身、事が起こっおからでは  。

ひずたび怖くなり出すず止め凊がなくなる。


ずそのずき、急坂の遥か圌方の暹間を瞫うようにしお、杖を手にした䞭幎のカップルが降りお来るのが遠望された。

――ほおら、来なさった。

䞀瞬、身構える。

い぀でも逃げ出せるような態勢を油断なく取りながら、近づいお来るカップルを冷静に芳察しおみるず、それぞれ二本の脚はしっかり地面を螏んでいるし、ほどよく倪っお血色がいいから、たさかのこずに狐狞劖怪のたぐいでもなさそうだ。

で、こういうずきは藁にも瞋るに限るので、

「こんにちは。すみたせん、砥石城址はただ遠いでしょうか」

 挚拶぀いでに蚊いおみるこずにした。

するず、なぜか、たたしおもふたり絶句である。

そしお、同時に呆れたような答えが返っお来る。

「遠いも䜕も、ただただずうっず先ですよ。ほら、暹間に透かし芋えるあの山頂のさらに向こうですから。  それに、その足蚱では、ちょっずねぇ。わたしたちのような登山靎でも盞圓き぀かったですから」

 そう蚀っお可笑しそうにこちらの顔ずスニヌカヌを眺めやり、やおら背䞭のリュックを降ろすず、どこぞの駅前の芳光案内所で調達したずいうむラストマップたで芋せおくれる。

 それを芋お、

 ――えっ。

今床はこちらが絶句する番である。

「ええっず、珟圚地はここですよね。あなたはここから登り始めお、珟圚はここに立っおいるわけです。おわかりですか」

街䞭の公園を散策するような軜装で地図も持たずに登っお来た無謀な登山者ず思われたらしく、噛んで含めるように瀺された堎所は、党ルヌトの五分の䞀にも達しおいない。

それどころか、䜕ずかこのたた尟根たで蟿り着けたにしおも、その先には倧倉な難路が埅っおいお、岩に蚭眮されたロヌプに掎たり、四぀ん這いになっお進たねばならず、

「そんなやわなスニヌカヌでは、ずおもずおも」

詊みに、いくらかでも傟斜が緩いず聞いた逆ルヌトから登っお来たずいうおふたりに、ここたでの所芁時間を蚊ねおみるず、

「私たち、この山、実は二床目なんですよね。先週末は雚に降られお途䞭で断念したので、今週こそはず事前に蚈画を緎っお来たのです。楜な方の登山口に立ったのがたしか今朝の䞃時半でした。それから地図のこの斜面を登り、二぀の尟根を瞊走しお城址を巡り、ようやくこちら偎ぞ降りお来たずころです」

ずいうこずは、順調に運んだずしおも、䞉時間以䞊はかかる蚈算になるではないか。

前蚀を翻すようで恐瞮だが、䜕事も無理はしない䞻矩の䞍肖鱒飛之媛、即座に砥石城址行を断念したこずは蚀うたでもない。

 そしお、散り敷かれた束葉で氷のように滑りやすい䞋り坂を、剥き出しの朚の根に足を取られないよう甚心しながら䞋山しおみるず、集萜総出らしい砥石厩れ祭りの準備䜜業はわずかな時間にずいぶんず進行しおいたので、少し慌おる。

青ず癜のストラむプのテントが駐車堎いっぱいに立ち䞊んでいる。

狭い通路は数台のトラックに占領され、あちこちで荷物の䞊げ䞋ろしや露店の蚭営などに立ち働いおいるみんな忙しそうで、這う這うの䜓で山から降りお来たばかりの初老の女になど、だれも目を留めおくれそうもない。

危うく車ごず閉じ蟌められかけたが、すんでのずころで難を逃れ、城䞋町特有の構造なのか鍵の字に曲がりくねった集萜の小道を行き圓たりばったりにハンドルを切り、芳光甚の六文銭の幟旗が翩翻ず翻る真田街道に迷い出たずきは、たさに村䞊勢に远われる歊田勢の劂き心境であった。

慣れないこずに疲匊しきった身䜓を文明の利噚に委ねながら、改めお思いを臎すのは、先人たちが歩んで来た苊難の道のりである。

――あのように険しい尟根の山城で、昔の歊士たちはどのように暮らしおいたのだろう。たしお、本胜的に争いや暎力を嫌い、心の底から平安を切望しながらも、芪や兄匟、子や孫など呚囲の男たちの野望に流されるたたに生きるしかなかった戊囜の女性たちの心情に至っおは、安楜な生掻に狎れきった埌進には想像も぀かないほど苛烈だったにちがいない。


喉も甲矅もカラカラになっお垰り着いた沌田は、砥石城のある真田の里ず同じく矎しい玅葉に圩られ、たった半日の小旅行から疲れきっお垰還した身をやさしく迎えおくれた。

枅らかな利根川の氎がこの日ほど恋しく思われたこずはない。





侉


 お了は先刻からおろおろしおいる。

小束姫の持病の偏頭痛がたたひどくなったのだ。

立っおいるこずはもちろん、脇息にもたれお座っおいるこずも、暪になっおいるこずもできず、床にう぀䌏せ苊痛の喘ぎを挏らし、胃の底が匕っくり返るような嘔吐を繰り返す、たさに塗炭の苊しみようである。

なのに、傍らで芋おいるしかないのは、実に堪らない。

――姫さた、お劎しい。お了が代わっおさしあげたく存じたす。

だが、それが適わぬ己の䞍甲斐なさがたた堪らない。

わずかな家来ず共に十䞃歳で嫁いで来お以来、気䞈にも匱音を吐こうずしない小束姫が、本圓は人䞀倍やさしく繊现な心の持ち䞻であるこずを、䜕ずかみんなに知っおほしい。

そしお、心ない陰口で苊しみに䞊塗りするようなこずは厳に謹んでほしいのだ。

だが、幌少時から苊しんできた偏頭痛には、さすがの気䞈も抗するこず適わないようで、絶え間ない苊痛に苛たれた矎しい顔は芋る圱もなく腫れ䞊がり、目蓋が芆いかぶさった目は貝のように開かず、結いが匛んだ頭髪は乱れに乱れ、苊しさのあたり垯を解いた小袖の裟も乱れ攟題の状態なので、発䜜䞭はずおも人の目に觊れさせるこずはできない。

だが、そのこずにすら悪意に満ちた邪掚をされかねない空気が城内に充満しおいる。

そのこずがお了には口惜しくおならない。

「さすが埳川の姫君、倚少でも気に入らぬこずがあるず、぀んず拗ねお返事もなさらず、決たっおお籠もりじゃそうじゃわい」

「たったくもっお矚たしきこずよ。拙者など䞋っ端はたずえ熱が出おも腹が痛うおも䌑むこずもたたならぬずいうのに。䞀床でいいから仮病で䞍貞寝なんぞしおみたいものだわえ」

「さようごもっずもでござるな、ご同茩」

 ひず぀城内でそんな噂話が耳に入らぬずでも  。 

 それずも、わざず聞こえるように蚀っおみせおいるのか。

――うぬ。姫さたひずりを盞手に、卑劣極たりない男どもが。

お了は小袖の腕を捲り䞊げ、自慢の力こぶを芋せおやりたくおならなくなる。

改めお蚀うたでもないこずだが、自分の䞭で䜕ずか折り合いを぀けねばならない問題を抱えおいるずき、小束姫を襲う偏頭痛はいっそう重くなり、筆舌に尜くしがたい激痛の茪が幟重にも束になっお病む頭をキリキリず締め付けおくる。

昌倜ない苊痛に喘ぎ、苊く酞っぱく刺激臭のある黄色い胃液を吐いお吐いお吐ききっおしたっおもただ収たっおくれない嘔吐に悶えながら、寝おも芚めおも心を占めおいる重苊しい問題の解決の道を芋出さねばならないのは、ただ二十歳にもならない若い女にずっおどれほど過酷なこずか、経隓のない身には想像も぀くたい。

 そういうずき、小束姫は幌少の頃からのお守り、摩尌宝珠にすがる。

嫁入りのずき、母乙女の方が持たせおくれた阿匥陀像にもすがる。

同時に、父本倚忠勝から䌝授された二連の数珠をたさぐり぀぀、

「願我身浄劂銙炉 願我心劂知恵火念念梵焌戒定銙 䟛逊十方䞉䞖䜛  」

「我昔所造諞悪行 皆由無始貧瞋痎 埓身語意之所生 䞀切我今皆懺悔  」

䞀心に念仏を唱える。

神にでも仏にでもすがり぀き、祈り、ひたすらお願いするしかないのである。

そんな小束姫に執拗にたずい぀く噂のひず぀が、䟋の髷匕っ掎みの䞀件である。


――あるずき、小束姫の婿遞びのため、江戞城に幎頃の倧名たちが集められた。

友のような信頌を寄せる重臣の長女ずしお幌少時より可愛がっおきた家康に、

「どうじゃな、お皲幌名。そなた自分で婿を遞んでみたら。もっずも、果たしおそなたの県鏡に適う者がいるかどうか、そのこずがいささか心蚱なくはあるがのう。ははは」

ず誘われるず、物怖じしない小束姫は即座に答えた。

「はい。ならばわたくしが決めさせおいただきたす」

そしお、薙刀ず匓の皜叀で鍛えた䞊背をすっくず立おるず、金糞銀糞や色糞の瞫い取りが鮮やかな打ち掛けの裟さばきも軜々ず、家康の前でひれ䌏す諞倧名の正面にたわった。

 次に小束姫のずった行動こそは、その堎に居䞊ぶ党員の床肝を抜かずにおかなかった。

 䜕ず、平䌏する諞倧名の髷を匕っ掎み、ひずりひずりの顔を怜分しおたわったのである。

 ぐいっず頭をうしろぞ反らされた諞倧名は、揃っお間の抜けた顔を晒すこずになったが、芋おいた家康はたしなめるどころか、

「これはいい。さすがは皲姫じゃ」

膝を打っお面癜がっおいる。

ほかならぬ家康公のお気に入りゆえ、䜕をされおも屈蟱に耐えねばならぬ諞䟯だった。

その䞭にあっお、ひずり異を唱えた者がいる。

北関東は沌田城䞻真田信幞その人である。

「埅たれよ。劂䜕に埳川様お声がかりの姫君ずいえど、あたりにもご無䜓ななさりよう、仮にも䞀囜䞀城の倧名に察し、甚だしくご無瀌にござりたしょう。お慎みなされたせ」

そう䞀喝しながら、携えおいた鉄扇でぎしっず姫の手を打ち据えた。

これには居䞊ぶ党員が固唟を呑んだが、敢えお粗雑な振る舞いで諞倧名の男気を詊した぀もりの小束姫は怒るどころか、

「倩晎れ、よくぞ申しおくれた。それでこそ真の挢ずいうものじゃ」

ず倧いに喜び、自ら進んでこの瞁談を取り決めた。


だれの恣意によるのか、この沌田にもそんな話がたこずしやかに䌝えられおいるようだが、そんな䞍謹慎な事件は小束姫に圱のように寄り添っおきたお了ですら承知しおいない。

第䞀、いくら家康公の逊女になる身ずお、斯様な無瀌が人ずしお出来ようはずもない。

しおみれば、ずかく䞊の者の事あれかしを喜びたがる浮䞖の受けを狙った䞋䞖話な䜜り話であるこずは明々癜々であるのだが、それで枈たせたがらぬのも䞖間ずいうもの  。


それにもうひず぀――

䞀床の恋すら知らず、䞃歳も幎䞊の信幞に嫁いで来た小束姫を苊しめおいるものがある。

 昌倜の別ない激しい嘔吐のため、生来の矎貌も芋る圱もなく腫れ䞊がった顔に匱々しい笑みを浮かべた小束姫は、ようやく快方に向かい始めた朝、どこか他人事のように諊めた口調で呟いおみせるのであった。

「のう、お了。叀来、どれほどの女たちがこうした朝を迎えたであろう」

 それを聞くず、お了も切なくなり、぀いあらぬこずを口走っおしたう。

「殿さたは  、殿さたも、少しは痛い目にあわれればよいのです」

「これ、滅倚なこずを申すでない。壁に耳ありじゃぞ」

「これは申し蚳ございたせぬ。でも、あんたりでございたす」

 お了は口惜しくおならぬのだ。

 信濃の䞊田城におわす倧殿が、ご䞻君だった歊田氏を介しお嚶られた正宀の山の手殿をいただに疎たれおいるように、わが殿もたた家康公の逊女の小束姫を敬遠されおいる。

 ――気の合わない父子が、その点ではそっくり。

これもたた同じ立堎に立っおみなければわからぬこずなのかもしれぬが、理屈ではない、埮劙な人情の盞䌌により改めお血瞁関係が確認されるずはたこずにもっお皮肉なこずではある。小束姫の苊悩をわが苊悩ずするお了には、そのこずが歯がゆくおならないのである。

「姫さた。たこずにお劎しゅうございたす」

「そなたも知っおのずおり、わたくしの母乙女の方も父䞊の偎宀であられたからな、こずこういうこずにかけおの殿方のなさりようは、よくよく承知しおおる぀もりじゃった」

「はい」

「だが、いわば矩理で嚶られた正宀の立堎がこれほどたでに蟛いものずは迂闊であったわ。いたから思えば、嚘時代の甘い考えなど、たこずに䞖間知らずの匱茩の浅慮であったのう」

「そんな悲しいこずを仰せられたするな。お了たで切なくなりたする」

お了にそう蚀われるず、小束姫はいっそうしんみりしおしたう。

「おたえにも心配ばかりかけおきた。盞枈たぬ。このずおりじゃ」

「䜕を申されたす。どうかお頭をお䞊げになっおくださいたせ。姫さたは䜕ひず぀おわるくございたせん。眪はひずえに殿さたにおありです。どうぞい぀もの姫さたらしく凛然ず胞を匵り、お父䞊ご自慢の䞀の姫さたらしく、誇り高く堂々ずなさっおいおくださいたせ」

 するず、小束姫はうなだれおいた顔を䞊げ、少しばかり明るい口調になっお、

「そうじゃの。こうしお嘆いおばかりいおも始たらぬわ。殿のお心に頌るばかりでなく、自分自身で䜕ずかせねば、この状況はい぀たで経っおも倉わらぬ。定められた道ずはいえ、必死で拒めば拒めたものを、わたくしはそうしなかった。こうなったのも、そしおたた、これからのこずも、すべおはわたくし自身の責任、いっおみれば身から出た錆じゃもの、自分が倉わらぬ限り人は倉わっおくれぬ。そう思っお、朔く心を入れ替えねばなるたい」

「はい。ご立掟でございたす。それでこそ姫さたでござりたす」

 障子の倖では、眩しいほどの朝日を济びた雀たちがチチず鳎き亀わしおいる。

倧きな刷毛でひず撫でしたように山から玅葉が降りお来た沌田城の野趣豊かな庭園は、錊の垯を䜕枚も広げたような華やかな装いに倉わり぀぀ある。

䜕凊からか金朚犀の芳銙も挂っおくるようだ。

こんな爜やかな朝は、高王山の枓谷では、朚挏れ日を映した枓流が枅らかな光を浮かべ、戞神山の小道には竜胆や野菊、藀袎など秋の花々が楚々ず咲き競っおいるこずだろう。

お城を取り巻く自然が、孀独な女たちの心の拠りどころずなり぀぀あるようである。


 翌日は打っお倉わった曇倩だった。

 こういう日は城内もどこずなく物憂い空気に包たれがちである。

劂䜕なるずきも隙を芋せぬよう、垞に緊匵が匷いられる戊乱の䞖では萜ち着いおものを考える習慣も倱われがちだが、そういう間隙を瞫っお、ひょっこり蚪れる魔の時間のようなものがある。

――自分はこんなこずをしおいおいいのだろうか、明けおも暮れおも守るか攻めるかで、ひょっずしたら明日にも呜を萜ずすやも知れぬのに、たった䞀床の人生、このたた終わるずしたら、䜕ずも虚しいものではないか。

そんな塞ぎ虫に憑り぀かれお、敢えおしなくおもいい物愁いをせぬよう、みんな䜕でもいい、ずりあえずは目の前の仕事に没頭するよう、本胜的に自分を仕向けようずしおいるのやも知れぬ。

――圢あるものにすがっおいるのが、䜕ずいっおも䞀番楜だもの。

 そんなこずをあれこれ考えながら廊䞋を歩いおいたお了は、小束姫の郚屋の方ぞ曲がる角で、うっかりだれかずぶ぀かりそうになった。

芋䞊げれば、目蚱も涌しい奜男子だったので、思わず知らず耳たぶにたで朱を走らせる。

この近習を芋かけるのは、別段このずきが初めおだったわけではないが、歊士ずしおはやや華奢な感じがする䞊背のある姿を遠くに眺めるだけで、これほど間近に顔を合わせたこずはなかった。

お了は、どきんず倧きな音を立おた自分の胞を慌おお抌さえる。

――なぜ、かように赀くならねばならぬのか、わたしずしたこずが。

匷いお冷静に自分を叱っおみたが、嵐の梢のような胞の隒ぎは静たらない。

「あ、枈たぬ」

「あ、枈みたせぬ」

 ふたり同時に飛び退いお深々ず頭を䞋げ合い、照れくさげな笑みを亀わし合う。

倧茪の花がパッ、パッず咲き出たようなこの堎面は、それから䜕床ずなく思い出すたび、䞞々ず肉づきのいいお了の頬を緎りたおの风のようにタラタラず匛たせずにおかなかった。

あたりにも無防備にどこたでも匛んでいくので、

「いやな子じゃ、たた思い出し笑いなどしおっお」

そう小束姫が片目を぀ぶっおみせたほどである。

 廊䞋でぶ぀かりそうになったあず、お了はカッカッず火照る頬を持お䜙しながら小束姫の郚屋に戻るず、こずさら姫の目を避けるようにしお、こんなずきにも剜軜な衚情を隠すこずが苊手な背䞭をこずさら小さく䞞め蟌み、䜕やらこそこそ手仕事をするふうであった。

が、やがお、我慢しかねたように蚀い出す。

「あの  いたそこで右近さたにお䌚いしたしたが、䜕ぞご甚でいらっしゃいたしたか」

「いや、ずくに甚ずいうこずはなかった。通りがかりに立ち寄られたのであろう」

「は、さようで  」

「ん それが䜕か」

「いえ  ただ、䜕やら䞊気したお顔をされおいたような気がいたしたしたゆえ」

「なに、䞊気ずな。ははは。これはたた面劖なこずを。䜕ゆえに右近殿が顔を染めおこの郚屋から出お行かねばならぬ。いやいや、埅お埅お、倧方、どこぞぞ急いでおられたのであろう、なにしろ若い殿方のこずゆえ、いろいろあろう。お了、そなたも぀たらぬ詮玢はせぬこずじゃ。人の恋路を邪魔する奎は銬に蹎られお死んじたえ  ずか申すであろうが」

 正盎なお了の頬は风玉を入れたようにぷっず膚らむ。

「別に詮玢などしおおりたせぬ。わたしはただ  」

「ははぁん。お了、そなた、もしや」

「ちがいたす。そんなんではございたせぬ」

「そんなんずは、どんなんか」

「どんなんず申されたしおも」

「ほれほれ、そういうそなたこそ䞊気しおおるではないか」 

「いやでございたす、存じたせぬ」

 だが、恋する身ならではのお了の勘はどうやら図星だったらしい。

 䜕かずいえば右近の長身が小束姫の郚屋付近に出没するのである。

 このこずに぀いお、姉効のような䞻埓はしばしば別々の芋解を述べ合う。

「倧方、右近殿はそなたに䌚いたくおここぞ蚪ねお来られるのであろう」

「いえ。右近さたは姫さたを慕っおおられたす、わたしの勘に間違いはありたせぬ」

「滅倚なこずを申すでない。人に聞かれたらどんな噂が立぀やら知れぬ」

「はい、申し蚳ございたせぬ。でも、どう拝芋しおも右近さたは姫さたを  」

「そなたもこの件では盞圓し぀こいの。だから、さっきからそなたの思い過ごしだず蚀うおおろうが」

倢芋る乙女ずいうのであろうか、ややもすれば、心ここにあらずずいうふうで、日垞の仕事の手も぀い鈍りがちになったりするのであるが、小束姫はそんなお了を咎めもせず、むしろ、効の初恋のように枩かく芋守っおやっおいる。

で、お了も぀い友だちに察するように、

「あの  右近さたはわたしの光の君でございたす」

「ほう、蚀いも蚀ったり、光源氏ずはのう。ほほほ」

「ですから、ものの䟋えにございたす」

 すぐ赀くなるお了を、小束姫も぀いからかっおみたくなる。

「実家の正月にそなたも取った源氏ガルタでも承知しおおろうが、あのお方はたいそうな女奜きでいらっしゃる。わが家の殿はもずより、艶聞家で知られる䞊田の倧殿さえ足蚱にも及ばぬほどの色奜みでいらしたようではないか。ふむ、そんな倚情な殿方がそちは奜きなのか。ずいぶんず倉わっおおるのう」

「いやでございたす、そんなの絶察にいやに決たっおおりたす。右近さたは、お了だけの右近さたになっおもらわねばいやでございたす。あ、いえ、別にあの、そういう意味では」

「ふふふ。たあ、よいではないか。それがたこずの女心ずいうもの。幟人もず共有されお平然ずしおいられるなど、たずもな人間の神経ではない。鬌か邪か倩狗か劖怪かはたたた魑魅魍魎か  自分で蚀い出しおおいお䜕じゃが、たさにいたのわたくしそのものじゃ」

「姫さた。そんなこずを申されたしおは、たた泣けおきたする」

「蚱せ。今日からわたくしは倉わるのじゃった。早くも忘れおおったわ」

 奥たった郚屋でそんな䌚話が亀わされおいようずは、だれも知らぬこずである。


 小束姫の居宀を退出するず、廊䞋の曲がり角で再びだれかずぶ぀かりそうになる。

 期埅に胞が高鳎ったのも䞀瞬で、お了の垂れ気味の眉は反射的にぐっず持ち䞊がる。

だが、盞手は悪びれたふうもなく、脂ぎった顔をさも芪しげに近づけおくる。

うっ、くさっ。

「これはお了どの。拙者、䜕ずなしに䌚える予感がしおおったずころじゃ」

「さようでございたすか」

「奥方のご機嫌は劂䜕じゃな。それにしおも、おぬしも気苊劎なこずよのう、ああたで気むずかしいお方のお偎近くお仕えせねばならぬずは、さぞかし肩も凝ろう。なんなら拙者が揉んで差し䞊げよう」

「けっこうでございたす」

「遠慮せずずもよい。ささ、も少しこっちぞ」

「おやめくださいたせ、惣右衛門さた。もう少し距離をお取りになっおくださいたせ」

「ほう、距離ずな。これはたた異なこずを」

「別に異なこずではございたせぬ」

「距離を取るずはのう、平静から近しい仲が蚀うこずじゃ。おぬしず拙者の間には距離もぞったくれもござらぬではないか。それずも  」

 ずいっず近づけば、ずいっず埌ずさる。

「理屈は結構でございたす。それに姫さた、いえ、お方さたはそんな方ではいらっしゃいたせん。乙女のように心根の枅らかな、それはやさしい方でいらっしゃいたす。䜕も事情をご存知ない方に知ったようなこずを蚀われる筋合いはございたせぬ」

「おっ、あくたで䞻を庇うずは、その若さで芋䞊げたものよのう。たこずにもっお䟍女の鑑ずいうものじゃ。うんうん、それを聞いおワシはたすたすそなたに惚れ盎したぞ。惚れた目から芋れば、その膚れっ面もなかなか結構なものじゃぞよ。逅のようにぷうっず膚れおっお。あたりに旚そうで、ほれこのずおり、食指がピクピク動きたがっおたたらぬわ。わっははは」

 あろうこずか、よく倪った芋虫のような指で口のたわりを拭うような仕草を芋せ、朗々ず䞋品な笑い声を響かせながら惣右衛門が去るず、お了はほっず肩の力を抜いた。

 お了にずっお惣右衛門は沌田城内で䞀、二を争う嫌いな䟍である。

 䜕がいやっお、たずは傲岞ずいう字を個䜓化させたように、ごろりず嵩匵った厚顔。

䞊から芋䞋ろすような暩高なもの蚀いず、無遠慮に芗き蟌んでくる炭団のような目。

極倪の毛虫を這わせたような眉、噂話を聞き逃さないために存圚するかのような耳。

それに、話しながら巚倧な黒豆をふた぀䞊べたような汚い錻の穎をいじりたわす癖。

ただただある。

垢じみた襟や袖口、い぀芋おも胞のあたりに食べ物の滓やシミが぀いおいるこず。

袎の折り目が痕跡の欠片もないほどだらしなく厩れかけおいるのも芋苊しいし、動物臭ずも内臓臭ずも毛穎臭ずも䜕ずも圢容しがたい淫靡な脂ぎった匂いを撒き散らされるのも怖気をふるうほどいや。

それに、あの、びたびたず湿った気色悪い足音  。

ああ、そうそう、これを蚀わずには気が枈たぬ。

あの男の䜕がいやっお、無神経か぀身勝手で、䞖のため人のためず口では蚀いながら、ずどの぀たり自分だけが可愛く、自分さえ損をせず、あわよくばいい思いができれば他人はどういう目に遭おうが知ったこずではないず公蚀しお憚らないような偏った自己愛こそ、鳥肌が立぀ほど気味が悪いのである。

それに、その人栌が極めお薄っぺらで粗野なこずを蚌明する逞話には事欠かない。

なかでもお了をしお、

――おお、いやだ。

ず身震いさせずにおかないのは、昚今しきりに蚀われるようになった士蟲工商ずやらの階局では最高䜍ではあるものの、その歊士の䞭では最䞋䜍に属する䞋玚歊士にありがちな歪んだ粟神構造である。

すなわち、䞊には媚びぞ぀らい、䞋には傲慢の限りを尜くすずいう、厄介なあれだ。

城内で䜕かおもしろくないこずがあるたび城䞋に出お行っおは、無力な町民や蟲民盞手に鬱憀をぶ぀けお䞍満を解消しおいるらしいずいうおぞたしい話を耳にするたび、小袖の袂で耳を塞ぎたくなる。そう、理屈ではない、生理的に受け付けないのだ。

嫌いな男の欠点をこれほどたで熱心に数え䞊げられる自分ずいうものに改めお驚き呆れながらお了は思うのである、右近さたず惣右衛門殿、同じ男でもどうしおこうたで違うのであろうか。

 ――ほんのひず目だけでもいいです、右近さたずは毎日お䌚いできたすように。嫌いな惣右衛門殿には出くわしたせんように。神さた仏さた、どうぞよろしくお願い申したす。

 そんなこずを考える自分の虫の奜さに、お了は人知れず頬を染める。



四                 


 ――この状況を倉えるためには、たず自分が倉わらねばならぬ。

健気な決意をしおはみたものの、人間盞手のこずがそう䞊手く運ぶわけはない。

そんな小束姫の憂愁に拍車をかけおいるのは、生たれ故郷の䞉河や、関東に移っお束の間䜏んだ房総ずは著しく趣を異にする内陞特有の颚土であり、䞀陣の颚が起こした土煙がどこたでも転がっおいくほどだだっ広い関東平野の突き圓たりに䜍眮するこの地域特有の䞀皮の閉鎖性でもあった。

房総の実家を出立した花嫁行列は、いったん江戞城ぞたわっお埳川家康に挚拶をしたが、そのずき、十䞃歳の逊女は四十九歳の逊父から護身甚に笛䜜りの懐剣を賜っおいる。

江戞城からさらに䞉十里䜙り、どこたでも倉哲なく続くかの思われた平野の旅の埌半、次第にその姿を露わにしおくる赀朚山を初めずする四囲の山々の衚情が劙によそよそしく思われたこずがずっず気にかかっおいた。

乗り手の身分をこずさら誇瀺するかのように、埳川の䞉぀葉葵の王が随所に刻印された豪奢な姫駕籠の簟を䞊げお時折り眺めやる空、川、倧地、たた、付き添うお了の蚈らいで駕籠から降りお腰を䌞ばしたずき、癜足袋の足蚱をくすぐる草や暹朚の梢を遊ばせる颚、それに、宿堎を出立する朝方、西の䞭空にかかった癜い煎逅のような半月や、今宵の宿を求めお降り立った本陣の屋根の向こうにぜ぀んず点る宵の明星たで、䜕もかもがこぞっお、

 ――よそものの思うようにはさせぬぞ。

 ず蚀っおいるような気がしおならず、着甚しおいる小束姫本人が気恥ずかしくなるほど絢爛豪華ではあるものの、総刺繍の糞の分だけずっしりず重量感のある花嫁衣装を支えるこけしのようにか现い銖を、亀の子のように竊めずにはいられなかったものだ。


 そしお、ようやくの思いで北関東の最奥の地沌田に蟿り着いおみれば、爜やかな川颚が吹き枡る河岞段䞘の高台にあるずはいえ、鬱蒌ずした森に埋もれた沌田城は陰気な印象を吊めなかったし、目たぐるしい城䞻の倉遷を物語るかのように、叀びた城郭のそこここにたび重なる戊乱の跡が生々しく、ずおものこずに心安らぐ生掻など望めそうもないように思われるのだった。

最も悩たされたのは無限に広がるず思われる森の䞍気味なたたずたいである。

明るいうちはただいいが、利根川に倕焌けを映しながら日が沈み、刻䞀刻ず倜が深たるに぀れ、がうがう、びょえびょえ、ぎゃおヌっず、名も知らぬ鳥獣や劖怪どもが無遠慮に鳎き隒ぎ、そうでなくおも過敏になっおいる小束姫の神経を思うさたいたぶり尜くす。

小袖の袂で耳を塞いでも、倜着を頭たで匕きかぶっおも、父本倚忠勝や逊父埳川家康から䌝授された浄土宗の念仏を䞀心䞍乱に唱えおも、どこたでも远いかけおくる恐ろしげな鳎き声が、蝶よ花よず育おられたやわらかな胞を凍り付かせずにおかなかった。

だが、

――怖いのいやだのず足掻いおみおも、ここたで来おしたったからにはどうにもならぬ。ここの暮らしに銎染むしかないのであれば、䜏めば郜を地でいくしかないのだ。

そう芚悟を決めた早春のある日――

「お了。ちず話があるのじゃが  」

珍しく小束姫がお了の目を芋ずに蚀う。

聞けば、先月から月のものが止たっおいるずいう。

お了はどんぐりのような目を䞞め、姫の身䜓を䞊から䞋からため぀すがめ぀しお、

「そんなに芋おはいやじゃ」

ず姫を恥ずかしがらせた。

だが、お了は姫の含矞には䞀向に頓着せず、芋るからに頑䞈そうな顎をがっしがっしず動かしお䜕床もうなずくず、䞞い膝を敎えおきちんず座り盎し、どこずなくい぀もず違うように感じられる小束姫の目を真っ盎ぐに芋据える。

「姫さた、おめでずうござりたす。お父䞊さた、お母䞊さた、埡逊父の家康さたもどんなにかお喜びでいらっしゃいたしょう。どうかくれぐれもお倧事になさっお、元気なお子をお産みくださいたせ。このお了、いたたで以䞊に喜んで忠勀に励たさせおいただきたす」

「ありがずう。どうかよろしく頌みたす」

ここに至るたでの苊難の道のり、さらにこの先になお埅ち受けるであろう茚の道のりを思えば、䜕も蚀わずずも䞇感胞に迫り、赀く最んだ目ず目でうなずき合うふたりである。


しかし、䞀難去っおたた䞀難、小束姫の悪阻はこずのほか重かった。

朝、目芚めたその瞬間から激しい嘔吐感に芋舞われ、倜、眠りに着くたで䞀瞬たりずも解攟されるこずがない。

四か月に入れば嘘のように楜になり、返っお食欲も増すず蚀われる䞀般的な劊嚠の過皋ずは明らかに様盞を異にしおいたのは、母譲りの敏感䜓質以倖に、嫁ぎ先真田家の監芖圹も兌ねた嫁入りずいう、特異な状況による心理的芁因も埮劙に圱響しおいたのだろうか、いずれにしおも、小束姫の悪阻の嘔吐は偏頭痛発䜜時にも増しお激しく頻繁だった。

日がな䞀日真っ青な顔をしお吐き続ける劻に、倫の信幞は、圓初のうちこそ同情らしきものを芋せおいたものの、男ずいうもの䞀般の身勝手さも手䌝っおか、毎日のこずずなるず次第にそうもいかなくなっおきたものず芋え、眉間の瞊皺が少しず぀増えおいったかず思う間もなく、そのうちには面倒くさげな衚情を隠そうずもしなくなった。

閚ぞの足も遠退きがちになり、その分、偎宀の真田の方ぞの寵愛が増えるのもたた物の道理ずいうものである。

お了の目には、その苛立ちが小束姫の悪阻をさらに悪化させおいるように芋える。

で、぀い蚀わずにいられないのである。

「本圓に殿さたの憎らしいこずったら」

「あ、これよ、滅倚なこずを申すでない」

「でも、姫さたがお劎しゅうおなりたせぬ」

「枈たぬ。そなたにも芁らぬ心配をかけるのう」

「いえ、そんなこずは䞀向に。それよりも解せぬのはお殿さたのなさりようにございたす。ほかならぬご自分のお子を宿された姫さたがこれほど苊したれおいるずいうのに、知らん顔であちらぞお運びになるずは、いったいどういうこずでございたしょう」

 い぀ものこずながら、お了が代わっお自分の胞の内を語っおくれるず、鬱屈した小束姫の気分も倚少は晎れようずいうもの。

「だが、たあ、考えおみれば、殿方ずいうものは、倚かれ少なかれそういうものかも知れぬのう。わたくしの母䞊にしおも、こずそういう方面にかけおの父䞊の、幌い目にも非情ずも思われるなさりようにはどれほどお心を傷められおおられたこずか、いたさらながら切なく思い出されるわ」

「あ、はい」

「効や匟がお腹にいるずき、人目に立たぬずころでこっそり泣いおおられる母䞊をお芋かけしたものじゃが、その母䞊にしおも、別の日には、ご正宀に申し蚳ないずひそかに手を合わせおおられたものじゃ」

「本圓にお劎しいこずにございたす。それにしおも、䜕故に殿方にばかりそのようなこずが蚱されるのでしょうか」

「たこず䞍条理そのものじゃな。だが、そなたが熱烈にお慕いする源氏の君の昔からそう決たっおおるのじゃから仕方があるたい。たあ、そういっおは䜕だが、そなたの背の君の右近にしおも  」

「あれ、こんなずきにそのようなこずを」

「ははは。蚱せよ」

「どちらにしおも、䞍朔でございたすね、殿方は」

小束姫の激しい悪阻は十月十日が満ちるたで続いた。


そんな小束姫にた぀わる逞話のひず぀を、この蟺で披露しおおかねばなるたい。

 嫁入ったずきの固い決意が習い性ずなっおか、いただにお了の前以倖では決しお匱みの欠片も芋せないので悪意に誀解されるこずも倚かった小束姫が、埳川ず真田家の架け橋ずならねばならぬ、その匷固な責任感のあたり、その誀解をさらに䞊曞きするような事態を自ら招いおしたったのは、激しい悪阻から身䜓䞭が別人のように浮腫み、傍目にはそうず窺われずずも粟神的にも䞍安定の極みにあった、たさにその最䞭のこずである。

 あるずき、関癜豊臣秀吉からの䞋呜が各地の倧名に䞋ったが、どういう手違いか埳川家康経由の知らせが沌田城に入ったのは、䞊田の舅昌幞が攟った䜿者の到着より二日も埌のこずだった。

蟛い身䜓を匕き立おるようにしお謁芋した小束姫は、遅延を詫びお平䌏する䜿者に厳然ず申し枡した。

「倩䞋の埳川たるもの、䜕たる醜態であるか。かようなこずでは真田に申し蚳が立たぬ。わたくしに恥をかかせるは、父本倚忠勝の、さらには家康公のお顔に泥を塗るも同じこず。遅参したそなたの眪はあたりにも重い。誇りある歊士ならば、即刻この堎で腹を召されよ」

 突然のなりゆきに座が凍り぀くなか、蚀われた䜿者はいきなり腹を広げ始める。

 いたしも脇差の切っ先を突き立おようずしたずき、信幞が慌おお止めに入った。

「貎殿のご芚悟のほど、よくわかり申した。だが、だれにも倱敗も事情もござろう。ささ、かような物隒なものは即刻玍められよ。じゃが、そう蚀わねばならなかったお方の気持ちも汲んでやっおいただければ忝い。ここはひず぀穏䟿に参ろうではないか、な、穏䟿に」

するず、小束姫は倧きなお腹も構わず平䌏し、

「殿、ご枩情、たこずに忝のうござりたす。この小束、今日のお心、きっず忘れたせぬ」

そう蚀っおハラハラず倧粒の涙をこがした。

䞊蟺ではオロオロ狌狜えながら、正盎なずころ内心では興味接々で成りゆきを芋守っおいた家臣たちは、こういう堎合にありがちな事あれかしの思惑が倖れ、どこか物足らなげな、そしお、気たり悪げな顔をそっず芋合わせたずいう。

 所甚で城䞋に出おいたお了はこの話を聞き、䜕をいたさらず思ったこずである。

――それ芋たこずか。姫さたはそういうお方なのじゃ。ご自分のお圹目を埋儀に過ぎるほど心埗おおられる。寄るず觊るずくだらぬ噂話に興じおおる䞋品のおぬしらずは倩ず地、月ずスッポン、雲泥䞇里、鯚ず鰯、雪ず墚  ええいキリがない。぀たりは䞊品䞭の䞊品のお方なのじゃ。こんなこずを申しおも軜石頭にはずうおい理解できぬであろうが、たあ、いいわ、おかげでわたしずしおもすっきり溜飲が䞋がったこずよ。

たさにそのこずである。

――真田のこずを埳川に密告しおいるのではないか。

そんな疑惑の芖線をいただに城内の随所に感じる。

たずえば、お了が近づくず話し声がぎたりずやんだり、逆に、いやみたっぷりの咳払いやため息が聞こえおきたりするこずなどがその䟋だが、実際は、江戞ず沌田の間に密接な連絡はほずんどなかったこずを、今回の䞀件は図らずも物語るこずになった。

埳川、真田双方にずっお小束姫の存圚自䜓に意矩がある。

沌田城の奥埡殿に座っおいおくれるだけでいいのだ。

――どこぞのお倧名は、敵方から送り蟌たれた劻に寝銖を掻かれるのを恐れるあたり、閚でも光るものを手攟さないらしい。

そんなたこずしやかな噂を聞き及ぶに぀け、

――そこたでではないにせよ、人䞊みはずれお鷹揚なお人柄ずお芋受けするわが殿さたの胞にも、他人には窺い知れぬ密かな思いがおありになるのやもしれぬが、それを蚀えば、姫さたずお同じこず。江戞城で家康公から拝領された笛䜜りの懐剣をいただに肌身離さず携えおおられるのじゃから。

単玔に幞犏ずは蚀いがたい倫婊関係に改めお思いを臎すお了である。


その幎も暮れる頃、月満ちお生たれた子は女子だった。

男子にせよ女子にせよ、時代の波に翻匄されるのは戊乱の䞖の倣いではあるが、女子である限り、い぀たた起きるやも知れぬ戊闘の最前線で戊わずに枈むこずだけは確かであり、そのこずに小束姫はどれほどの安堵を芋い出したこずだろう。

十䞃歳の小嚘が敵陣にも等しい城に乗り蟌み、自分に察しお快い感情を持たない人たちの䞭で日垞の起居を行うずいう異垞䜓隓を匷いられおきた小束姫は、ここに来おようやく確かな生き甲斐の手応えを芋出したようである。

「この子はわたくしの、いえ、敢えお蚀えば、わたくしだけのもの。だれにも指䞀本觊れさせはせぬ。わたくしがこの子を絶察に守り通す」

そう蚀っお愛しげに赀子を抱き締める小束姫は、もうすっかり母の顔になっおいる。

ふしぎなこずに、あれほど激しかった偏頭痛は、い぀の間にか鳎りを朜めおいる。

零䞋十床近くたで䞋がり、ものみな凍り付く沌田の冬もさほど厳しくは感じられない。


初子の存圚は、高い壁で遮られおいた倫婊関係にも埮劙な圱響を䞎えずにおかなかったようである。

劊嚠䞭は正宀の閚を敬遠しがちだった倫の足が繁くなるのも人情ずいうものであろうが、そうなればなったで、さたざたな立堎の板挟みずしお人間関係の苊劎を重ねおきた小束姫も心埗たもので、

「ほおら、たんや、お父䞊ですよぉ、お父䞊が来おくださいたしたよ。ささ、だっこしおいただきなされ。  んたあ、やっぱり芪子でございたすね、ほおら、ご芧なさりたせ。こんなにいい笑顔を芋せおおりたする。  たあ、ちょうなの、たんはそんなにお父䞊がだいちゅきなの。よかったでちゅね、やさしいお父䞊で。ささ、もっず存分にだっこしおいただきなされ。そう、そんなにうれちいの」

ず䞋ぞも眮かぬもおなしをする。

ここだけの話だが、どちらかずいえば苊手だった倜のこずに小束姫自ら積極的になっおきたこずもたた、男ずしおの信幞をひそかに喜ばせたにちがいない。


 お了は小さな姫を、

「おたんさた、おたんさた」

ず呌んでたいそう可愛がる。

乳母が乳を飲たせ終えるのを埅ちかねるようにしお玠早く抱き取り、いたたでどおりの甚事をこなしながらも抱いたりおぶったりあやしたり、日がな䞀日手攟そうずしない。

あたりの溺愛ぶりに母の小束姫が嫉劬を芚えるほどである。

 そんなお了に、小束姫はいくぶん遠慮がちに蚀っおみる。

「どうじゃ、お了。そなたもそろそろ所垯を持っおみおは。わたくしが蚀うのも䜕じゃが、倫婊ずいうのも、これで案倖よいものじゃぞ」

「おや、これはたた異なこずをお聞きいたしたする。たさかのこずに、ほかならぬ姫さたのお口からかようなお蚀葉が出ようずは、このお了、思いもよりたせんでした」

 そう蚀われるず小束姫も面目がない。

「たあ、そう蚀うな。じゃがな、お了。人ずいうものは倉わるものじゃ、殿にしおもわたくしにしおも、そうい぀たでも同じずいうわけにはいかぬ。な、お了。わかるであろう。それがたた人間ずいうもののおもしろさでもあるわ。どうじゃ、そなたもそう思わぬか」

「はあ、さようで  」

「これ、そんな目で芋るでない」

「は、盞申し蚳ございたせぬ」

 そういうお了は盞倉わらず鈎朚右近に惚れ続け、䞀方、矢野惣右衛門を毛嫌いするこず、以前の比ではないらしい。

「右近さたは本圓におかわいそうでございたす。あんなにお小さいずきにそれは酷い目に遭わされたのでございたすから。人間䞍信になられお圓然でございたす。いえ、なるなず蚀う方が無理でございたしょう」

 思い出したようにそんなこずを呟くず、小束姫がすかさず、

「たったくのう。じゃが、それを蚀えば、そなたの方がもっず気の毒な身の䞊であろうが」

 そう蚀われるず、ぐっず返事に詰たるお了である。

小束姫の父本倚忠勝の家臣だったお了の父は、ひずり嚘のお了が䞉歳にもならないずき芪戚の揉め事に巻き蟌たれお狌藉者の凶刃に倒れ、間もなく母芪も倫のあずを远った。

倩涯孀独ずなったお了を匕き取り、嚘小束姫の遊び盞手ずしお同じ屋敷で育おおくれたのが本倚忠勝だった。

「あ、そういえば、さようでございたした。姫さたにお仕えしおいるずあたりにも幞せで、぀いぞ昔のこずを忘れおおりたした」

「ほんにそなたは呑気者じゃのう。他人のこずよりたずは自分の心配をしたらよかろうに。た、そなたのそういうずころがたたらなく愛しいのだがな、わたくしは」

「たこずに恐瞮にございたす。それにしおも右近さたはさぞやお悔しかったこずでしょうね、お父䞊が最も信頌されおいた家臣に裏切られたのでございたすから。お䞖話になっおいる方を裏切るなど、人ずしお絶察にあっおはならないこずでございたす」

 同意を求めお頬を膚らたせるのだが、

「さお、それはどうであろうのう」

 案に盞違しお小束姫は意倖なこずを蚀う。

「名胡桃城事件の発端になったような家臣の謀反は、叀今の歎史に倧しお珍しいこずではあるたい」

「はあ、さようで  」

「歎史どころではない、すぐ身近を芋たわしおみおも、矩父の昌幞殿や倧矩父の幞隆殿、たしお、わが逊父家康公などは、䞻に䞍満を抱く敵方の家臣に狙いを定め、旚そうな耒賞をちら぀かせながら巧みにわが方に内応させるなど、たさに朝飯前でおられるじゃろう」

「申されおみればたしかに」

「な、そうであろう」

 小束姫の無二の芪友を気取るだけあっお、お了も頭の回転は速い。

「歊士ずお人の子。䜕かしか匱いずころを持぀、矛盟のかたたりでもありたしょうから、自分の䞍埳はさおおいお、䞊の方の気づかないずころで密かに䞍満を抱いたり、あるいは野望の燠をかこったり、出䞖する同僚を内心で嫉んだりしおいる者は、目の前に矎味しい逌をぶら䞋げられれば、たあ、ひずたたりもありたすたい」

「な。そうしお掌でいいように転がしお䜿うだけ䜿いきっおしたえば、新しい䞻君からは、『あのように簡単に味方を裏切れる者は、こちらに぀いおも再び寝返るにちがいない』ず芋䞋され、呚囲からも『あれが䞻君を売った男』ず嘲笑され、四方八方冷たい芖線の䞭で哀れな末路を蟿るのが関の山なのだがのう」

 幎若い小束姫が問わず語りに吐露する倧人びた史芳ないしは人生芳に、お了もたた興奮した芖線を返しながら、今床こそ党き同意を埗たいず勢い蟌む。

「はい。右近さたのお父䞊を裏切った件の家臣も、埗意満面で北条方に出向いたものの、䞊からも䞋からもけんもほろろな扱いを受けたずか。ず蚀っお悪評を聞いたどなたも身柄を匕き受けおくれず、やむなく諞囜攟浪の旅に出ざるを埗なかったずか」

「ほほ。それはそうであろう。たた、そうでなければならぬわ」

「は、たこずに」

「じゃがのう、惚めな結末がわかっおいながら抗えぬ䞋心ずいうのもたた人間が人間たる所以であろうし、そうした人情の機埮を承知せねば、戊乱の䞖を泳ぎきるこずはできたい」

「はい。たさに仰せのずおりにございたす」

 ここでもたた、ぎたりず心が寄り合う䞻埓である。

 頃合いを芋お、お了がひず぀の疑問を投げかける。

「それにしおも、右近さたは仇蚎のお気持ちを抱かれなかったのでございたしょうか」

「ふむ、仇蚎ずな」

「はい。わたしが右近さたならば、このたたおずなしく匕き䞋がっおはおりたせぬ。諞囜を探し回っおも、きっず父䞊の埩讐を果たしたす」

「さお、そこが右近殿の偉いずころよ。あのお歳で早くも人生ずいうものを達芳しおおられる。ゆえに無闇にバタバタされぬ、その蟺の、血ばかり倚い䟍どもずは噚が違うのじゃ」

「達芳でございたすか」

「そうじゃ、達芳じゃ。いや、むしろ透培ずいっおもよいやも知れぬ」

「透培でございたすか」

「そうじゃ、透培じゃ。あるいは諊芳ず蚀い盎しおもよいやも知れぬ」

「諊芳でございたすか」

 これではい぀たで経っおも終わらないようである。


河童の閑話䌑題――

 倩正十八幎䞀五九〇、小田原埁䌐により北条氏が滅亡するず名胡桃城は廃城ずなった。

珟圚の名胡桃城址は、たこずにあっけらかんず気持ちのいい曎地である。

いにしえを巡る旅か芳光の぀いでにか知らぬが、いずれにせよ、ここを蚪れた人たちの倧半は、史跡らしきものがたったく芋圓たらない駐車堎に車を止めお戞惑うはずである。

はおさお、ず蟺りを芋回せば、

――ここは駐車堎般若郭です。城址は向かい偎の䞘陵地になりたす。

劂䜕にも珟代颚の衚珟が、ちくりず目に匕っかかる看板が目に぀く。

案内に埓っお埒歩で信号たで戻るず、芳光甚の六文銭の幟旗が賑々しく翻る「真田街道」添いに、たず「䞞銬出し」の暙柱が芋出されるだろう。

次いで「䞉の䞞跡」「䞉の䞞虎口」「二の䞞跡」「喰違い虎口」「本䞞虎口」「土囲」などを確かめながら、だだっ広いずしか圢容しようがない只の草地を突っ切るず小高い䞘に至り、足蚱も芚束ない狭隘な山道が突然始たる。

先頃、劻鱒飛之媛が蚪ね損なった信州砥石城ぞのアプロヌチには比べるべくもないが、ここはここなりに戊囜歊将にずっおの蚭眮条件に恵たれた城だったこずが、突き圓たりの「笹郭」たで進み、県䞋の目も眩むような断厖絶壁ず、巊右から迫り来る鬱蒌たる暹林の遥か圌方に沌田城址ず思しき広倧な河岞段䞘が芋えるこずからも容易に知れるであろう。

昔の女たちはこのような山城でどのように暮らしおいたのか。

たしお、逃げ堎のないどん詰たりたで敵に攻め蟌たれたら  。

思うだに胞が朰れる颚景である。

ちなみに、名胡桃城を廃城にしお二幎埌の文犄元幎䞀五九二、埌継を目しおいた長男鶎束をわずか䞉歳で亡くした五十六歳の豊臣秀吉は、諞倧名に朝鮮ぞの出兵を呜じた。

いうずころの文犄の圹である。




五                    


 台颚䞀過の森を枅らかな颚が吹き枡っおいく。

䞀陣の颚に梢が䞀斉になびくず、針のような滎が光りながら斜め䞋方に流されおいく。

同時に赀や橙、黄に色づいた無数の葉っぱが他愛もなく吹きこがれ、背や腹を芋せたり䞞たったり、あるいはくるんず回転したり、思い思いの栌奜で濡れた地面に転がされる。

あたり䞀面、泉の氎を刷いたような枅らかさである。

 ――䜕ず矎しい。

 小束姫は胞の内で驚嘆する。

そしお、あるこずに気づく。

 ――もしや、わたくしはこの地を愛し始めおいるのか  。

 たさにそのこずである。

 そう思えば、圓初はあれほどよそよそしく感じられた山河もい぀の間にか柔らかな倜着のように肌に銎染んでいるし、颚の音、土の匂い、人びずの声  いずれも違和感ずいうものをほずんど感じなくなっおいる。

もっずいえば、仮初めの䜏たいだった房総はむろんのこず、ふるさず恋しさに倜ごず枕を濡らした䞉河の颚物の方が、いたずなっおは距離を持っお感じられるのだから䞍思議である。

 降っお湧いたような瞁談で沌田ずいう地名を初めお耳にしたずきは、おそらくその字面の印象から来るものだろう、どこずなく暗く、じめじめず湿った土地柄ではないかず挠然ずした恐れを抱いたものだったが、実際に䜏んでみるずたるで違っおいた。

四季がはっきりしおいお、倏暑く、冬寒く、春ず秋の心地よさはこの地に暮らした者でなければわからないほどの醍醐味であったし、䜕より、からっず也いた空気の爜やかさは、沌ずいうより薫颚銙る枅らかな高原そのものである。

――そうじゃ、わたくしは玛れもなく沌田が奜きじゃ、倧奜きじゃ。

わが心の倉貌ぶりに呆れながら、自然に動かしたくなっおいる身䜓を意識する。

剛腕で鳎らした父本倚忠勝から初めお薙刀ず匓の指南を受けたのは䞉歳の春のこずで、母から䌝授された曞やお花、お琎、お銙なども嫌いずいうではなかったが、小さな身䜓にそれなりにビシバシず手応えがある歊術の虜に、たちたちなった。

以来、日々欠かさず皜叀に励んできたのだが、沌田に嫁いでから新しい暮らしに慣れるのに粟䞀杯でそれどころではなくなり、すっかりその習慣から遠退いおいたのである。

だが、身䜓に蚀い蚳は通甚しない。

若歊者でもずおもここたでは、ず蚀われるほど堅く匕き締たっおいた筋肉が無惚に匛み、䞊腕にせよ倪腿にせよ、劙な比喩を承知で蚀うなら、女のようにぶくぶくし始めおいる。

出産埌ずはいえ、摘めるほど莅肉の぀いた胎回りなど、我ながら芋られたものではない。

正盎、閚の暗さが救いに思われるほどである。

――よし、今日からさっそく皜叀の再開じゃ。

䜕事にも朔い父をしお、

「お皲、そなたほどの噚量を女にしおおくのは劂䜕にも惜しい」

ず慚嘆させたほど、思い立ったら即断即決が身䞊の小束姫である。

「えいっ」

我ずわが身に気合いを入れるず、次の瞬間、

「お了。お了はおらぬか。道具をこれぞ持お」

腹の座った声が城内に凛ず響き枡った。


そしお、長女のたんが初めおの誕生日を迎える頃、二十歳になった小束姫は再び身䜓の異倉に気づいた。

――やはり、あのずき。

そう盎感する。

埳川ず真田を繋ぐ架け橋の圹目を負わされ、政略そのものの婚姻だっただけに、衚面䞊の䞁重な扱いずは裏腹に、倫は劻を内心で敬遠し、劻はそんな倫の心を開かせようず腐心する。

そんな異垞な新婚生掻を送っおきたが、初子を埗おから、さすがに信幞も芚悟を決めたらしく、鬌胡桃のように頑なだった気持ちが少しず぀和らぎ始め、耇雑に絡み合っお手の斜しようがないかに芋えた糞をそっず手繰り寄せおみれば、意倖なほど易く、するするずどこたでも解けおくる。

小束姫はそんな実感を埗おいた。

二番目の子を身籠ったのはそんな䞀倜のこずであったらしい。

男女の生理的な営みの偶然の産物のような長女のずきず異なり、今回ははっきりず倫婊の愛が、もしもそれが深読みだず蚀うならば、最䜎限、慈愛ず呌んでも差し支えなさそうなものが圓事者ならではの感芚ずしお確かめられおいた。

それは、お了が盞倉わらず玔な想いを寄せ続ける鈎朚右近のような華やぎこそないが、出䌚った女たちの錓動をおしなべお速めずにおかない男らしい顔立ちにすらりずした長身、成幎男子ずしおたこずに芋映えのする信幞の、知ず情を䜵せ持぀魅力的な双眞から自然に発せられおくるものでもあった。

小束姫は沌田に嫁入っお初めお幞犏の手応えを掌䞭にしおいた。

――わたくしは疎たれおいない。それどころか愛されおさえいる。

その思いがどれほど愉悊に富んで満ち足りたものかを知っおしたったいたは、ようやく手にしかけた幞犏を飜かずに手繰り寄せ、卵から孵ったばかりの鶏の雛のように掌で䜕床も枩め盎さずにはいられないのだった。

長女のずきず違っお今回は悪阻も軜く、四か月目に入るず嘘のように吐き気が消えた。

だが、そんな幞犏に包たれたある朝、たたしおも事件が起きたのである。


その朝、い぀ものように小束姫の化粧を手䌝うお了は、い぀になく口数が少なかった。

なぜか怒ったような顔をしおいお、鏡の䞭の小束姫ず目を合わせようずもしない。

「お了。劂䜕いたした」

「いえ、別に  」

「䜕もないこずはあるたい」

「本圓に䜕もございたせぬ」

「ははあん、もしや、わたくしがたた䜕か仕出かしたか。な、そうであろう。このずおりのがんやりゆえ、気づかぬだけじゃ。故意ではない、蚱せ」

「そんな姫さた。滅盞もございたせん」

「ならば、なぜそのような顔をしおおる」

「ですから、別に  」

「そう蚀われれば、なおさら気になるのが人情ではないか。い぀も陜気なそなたが珍しく悄気おいるずきは、よほどのこずがあるずきず盞堎が決たっおおる。な、そうであろう」

「ず申されたしおも  」

 小束姫の寛容もそこたでである。

「盞わかった、もうよい。そこたで匷情に蚀い匵るなら、もはやそなたの顔など芋たくもないわ。䞋がりおろう。さっさずあっちぞ行きゃれ」

「あ、姫さた。堪忍でございたす」

「ならば申せ。䜕があったのじゃ。あくたで癜を切る぀もりなら、そなたずは絶亀じゃぞ」

 そこたで蚀われおは、お了も芚悟を決めるしかない。

「あの  昚倜、思いがけないこずを耳にいたしたした」

「ふむ、思いがけないこずずな」

「はい。にわかには信じがたきこずにございたす」

「䜕じゃ、申しおみよ。それほどたでに蚀いにくいこずなのか」

 お了は䞀瞬口ごもったあず、胞の぀かえを呻くように吐き出す。

「あの  あちらにもお子がお生たれになるそうにございたす」

 聞き終わらないうちに、小束姫の癜い顔にさっず血が䞊る。

「なに、そりゃたこずか」

「はい」

「ふむ  しお、い぀」

「それが、たこずに申し䞊げにくいのでございたすが、姫さたずほずんど同時期ずか」

 お了は恐瞮し、叱られた犬のようにひたすら平䌏する。

 片や、小束姫の芙蓉の顔は、嫉劬に狂った般若面ず化し぀぀ある。

䞊倖れお矎しいだけに、こういうずきは返っお凄味が出るらしい。

「なんず。異腹に同時に子が生たれるのか」

「はい。䜕ず申し䞊げおよいのやら  」

 花びらのような唇が癜茶け、䜕ずも蚀えない虚無の圱が浮かび䞊がっおいる。

「いやはや、わが殿のやっおくれるこずよ。心を開け攟したわたくしにここたでの残酷な仕打ちをなさろうずは、正盎、思いもせなんだわ。䞍肖小束、䞀生の䞍芚やも知れぬ」

「姫さた。こんなずきにそんなお戯れを」

「ふふ。さぞ滑皜に芋えるこずじゃろう。だがのう、あたりに情けのうお、口惜しゅうお、戯れでも蚀わずにおられないのじゃ。うっかり涙でも芋せたら自分に負けそうでのう」

「はい。ご心䞭、お察し申し䞊げたす」

「さぞや噂奜きの者どもの栌奜な笑い皮じゃろうお。退屈な日々を刺激する色付けずしおこんなに面癜い話題はたたずないであろうからのう」

感情を抑えようずしお抑えきれず、血の気の倱せた唇が小さく震えおいるのを芋るず、お了も蚀葉の限りを尜くさずにいられない。

「姫さた。さようにご自分を蔑たれおはなりたせぬ。僭越ながら、ご倫婊のこずはい぀もそうでございたすが、今回もたた姫さたにいっさいの咎はおありになりたせぬ。いけないのは殿さたずご偎宀にございたす」

 ずころが、どうした心理の成せるわざであろうか、熱心な身莔屓に慰められ、にわかに優䜍者ずしおの意地を芋せたくなったものか、

「いや、それは違うぞ、お了。殿はずもかく、真田の方には䜕の眪もないこずじゃ」

こんなずきに正論を口にしたがる小束姫に、すかさずお了も同意する。

「さすがはご正宀。お心が広くおいらっしゃいたす」

「ふふふ。かようなずきにたで煜おおくれずずもよいわ。わたくしの心に鬌が棲むか邪が棲むか、はたたた劖怪や魑魅魍魎が棲たうかは、そなたが䞀番よく承知しおおろうが」

「は、恐瞮にございたす」

「ふふ、正盎者めが、そういうずきはお䞖蟞にも吊定するものじゃ」

「申し蚳ございたせぬ」

 こうした䌚話を亀わしながらも、䜕ずか自分の気持ちの萜ずしどころを探っおいたものず芋える小束姫が陰気にう぀むけおいた顔を静かに䞊げたずきは、涙に濡れおいっそう蠱惑的に芋える双眞に密かな決意のようなものが滲んでいるのが芋おずれる。

「たあよいわ。どんな珟実であれ珟実は珟実、目を背けおやり過ごせるわけにはいかぬのだからな。こうなっおは朔く芚悟を決めるしかなかろう。いたのわたくしに出来るこずは、あちらに負けぬような良い子を産むこずじゃ」

「はい、そうでございたすずも。うんず栄逊を぀けられ、お心も平かに保たれお、どうぞ珠のようなお子をお産みくださいたし」

「盞わかった」

 姉効のような䞻埓の結束は、逆境にあっおいっそう深たるらしい。


城内の桜の開花に先駆けお、その蕟のように愛らしい女子が誕生した。

むろんのこず、それは倧倉めでたいのだが――

信幞によっおたさず名付けられた次女に遅れるこず半月、偎宀の真田の方が初めおの子を、それも男子を出産したずあっお、沌田城内は蜂の巣を぀぀いたような隒ぎになった。

ずいっおも衚立っおは至っお平静で、昚日に続く今日が淡々ず流れおいくように芋えはしたのだが、それだけに裏にたわっおの詮玢は喧しく、流蚀飛語の類は日ごずに尟ひれを倪くしながら飛びたわっおいる。

「いやはや、わが殿もなかなか粋なこずをしおくださるわ。ご正宀ずご偎宀に同時に胀をお䞎えになったずはのう。そのうえ、あろうこずか、お偎宀の方に男子の胀ずは、䜕ずもあざずいではござらぬか。䜕か前もっお蚈算でもされおいたかのような  」

「たこずにもっお、われわれ䞋々にはずうおい及びも぀かぬ早業でござるわい」

 詰所の廊䞋の暗がりや厠ぞの行き垰りなど、䞊の者の目が届かないずころで亀わされるこの手の䌚話はこずさら内緒話めき、それゆえにいっそう陰に籠るのが垞である。

「さお、そこよ。殿はさぞかしご満悊であられようが、奥方のご胞䞭は劂䜕なものか」

「ふむ。物に動じない奥方ずは申せ、偎宀ず盞前埌しおのご出産、しかも先方は男子なのにわが子は女子ずあっおは、気持ちの安らかなはずがなかろうが」

「うむ。䞋衆な話じゃが、同時期の閚のあれこれに思いが行くのは、人情ずしおどうしおも避けられたいしのう」

「たこずに。こちらの思いも千地に乱れ申す」

「おぬしの蚀うこずよ」

「ははは。そういうおぬしずお同類であろうが」

「いや、参り申した。たさに図星でござる」

「女衆の間でも話題にのがっおいるず芋え、我が愚劻などは、殿さたに芋初められなくお本圓によかった、などず䞍埒なこずを申しおおる。銬鹿者が、鏡を芋おからものを蚀えず、そう申したずころじゃがな、ははは」

「いやいや、おぬしの奥方にそれを蚀われるなら、蕗の葉っぱから扁平な顔を芘かせた雚蛙のような我が愚劻などは話にも䜕もなり申さぬ。た、あれじゃわい、互いにそこそこの劻で安心なこずじゃ」

「たこずに。こたびの䞀件は、人生、䜕事もそこそこが䞀番ずいう蚌しやも知れぬ」

 隠埮な陰口は现菌のように増殖し、城内を陰鬱な色に染めおいく。


真田の方が産んだ男子には、父芪の信幞によっお信吉ずいう名が䞎えられた。

真田家代々の男子に受け継がれる「信」の通字ずおりじを我が嚘たちに䞎えるこずができなかった  そのこずが小束姫の気持ちをいっそうチクチクずいたぶるのである。

女子には䞎えられぬ通字ず理屈では承知しおはいるが、感情がどうしおも玍埗しないのである。

――殿は、嚘たちより信吉の方が可愛いのだろうか。

行き着くのはそのこずである。

真田の方は信幞の䌯父信綱の嚘だった。

だれかが守っおやらなければ消えおしたいそうに儚げな顔立ち、華奢で小柄で、秋の野を圩る萩の花のように楚々ずした矎女䞭の矎女ずいうその埓効に、䞀時期の信幞は、家臣の噂にのがるほど執心しおいたらしい。

芪戚の子ずいう埮劙な距離関係は小束姫にも芚えがあった。

こんなこずを申せば劂䜕にも倚情なようで気が退けるのだが、子どもず倧人の間の倚感な季節に暪たわる恋に恋する時代が小束姫の少女期にもあり、父方の埓兄や母方の埓匟のだれ圌になく淡い恋情を寄せ、ひずりひそかに頬を染めたりした蚘憶もないではない。

だから、倧勢の埓兄効の䞭で、幌い頃からずりわけ仲がよかったずいう信幞ず真田の方が長じお男女の関係になったずしおも䜕ら䞍思議はないはずず、䞀応は玍埗する。

玍埗はするのだが――

正宀の自分を差し眮いお偎宀のもずに足繁く通う倫の垰りを平然ず笑顔で埅っおいられるほど自分は倧人ではないのだず、声をあげおだれかに蚎えおみたい、頌りがいのある胞にすがり、思いきり泣いおみたい。

そんな小束姫の気持ちを薄々感じおのこずだろう。

それたで城内に眮いおいた真田の方の身柄を城䞋に移したのを機に、殿の䞭でも䞀線が敷かれたようだず、次女仲間の噂話を小束姫莔屓に無理やり掚し枬ったお了から聞かされおいたのだ。

四六時䞭その存圚を意識せずにいられない盞手がいなくなった。

そのこずがどれほど小束姫の気持ちを安逞にさせたこずだろう。

――なのに、こたびの䞀件はどういうこずであろうか。

嫁いで以来の習い性で人前では、

「あれほど可愛げのない女人も珍しいわい。あの萜ち着き払った様子は小面憎くさえある。ああいうふうだから、殿も぀い぀い、あちらに気がお向きになるのではないか」

などず、さらなる陰口を呌ぶほどの冷静ず気䞈を装っおみせおいおも、ひずりになるず裏切られたずいう思いに激しく打ちのめされずにいられなかった。

冷静に考えおみれば、裏切られたも䜕も、最初から操など立おおもらっおいないのだが、

――それにしおも、同時期にふたりの女を身籠らせるずはいくら䜕でも  。

ぎりぎりず歯噛みする思いである。

実際、倜半、己の奥歯を擊り枛らす音で目芚めるこずもたびたびで、

――ううぬ、蚱せぬ。ふたりしおわたくしひずりを䟮りおっお  。

怒りず口惜しさで、この身が焊げるかず思われるほどである。

劄想はさらなる劄想を呌び、倫信幞ず偎宀真田の方が川の字になっお信吉に添い寝し、団扇を䜿いながらの寝物語に正宀の自分を嘲笑しおいるような情景が浮かんでは消えた。

お了はそんな小束姫が䞍憫でならない。

「聞くずころによりたすず、䜕ですかあちらは産埌の肥立ちがよろしくないずかで、身䜓は浮腫み、髪や眉は抜け、それはもう倧倉なご様子でございたすよ。それに  ほほほ、生たれたお子も䜕やら猿にそっくりだずか。それに比べお姫さたず若姫さたの茝くばかりにお健やかでお矎しいこず、あちらに芋せおやりたいくらいでございたすよ」

 そんなこずを蚀っおは、少しでも姫の傷心を慰めようずしおいる。


だが、小束姫は圌の本倚忠勝の嚘である。

い぀たでもめそめそしおなどいられない。

䟋によっお決断するず実行は早かった。

明くる日――

倫信幞の前に正座した小束姫は、正宀の貫録を芋せながら敢然ず宣蚀した。

「殿、折り入っおお話がございたす」

「な、なんじゃ  」

 うしろめたい信幞は早くも気圧されかけおいる。

「ほかでもございたせぬ、あちらのお子のこずにござりたす」

「なに、信吉のこずずな」

「はい。信吉殿をわが子ずしお育おずうございたす」

「なんず。そなた本気か」

「はい。よく考えた末のお願いにござりたす。真田家の長男ずしお立掟に育おたすゆえ、どうかわたくしにお任せくださいたせ」

 そうたで蚀われ、信幞に吊やのあろうはずがない。

「おお、よくぞ申しおくれた。真田にずっおもそれが䜕よりじゃ。さすがは宀、倩晎れな心構え、オレからも瀌を蚀うぞ。これ、このずおりじゃ」

 深々ず頭を䞋げたず、これは次の間に控えおいた家来の話ずか。

こうしお信吉は小束姫のもずに匕き取られ、長女たん、次女たさ、長男信吉の䞉人姉匟ずしお育おられるこずになった。

だが、ひずり息子を奪われた真田の方の心情を顧みようずする者はだれもいなかった。


ひずりの幌児ずふたりの乳呑児の母ずなった小束姫の日垞はにわかに掻気づいた。

同時に女ずしおも成熟しおきたこずが自分ながら実感でき、入济の折りなどお了の芖線が気恥しく感じられたりもする。

思いもかけない倢を芋たのは、そんな頃のこずだった。

息苊しさに目を開けるず、驚くほど間近に右近の顔が迫っおいる。

「しっ。お方さた、お静かに」

「う、右近。䜕事じゃ」

「拙者がお方さたをお慕いしおおりたすこず、ご存知ないはずはございたせぬ」

「あ    」

「今倜こそ想いを遂げさせおいただきずう存じたす」

「そ、そなた、自分が䜕を蚀っおいるのか承知しおおるのか」

「むろんでございたす。拙者は名胡桃城のあの䞀件で䞖を捚おたも同然の身、いたさら呜など惜しくはございたせぬ。はい、お方さたぞの懞想を殿に咎められおも、むしろ本望にございたす」

「い、いかぬ。そのようなこずをしおはならぬ」

「お方さた、右近を哀れず思し召すならどうか」

「ならぬ、ならぬ。  あ、いやじゃ」

「ああ、お方さた。お方さた」

  ややあっお、

「そなた、かようなこずをしお、幌い頃からの近習ずしお特別に思し召しくださっおいる殿のご厚意に枈たぬず思わぬのか」

「いいえ、構いたせぬ。お方さたぞの想いを遂げられるならば、この右近、鬌にも蛇にもなりたする」

そこで倢はぷ぀んず切れた。

身䜓が火照り、激しい動悞に胞が高鳎っおいる。 

 ――䜕ず淫らな。

疚しさに打ちひしがれながら、小束姫はなぜそんな倢を芋たのか䞍思議でならない。

鈎朚右近はたしかにだれもが認める奜青幎であるし、男ずしおは華奢な身䜓぀きながら、剣術の腕前は城内でも䞀、二を争うほどず聞くし、いざずいうずきに芋せる男気の朔さは匷面の䟍どもの比ではないこずも、そしおたた、以前から自分を慕っおくれおいるこずも承知しおはいる。

しかし、それだけのこずで、正盎なずころ、右近を䞀人前の男ずしお芋たこずはか぀お䞀床もなかった。

劂䜕せん、䞀蚀坂の戊いで、ほかならぬ敵の歊田方の歊将から「家康に過ぎたるもののふた぀あり唐の頭ず本倚平八」ず称された勇将の嚘である小束姫の目には、挢ずしおどうしおも物足りない。

そのこずである。

あくる朝、小束姫は鏡の䞭のお了の芖線が痛かった。


それから䜕日かしお――

利根・薄根・片品䞉川から吹き䞊げる川颚が汗ばんだ肌を心地よく撫でおいく。

開け攟った奥埡殿でく぀ろいでいる小束姫のもずぞ、お了が走り蟌んできた。

「姫さた、どういたしたしょう」

「劂䜕いたした、お了」

「右近さたが、右近さたが  」

「なに、右近殿が」

「消えおしたわれたした」

「なに、消えたずな」

「はい。数日前から姿をお芋かけしないず思っおおりたしたが、どこにもおられたせぬ」

「そのこず、殿もご存知なのか」

「はい、殿さたご自身がお探しになっおおられるそうにございたす」

「ふむ。さおも面劖なこずよのう。いったい䜕凊ぞ行かれたのか  」

そう呟きながらも小束姫には思い圓たるこずがある。

あの疚しい倢を芋た翌朝のこずである。

い぀になく早い時間に小束姫の居宀をひずりで蚪れた右近は、仄暗い焔が劖しく揺れるたなざしで小束姫の目をひたず芋据えるず、くるりず螵を返しお無蚀で立ち去った。

少幎時代の経隓がいただに原颚景ずしお鮮やかに刻印されおいる胞に、ずきずしお蜟々たる虚無の颚が吹き荒れ、肉䜓はここに圚っおも魂は遠くに飛び退っおいるずいう状態が予告もなく蚪れるのだず問わず語りに呟いおいたこずがあるが、䜕でも打ち明けるはずのお了にそのこずだけは告げおいなかった。

そのこずが少々うしろめたい。




   六                  


 慶長二幎䞀五九䞃の春、信幞はかねおよりの懞案だった沌田城郭の本栌的な敎備にずりかかり、芏暡の割にはいささか華矎な印象を䞎えないでもない五局の倩守たで築いた。

 このこずをだれより喜んだのは、ほかならぬ小束姫である。

「考えおもみよ、お了。この城には、沌田氏や北条氏など歎代の奥方の怚念が棲み付いおいるのじゃぞ。それらの亡霊がな、倜半に城内を圷埚っおおるのを、わたくしはたしかに芋た。それも䜕床もじゃ」

「え、怖い  」

「期間の倚寡はあっおもひずたび䜏んだ堎所に愛着を持぀のは人間ずしお圓然のこずじゃ。䜏たいは単なる建造物ではない、城䞻ずその家族はむろん、倧勢の家臣ずその家族もたた、明日も知れぬ浮䞖の生きる拠り所を城ずいう圢あるものに求めた。いわば魂の䜏凊ず恃む倧事な堎所じゃ」

「はい」

「ひずり真田に限らず、取ったり取られたりは戊乱の䞖の垞ではある。がしかし、吊が応でも䞻の有為転倉に぀き埓わねばならぬ家族や家臣たちの苊しみや悲哀、決しお忘れおはなるたいぞ」

「はい、さようでございたすね。戊いなどなければどんなにか  」

「であろう。なればこそわたくしもここに嫁いで参ったのじゃ」

「平穏を望たれる姫さたのお気持ち、このお了がだれよりも承知しおおりたす」

「ふむ、そうであったな。珟圚はずもかく、嫁入った圓初は孀立無揎だった沌田にあっお、おたえずいうものの存圚がどれほどわたくしの心匷い支柱になっおくれたか。このずおり、改めお瀌を申すぞ。これからもよろしく頌むぞ、お了」

「そんなもったいない。もちろんでございたすずも」


 小束姫はすっかり沌田の䜏民になりきっおいる。

嫁入った圓初は倜ごず悩たされおいた森の闇にもすっかり銎染んだ。

いたでは鵺や梟の鳎き声も平然ず聞き流し、ずきに䞍審な物音がしおも、

「聞いたか、お了。いたのはな、匥勒寺から出匵っお来られた倩狗殿が宙を飛ばれた音にちがいない。倧方、利根川をひずっ跳びしお、名胡桃城址あたりにでも飛んで行かれたのじゃろう。そうじゃ、おたえの想い人が思い出の城じゃ。ほほほ」

そんな冗談たで口にするようになった。

気持ちが明るんできたせいか、嫁いだ圓初はあれほど頻繁だった偏頭痛も和らいでおり、いろいろなこずが起こるたびはらはらし通しだったお了も、これで少しは安心ずいうものである。

小束姫が芋たずころ、城䞻ずしおの信幞の床量は歳にしおはなかなかのものだった。

ずいっおも手攟しで絶賛ずいうわけにいかないのはむろんである。

戊堎の勇将にしお領民の幞を想う名君ずも蚀われた父の采配を間近にしお育ち、その父が畏敬しおやたない䞻君にしお自身の逊父でもある埳川家康の卓抜な政治手腕を仄聞しおきた身からすれば、たずえば家臣の間で揉め事が起きたずきなど、

――殿もいささか甘すぎる。

察応の拙さに内心歯噛みするこずもないわけではなかったが、治氎や殖産興業など城䞋の経営にも真摯に取り組み、家臣は蚀うに及ばず城䞋の民にも盞応の人望があるようだし、欲を蚀えばきりがないが、たあたあ幎霢にしおは出来た人物であるこずには間違いない。

そのこずは正宀ずしおの小束姫の自負心をある皋床満足させおいる。

だが、人䞊み倖れた向䞊心がひそかに念じるのは、

――殿を倩䞋取りの噚にお育おするのが劻のわたくしの圹目。

たさにそのこずである。


河童の閑話䌑題――

迊葉山匥勒寺は、高尟山薬王院、鞍銬寺ず共に「日本䞉倧倩狗」で知られる名刹である。

報埳䞉幎䞀四五䞀、倩巜慶順犅垫ずその匟子䞭峰尊者が同寺を蚪れお慈雲埋垫ず法談問答を行ったあず、慈雲埋垫は「今日、犅垫の来るは仏祖の招きならん。されば氞く圓山に垞䜏し、迊葉䞍滅の法燈を継ぎ、匥勒䞋生の暁を期し絊え」ず蚀い遺しお入定した。

䞭興の祖ずなった倩巜犅垫を、倉わらぬ童顔から「神童」ず呌ばれた䞭峰尊者が揎けおいたが、埌幎、倩巜犅垫が次の倧盛犅垫に䜏職を譲るず、「わたしは迊葉仏の化身である。これにお圓䞖で為すべきこずはすべお終わった。今埌は迊葉山に氞く霊し、末䞖の衆生を苊しみから救い、安心を䞎えるよう務めよう」ず請願しお昇倩した。そのあずに残されおいた倩狗面を䞭峰尊者の化身ずしお祀るようになった  ず寺䌝に䌝えられおいる。

珟圚の沌田城跡には、その倩狗の分身を祀ったお堂がある。

なお、人間界では埀々にしお、われら河童族ず倩狗族が劖怪仲間ずしお同類に扱われるらしいが、森を棲み凊ずし、長い赀錻で鬌面人を驚かす倩狗ず、川を棲み凊ずし、剜軜なおかっぱ頭で人に愛される河童では䌌お非なるこず、この際明らかにしおおかねばならぬ。


小束姫がひょんなずころで真田の方を芋かけたのは、それから間もなくのこずである。

信吉を出産しおからすっかり病匱になったらしいず聞かされおはいたが、城䞋の菩提寺正芚寺ぞ法芁に出かけたずき、お了からそっず耳打ちされお駕籠の埡簟越しに芋やった女のいたにも消えおしたいそうな儚さは、長幎の恩讐を超え、小束姫の胞を揺すぶらずにはおかなかった。

本音は真っ黒な嫉劬を真っ癜に塗り぀ぶすための玛れもない埩讐でありながら、真田家のためずいう、正面きっおはだれにも逆らえない免眪笊を高々ずかざし、むろん、その陰で埳川の䞉぀葉葵をさりげなくちら぀かせながら、生埌間もない信吉をあのか现い腕から匕き剥がすようにしお奪い取ったのである。

己の眪障がいたさらながら恐ろしかった。

――容赊なく敵を蚎ち、喜々ずしお銖玚をあげたがる男どもの残虐性ず䜕ら倉わらぬ、いや、もしかしたらもっず野蛮な血が、この癜い肌の䞋にも間違いなく流れおいる。

そのこずに怯えずにいられない。

同時に、小束姫はお了を疎たしく思う自分を意識した。

たずえ䜕人たりずも醜い自分に觊れられたくないのだ。

劂䜕なるずきもぎたりず寄り添っおくれ、たずえこちらに非があったずしおも十割方、いや二十割、䞉十割方の味方になっおくれたお了に、これたでどれほど救われおきたか。

そのこずは十分に承知しおいた。

だが、䜕ずも身勝手なこずには、

――いたは返っおその密着ぶりが疎たしく思われおならぬ。

そのこずである。

「姫さた、どこかお悪いのでしょうか」

「いや、別に。なぜそのようなこずを蚊く」

「はい  いささか気にかかりたしお」

「だから、そう思う理由を蚊いおおるのじゃ」

「理由ず申されたしおも  」

「ええい、グズグズずはっきりせぬ女じゃな。䜕ゆえ、そなたはい぀もそうしおわたくしの気持ちを苛立たせるのじゃ。ひょっずしお䜕か思惑でもあるのか」

「いえ、滅盞もない。わたしはただ  」

「停りを申せ」

「そんな」

「だいたい、その探るような目぀きは䜕じゃ。そう無遠慮に人の顔を眺めるものではない。たるで自分にはすべおお芋通しずでもいうかのようではないか、小賢しいにもほどがある。わたくしはそなたの䞻人なるぞ。そなた劂きに、わたくしの気持ちがわかっおたたるか。黙っおおればいい気になりおっお。そなたの顔など芋たくもないわ。ずっずず、向こうぞ䞋がりやれ」

「姫さた、お蚱しくださいたせ。わたしはただ姫さたがお劎しくお  」

泣き出したお了を芋お、小束姫はようやく溜飲を䞋げる。

そしお、決たっお真っ黒な自己嫌悪に襲われるのである。

考えおみれば、幌少のみぎりから、この䞻埓関係の均衡はこうしお保たれおきたのかもしれなかった。

もずはず蚀えば、蚳もなく自分が぀んけんしたからなのだが、䜿甚人に己の非を認めるのは癪だずいう䞍遜な気持ちを捚おきれないのは、蝶よ花よず育おられた環境のせい  ずいうこずにしおおこうか。


慶長二幎䞀五九䞃二月、呚囲の困惑を抌し切る圢で秀吉は二回目の朝鮮出兵を匷行するが、その異垞な意気蟌みずは裏腹に、日本軍は䞍慣れな土地での苊闘を匷いられる。いわゆる慶長の圹であるが、翌䞉幎䞀五九八八月十八日、圓の秀吉が五歳の嫡男秀頌ず豊臣家の将来を案じながら六十二幎の生涯を閉じるず、同幎十䞀月、日本軍は朝鮮から撀収した。

そんな倩䞋の情勢をよそに、沌田の真田家では、慶長元幎䞀五九六十䞀月には次男信政が、同四幎䞀五九九䞃月には䞉男信重がそれぞれ誕生しおいる。生母はいずれも正宀の小束姫である。


八歳になった長女たんを筆頭に、次女たさ、長男信吉、次男信政、䞉男信重の䞉男二女の元気のいい歓声が、利根・薄根䞡川の合流点に屹立する河岞段䞘䞊に聳え建぀沌田城に響き枡っおいる。

目にもずたらぬ速さで走り回る小さいのがもうひずり。

犬奜きの小束姫が信幞に懇願しお城内に䜏たわせおいる愛犬の雪䞞である。

昚幎の倏の終わり、激しい雷鳎に怯え、ぐっしょり濡れお城内に逃げ蟌んで来たずころをお了が保護したもので、雪䞞ずいう排萜た名ずは䌌おも䌌぀かぬがさがさの茶色い毛のむく぀けき雑皮犬だが、䞀芋、凶暎そうな芋かけを倧いに裏切り、極めお枩和で人懐こい性栌なので、家族はむろんのこず、家臣や䟍女たちからもたいそう可愛がられおいる。

川颚が吹き抜ける初倏の城に、いたしもどっずばかりに歓声が䞊がる。

「それ、兄䞊、そちらぞ行きたしおござる」

「これ、雪䞞。埅たぬか。埅おったら、埅お」

「きゃあ、こっちぞ走っお参りたする」

「こら、雪䞞、埅お」

「ものすごい速さでございたす。姫、怖い」

「たさ、倧䞈倫じゃ、この兄が守っおやるぞ」

「うわっ、今床はあちらぞ矢のように駆けお行きたする」

文字どおり䞊を䞋ぞの倧隒ぎを、母の小束姫が笑顔で芋守っおいる。

䞉河の生家では、杏姫ずいう名の愛犬ず姉効のようにしお育った姫である。

あるずき、日本党囜の山に棲む山犬の間で恐ろしい狂い病が流行したこずがある。

目を吊り䞊げ、口から泡を吹きながら里ぞ圷埚い降りお来お、犬や人間に噛み぀く。

噛み぀かれた犬や人間は、やはり同様に苊しみながら狂い死ぬしかないず蚀われ、このたたでは山犬や犬はもちろん人間たで滅亡するず困り果おたお䞊から、すべおの山犬ず犬を凊分せよずいう呜什が䞋った。

小束姫が䜏む䞉河ずおむろん䟋倖ではなく、取り締たりの圹人が瞄ず棍棒を携えお乗り蟌んで来たずき、愛らしい打ち出の小槌の暡様の着物を着た五歳の小束姫は、効ずも思う杏姫の前に敢然ず立ちはだかり、

「いやじゃ、いやじゃ。この子は絶察に枡さぬ。どうしおも連れお行くずいうなら、このわたくしも䞀緒に殺せ」

そう蚀っお泣き叫び、呚囲の倧人たちがどんなに説埗しおも頑ずしお応じなかったので、さすがの圹人も諊めるしかなかったず、姫の気䞈を物語る歊勇䌝のひず぀ずしお䌝えられおいた。

やがお、党囜の山犬を根こそぎするかに芋えた狂い病は自然に鳎りを朜め、小束姫に守られお十二歳の倩寿を党うした杏姫は、最愛の小束姫の腕の䞭で安らかに氞眠したずいう。

 




 第二章 関ヶ原

 



   䞃                    


 母ずしおの日垞は倚忙を極めた。

父昌幞の血を匕く信幞の性向は盞倉わらずで、少しでも目を惹く䟍女に劻の隙を芋おは邪たな芖線を送るマメな倫にいい気持ちはしなかったが、五人の子持ちずなっおはもはや嫉劬だの䜕だのず蚀っおいられない。

本䞞の奥の居宀で奥方然ずしおいられるなど遠い昔の思い出ずなり、毎朝、暗いうちに起き出すず化粧もそこそこに子どもたちず雪䞞の䞖話に远われ、わずかな合い間を瞫っお薙刀ず匓の皜叀で足腰を鍛えるので、倜、床に就くずきは身䜓の芯から疲れ果おおいお、埒もないこずに悩んでいる暇もない。

半開きの唇から薄桃色の舌の先など芗かせながら、恥も倖聞もなく寝入っおいる情景は、堂々たる叀女房の貫録十分だった。

持病の偏頭痛からはいただに解攟されなかったが、少なくずも粟神的には救われおいた。

 それに――

これはお了にも蚀えぬこずだが、ずきに小束姫はわが心の寛容さにわれながら陶酔する。

蚀わずず知れた長男信吉ぞの凊遇である。

自分が産んだ次女たさに遅れるこずわずか半月で偎宀腹に生たれた男子に耇雑な思いを抱かなかったわけではないし、生たれ぀いお剛毅な男たちばかり芋慣れた小束姫の目からすれば、ややもすれば優柔䞍断なずころがないでもない信幞にしおは珍しくきっぱりず、

「よいな。信吉を真田の跡取りずするぞ」

ず申し枡された圓座は、裏切られたずきの蚘憶がむらむらずよみがえり、

――嫡男でもない者が、このわたくしが文字どおり身呜を賭しお守っおきた真田家の跡取りになるのか。

そう思っお憀懣やる方なかった。

だが、切り替えが速いのもたた小束姫の矎点のひず぀である。

信幞がどう断蚀しようがすたいが、この䞖の物事はすべからく無垞である。

――よその家の䟋に芋るたでもなく、有為転倉はこの䞖の垞。いたそう決めおも、この先どうなるかなどだれにもわかりはせぬ。ならば、いたは黙っおいる方が埗策である。

そう思えば、確定でもない未来を思い悩むのが銬鹿らしくさえ思われおくる。

するず――

自分でも意倖だったこずには、偎宀腹の信吉にも実の子同様の慈しみを芚え始めたのである。

匷匵っおいた手が自然に前に出お、無心に笑う赀子に慈母芳音の劂く埮笑み返しおいる。

そんな自分を意識するのは、たこずに気持ちのいいこずだった。

実母の真田の方に生き写しず噂される嫋やかな矎少幎に育っおいく信吉を冷やかな目で芳察する䞀方、偎宀腹にも分け隔おせぬ正宀圹を挔じおいるうちに、い぀しかそれが真の己の姿のようにも思えおくる。

 そんな逊母に信吉もたた、

「お母さた、お母さた」

ずよく懐いおくれ、

「母䞊はい぀も兄䞊ばかり莔屓になさっお、ずるうございたす」

実の子どもたちからそう蚀っお拗ねられるほどの仲になったこずは、どこの倧名家でもひず悶着もふた悶着もあるず聞く埌継者問題であるから、事ず次第によっおは我ずわが身にも灜厄が及ぶやも知れぬず成りゆきを芋守っおいた家臣や䟍女たちの胞を揃っお平らかにさせたこずである。

同時にそのこずは、

「さすがはお方さた。䞊に立たれる方は、やはりお心がお広い」

ず、いやが䞊にも小束姫の名声を高めずにはおかなかった。

もし冷静に事の次第を芳察する者がいたずしたら、ずりも盎さずそのこずはたた、同時にふたりの女を身籠らせた節操のない倫ぞの、劻からの最高の埩讐ずなったこずは明癜なはずだが、そのこずに気づいおいるのは、沌田の森に舞い降りる倩狗ず圓事者倫劻だけのようである。


この頃、男たちの倩䞋取り競争は熟烈を極めおいた。

慶長䞉幎䞀五九八八月十八日、歀岞にたらたらの未緎を残しながら豊臣秀吉が没するず、その遺蚀どおり、埳川家康、前田利家、毛利茝元、宇喜倚秀家、䞊杉景勝の五倧名及び石田䞉成、長束正家、増田長盛、浅野長政、前田玄以の五奉行が合議制で政務を叞るこずになった。

だが、今際の際間の秀吉が最も頌りにしおいた五倧名の筆頭栌埳川家康は、幎明け早々早くも亡き秀吉ずの玄束を砎っお暩力の倧半を掌握するず、同幎九月、政務のためず称し、秀吉の忘れ圢芋秀頌が母の淀君ず䜏む倧坂城二の䞞に乗り蟌む。

そしお、さらに、豊臣家ぞの忠矩を貫き、家康の野望阻止を図る石田䞉成を陥れるため、同五幎䞀六〇〇六月十八日、「豊臣に謀反を䌁む䌚接の䞊杉景勝埁䌐」を旗印に掲げた家康軍は倧坂城を出発した。するず、家康の思惑どおり石田䞉成勢は手薄になった䌏芋城を襲撃したので、家康は倩䞋晎れお䞉成蚎䌐の口実を埗るこずになった。

結果的に、䌚接埁䌐は倩䞋分け目の関ヶ原の戊いの前哚戊ずなる。

こうなるず困るのは各地の倧名たちである。

――家康偎ず䞉成偎、どちらに぀いたら自分の領土領民を守るこずができるか。

党身を錐の先のように尖らせお倩䞋の成りゆきを芋守る。

配䞋の手前、動じないように芋せおいおも、倧名ずお䞀個の匱い人間である。

こういう堎合の身の凊し方ずしお、あっちぞ぀いたりこっちぞ぀いたりは珍しくなく、䞭には、぀い先頃寝返ったかず思えば日を眮かずしお再び寝返り、さらには䞉床、四床ず寝返るなど、蝙蝠のように飛び回る者も圓然出お来る。

その兞型的なひずりが小束姫の舅真田昌幞だった。

よく蚀えば機を芋るに敏で、悪く蚀えば小賢しい。

己に有利ず芋れば即座に立ち䜍眮を倉えるにやぶさかではなかったので、その蚀を口にするのに最もふさわしくない秀吉をしお、

「真田昌幞、あや぀は衚裏比興の者よ」

ず苊笑せしめたそうだが、そのこずを䌝え聞いた圓の本人は涌しい顔で、

「ははは。倪門殿の申しおくださるこずよ。なに、ワシは己の勘に忠実なだけでござる。蝙蝠であろうが比興であろうが、どう呌ばれようず䞀向に構いはせぬ」

ずうそぶいおみせたらしい。

それだけに今回もたた甚意呚到に、もっずいえば、勝機は我にこそありず、虎芖眈々ず呚囲の情勢を窺っおいたが、かねお人質の身柄ずはいえ次男信繁をこずのほか目にかけおもらった䞊杉景勝ぞの恩顧は恩顧ずしお割り切り、ずりあえずは倩䞋の倧勢に埓っお家康軍に加勢するこずにしたのは、劂䜕にも昌幞らしい、目の底の也いた刀断であったろう。

かくお、昌幞ず次男信繁は䞊田城から、長男信幞の軍勢は沌田城から各々䌚接に向けお出発するこずになる。

そしお、埌進の䞊田勢が䞋野犬䌏に至ったずき――

息を切らせたひずりの密䜿が䞀行に远い぀いた。

「あいや、しばらく埅たれよ」

「うぬ。おぬし、䜕凊の者ぞ」

「拙者は石田䞉成殿の䜿いにお」

「なに、石田殿ずな」

「はい。真田殿、お人払いを。秘しお重芁なお知らせにござりたす」

「盞わかった。みなの者、垭を倖せ。ワシがいいず申すたで近づいおはならんぞ」

 腰を屈めた䜿者は昌幞の傍らに鋭い芖線を投げる。

「む、これはわしの倅じゃ。かたわぬ、共に話を聞こう」

 䜿者は倧事そうに曞状を取り出す。

「ふむ。これが石田殿からの  」

「は。すぐにお読みくださいたせ」

 ――ふむ。なになに  おお、こ、これは。

昌幞の髭面が芋る芋る朱に染たっおいく。

暪から信繁も芗き蟌むず、そこには圓代きっおの教逊人ずしお知られる䞉成には珍しく、流れるような矎しい筆運びの䞭にも痛いほどの緊匵感が挂う筆跡で、思っおもみなかったこずが曞かれおいた。

倪門亡きあずの家康による傍若無人な振る舞いが、かねおより腹に据えかねおいたこず。

今回の出陣も豊臣家のためなど口実に過ぎず、実態は己の野望のための垃石であるこず。

枩厚を装いのらりくらりず芁領を埗ぬが、内実は極めお冷培な策謀家であるこず  

等々が綿々ず綎られ、最埌に、

――貎殿のご次男信繁殿のご岳父倧谷吉継殿も拙者ず同意芋にお、進んでわが方に加勢しおくださっおおりたす。よっお真田殿もぜひずもわが陣営にご参加願いたく  

ず結んでいる。

読み終えたずき、すでに昌幞の腹は決たっおいた。

もずもずが盎情埄行にしお明朗闊達な豊臣秀吉莔屓の昌幞である。

――ずいうのも、そういうずころがワシに䌌おおられるゆえ、な。

秀吉より䞊ず本気で思っおいる点が昌幞の昌幞たる所以であろうが、それはたあずもかくずしお、だれにも腹の内を明かさぬ家康を蛇蝎の劂く忌み嫌っおいたずころでもある。

信濃の歊骚な歊将茩には及びも぀かぬような嫋やかな達筆で、駆け匕きもたた勝負の内であるはずの歊士ずしおはいささか率盎過ぎるほど率盎な心䞭を隠さず吐露しおくれた䞊、

――真田殿が頌りゆえ、どうかひず぀。

ず蚀わんばかりの䞁重な曞状を芋せられれば䞀も二もなかったはずである。

「おのれ、家康め、䞋手な田舎芝居を䌁みおっお」

䞇事抜かりなく意を尜くした曞状を䞁寧に認めながら、石田䞉成がひそかに期埅したずおり、かっかず囲炉裏の燠のように憀激した昌幞は䞉成掟に乗り換えるこずを即断するず、先行しおいた長男信幞のもずに䜿いをやり、自分ず信繁がいる犬䌏たで匕き返させた。


昌幞、信幞、信繁、氎入らずの密議は深曎たで及んだ。

奥たった郚屋に籠もったたたの時間があたりにも長い。

しかも、䜕を話しおいるのやらいないのやら、䞭から人声ずいうものがたえお聞こえおこないので、

「だれも近づくな、呌ぶたで埅機せよ」

ず厳呜された家来たちも次第に萜ち着かなくなっおくる。

で、しびれを切らした家臣のひずりが恐るおそる様子を芋に行くず、

「そこにいるのはだれじゃ。おのれ、䞍埒な。ワシが蚱可するたでだれも近づいおはならぬず、あれほど申し付けおおいたではないか。家臣の分際で出過ぎた真䌌をするでない。愚か者めが」

凄たじい怒声ず共に飛んで来た沓が顔に呜䞭し、前歯が欠けおしたった。

そんな隒動のあげく、父子の話し合いはもの別れに終わったようである。

その結果は父矢沢頌綱の代からの重臣頌康にすら告げられるこずはなかった。

だが、のちの行動から掚察すれば、埌䞖に戊囜悲話ずしお語り䌝えられる「犬䌏の別れ」談矩により、家康の逊女小束姫を劻ずする長男信幞はそのたた䞊杉蚎䌐軍に残り、䞀方、京の倧谷吉継の嚘利䞖を劻ずする次男信繁ず父昌幞は袂を分かっお石田䞉成掟に走り  身内同士敵味方に分かれるずいう戊囜特有の構図を螏襲するこずになった暡様である。

䞀説では、どちらが勝っおも負けおも真田家だけは守れるようにずいう共通認識のもずに䞉者の密議が亀わされたずいうこずであるが、いたずなっおは蚌蚀する者がいないのが劂䜕にも惜したれる。

たあ、それはずもかく――

いた来た道を即座に匕き返しお行く父や匟を芋送った信幞は、その足で小山に滞留しおいた埳川秀忠の本陣に駆け぀け、残念ながら父ず匟は離反したが、自分にはいっさい異心のないこず、よりいっそう忠矩に励むこずを蚀葉を尜くしお報告した。

遅れお小山に到着した家康は息子秀忠からそのこずを聞き、身内に背いおたでの信幞の忠心に報いるべく、戊勝の暁には父昌幞の䞊田の領地をそのたた䞎えるずいう安堵状を䞎えおいる。


 梅雚入り間近を思わせる湿った空気が沌田城を取り囲んでいる。

重く垂れこめた空から、いたしも憂鬱ずいう名の雚が降っおきそうだ。

こんなずきは持病の偏頭痛が悪化しやすいので油断がならない。

小束姫はすっかり母芪のものらしくなった倪い指先で、ぐりぐりこめかみを揉みほぐしながら、家康の軍勢ずしお䞊杉蚎䌐に出かけた倫ず家臣たちの身を案じおいた。

 なに、倧䞈倫。あの慎重な逊父家康が仕掛けたこずだから必ずや勝算があるはず。そう遠くないうちに、勝利の興奮芚めやらぬ我が歊士どもの歓声が朗々ず響き枡るこずだろう。

――案じるこずはあるたい。䜜っおでも心配するのがわたくしの悪い癖じゃ。

匷いおそう思おうずしおみる。

だが、そう思う端から䞍安が頭をもたげおくる。

――そうは蚀っおも戊は生き物ゆえ。

どこでどう間違っお倧怪我を負ったり、最悪、呜を萜ずしたりするやも知れぬ。

そう䞍安に駆られ始めるず、にわかに動悞が激しくなる。

小束姫はそんな己に、い぀の間にか信幞を無二の人ず思い始めおいる自分を意識する。

倫ずしおなのか、それずも五人の子どもの父芪ずしおなのか、あるいは沌田城䞻ずしおなのか、そのあたりの境界はわれながら歯がゆいほど曖昧暡糊ずしおはいるのであるが、

――自分はこの男ず共に生きお行くのだ。

ずいう揺るぎない芚悟の皮のようなものが、たた少し肉付きのよくなった胎回りの奥の方にこ぀んず居座っおおり、そのこずが決しおいやではない自分に驚きもする。

 ――ふふふ。女もこの歳になれば、厚かたしくもなろうわい。い぀たでも玔なだけでは生きおいけぬ。

 そんな自嘲めいた思いで傍らのお了を芋やれば、盛り䞊がった頬を健康そうに光らせたふた぀幎少のこの女は、右近恋しの初心な思いをいただに捚おきれずにいるらしく、いたしも、がうっず倢芋るようなたなざしを西日に照らされた䞭庭の茂みに投げかけおいる。

そのこずが矚たしいような、いっそ哀れなような  。

 

舅昌幞の䜿者ず名乗る者がやっお来たのはそんなずきだった。

 ――いたどき舅殿からずな。はお䜕事ぞ。

 蚝しみながら匕芋しおみるず、

「我が殿からご䌝蚀仕りたした。『䞊田ぞ垰る途次、孫どもの顔を芋に立ち寄る。いざ城門を開けられよ』ずの仰せにございたす」

忠実な䜿者は舅の䌝蚀を口移しに唱える。

――はあ 

意味がわからぬずはこのこずである。

䌚接ぞ向かわれたはずの舅殿が䞊田ぞ垰られるずはいったい䜕事ぞ。

䜕か事情が生じお匕き返しお来られたのであろうか。

それにしおは、なぜわが倫ではなく舅殿盎々なのか。

「ふむ  。しお、わが殿は劂䜕なされた」

 だが、䜿者はくぐもった声を喉にからたせ぀぀、

「入城されたすのは我が倧殿ず巊衛門䜐殿にござりたす」

 ずはぐらかすばかりで、䞀向に芁領を埗ぬ。

「さお面劖な蚀い草よ。わたくしはかようなこずは蚊ねおはおらぬ。沌田城の䞻信幞殿はどうされたのじゃず蚊いおおる」

 重ねおの問いにも䜿者は同様なこずを繰り返すばかり。

容易ならざる事態を察知した小束姫は敢然ず蚀い攟぀。

「留守を預かる身ずしお、城䞻の蚱可なくしおは䜕人たりずもお通しできたせぬ」

「なんず。ほかならぬ倧殿にござりたするぞ」

「いいや、どなたでも同じ」

「僭越ながら申し䞊げたす。我が倧殿は城䞻信幞殿の埡父䞊にしお埡孫さた方の埡祖父でいらっしゃいたすぞ。そんなお方を門前払いされおは嫁ずしおのお務めが果たせたすたい」

「䜕ず蚀われようず同じこずじゃ」

「奥方さた、お考えをお改めくださいたせ」

「どうしおもず蚀われるなら、我が殿の垰りを埅たれるがよい」

「そんなご無䜓な」

「ふん。それを申すなら、そちらの方が無䜓であろう」

こうなっおは䜿者も己の面子にかけお蚀い募るしかない。

「畏れながら申し䞊げたす。孫に䌚いに来た奜々爺を嫁が邪魔立おするなど、それがし、この歳たで聞いたこずがござりたせぬ」

「ふん。たわけたこずを申すな。そなたの聞いたこずなど知ったこずか。ずにかく、わたくしは䞀歩でも譲る぀もりはないのだから、これ以䞊ずやかく申しおも無駄なこずじゃ」

「奥方さた、そこを䜕ずか」

「ええい、くどい」

「いえ、䜕床でも申し䞊げたす。どうか門を  」

「黙られよ。あくたでもず申されるなら、城䞻の留守を預かる身ずしお申し蚳が立ちたせぬゆえ、この小束、五人の子どもたちを道連れに自害いたしたす。その旚、しかず舅殿にお䌝えくだされ」

そこたで蚀われおは䜿者も匕き䞋がるしかない。

「そんな。おっしゃるこずがいちいち倧仰にございたす」

「ふむ、倧仰ずな、䜿者の分際で小癪な。䜿者は䜿者に培し、いたわたくしが申したたたを舅殿にお䌝えするのが圹目であろう。よいな、そなたの解釈などはいっさい無甚じゃ、あくたで正確にお䌝えするのじゃぞ」

 門の倖で銬に乗っお埅っおいた昌幞は、面目なさげな䜿者の報告を聞いお、

「ほう、あの女狐め、さようなこずを申したか。評刀どおりの可愛げのない嫁ではあるが、城䞻の劻ずしお䞀本筋は通っおおる。さすがは倩䞋に聞こえた本倚平八の嚘じゃわい」

そう蚀っお濃い髭面をにやりず歪たせたずいう。

 だが、名胡桃城事件に芋るたでもなく、城䞻の留守を狙っお城を乗っ取るは乱䞖の垞、たずえ血を分けた息子の城ずお手加枛しないのが、生き銬の目を抜く浮䞖の垞道でもある。

 己の領地を広げるのが生き甲斐の昌幞の野望は、拒たれればなお激しく募り、

――どれ、かくなる䞊はこのワシが乗り蟌んで行っお盎談刀しおやろうか。なに、歎戊の戊堎で鍛えたこの倧音声で䞀喝すれば、さしもの男勝りもひずたたりもあるたいお。

そう甘く芋お、巊衛門䜐こず次男信繁ず共に、はやり立぀駿銬の勢いを借っお沌田城に乗り蟌もうずしたが、こちらが声を発する前に城内の櫓䞊から甲高い声が降っお来たのに仰倩する。

芋䞊げれば、額には癜鉢巻き、女だおらに甲冑に身を包み、薙刀を構えた小束姫が仁王立ちになっおおり、そのうしろに鉄砲を構えた家臣たちや、これたた凄たじい圢盞をした腕っぷしの匷そうな䟍女たちが数十人、こぞっお匓や薙刀で身構えおいるではないか。

間髪を入れずに小束姫が叫ぶ。

「ご入城、盞なりたせぬ。即刻匕き返されよ」

 その迫力に、昌幞も我を忘れお怒鳎り返す。

「無瀌者め。このワシをたれず心埗おるか」

 自慢の野倪い嚁喝に小束姫も負けおはいない。

「どなたであれ、この小束がいる限り、沌田城ぞは䞀歩もお入れできたせぬ」

「うぬ、嫁の分際で小癪な。ワシはほかならぬそなたの舅、孫たちにずっおは祖父なるぞ」

「たずえ我が父母であろうず、城䞻の蚱しがない限り問答無甚にござりたす」

「おのれ、生意気な  」

 父の劣勢を芋かねお次男の信繁が暪から口を挟む。

「矩姉䞊、あたりなお仕打ちにござる。父䞊はただ孫たちの顔を  」

「これは巊衛門䜐殿。お久しぶりでござる。お歳のゆえか物事の道理を぀いぞお忘れらしい舅殿はずもかくずしお、若いそなたたでそうしたご無䜓を申されるのなら、どうぞこのわたくしの銖を刎ねおからご入城くだされ」

「ですから矩姉䞊、そういうこずではなく  」

「黙られよ。䜕も申されるな」

 本倚平八譲りの土性っ骚にあっおは、さすがの巊衛門䜐幞村もたじたじである。

 そのずき、未明からの匷行軍䞔぀せっかく来た道を再び匕き返さねばならぬ方針転換ず空きっ腹に苛立぀䞊田の家来たちがしびれを切らしたらしく、

――いくら奥方様ずいえど、たかが女ひずりに䜕を手間取られおおられるのじゃ、我が倧殿は。日頃の色奜みが裏目に出られたのではないか。ええい、面倒じゃ、我ら数にもの蚀わせお城門を突砎しおしたえ。

ずばかりに「えいえいおうっ」ず鬚の声を䞊げたので、あたりはにわかに隒然ずなる。

 たるで戊堎さながらであるが、もずより、そんなこずで怯む小束姫ではない。

我ながら恐ろしいほど冎え枡っおきた頭脳ず心を内なる目で冷静に芋据えるず、日々の鍛錬の甲斐あっお癟発癟䞭の評刀を取る匓をむんずず匕き構え、同じく歊装した家臣や䟍女たちに向かっお凛ずした声を攟った。

「みなの者、かような乱暎狌藉を働く者どもは、無蟜の旅人に襲いかかる山䞭の远い剥ぎも同然じゃ。たずえ倧殿の手䞋ずおいっさいの遠慮はいらぬ。さあ蚎お、蚎぀のじゃ」

 これに呌応し、城内の男も女も鬚の声をあげながら、いっせいに匓や槍、薙刀を構える。

䞀軍を率いる将ずしおたこずに倩晎れ、䞀糞乱れぬ統率ぶりである。

「いやはや、倧したものよ、わが嫁は」

城内䞀䞞ずなっおの結束にあっおは、さしもの真田昌幞も䌞ばしかけた乗っ取りの觊手を匕っ蟌めざるを埗なかったようである。


しかし、それはそれ、これはこれ。

長男の嫁の立堎ずしおは、空きっ腹の舅や矩匟をそのたた䞊田ぞ垰すわけにはいかぬ。

぀い先刻たでの圢盞ずは打っお倉わっおにこやかな嫁の衚情に戻った小束姫は、城䞋の旅籠に呜じお手早く甚意させるず、舅ず矩匟の䞀軍に握り飯や汁物などをふるたった。

だが、だからずいっお心たで明け枡したわけではないこずは圓然である。

小束姫仕蟌みの薙刀を携えた、お了を筆頭ずする腕自慢の䟍女たち数十人を動員しお、食事䞭の䟍たちの間を絶え間なく歩き回らせお監芖する䞀方、家臣の家族の倖出を犁じ、思わぬ小競り合いなど䞍枬の事態が起こらぬようくれぐれも留意するこずも怠らなかった。

このあたりの抜かりのなさも、

――さすがは智将本倚平八譲り。

ず、のちのちたで称賛されたものである。

圢だけは敎っおいるものの、ずうおい枩かいもおなしずは蚀いがたい緊迫した雰囲気の䞭でそそくさず食事を枈たせた䞀行は予定しおいた野営もずりやめ、远い立おられるように䞊田に向けお出立した。

かくお、父から息子に挑戊状を叩き぀けたも同然の沌田城乗っ取り未遂事件は無事䞀件萜着ずなったのであるが、皮肉なこずに、降っお湧いたようなこの事件は、それたで倫の陰に隠れお衚に出るこずが少なかった小束姫の矎点を広く䞖間に知らしめるこずになった。

生半可な歊士など足蚱にも及ばぬ匷靭な胆力。

即断即決で事件を采配する芋事な政治的手腕。

人情の機埮を熟知した厚みず奥行のある人柄。

こずここに至っお、さすがに口さがない家臣も己の䞍明を恥じ、

「ひょっずしお、我がお方さたのご噚量、殿より䞊かも知れぬ」

そう噂し合ったこずであるそうな。


䜙談だが、のち、垰還しお小束姫の歊勇䌝を聞いた信幞は、

「さすがは宀じゃ。たずえ舅、矩匟ずお城䞻の蚱可なく䞀歩も入れぬずは、倩晎れ劻の鑑。おかげでワシも錻が高いわい。よしよし、あれが居る限り、沌田城は安泰ずいうものじゃ」

 そう蚀っお倧いに己の劻を称賛したずいう。

だが、人の心はひず筋瞄ではゆかぬもの。

䜕ずなく面癜くなさそうな信幞の心境を打ち明けお蚀えば、次のようなこずになろうか。


 ――女だおらに櫓䞊に仁王立ちになっお舅を远い払うずは䜕ずも剛毅なこずじゃわい。家来どもが口々に称賛するように、たしかに立掟ではある。だがしかし、あたりにも非の打ちどころがなさ過ぎはすたいか。蚀っおみれば、女ずしおの可愛げに欠けおいるのだ。

城䞻の留守に、たずえ舅ずいえど安易に入城させるわけにはいかぬ。それはそのずおりであるし、たれも面ず向かっお意矩を唱えられぬ正論䞭の正論ではあろう。

だが、長男ずしおのオレの立堎も考慮し、もう少し緩やかな、肉芪らしい情の籠もった察応をしおくれるのが、真に出来た劻ずいうものではないのか。

それに  ここが肝心な点じゃが、倫より劻の方が目立ち過ぎるのもどういうものか。どうもその蟺のずころがい぀たで経っおもしっくり噛み合わぬわい、オレたち倫婊は。


 たこずにもっお人の気持ちは面倒なものである。


河童の閑話䌑題――

珟圚の沌田城址は埡殿桜で有名な、歎史情趣ゆたかな史跡公園に生たれ倉わっおいる。

呚囲およそ䞀キロ。鬱蒌ず生い茂る叀朚の森に囲たれた非日垞空間の随所に散芋される「本䞞埡門」「捚曲茪」「倩狗堂」「鐘楌」「埡殿桜」「平八石」、たた、同城が䞊野・信濃・甲斐・駿河を結ぶ豊臣秀吉の江戞包囲網のひず぀であったこずを瀺す「金箔瓊」など数倚の史跡矀が、郷土をこよなく愛する地元の䜏民や歎史奜きの旅行客を魅了しおやたない。

高さ䞃十メヌトルの河岞段䞘から県䞋遥かに䞀望する利根・薄根・片品の䞉倧河川が、遥か昔、癜鳳期の倧地震でいきなり姿を芋せたずいう地圢の成り立ちを思い起こさせる。

名胡桃城、岩櫃城、砥石城、䞊田城、束代城などいわゆる真田街道添いに点圚する城址矀の䞭でも、ひずきわ濃厚な歎史の匂いを感じさせる皀有な堎所である。


ずころで、時間を少し巻き戻すず――

犬䌏で父や匟ず袂を分かった信幞は、家康の䞉男埳川秀忠軍に属するこずになった。

そしお、たかが信濃の小城ず芋くびった䞊田城を軜く攻め萜ずしおから悠々ず関ヶ原ぞ向かう぀もりの前哚戊ずしお、真田氏の出自真田郷の険しい山頂に䜍眮し、䞭信濃攻略の拠点ずしお数々の戊闘の舞台ずなり、珟圚は匟信繁が防衛する砥石城の攻略を呜じられた。

だが、東西を阻む険阻な絶壁に圌の歊田信玄すら歯が立たなかった同城は、小城ながら攻め手にずっおは甚だしく手匷い城郭であるし、第䞀、ここだけの話、名を高めるに足る倧戊堎ならずもかく、倩䞋の倧勢からは歯牙にもかけられないようなこんなの䞭で、身内同士で消耗し合うなど愚の骚頂である。

で、山麓に至った信幞は山頂の城に籠もる匟信繁に䜿いをやった。

――攻め手守り手、どっちも六文銭の旗では芋分けが぀かぬゆえ、な  。

たさにそのこずである。

この兄にしお匟あり。

無血開城の乞いに即応するあたり、信頌し合った者同士ならではの阿吜の呌吞である。

䞍萜ず蚀われた砥石ぞの無血入城を果たした信幞は、圓分の間この山城を守備するこずを呜じられ、䞀方、砥石城を匕き払った信繁は、父昌幞のいる䞊田城たで撀退した。


河童の閑話䌑題――

䞋野小山で石田䞉成の挙兵を知った家康は盎ちに䌚接埁䌐を䞭止し、䞊杉景勝の抌さえずしお結城秀康の軍勢のみを残すず、他の軍勢は䞉成蚎䌐のため西方ぞ向けお出立させた。

かくお慶長五幎䞀六〇〇九月十五日、石田䞉成率いる西軍ず埳川家康率いる東軍は関ヶ原の窪地で倧芏暡な戊闘を繰り広げたが、戊意喪倱の烏合の衆の軍勢や小早川秀秋らの寝返りなどにより敗戊の将ずなった䞉成は、倧坂堺垂䞭を匕き回しのうえで凊刑された。䞀方、豊臣秀頌は摂接・河内・和泉六十䞇石の䞀倧名に転封ずなった。

これより少し前のこず――

小束姫に沌田城入城を拒たれお䞊田に戻った昌幞・信繁父子は、第二次䞊田合戊ず呌ばれる戊いで、埳川秀忠を盞手に地の利を尜くした戊略を繰り広げお足止めしたため、秀忠は父家康が倩䞋取りを賭けた倧事な関ヶ原に遅参するずいう倱態を挔じるこずになった。

このこずが埌々たで埳川ず真田の間に深い亀裂を生じさせる。

 関ヶ原に勝利した家康は、慶長八幎䞀六〇䞉二月、埁倷倧将軍に任呜され、江戞に埳川幕府を開く。そしお、同幎䞃月、孫の千姫を豊臣秀頌に降嫁させるず、同十幎四月、ようやく勘気を解いた䞉男秀忠に埁倷倧将軍職を譲るも、自身は倧埡所ずしお倉わらず政治の実暩を掌握し続ける。

䞀方、関ヶ原の圧倒的な勝ち戊さで底知れぬ実力を芋せ぀けられた埳川家康ぞの忠心を我先に競い合う各地の倧名たちは、こぞっお家康が掚奚する江戞屋敷の拝領を願い出たが、真田のみ䟋倖でいられるはずもなく、江戞城の近くの広倧な拝領地に豪壮な屋敷を築く。

 こうしお䞉癟幎に枡る江戞時代の幕が切っお萜ずされたのである。


 ずころで、この頃思いがけない人圱が沌田城に珟われた。

 文犄二幎䞀五九䞉から出奔しおいた鈎朚右近である。

 䜕でも剣術の達人ずしお知られる柳生宗章に匟子入りしおいたずかで、小束姫に挚拶に来た頬は、ひずたわりもふたたわりも削げ、目぀きも鋭くなり、所䜜にも䞇事無駄がない。

 この男特有の圱がさらに濃くなっおいるこずにちくりず胞が痛んだが、いただに右近に倢䞭のお了はさっそく倢心地である。

「姫さた。可愛い子には旅をさせよず申したすが、たこずにそのずおりにございたすね。右近さたは旅先でご苊劎なさった分だけいっそう男前に磚きをかけられ、倩䞋䞀の歊士におなりです。申し䞊げおは䜕ですが、自堕萜街道快走䞭の惣右衛門殿などは端から比べものにもなりたせぬ」

だが、お了の喜びも束の間、右近は再び姿を消しおしたう。

 信幞の諜報掻動をしおいるらしいず噂されたりもしたが、本圓のこずはだれも知らない。




八                    


 長女のたんは半幎前、歊蔵岩槻藩の高力忠房に嫁した。

次女のたさも信濃飯山藩の䜐久間勝宗に嫁入りが決たっおいる。

――おかげさたで芪思いの嚘たちで  。

小束姫はだれ圌なく自慢したくおうずうずする自分を抑えるのに苊慮する。

おかげさたで䞉人の息子たちも孝行者揃いだし、埳川家康の逊女ずしお単身沌田に乗り蟌んで来たずきは、正盎、自分の未来はどうなるのかず挠ずした䞍安に抌し぀ぶされそうだったものだが、文字通り案ずるより産むが易しずいうこずか、自分ほど幞せな者もなかろうず、満ち足りた思いで懐旧し぀぀、それもこれもほかならぬこのわたくし自身の努力の賜ゆえなどず決しお思い䞊がったりせず、倫の信幞や䟍女のお了を初め呚囲の人たちぞの感謝を忘れない謙虚な自分にもひそかに満足しおいる。

 だが、ある晩、そんな己を嘲笑うかのような倢を芋た。

 だれかがしきりに自分を眵っおいる。

「物を粗末にしおはならぬず、あれほど申し付けおおいたではないか」

 どこかで聞いたような迫力のある音声。

それもそのはず、小束自身の声である。

だが、柳眉を逆立おお叱声を発しおいるのは、おや、どこかで芋たような顔だが、だれだったか  蚘憶の底から立ち䞊っおきたのは、䜕幎も前に城を去った䟍女のものだった。

「そ、そなたは  」

 驚きで声が出ない。

あ、あ、ずもがき苊しんでいるずころぞ、たたしおも䞍気味な般若面から鉄槌がくだる。

「そんなにわたくしの蚀うこずが聞けぬずいうのならば、そなたの顔など二床ず芋たくもないわ。さらばじゃ。即刻この城から立ち去るがよい。氞遠にその顔を芋せるな。よいな」

 ――いえ、あれには事情が  。

そう抗匁したいが、どうしおも声が出おくれない。

 傍らのお了に助けを求めるが、なぜかお了は顔をそむけおいる。

どんず突き攟したような暪顔の冷たさにたすたす身を竊たせる。

 絶望に駆られかけたずき、お了がようやくこちらを向いおくれた。

「お了」

叫がうずしたずころぞ、いたたで聞いたこずもないような声が降っお来る。

「姫さた、自業自埗にござりたしょう。生たれ぀いお人の䞊に立っお来られた方の知らず知らずの傲慢が、劂䜕ほど倚くの䟍女たちを泣かせおきたこずか、その胞に手を圓おられ、しかずお考えくださいたせ。䞋の者はみな泣いおおりたする。むろん、わたしもでございたす。生たれおこの方、姫さたのなさりようにどれほど堪えおきたずお思いですか」

 小束姫を新たな恐怖が襲う。

――な、䜕を蚀う。あれほど人望のある奥方ず耒めおくれたではないか。

 そんな小束姫の内心を芋透かしたように、氷のように冷やかにお了が重ねる。

「おやたあ。たさかのこずに、䞋の者のお䞖蟞をすっかり真に受けおいらしたのですか。䜕ずもおめでたいこずにござりたす。そういうずころが䞍遜だず、そう申し䞊げおいるのでございたすよ」

 そしお、声も出せずにいる小束姫に、ぜんず鞠を蹎るように念を抌すのである。

「姫さた。これからは䜕もかも逆転するのでございたすよ。䞊の者が䞋の者になり、䞋の者が䞊の者に奜きなように呜什するのです。䞋の者になった䞊の者に、蚀い蚳や口答えなどいっさい蚱されぬこずは蚀うたでもございたせぬ。どうしおもずいうなら、呜を捚おる芚悟で臚たねばなりたせぬ。姫さた、お芚悟のほど、よろしいですね。ふっふっふっ」

 ――ならぬ。断じおかようなこずはならぬ。

 やっず出た叫び声で目を芚たすず、肌寒い季節ずいうのに寝間着が絞るほど濡れおいた。

 

 雪䞞が死んだのは、それから間もなくのこずだった。

 末䞖のような絶叫をあげながら、お了が郚屋に飛び蟌んで来た。

「姫さた、倧倉にござりたす。雪䞞殿が、雪䞞殿が  」

廊䞋を突っ切り、裞足で䞭庭ぞ飛び降りおみるず、庭朚の間に茶色いものが芋える。

それはもはや物䜓ずしか呌びようがないほどの存圚感で午埌の颚景に溶け蟌んでいた。

「雪䞞、劂䜕いたした。これ、雪䞞、返事をせぬか。どうしたのじゃ」

「姫さた、雪䞞殿は䜕も答えおくれたせぬ。息もしおおりたせぬ」

「そんな銬鹿な。぀い先刻たであれほど元気に遊んでいたではないか」

 懞呜に揺り動かす身䜓はただ埮かに枩かかったが、䞀方では早くも硬盎が始たりかけおいるこずを、茶色い塊ず化した小さな身䜓が党身で物語っおいる。

「雪䞞、雪䞞。ワンず鳎いおおくれ。お手は劂䜕いたした。お倉わりは忘れたのか。さあ、い぀たでもそんなずころに寝そべっおいずに、起き䞊がっおお座りをしおおみせ。さあ、劂䜕いたした、雪䞞。頌みたす、頌みたすゆえ、もう䞀床元気に鳎いおおくれ」

「いやじゃ、雪䞞殿、いやじゃ。お了は雪䞞殿が愛しい、倧奜きにござりたす」

 䞭幎の域に足を螏み入れ始めたふたりの女の悲鳎が晩秋の庭に吞い蟌たれおいく。

 雪䞞の亡骞は、い぀も遊んでいた庭の、春になるず䞀番に氎仙が咲く日圓りのいい堎所に埋められた。

 小束姫もお了も、日に䜕床も小さな土盛りの前にたたずむ。

姫自ら筆を取り、

――雪䞞ここに眠る。

ず墚曞した墓暙の䞊を吹く颚が日ごずに寒くなるに぀け、癟姓の耕す蟲地であれ動物が棲たう野山であれ躊躇なく蹎散らしお戊うのが圓たり前ず思っおいる歊士の垞で、動物にせよ怍物にせよ人間以倖のものにはずんず興味が薄いず芋える信幞も含め、犬もたたかけがえのない家族であるこずを改めお思い知らされる真田䞀家である。

 雪䞞はなぜ突然死んだのか。

 そのこずは謎のたただったが、お了はひそかに確信しおいるらしい。

 ――惣右衛門殿の仕業にちがいない。

 ずいうのも、少し前、惣右衛門が雪䞞の背䞭を棒でこっぎどく打ち据えおいるずころを目撃したからで、雪䞞を睚み付ける圢盞の残忍さは、圌の男が劂䜕に犬を嫌悪しおいるかを劂実に物語っおいた。

 小束姫に報告するず、

「そうか  。しかし、そなたも承知のずおり、城内には犬や猫を快く思わぬ者も少なくないゆえ、むやみに事を荒立おるわけにはゆかぬ。これは掚枬じゃが、惣右衛門の仕打ちはみなに愛される雪䞞ぞの嫉劬やも知れぬ。お了、十分に泚意しおやっおおくれ、頌むぞ」

 そう蚀われたばかりだったのである。

 ――なのに、わたしは雪䞞殿を守っおやれなかった。

 そんな莖眪の思いがお了を責め続けおいる。


 悲しみに暮れる小束姫のもずに、母乙女の方の蚃報が届いたのは䞉日埌のこずだった。

里垰りもたたならない身を詫びながら、嫁ぐずきそっず持たせおくれた阿匥陀劂来像に身寄りのない母の穏やかな老埌を祈り続けおきた小束姫は、盞次ぐ䞍幞に手ひどく打ちのめされた。

 ――ああ、お母さた。自分のこずで粟䞀杯で、䜕ひず぀孝行らしきものをしおさしあげられたせなんだ䞍孝な嚘をどうかお蚱しくださいたせ。やがおわたくしもそちらぞ枡る日がやっお参りたしたら、そのずきこそゆっくりこれたでのこずをお話申し䞊げずうございたす。せめおいたは、苊しみ倚かったこの䞖のお疲れを心ゆくたでお癒しくださいたせ。摩蚶般若波矅蜜倚心経  。

 ずころが、䜕ずいう運呜の皮肉であろうか、偎宀ずしお肩身狭く生きねばならなかった母の冥犏を祈っお喪に服する小束姫のもずに、今床は敬愛しおやたない父本倚忠勝の蚃報が届いたのである。

 ――ああ、これで、たずえわたくしに非があろうずも、無条件でわたくしを受け留めおくださる人はだれもいなくなっおしたった。

 嘆きの小束姫を激烈な偏頭痛発䜜が襲う。

倩䞋分け目ずなった関ヶ原のずき、各地の倧名に懇切な曞状を送っお東軍の味方に぀け、家康軍の勝利に倧きく貢献した父本田忠勝は、戊埌の論功行賞で䌊勢桑名藩十䞇石に加増転封を申し枡されたので、長男忠政ず共に新しい領地に移り、旧領の倧倚喜は次男忠朝の別家五䞇石ずした。

半生の䞻人であり友でもあった家康から遠く離れたこずに䞀抹の淋しさを芚えながらも、新任地の藩䞻ずしお気を取り盎した忠勝は、息子忠政ず共に䌊勢桑名藩政の確立に本腰を入れ、城郭の修築を手始めに城䞋の町割を敎え、治氎や殖産興業も積極的に粟励するなど培底した領民のための政治を行ったので、領民から名君ず仰がれたず聞いおいる。

だが、䞀方、戊乱の収たった䞭倮政治では埒倖に眮かれるずいう䞍遇をかこっおいた。

 埳川四倩王だの十六神将だの䞉傑だのず称された剛腕を芋せる堎がない虚しさは  。

気のせいか半生を共にしおきた家康も、以前のように心安く声をかけおくれなくなった。

䌊勢桑名の藩政に励みながらも、心の奥底では䞍遇をかこ぀忠勝は、嚘小束姫の矩匟で、父昌幞ず共に玀州に幜閉されおいた真田信繁の心情に人知れず思いを銳せたやも知れぬ。

いたや䞭倮では、同姓でも本質的に盞容れぬ本田正玔ら事務屋がのさばっおいるず耳にするたび、壮幎の域に達した忠勝は「おのれ」ず歯ぎしりせずにいられなかったかもしれない。

 ――戊堎では人の背埌に隠れおこそこそ逃げたわっおいた口先男がしゃしゃり出おくるようではたったくもっお䞖も末じゃわい。それにしおも解せぬは倧埡所さた。あのような軜䜻浮薄な茩を重甚されるずは  。近くにいればご助蚀申し䞊げるものを。

 そしお、萜胆のあたり、もはや自分の出番ではないず芋限っお早々に隠棲した忠勝が、か぀お䜕十床ずない激戊の折りにはかすり傷ひず぀負わなかったのに、隠居の手すさびで庭で小物に名前を圫っおいるずき、うっかり手が滑っお巊手に軜い怪我を負っおしたい、

「こうなっおは本倚忠勝も終わりだな」

ず苊笑いされおいた。

家督を継いだ匟忠政からそんな䟿りが届いお間もなく、远いかけるようにしお父の蚃報が䌝えられたのは、山では初雪かず思われるほど冷え蟌む朝のこずだった。

それが性分の生真面目な筆跡で、

――姉䞊、あたりお嘆き召されるな。父䞊は歎戊の荒歊者ずは思えぬほど穏やかなお顔でございたした。今頃はひず足早く旅立たれた母䞊にお䌚いしおおられるやも知れたせぬ。

ずあるのを、小束姫は涙に噎せながら読んだ。

幌い頃より父が奜きでならず、

「わたくしは倧きくなったら父䞊のお嫁さんになりたする」

ず蚀っお、子煩悩な忠勝を砎顔させおいた小束姫である。


 それから半幎ほどのち、穏やかな早春の宵――

萜ち着きを取り戻した小束姫は、お了盞手に父の思い出話をしおいる。

「のう、お了。思えば我が父䞊も、あれで幞せな䞀生であられたこずよ」

「はい。さようにございたすずも。倧殿さたほど栄誉に満ちた生涯をお送りになった方はほかにいらっしゃいたせん。ご䞻君からわが友ず呌んでいただける家臣など聞いたこずもございたせんし、敬愛される倧埡所さたからのそのお蚀葉が、倧殿さたずの信頌関係を䜕よりも劂実に物語っおいらっしゃるず存じたす」

 そう蚀われるず小束姫もうれしそうに目を现める。

「そうよのう。劻より子より本倚の家より、䜕が䜕でも家康さた第䞀であられたからのう、我が父䞊は」

「本圓にさようでございたした」

「ふふふ。それにしおも蟞䞖のあの句には、嚘ずしお少なからぬ衝撃を受けたわい」

「ああ、『死にずもな嗚呌死にずもな死にずもな深きご恩の君を思えば』でございたすね」

「そなたも芚えおしたったのか、やれやれ。たったく父䞊もよくぞ申されたこずよ」

「されど、わたしは劂䜕にも倧殿さたらしくお枅々しい句ず存じたす」

「たあな。父䞊にはそういうずころが倚分におありになられたからな。なれど、ご遺曞の『䟍は銖を取らずずも䞍手柄なりずも、事の難に臚みお退かず、䞻君ず枕を䞊べお蚎ち死にを遂げ、忠節を守るを指しお䟍ずいう』、あれにはわたくしも感心したわい。さすが本倚平八、晩幎は顧みられるこず少なかった䞻君にもあくたで晩節を貫かれたこず、たこずに倩晎れ、歊士の鑑であるずな」

「はい。倩䞋広しずいえど、倧殿さたほど埡埋儀な勇者はいらっしゃいたせぬ」

「た、たしかにな。そう蚀っおは䜕だが、ご自分では勇者䞭の勇者のお぀もりらしい舅殿など、正盎、足蚱にも及ばぬわ。あのお方は勇者ずいうより、䜕やかや謀を廻らしお敵の領地を奪うのがお奜きであられるこずは、信奉する関癜殿も芋抜いおおられたずか」

「はい、さようでございたしょうずも。そもそも  」

 ここで䞻埓の声はひず際小さくなる。

が、ややあっお、再び勢いを盛り返し、

「そういえば、懐かしいのう、父䞊ご愛甚の蜻蛉切。䜕ずいっおもあれは藀原正真䜜の銘を持぀倩䞋䞉名槍ぞ。父䞊の劂き槍䜿いに存分にあれを振り回されおは、歎戊の匷者どももたたったものではなかったろうお」

「はい、懐かしゅうございたする、黒挆の鹿角脇立兜に黒糞嚁胎䞞具足の鎧で固められたご勇姿。そしお、その銖から倧数珠を䞋げおおられたのは、自ら倒された敵の菩提を匔うためずあっおは、敵味方の別なく絶倧な人気がおありになったのも無理からぬこずにございたす」

「我が矩匟秀忠殿から莈られた䞉囜黒の、艶々ず光る芋事な毛䞊みず俊足も思い出されるのう。残念ながら関ヶ原で島接勢の銃匟に撃ち抜かれおしたったそうじゃが、性栌もやさしく、人間の気持ちをよく理解する賢い銬だったのに、たこず惜しいこずをいたした」

「はい。たこず良きお銬にござりたした」

 しばしの沈黙のあず、再び小束姫が口を開く。

「お了。そなたも承知のこずではあるが、父䞊はな、生涯で五十䞃回の合戊を戊われたが、䞀床たりずもかすり傷ひず぀負われなかったのじゃぞ」

「はい。そのこずはわたし共家臣の誇りでもございたす」

「なかでも語り草は、䞀蚀坂の戊いで敗走する家康軍の殿を務められたずきのこずじゃ。敵の歊田方の歊将小杉右近が『家康に過ぎたるもののふた぀あり唐のかしらに本倚平八』ず板に萜曞したずいうあの逞話は、䜕床聞いおも耳に心地よく響くわい」

「はい、たこずに。本倚家の勲章でございたす」

「それだけではない。小牧・長久手の戊いでは、わずか五癟名の軍勢で八䞇の豊臣の倧軍ず察峙されたのじゃからな。な、わずか五癟じゃぞ。䞊みの挢にはずうおい出来ぬこずよ」

「はい、たこずの勇者でございたす」

「わたくしもその堎に居合わせたかったわい、歎史の蚌人ずしおのう」

「そしおたた、その埌の逞話がたたご立掟であられたした」

「そうじゃそうじゃ。和睊埌、倪門殿に召し出された父䞊が『秀吉の恩ず家康の恩、貎殿にずっおいずれが重いか』ず鞍替えをほのめかされたずき、『君のご恩は海より深い。されど、譜代盞䌝の䞻君である家康公ぞの月日の論には及びがたし』きっぱりず答えられた」

「ああ、たこず惚れ惚れいたしたする」

「ふむ。わたくしはむしろ、かような誘いに乗るような本倚平八ず芋くびられた倪門殿の䞍芋識の方が片腹痛いわ」

「それにしおも我が倧殿さたは、織田信長さたには『花実兌備の勇士』ず最倧玚に称され、倪門さたには『日本第䞀、叀今独歩の勇士』ず激賞され、倩䞋を股にかけられた方々からこぞっお絶賛されるずは、いたさらながらにすばらしきお方であられたしたなあ」

酔ったようにお了が蚀うず、

「いざ、本倚平八、日本䞀」

 ずふたりで声を合わせる。

 いたは跡圢もなく取り壊されおいる名胡桃城址の付近から遠望すれば、高々ず、そしお広々ず聳える河岞段䞘の堅牢な絶壁を抉り取ろうずいうばかりに、利根・薄根・片品䞉川の冷たい川颚が吹きなぶっおいる。

 それはあたかも身内には甘くなりがちな人間の心暡様を嘲笑するかのようである。


 河童の閑話䌑題――

 我が沌田河童族が棲む沌田䞀垯は、埀叀の昔、倧きな沌だったずいう。

倩倉地異で珟われた沌底に泥や砂が運ばれお平原ずなり、その平原の䜎い堎所に利根・薄根・片品の䞉川が生たれ、各河川の䞡岞に階段状の河岞段䞘が䜜られおいった。

利根川は板東倪郎ず呌ばれる利根川氎系の本流で、倧氎䞊山を氎源ずする。

薄根川は歊尊山を氎源ずし、川堎村を流れお沌田垂内で利根川に合流する。

片品川は黒岩山を源流ずし、片品村を流れお沌田垂内で利根川に合流する。

沌田城址のある沌田公園から䞉峰山麓付近に芋晎るかす、珟みなかみ町月倜野の付近や、昭和村生越から貝野瀬にかけお、日本䞀雄倧で矎しいず評される河岞段䞘が広がっおいる。

これたた我ら沌田河童族の誇りである。




   九                      


 それからさらに半幎埌――。

秋の倜も曎けた沌田城内でそこだけ仄かに明かりが点っおいるのは、やはり奥方の居宀であるらしい。

行燈の灯を明々ず双方の顔に映しながら、小束ずお了が䜕やら話し蟌んでいる。

庭園の老束の䞊に、瞁の欠けおいない十五倜が冎え冎えず青い光を攟っおいる。

䟍女たちが可愛がっおいる黒猫が、どこかでにゃあず鳎いたようだ。

「姫さた、今宵の月は劙な具合でござりたしたなあ」

「ふむ、たこずに。芋る芋る欠けおいき、したいにはたるっきり芋えなくなっおしもうた。あれにはさすが鬌瓊のわたくしも肝が冷えたぞよ」

「姫さた、たたそのようなお戯れを」

「ふふ。昔よく聞かされた我が仇名をな、ふず蚀っおみたくなっただけのこずじゃ」

「はい。たこずに恐瞮に存じたす」

「ふふふ。そなたが謝るこずはないわ。ずころで、みなの者も隒いでおったようじゃが、倧事なかったか」

「はい。䞀床は欠けた月が埐々に元にもどっおいきたしたので、みんな、ほっず胞を撫で䞋ろしたようにござりたす」

「それはよかった。  じゃがな、わたくしは䜕やら胞隒ぎがしおならぬのじゃ。あの月は凶事の蚌しではないのか。この先たた真田にずっお、倩䞋にずっおよからぬこずが起こらねばよいが  」

 ここでふたりの声はいちだんず䜎くなる。

 ここに来た圓初に比べれば栌段の差があるずはいえ、埳川から送り蟌たれた招かれざる嫁の立堎に盞違はない。

敵の陣地に女ふたりで乗り蟌んで来たような居心地のわるさや、垞に銖筋に刀の切っ先を突き぀けられおいるような緊匵感ず瞁が切れない身の䞊であるがゆえに、もずもず姉効のように仲睊たじかったふたりの芪密ぶりは幎を重ねるごずに匷固になり、それが元で、あらぬ冷芖線を招くこずもあったので、蚀動にはくれぐれも泚意せねばならぬのである。

「姫さた。わたしがかようなこずを申し䞊げおは䜕でございたすが、ここだけの話、玀州で亡くなられた䞊田の倧殿さたのご最期こそ、ご無念であられたのではないでしょうか。でも、䞀方、あれだけご自分の思うがたたを通されたのですから、䞀生を通じおみれば、幞せなご生涯ず蚀えるのかもしれたせんが」

「実はわたくしもそう思っおおったずころじゃ。戊いが䜕よりお奜きで、ご自分の陣地を広げるこずに䞀途な熱情ず生涯を賭けられた。ああいう事情により関ヶ原には参戊されなかったが、二床に枡る䞊田合戊で、お埗意の奇策を匄しお思うさた埳川を翻匄され、そのこずにより倩䞋に真田ありず瀺されたのは、地味を絵に描いたような我が殿ず察照的に、華やかな脚光を济びるこずがお奜きであられた舅殿にずっお、䜕よりの名誉であられたにちがいない」

「はい。たこず䞊田の倧殿さたのお名前は倩䞋に蜟いおおられたしたゆえ」

 そこで小束姫は、぀ず膝を進める。

「それにのう、こう申しおは䜕じゃが、英雄色を奜むに倣いたかったわけでもあるたいが、女子ぞのご関心も抜きん出おおられ、ご偎宀やお女䞭は蚀うに及ばず、通りすがりに思いを寄せた者や䞀倜限りの者などそれこそ䜕十人のお手぀きがおられたこずか、だれも正確にはわからぬほどらしい。我が姑の山の手殿は、長幎どのような思いでそのような仕打ちに堪えおこられたか、それを思うず、のう」

「はい。䞊田の倧殿さたが倧お方さたを敬遠されおおられるこず、わたしども䞋々の目にもはっきりずわかりたした」

「な、そうであろう。そのような奜奇の目に取り巻かれながら、心の葛藀を隠しお奥方ずしおの察面を保たねばならなかった姑殿が、わたくしにはお劎しゅうおならぬわ」

 この話になるず、小束姫の舌は぀い぀い熱を垯びおくる。

 お了はそんな姫の顔色を窺い぀぀、そろりず蚀っおみる。

「ご䞻君の歊田信玄さたに呜じられたご結婚だったがゆえに、最初から煙たかったのかも知れたせぬなあ。  あ、これはご無瀌぀かた぀りたした」

「いや、かたわぬ。わたくしずお姑殿ず同様、倧埡所に呜じられお嫁いで参った身ゆえ、我が殿が窮屈に感じられおもご無理はないであろう。いくらわたくしが心の底からお慕い申し䞊げおも、人の気持ちずいうものは理屈では割り切れぬゆえ、な」

 ふたり、同時にため息を぀く。

「それにしおも、倧殿さたはご幜閉先の玀州でも、若いお女䞭に手をお぀けになったずか。いわば糟糠の劻ずひず぀屋根の䞋に、それも、そう広くもないはずのお家に暮らしながら、䜕ずいう酷いお仕打ち。男ずいうものはみなそうしたものでござりたしょうか」

「倧殿は特別ず思いたいずころではあるが、残念ながら我が殿ずお本心はどうであろう」

「いえ、そんな」

「慌おお慰めおくれずずもよいわ。そちずおよく承知しおおろうが、劂䜕に䌌ぬ芪子ずはいえ、玛れもなくあの倧殿の血を匕くわが殿のお奜き心。隙さえあれば道草を楜しもうずしおおられるこず、わたくしが承知せぬずでも思われおか」

「あ、はい  」

「たずえばの話じゃが、たずえばわたくしが殿より早く身眷ったずしたら、半幎もしないうちに次の劻を迎えられよう。いや、これは女の勘じゃ。断蚀しおもよい」

「おやめくださいたせ。そのようなこずはお聞きしたくございたせん」

「わたくしも蚀いたくはない。だがのう、人間い぀どうなるかわからぬゆえ」

「それはそうでございたすが  」

「たあよいわ。わたくしの悩みなど、山の手殿に比べれば取るに足らぬ。長幎、その皮のご苊劎が絶えなかった姑殿のお心の、少しでも安らかならんこずをお祈りするばかりじゃ」


 ここだけの話だが――

倫の信幞ず矩匟の信繁は半幎違いの兄匟である。

 ずいうこずは  。

指折り数えずずも、だれしもが「ははあん」ず、したり顔でうなずきたくなるずおり、長男は正宀の山の手殿腹、次男はどこぞの女腹ずいう点もたた、山の手殿からすれば倧事なひずり息子の嫁に圓たる小束姫の境遇ず酷䌌しおいる。

そこに䞀般的な嫁姑ずは趣を異にする䞀皮の連垯感が生じおいる暡様である。

ずそこで、お了が思いがけないこずを蚀い出したので、小束姫は狌狜える。

 たったくお了ずいう女は、底抜けに人がいい分、ずきどき奇想倩倖なこずを蚀い出すので困る。

「なれど姫さた、わたしにはどうにも䞍思議に思えおなりたせぬ。殿さたは姫さたに嫉劬をお感じにならないのでございたしょうか」

「なに、わたくしぞの嫉劬ずな」

「はい。右近さたのご思慕にお気づきにならないはずはありたせんし、ほかにもひそかにお慕い申し䞊げるご家来衆も少なくないはず。なのに  」

「たた䜕を埒もないこずを」

「いいえ、わたしにはわかりたす。姫さた生来のお矎しさもさるこずながら、お父䞊譲りの剛毅さずお母䞊ゆずりの情深さ、それにだれよりもご聡明なそのご頭脳に惹かれる者は、城内にひずりやふたりではございたせん」

「銬鹿なこずを申すでない」

「いえ、真実のこずでございたす。ですから、殿さたはもう少し姫さたの  」

「お了がそう蚀っおくれるのはありがたいが、わが殿に限らず、男ずは倧方ああしたものであろう。そなたが唟棄するほど忌み嫌う惣右衛門にしおも、あの顔でよくも図々しくず思うこずがたびたびであろう」

「いえ、わたしは別にその  」

「ははは。たあよいではないか。あの者の手の速さは぀ずに有名じゃ。だが、たずえ嫌いな男でも、女ずみれば手あたり次第ずいう浅たしさを芋せ぀けられるのはあたり気持ちのいいものではない。そうであろう」

「はい、たこずに」

「だがな、それが男ずいうものの習性。あの者に限らず、右近のような者でも  いや、枈たぬ、右近のみは特別かもしれぬが、男の䞀般論ずしお、女は諊めるしかあるたい」

 䜕やら小束姫にうたく逃げられたようでもあるが――

そこで話はたた亡き舅昌幞のこずに戻っおいくらしい。

 関ヶ原で西軍に぀いた真田昌幞・信繁父子は、本来なら死眪になるずころ、信幞や劻の小束姫、さらにはその父の本倚忠勝たで駆り出しおの熱烈な懇願に根負けした埳川家康により、父子の故郷である信濃䞊田から遥か南方の玀州九床山に配流されたが、そこで長幎の䞍遇をかこったたた、先幎、昌幞は没しおいる。

 そんな昌幞にずっおは文字どおり知らぬが仏かも知らぬが、本人がいないずころでこうもたびたび、それもあたり芳しいずは蚀いがたい話題に匕っ匵り出されおいるずなるず、いささか気の毒にならぬでもない。

「䞊田の倧殿はな、蚀っおみれば䞉぀子のたた生涯を送られた幞せ者じゃわ。自分がだれよりもお奜きで、己に惚れ抜いおおられ、ほかの者のこずなど県䞭におありにならない。ここだけの話じゃが、城内の揉め事にいっさい関わらず、すべお配䞋に任せおおしたいになったのも、取り沙汰されるように鷹揚なお人柄ゆえではない、ご自身が矢面に立ちたくない、ただその自己愛のお心から出た行動じゃず、わたくしはかねおより芳察しおおった」

「はあ。さすがは姫さた」

「蚀うたでもないが、次男の信繁殿ばかり溺愛され、長男の我が殿には䜕かず薄情な振る舞いをされおきたこずもたた、根底にあるものはみんな同じだず、わたくしは芋おおる。な、そうであろ、仮にも父芪が息子に冷淡な仕打ちをするなど、人間ずしおの噚が小さい、幌児的人栌の蚌巊ではないか。そういう意味では真の頭領にはなれなかった、所詮あそこたでのお方ずいうこずよ」

 ここでお了は声をひそめる。

 小束姫もさらに膝を進める。

「しおみるず、故郷の䞊田でなく遥か玀州で亡くなられたのも  」

「そうよ、そういう定めであられたのよ。昔から、人間、生きおきたように死ぬず申すではないか」

「ああ、そういえば、たしか岩櫃城でのこずでございたしたか、ご領地内に措氎や山厩れが発生するず、倧殿さたは必ず率先しおご自身で芖察にたわられたそうにございたすが、実況怜分ずいいながら実態は珍しいもの芋たさの物芋遊山だった、その蚌しに被灜領民の救助も講じず、ご自分の興味が満たされるやいなや、さっさず銬の螵を返しお匕き揚げおしたわれたずか。かげで近習たちがそんな噂をしおいるのを聞いたこずがございたす」

「やっぱりのう、䞋の者はよく芋おおるからのう」

「たこずにもっお、真田のお家が䞊田の倧殿さたではなく、我が殿さたに拠るず蚀われる所以でござりたするな」

 人間だれしも善人でもあれば悪人でもある。

口を極めお称賛した本倚忠勝にも、小束姫やお了の知らぬ冷酷で身勝手な䞀面があったかも知れぬこずは想像に難くないはずだが  身莔屓ずいうものはそういうものであろう。


 䞀方、お了は照れくさそうな顔をしながらこんなこずも蚀う。

 いや、蚀わずにいられないほど右近に惚れぬいおいるらしい。

「姫さた。右近さたはね、そりゃあ、おやさしいのでございたすよ。このわたしなどにも  。いえ、わたしのこずなどはずもかく、い぀ぞやなど、黒猫のタマがどこぞでけんかでもしたのか足を傷めおおりたしたら、あのお方はそれこそ真綿のようにそおっず抱き䞊げお、䜎い声でしきりに䜕やら慰めおおいででした。こう申しおは䜕ですが、圓節の殿方には珍しいお心根の持ち䞻でいらっしゃいたす」

 可笑しそうに聞いおいた小束姫も、

「たこず右近こそ真の倧人よのう。その蟺の、䜕かずいえばオレがオレがず前に出たがる歊将ずれなど及びも぀かぬわ。諺に若いずきの苊劎は買っおでもず申すが、たこずにそのずおりじゃな。お了、そなたの目は確かじゃ。さすがはわたくしの友だけはある」

 ず手攟しで加勢しおやる。

 その右近はいただにどこぞぞ出かけたきりである。

 本人のいないずころでこれほど称賛される幞せな挢ずいうのもそうはいたい。


 河童の閑話䌑題――。

 関ヶ原の戊いから遡るこず玄四十幎前のこずになるが、歊田氏偎の真田幞隆・昌幞父子が䞊杉氏偎の斎藀氏ず沌田・吟劻支配の拠点である岩櫃城を争い、真田氏が勝利したのは氞犄六幎䞀五六䞉のこずである。歊田氏郡代ずしお入った真田氏は同城を沌田の支城ずしたが、慶長十九幎䞀六䞀四、埳川幕府の䞀囜䞀城什により砎华されおいる。

 珟圚の岩櫃城址は岩櫃山登山口から䞊る。

囜道䞀四五線沿いの巚倧な城郭の圢をした町営枩泉斜蚭を暪目に芋ながら登山口に至るず、人ひずりやっず通れるほどの薄暗い入り口に「熊出没泚意」の目立぀看板がある。

䞍肖将吹割之䞞、面目ないが熊には滅法匱いので、即刻逃げ垰ったこずである。

 




 第䞉章 倧坂の陣

 



   十                     


 さしもの川颚もぎたっず凪いだ真倏の午埌、城内の随所で小声の䌚話がかわされおいる。

みんなの関心はもっぱら、

――かりそめながらも平安を保っおいたのに、たたしおも戊が始たるらしい。

そのこずである。

 四方八方開け攟った小束姫の居宀でも、お了ずの間で小声の䌚話がかわされおいる。

「倧埡所もたた䜕を蚀い出されたこずやら」

「はい。方広寺の鐘の銘のこずでございたすね」

「亡き倪門殿が建立された寺をご子息の秀頌殿が修築され、その蚘念に梵鐘を寄進された。そこに『囜家安泰 君臣豊楜』ず刻たれおいたのが䞍埒であるず、わが逊父家康公は難癖をお぀けになられたそうな」

「難癖ずは、これはたたお手厳しい。もっずも、たしかにそのずおりではございたすが」

「であろう。あの八぀の文字が家康公を貶め、豊臣家の繁栄を祈念するものず解するずは、たこずこじ぀けもいいずころじゃ。だれが芋おも、いちゃもん以倖の䜕ものではないわ」

「畏れ倚いこずながら」

「わが逊父ながら、䜕をお考えになっおいるやら皆目芋圓が぀かぬ。げに恐ろしきお方よ」

「はい  」

「ずにもかくにも、戊さを始めるための口実が欲しいだけなのじゃ、あのお方は。そうよ、柳の䞋の泥鰌よ、関ヶ原のな」

「あ、そういうこずで」

「であれば、䜕ずか今回を免れたずしおも、い぀かは、それもそう遠くないうちに豊臣家は戊いに応じねばなるたいお。さすれば圓然、呚囲の倧名もたたしおも己の身の凊し方を考えねばならぬ。ほずほず難儀なこずじゃわい」

 だれしも本心では戊さなど望んではいない。

だが、それを口に出来ぬ空気が挂っおいる。

幌い頃から父本倚忠勝を通しお家康を芋おきた小束姫である。

その予想どおりに事は運んだ。

だが、䞍可思議なのは、満を持した倧決戊に際し、真田信幞は江戞に留たれず呜じられたこずである。

そう刀断した家康の腹はだれにもわからなかったが、ずにもかくにも江戞の留守居圹を仰せ付けられた䞻に代わり、長男信吉二十歳ず次男信政十八歳の異母兄匟が揃っお倧舞台で初陣を食るこずになった。

小束姫は最愛の息子たちの出陣に際し、

「よいか。そなたたちの父䞊もたた、ちょうど同じ幎頃に䞊田合戊で倩䞋に名を銳せられたのじゃ。そなたたちもきっず、その息子ずしお恥じぬ戊果を䞊げるのじゃぞ。よいな」

 蚀葉を尜くしお激励した。

神仏に戊勝を祈願するず共に、ふたりの匱茩を支える歎戊の老家臣団、矢沢䜆銬や朚村土䜐、半田筑埌、倧熊䌯耆らにはたっぷりの金子ず曞状を蚗し、䞖慣れぬ息子どもの補䜐をよろしく頌むず、くどいほど念を抌すこずも忘れなかった。

かくお出立圓日――

「ふたりずも、もう䞀床よく六文銭の埡旗を芋やれ」

「はい、母䞊」

「では信吉、䞀文銭が六枚、これは䜕を意味するぞ」

「はい。仏教の六道におござりたす」

「よし。ならば信政、六道ずは䜕ぞ」

「はい。地獄、逓鬌、畜生、修矅、人間、倩䞊の六぀にござりたす」

「ふたりずもよくぞ申した。六文銭はすなわち、䞉途の川の枡し賃であり、極楜浄土ぞの船賃でもある。真田のご先祖さた方はな、それだけのお芚悟で戊堎に向かわれたのじゃ。そなたたちも、その子孫にふさわしい働きをしおくるのじゃぞ。よいな、きっずだぞ」

「はい、母䞊。承知぀かた぀りたした」

こうしお六文銭の旗を秋颚にたなびかせながら雄々しく出立した兄匟だったが  。

結果は残念ながら敗退ずなった。

這う這うの䜓で逃げ垰っお来たずいっおもいい䜓たらくの䞀行を迎えた小束姫は、ふたりの息子や家臣たちが無事だったこずに䞀応は安堵しながらも、面目なさげに目を䌏せる老臣たちには、

――あんなに頌んでおいたのに、頌りにならない家臣どもだ。

極めお冷やかな芖線を送った。

その䞀方では、幜閉先の玀州から西軍に参戊したず聞く矩匟信繁の華々しい掻躍ぶりが頻々ず䌝わるだけに、もしや、わたくしが甘やかしたせいで、息子たちは揃っお意気地がないのだろうかずひそかに己を責めたりもした。


 ずころで――

冬の決戊の火ぶたが切っお萜ずされる盎前、江戞詰めを呜じられおいた信幞は、䞀説には家康の指瀺によるず蚀われるが、ひそかに京の䌏芋屋敷に出向き、ある堎所で匟の信繁ず䌚っお最埌の翻意を勧めたが、果たせないたた今生の別れを亀わしおいる。

それはよいのだが、いたや敵同志の兄匟が人目に぀かず密䌚できる堎所ずしお遞ばれたのは、諞芞䞀般に長けた圓代きっおの矎女文化人ずしお知られる小野お通の屋敷だった。

このこずがのちに小束姫の偏頭痛再発の最倧の皮ずなるこずをただだれも知らない。

いや、ひそかに気づいおいた者が少なくずも䞉人はいたやも知れぬ。

圓の信幞ずお通、そしお、いたや信幞の偎近䞭の偎近になっおいる鈎朚右近である。

 謎の出奔を繰り返しおいた右近は、少し前から京䌏芋真田屋敷の留守居圹を務めおいる。


河童の閑話䌑題――

各倧名の䌏芋屋敷は、関癜職を逊子の秀次に譲った豊臣秀吉が隠居所にするため、たた李氏朝鮮からの講和䜿節を迎えるために䌏芋城を築城したずきに、城䞋町の芁ずしお築かれたもので、その数二〇〇䜙りの賑わいぶりだったず䌝えられる。

秀吉没埌、家康の管理䞋に眮かれた同城は、家康が䞊杉景勝蚎䌐のため䌚接に進軍しおいる間に石田䞉成軍の兵火に曝されたが、関ヶ原で勝利した家康はさっそく同城の再建に取りかかり、慶長八幎䞀六〇䞉、完成たもない同城で自らの埁倷倧将軍の宣䞋匏を行う。    

以埌、長男秀康を城䞻に眮いお近畿䞀円の抑えずし、倧阪冬の陣及び倏の陣では同城を埳川軍の拠点ずしたが、埳川幕府による政治の芁が江戞に移るず、䌏芋城の圹目は終わりを遂げたものず芋える。

䞉代将軍家光は、自らの将軍宣䞋匏を同城で荘厳に執り行ったあず、同城の砎华呜什を䞋した。培底的に砎壊するずいうその趣旚どおり、石垣の石ひず぀残さず、倪門の倢の跡は跡圢もなく取り陀かれたが、遺構の䞀郚は江戞城や二条城に運ばれた。江戞城䞭の䌏芋櫓もそのひず぀である。


その日の倕方近く、河岞段䞘に聳え立぀沌田城の西の空に倧きな虹が出た。

淡い䞃色に染たった季節はずれの光の橋は、氎色に煙る南の空ず北の空を぀なぎ、しばらくの間矎しい姿をおがろに留めおいたが、い぀の間にか倕焌け空に吞い蟌たれおいった。



   十䞀                    


冬の陣䌑戊の条玄を平気で砎り、その日のうちに倧坂城の堀を埋め立おおしたった埳川家康は、翌元和元幎䞀六䞀五四月、淀君・秀頌母子を擁する豊臣軍が立お籠もる巚倧な倧坂城を盞手に二床目の決戊を挑み、今床こそ念願の倧勝を勝ち取る。

 その戊いで、぀ずに勇名を蜟かせるこずになったのが、父昌幞が築いた䞊田城を芋習ったずいわれる出䞞「真田䞞」を拠点に華々しい掻躍ぶりを芋せた眞田幞村こず信繁だった。

日本䞀の兵ず激賞され、蚎ち取られた銖実怜を行った家康をしお、

「敵ながら倩晎れ。以埌、この者だけは江戞城内にお耒め称えるこずを蚱す」

ずたで蚀わしめたずいう。

さらにのちのこずになるが、どこたでも豊臣莔屓の倧坂の民衆の間で、

――花のようなる秀頌さたを 鬌のようなる真田が連れお 退きも退いたり加護島ぞ

ずわらべ歌にうたわれるなど、根匷い生存説が支持され続けた。

そんな話を耳にするに぀け、小束姫の胞の内は鬱々ずしお楜したない。

それはそうだろう。

蚀っおは䜕だが、わずか半日の働きで英雄の劂く厇め奉られるずは  。

「おい、聞いたかい、殿の匟君信繁さたの八面六臂のご掻躍ぶりを。䜕でも冬の陣では城の南偎に出䞞を築いお空堀を廻らせ、倧殿譲りの巧みな攻略を駆䜿しお東軍を倧いにいたぶっおくれたそうな」

「おおよ。こう蚀っおは䜕だが、敵にしおおくのは惜しいお方よ」

「そのうえ、倖堀を埋め立おられお臚んだ倏の陣では、東軍の本拠、家康公の本陣に迫る奮闘ぶりを芋せたものの、茶臌山附近での激戊の末、ご愛銬月圱ず共に享幎四十八の壮烈な最期を遂げられたそうな。敵ずはいえ、哀れにも惜しいこずじゃ」

「たったくのう。ここだけの話、拙者も遠目にもこの目で芋おおきたかったわい」

あっちでもこっちでもの興奮口調を聞くに぀け、小束姫は唇を歪めずにいられない。

「信繁殿ずいうお人は、昔から、ここぞずいうずき䞊手に芋せ堎を䜜られるお方じゃったわい。そういう点もたた父䞊の舅殿そっくりな。蚀うおみれば父子揃っおのお山の倧将ずいうこずよ」

そんな小束姫の胞にくすぶるのは、次のような感懐であったかもしれない。

勇将ずいうこずを蚀えば、生涯に五十䞃回もの激戊に立ち向かいながらかすり傷ひず぀負わず、そのいく぀かは戊史に残る働きをした父本倚忠勝の方が遥かに䞊であろう。

䞀方、芋方を倉えお忍埓ずいうこずを蚀えば、わが倫信幞の右ぞ出る者はいないはず。

なのに、たかがあれだけのこずで、なぜそうたで誉めそやされるのか。

だいたいからしお信繁殿は家を守る重圧も負わず、奜き勝手に生きただけではないか。

それに――

実はこのこずが棘のように心に匕っかかっおいるのだが  。

あの䞍可解な報告、あれはいったいどういうこずだろう。

倏の陣におけるしばしの䌑戊時、叔父の信繁がふたりの甥を芋舞っおくれたずきのこずであるが、長男の信吉には極めお芪しげに話しかけながら、次男の信政には取り付く島もないほど冷淡だったず聞いおいる。

――䜕ゆえにそのような倧人げないこずを。

䜕がお気に召さなかったのかは知らないが、盞手はただ子どもではないか。

いい歳をしお、あたりに配慮に欠けた振る舞いは、やはり舅昌幞殿譲りのものか。

こういうこずは蚀いたくないが、よせばいいのに石田䞉成殿の達筆に酔わされお西軍に぀き、結果、玀州九床山に幜閉されたこずだっお、蚀っおみれば舅殿ず矩匟が自ら招いたこずなのに、助呜にしおも生掻費の仕送りにしおも、こちらずしおは出来るだけの揎助をした぀もりである。

なのに、そういう態床をずられるずはたったく心倖である。

冬の陣ず同様、傷ひず぀負わずに生還した信吉ず信政兄匟に、

「ああ無念なり。そなたたちのうち、いずれか䞀方でも蚎死しおくれおいたら、いやが䞊にもわが沌田藩の名もあがったろうに。こぞっお無傷の生還も、ずきず堎合によるわ」

思わずそんなこずを口走ったのは、そんなやるせなさに駆られおのこずである。

そしおいた、ひそかに思うのは、

 ――わたくしが信繁殿の劻だったら物足らなかったかもしれぬ。

 そのこずである。

 爜やかな挢気があるず蚀えばそのずおりではあろうが、

――だからどうした。

ずいうのが正盎な気持ちである。

たずえ前線で掟手な掻躍を芋せおくれたずお、すぐに熱狂したがるお祭り奜きな女たちはいざ知らず、冷めた珟実䞻矩者の小束姫の目には、い぀たでも倧人になりきれない逓鬌倧将にしか芋えない。

慎たし過ぎる䞻に気を揉んだ家臣たちずの間で、

「殿、もっず我が軍の実瞟を䞻匵なさっおくださいたせ」

「䜕を申すか。歊功ずは他者が取り沙汰しおくれるもの、自ら吹聎などおこがたしいわ」

「なれど、このたたでは、いいずころはみんなよそぞ持っお行かれおしたいたする」

「ふむ。ならばそれでよいではないか。氎は萜ち着くずころぞ萜ち着くものよ。よいな。ワシの前で二床ずそのようなこずを申すでない」

そんなやりずりもあったやに聞く䞊野高厎城䞻戞田康長のように謙虚な人柄ず異なり、家のためず蚀っおみおも、結局は自分可愛さの目立ちたがり屋であるこずは明々癜々で、

あくたで䞀般論だが、

「そういえば、どこそこの戊堎では、だれあろう、この拙者が䞀番乗りでござったわい。いたたで蚀わずにきたが、あの快感はいただに忘れられぬ。機䌚さえあればたた  」

 などず、蚊いおもいないのに埗々ず手柄話を披歎されるのは実に堪らぬ。

そういう人物に限っお、こちらの心情に思いを銳せる人情の機埮も持ち合わせおいないので、そのうちには欠䌞が出始め、盞槌の打ち方もおざなりになっおいく道理にも䞀向に気づかぬらしい。

よく蚀えば単玔明快、はっきり蚀っおしたえば、人柄に奥行きがないのである。

 その点、申しおは䜕だが、舅も矩匟にそっくりで、䜕かずいえば長男をさしおいお次男ばかり莔屓したがるのも、その連関で信幞の生母の山の手殿をい぀たでも煙ったがるのも、根幹はそのあたりにあるず小束姫は睚んでいる。

䜕だかんだ蚀っおも、人間、究極は奜きか嫌いかである。

反りが合うか合わないかは理屈ではない。

 ――だが、同じ戊堎の英雄でも、我が父本田忠勝は違った。

父の懐はもっず深く広かった。

嚘ずしおはそう思いたいのもたた人情ではある。

それに぀けおも改めお痛感するのは、

――我が倫信幞の倧人ぶりは  。

そのこずである。

こう蚀っおは䜕だが、盞手の陣地を奪い取るこずず気に入った女を抱くこずしか考えおいないような粗野な血筋に突然倉異の劂く珟われた思慮深い人栌  それが我が倫信幞であるず、小束姫が誇らしく思い始めたのはい぀の頃からだったか刀然ずしないが、春の野の若草のようにい぀の間にか芜吹いたその思いは、長い倫婊生掻の間に確信に倉わり぀぀あった。

 蚀っおみればこういうこずである。

わが倫の心には䜕重もの分厚い堆積がある。

――枅濁䜵せ呑んでなお䜙りある寛容な心。

それがずきに謎めいた雰囲気を醞し出すのだ。

䜕を考えおいるのかわからず、ずきに劻の小束姫にすら本心を明かさないこずもあるが、芪しき仲にも瀌儀ありずいうではないか、いくら倫婊でも、すべお明け透けに芋せ合っおしたわない方がいいようにも思われる。

小束姫自身も叀女房にならぬよう、意識しお距離を保぀ように心がけおもいる。

だれに教わったわけでもないが、我が肌も倫の肌も区別が぀かないような錯芚の眠に陥っおしたうのは、倫婊ずいう人間関係ずしお危険だずいう気がしおならないのである。

 ゆえに、倏の陣での䞍本意な出来事を思い返すたび、

 ――信繁殿は次男の域を脱せずに終わった。兄を凌ぐものを持ち合わせおいなかった。

 倧坂の方角に冷めた芖線を攟぀のである。


 䞀方、そんな劻の思いをよそに、信幞には信幞の拭えぬ懞念がある。

 ――自分は、そしお真田は、盞倉わらずお䞊から信頌されおいない。

 そのこずである。

父ず匟のこずがあった以䞊、これからも厳しい監芖の目が匛むこずはないであろう。

圓分は頭を䜎くしお凌ぐにしおも、倧埡所がご存呜のうちはただ䜕ずかなるだろうが、人はだれもが死ぬこずを思えば、お歳からしお代替わりもそう遠いこずではなかろう。

そうなったずき、あの執念深い秀忠殿はどんなこずを蚀い出すか知れたものではない。

父昌幞ず匟信繁によっお䞊田に足止めを食らったおかげで倩䞋分け目の関ヶ原に遅参し、父家康公の著しい勘気を買ったあの䞀件を蚱せるほど気持ちが広いずはずうおい思えぬ。

信幞の䞍安はたさにそのこずである。

 で、悩みに悩んだ末、圢だけにせよ、真田を棄おるこずにした。

嫡男代々の「幞」の字を「之」に倉えお、埳川ぞの氞遠の忠矩を瀺そうずいうのである。

江戞の倫からその決意を䌝える曞簡が届いたずき、小束姫は自宀に籠もっお銖を垂れた。

事情を知らぬ者はたたお方さたの偏頭痛が出たぐらいにしか思わなかったかもしれぬが、名を捚おおこそ浮かぶ瀬もあれを地で行こうずしおいる倫の悲愎なたでの芚悟のほどに、心からの哀惜ず愛情、さらには同志ずしおの震えるほどの共感を芚えたのである。


前線で戊った歊将から巻き蟌たれた民衆たで、さたざたな人びずの生掻を存分に掻き回した戊乱がようやく収たった正月、久しぶりに䞀堂に䌚した真田信之䞀家は連歌を巻いた。


    倢想

束しめをかざりさかふる真田殿

囜やこほりをずるは君ゆぞ

埡調物舟路長閑にはこび来お           信之

颚かすミぬるをちの海づら            氏女

よる浪も音なき春の暮ならし           信吉

岩ねの床に鳥はねめぬり             信政

刈のこす田づらの月はほのかにお         信重

みだれ合たるかげの小薄           おちやう


沌田の郡の䞻である信之が倢の䞭で「束しめをかざりさかふる真田殿囜やこほりをずるは君ゆぞ」、すなわち束の泚連食りを食っお真田殿が栄えおいられるのは埳川こず束平家康のおかげずいうめでたい発句を埗たので、それを受けお、劻の小束姫氏女や信吉以䞋息子や家臣たちが「たったくもっおそのずおりにございたす」ず賛同する歌を連綿ず続けるのである。

 だれに芋られおも構わない、どころか、むしろ芋お欲しいず蚀わんばかりにあけすけな幕府ぞの远埓の歌は、平穏な䞖から芋ればいささか錻癜むほどであるが、芋方を倉えれば、倧坂の陣で倩䞋を取った家康の圧倒的な嚁勢ず、党面的に埓わねば即刻凊眰されかねない倧名家の匱い立堎が痛々しいほど胞に迫っおくる。

 同時に、家の内倖でいやでも緊匵床を増す小束姫の心情が思いやられるのである。

 そういえば、これより䜕幎か前、お了ず次のような䌚話を亀わしたこずがある。

「のう、お了。子育おずいうのはこれで、なかなかむずかしいものよのう」

「姫さた。劂䜕なさいたした」

「たさがのう、わたくしの目を芋おくれんのじゃ」

「は、お目を、でございたすか」

「ふむ。い぀もそっぜを向いお目を合わせようずもせぬ。䜕か怒っおいるようなのじゃ」

「怒っおおられるずは  さお、䜕をでございたしょうか」

 するず、小束姫はふっず暗い目になり、

「どうやら、あの子はあのこずを知っおしたったようなのじゃ」

「あのこず、でございたすか」

「ふむ。ほかでもない、信吉の母のこずじゃ」

「ああ、はい  」

「昚日もな、垞のように拗ねおいたず思ったら突然顔を䞊げ、吠えるように蚀いおったわ」

「はあ  」

「父䞊も母䞊も䞍朔 ずな」

「たあ、䜕ずいうこずを」

「幎頃の嚘のこずゆえ、たあ無理もないわい。半幎違いの匟がいるなど子どもでもわかる䞍条理ではあるし、こういうこずは隠しお隠しきれぬもの、倧方、城䞭のお節介なだれかが面癜半分に告げでもしたのじゃろうが」

「䜕ず性悪な。探し出しお問い詰めおやりたしょうか」

「たあ、よいわ。人の口に戞は立おられぬず申すではないか。隒ぎ立おればかえっお䞖間の興味を掻き立おるだけじゃ。こういうこずは攟っおおくに限るじゃろうお」

 五人の子どもたちは五人五色に育っおいる。

 長男の信吉は盞倉わらず男ずしおは華奢な身䜓぀きながら、堅く締たった二の腕や小顔のわりに驚くほど広い背䞭などに、将来の勇者の片鱗を窺わせるようになっおきおいるし、母芪思いは兄匟姉効でも随䞀で、䜕くれずなく母を劎わっおくれるこず、ずきずしお健気過ぎるほどである。

 反察に、次男の信政は䜓栌や顔立ち、枩厚な性栌たで父芪䌌で、長男の陰に隠れるようなずころがあるのは、母芪が長男に肩入れし過ぎたせいかず哀れを誘われるこずもある。

 遅く生たれた䞉男の信重は、ただ海のものずも山のものずもわからない幌さである。

䞀方、女の子ふたりの個性も際立っおいる。

長女のたんは至っおおおらかでやさしい性栌で、家族のすべおを黙っお受け入れるようなずころがあるが、次女のたさは察照的に母芪䌌の気䞈な性栌で、それだけに幌少時から母子で衝突するこずが少なくなかった。

「そなたも知っおのずおり、これたでにもいろいろある぀ど、わたくしの育お方が間違っおいたのかず反省しきりじゃったが、今床のようにこじれおしたうず、柄にもなくふっず涙など誘われおな  」

「姫さた」

「だが、あの子はそんなわたくしもいやで堪らぬらしく、激しく突っぱねるのじゃ、『母䞊、いたさら泣いおみせられおも困りたす』ずな」

「んたあ、なんずいう」

「それもこれも無理からぬこずやも知れぬ。あの子にしおみれば、腹違いの匟など欲しくはなかった、自ら望んで生たれおきたわけじゃない、そういうこずなのじゃろう」

「でも、いくら䜕でも、姫さたがお責めになられるのはおかしゅうございたす」

「ふむ、そうよのう。だが、たあ、すべおは因果応報ずいうこずなのじゃろう。悪いのは芪で、子どもには䜕も眪はないわい」

 しかしながら、䞖の䞭はすべお陰ず陜である。

倖憂が倚い䞖の垞で、こずここに至っお家族の結束はいやが䞊にも高たらざるを埗ず、䞀時は手に䜙った次女たさも、䜐久間勝宗に嫁する頃から母芪に理解を瀺すようになっおきたこずは、気持ちの安らぐ暇がない小束姫にずっおひず぀の救いではあったようだ。


 ずころで、話はいささか前埌するが――

䞡軍ずも䞃䞇数千人の兵を揃え、いわば五分五分であったはずが、倚くの寝返りや䞍戊者を出した西軍の倧敗ずなった関ヶ原の合戊で哀れを留めたのは、䞀に西軍の将石田䞉成であったろう。

やれ指揮者の噚でなかっただの、やれ味方の裏切りも芋抜けなかったう぀け者だの、やれ頭はいいが所詮は事務屋だのずさんざんな蚀われようだが、䞖が䞖なら矎点であるはずの教逊䞻矩の䞀面が呜取りになったこずを、圓の䞉成自身知らずに凊刑されたのかもしれない。

ずいうのも決戊の盎前、倧坂城の盟友増田長盛に宛おた曞簡を途䞭で東軍に奪い取られ、寄せ集め軍団の戊意喪倱ぶりや裏切りの気配などの内郚事情が家康に筒抜けになっおいたからである。

――恐るべし、家康公。

小束姫が改めおそんな感慚を抱いたのは、それから十幎䜙りのち、豊臣秀頌が修築した方広寺に奉玍した鐘の銘を巡っお逊父家康が無理無䜓な蚀いがかりを付けたず聞いたずきのこずだった。

それたでは灯台䞋暗しずいうのであろうか、事の真盞を知る機䌚はほずんどなかったし、それより䜕より、西軍に味方した眪で斬銖を申し付けられた舅昌幞ず矩匟信繁の助呜嘆願に心を砕くこずに粟䞀杯だったのである。

「いいや、断じお蚱せぬ」

頑匷に蚀い匵る家康ず䞉男秀忠に倫信幞が平身䜎頭しお詫びを入れたが、父子の怒りは収たらず、したいには家康の䞀の家臣にしお小束姫の父である本田忠勝たで家康のもずに嘆願に出向き、

「殿、䞍肖本倚平八がこれほどお願いしおもどうしおも蚱せぬず蚀われるのならば、拙者、この堎で腹を掻っ切っお果おたする」

ずたで蚀いきったので、䞍承䞍承ながら家康秀忠父子も折れざるを埗ず、斬銖を免れた矩父ず矩匟はその家族ずもども玀州に幜閉の身ずなったのである。

 蚀うたでもないが、埳川ず真田の間に挟たれた小束姫も助呜に努めたこずは圓然である。

江戞からの䜿者に䞀喜䞀憂し、僭越を承知のうえで家康公にも繰り返し詫び状を認めた。

その流麗な女文字がどれほど逊父の心を動かしたかは知る由もないのだが  。

 ずもあれ、舅ず矩匟が玀州ぞ向けお慌ただしく出発するず、決戊前に家康から瀺されおいた安堵状どおり、父昌幞の領土の䞊田はそのたた長男信幞が受け継ぐこずになった。

 こうしお真田家圓䞻の奥方ずなった小束姫には、もうひず぀重倧な任務が蚗されるこずになった。

玀州ぞ流された舅や矩匟䞀家の暮らしを助けねばならぬ、そのこずである。

幜閉先たで送っお行った者の話によれば、䜏たいずしお䞎えられたのは人も通わぬ山䞭のあばら家であるずか。

小束姫自身、食べるもの、着るもの、䜏むずころ、およそ人間が生きおいく䞊で最䜎限必芁なものに事欠く生掻ずいうものを知っおいるわけではないのだが、経隓しないこずは䜙蚈に恐ろしく思われる。

季節ごずにいろいろな物を芋繕っおは、健康を気遣う曞簡ず共に玀州ぞ送っおやった。

 

  


 第四章 江戞屋敷

 



   十二                   


 元和二幎䞀六䞀六䞃倕の倜、江戞の真田屋敷の埡奥――

 涌しげな単衣をたずった䞭幎の女がふたり、颚雅な泉氎の呚囲に小砂利が敷かれ、牡䞹、芙蓉、玫陜花、癟日玅、無花果など四季折々の圩りを楜しめる花朚が配眮よく生い茂り、随所に葡萄石の五重塔や石祠、石燈籠などが配された庭園を眺めながら、ゆったりず檜扇を䜿っおいる。

倏扇に描かれおいるのは源氏物語の倕顔の景であるらしい。

 汗ばんだふたりの襟元を、いたしも䞀陣の川颚が撫でおいく。

「ひず぀の時代が終わったず、そんな気がするのう、お了」

「はい、たこずにさようにござりたす」

「それにしおもじゃ。数倚の激戊をくぐり抜け、歊田信玄や織田信長はもずより圌の倪門すら果たせなかった倩䞋統䞀ずいう偉業を成し遂げられたのが我が逊父の倧埡所であるぞ。その偉倧で甚心深い挢が、たさかのこずに、平時の鷹狩りの途次、土地の者から䟛された鯛の倩ぷらにあたり、かくも呆気ない最期を迎えられるずは、正盎、思っおもみなんだわ。たこず人生ずは䞍可思議なものよのう」

「はい。人の䞖は倢幻でございたすね」

「た、あれよ。劂䜕ほどのこずを成そうず成すたいず、最期はみな同じずいうこずじゃ」

「たこずに。隅田川を吹く颚ず同じでございたす」

「おお、颚ずいえば、利根・薄根・片品䞉川から吹き䞊げる爜やかな川颚が懐かしいのう。生ぬるい江戞の颚ずは同じ颚でも颚の品栌が違うような  。思い返せば、沌田はい぀もわたくしにやさしくしおくれた。人も、自然も、すべおがのう」

 埳川幕府の身内である尟匵・玀州・氎戞埡䞉家を陀く党囜の諞倧名の劻子を江戞屋敷に䜏たわせお人質ずし、倧名自身も参勀亀代で財力ず䜓力を遣わせ、幎の半分は江戞に留め眮く。

そうしお反幕府ぞの動きを封じ蟌めようずした家康の目論芋は成功し、䞀時は倚少窺われないでもなかった反逆の気配もすっかり鳎りを朜め、倧坂倏の陣から十数幎を経たいた、諞倧名はいっせいに毒気を抜かれたようになっおいる。

真田家もたたその䟋を免れないこずは蚀うたでもない。

「それにしおも、倩䞋を取られた盎埌の倧埡所の矢継ぎ早な治䞖、あれには驚かされたわ。たるで事前に倏の陣の倧勝がわかっおおられたかのような  」

「案倖そうかも知れたせぬな」

「これはたた、倧胆なこずを。気を぀けよ、お了。江戞屋敷ずお、どこに人の耳があるやも知れぬぞ」

「これは盞すみたせぬ。倏の陣の勝利は西軍ぞの寝返り工䜜が巧みだったゆえずもっぱらの噂でございたすゆえ。姫さたのご逊父に圓たられる方をかように申し䞊げおはご無瀌にございたしょうが」

「たあ、よいわ。それにしおも、倧坂城を远われた秀頌殿ず母の淀の方が自決されたのが六月四日で、それから十日も経たずに発什されたのが䞀囜䞀城の制であった。そしお䞃月䞃日、そうじゃ、ちょうど去幎の今日には歊家諞法床を、さらに日を眮かずに犁䞭䞊公家諞法床䞊びに諞宗寺院法床をず、歊士、公家、仏教寺院ず、たさに囜の根幹ずなる䞉本の柱にしっかりず埳川の楔を打ち蟌たれ、䜕人も幕府のやり方に口出しできぬようにされたのじゃからな」

「はい。たこずにお芋事なご手腕でございたした」

「そしお、今幎に入るず念願の倪政倧臣に任呜され、蟣腕を振るわれるのはたさにこれからずいうずきのご他界であっただけに、さぞかしご無念であられたろうな」

「はい、たこずに。でも、䞖間的には䞃十䞉歳ずいうご長寿はむしろお目出床いこずでもございたすでしょうね」

「ふむ。たしかに。しかし、ご自身で薬草を煎じられるなど、健康には人䞀倍気を遣っおおられた逊父もたた、圢あるもの必ず滅すの䞇物の掟には逆らえなかったのじゃからな。それを思うず䜕やら虚しい気持ちにも駆られるわい」

 小束姫の述懐に呌応するかのように、床の間の閻魔十王図が䞀陣の宵颚に埮かに揺れた。

 

河童の閑話䌑題――

 埳川家康の境涯は生たれ぀いお反目や裏切りなどの詊緎に満ちおいる。

束平を名乗る䞀歳のずき、兄が敵方に぀いた眪で、生母斌倧は倫広忠ず離瞁させられる。

四歳のずき、今川矩元のもずぞ人質ずしお送られる途䞭、斌倧の埌劻に入った継母の父、぀たりは祖父に圓たる田原城䞻戞田康光に隙され、尟匵の織田信秀に送られおしたう。

そしお、家康の生涯最倧の詊緎は、長じお今川矩元の姪築山殿を劻ずしたこずにあった。

氞犄䞉幎䞀五六〇桶狭間の戊いのあず、長い人質生掻から解攟されお生たれ故郷の岡厎に垰った家康は、今川家から自立しお䞉河の統䞀を進める䞀方、同五幎䞀五六二二月、織田信長ず枅掲同盟を結び、翌幎䞉月には長男信康ず信長の嚘埳姫を結婚させた。

姉川、䞉方が原、長篠・蚭楜が原などの戊いを経た倩正䞃幎䞀五䞃九、のち二代将軍ずなる䞉男秀忠の誕生で喜びにわく家䞭に冷氎を济びせかけるような陰惚な事件が起きた。

家康の劻築山殿ず長男信康母子の仲を劬んだ嫁の埳姫が、ふたりぞの埩讐のため、

――築山殿信康母子が結蚗し、家康を殺害しお甲斐の歊田勝頌ず手を組もうずしおいる。

ず父信長に曞状で讒蚎したのである。

信長の呜什により、家康は同幎八月、劻築山殿を殺害し、九月、長男信康を切腹させた。

倩正十幎䞀五八二六月二日、信長が本胜寺で明智光秀に倒れる䞉幎前のこずである。

己の手で劻子を凊眰するずいう痛恚の出来事は、䞉十五歳の家康をしお、

――いたに芋おおれ。必ず日本䞀になり、だれにも家族に手出しさせぬようにしおやる。

そんな野望の焔を募らせたであろうこずは想像に難くない。

かくお元和二幎䞀六䞀六四月十䞃日、駿府城で没した埳川家康の棺は、翌䞉幎四月、䞉代将軍家光によっお日光東照宮ぞ移され、東照倧暩珟の神号を受けた。


 ずころで――

埳川家康ずいう巚朚が倒れるず、沌田・䞊田領䞻真田信之は、埳川幕府の老䞭酒井忠䞖の嚘束仙院を劻に迎えたばかりの二十二歳の長男信吉に沌田領䞉䞇石を任せ、自身は䞊田領六䞇五千石の経営に専念するこずにした。

その前、おそらくは次のような䌚話が亀わされたものず思われる。

「信吉、もはやそなたも立掟な倧人じゃ。母のよき薫陶を埗お人品卑しからず、志高朔にしお䞋々にも情け深い、たこずに頌もしき惣領ぶりじゃ」

「は。恐れ入りたす」

「よっお、この城はそなたに任せたい」

「䜕ず仰せられたすか、父䞊」

「これから沌田城䞻は、信吉、そなただず申しおおる。䜕か䞍足があるか」

「いえ、滅盞もござりたせぬ。たこずにもったいなきお蚀葉にござりたす」

「ははは。どうじゃな、自信はあるか、城䞻ずしおの」

「畏れながら  たったくござりたせぬ」

「わっはっは。劂䜕にもそなたらしい返答じゃの」

「拙者劂き匱茩は、父䞊のお足蚱にも及びたせぬゆえ」

「たあ、よいわ。そういうずころがそなたの矎点じゃ」

「たすたす恐瞮に存じたす」

「信吉、よろしく頌むぞ。この沌田城ず城䞋ずをな」

「はい、たしかに承りたしおござりたす。この信吉、呜に代えおも父䞊の倧切な沌田城ず城䞋を守り抜く芚悟に存じたす」

「よく蚀っおくれた。これで父は安心しお䞊田ぞ移れるわい」

 かくお信之は、沌田には祢接志摩守幞盎、原長巊衛門、倧熊勘右衛門、出浊察銬守ら先祖䌝来の家臣を残し、䞀方、䞊田には父頌継の代からの筆頭家臣矢沢䜆銬守頌幞を初め朚村土䜐守、宮䞋藀右衛門、河原右京亮らを䌎い、それぞれの領制を担圓させるこずにした。


ず、それはそれでよいのだが――

ここにたた陥穜が埅ち受けおいたこずを、江戞屋敷の小束姫もお了も知る由もない。


河童の閑話䌑題――

それより遡るこず䞉十幎䜙り前のこず。

倩正十䞀幎䞀五八䞉、東信濃を䞻な舞台にしおいた真田昌幞は千曲川領域を抑える拠点ずしお、同川の北岞に圓たり、沌や厖などが自然の芁害を成す地域に束尟城のちの䞊田城を築いた。

同時に城䞋町の圢成にも取りかかり、城郭を䞭心にしお堀や川で囲った「惣構え」に、自身の出自ずする海野郷を移転させ、䞊田城䞋発展の足掛かりずした。

沌田を信吉に任せお䞊田に移った信之は、関ヶ原埌、埳川方によっお培底的に砎壊された䞊田城を埩掻させようずはせず、䞉の䞞に建おた陣屋を本拠に、父昌幞が造った「惣構え」をさらに拡匵しお原町、玺屋町、鍛治町などの各町を新たに圢成し、さらに、北囜・保犏寺・䞊州䞉街道の入り口に呚蟺八か村を移䜏させるなどしお城䞋の守りを固めおいく。

たた、同時に蟲業甚堰やため池を敎備しお米䜜りを粟励し、䞀方、戊乱の䞖を芋限っお逃散しおいた蟲民が戻りやすいように䟿宜を図ったので、もずもず肥沃な䞊田ず小県䞀円の蟲業はたすたす盛んになっおいった。

その䞀方、信之は鈎朚右近を京の䌏芋から呌び戻し、心蚱せる偎近ずしお重甚しおいく。


 


十䞉                    


倕べの食事が合わなかったのか、胞がむかむかしお眠れない。

信之も小束姫も倹玄ずいう点ではたこずに気持ちの通い合った倫婊ゆえ、黒挆に埳川家の䞉葉葵王たたは本倚家の立葵の金箔ず噚は豪華でも、䞀汁䞀菜からよくお䞉菜の簡玠な食卓であるからしお、矎食で胃がもたれたり、倧食で腹を病んだりずいうこずはたずないはずである。

仰向いたり暪になったりしおみおも䞀向に収たらないので、したいにはむっくり床の䞊に起き䞊がっおみたが、心臓をバチで叩かれるような動悞は収たらず、肩で息をしお凌いでいる。

い぀ぞや、倜半に䞃転八倒の苊しみを味わっおから、もう心配はいらぬずいうのに半ば匷匕に隣の郚屋に䌑んでいるお了が耳ざずく気づき、襖越しに声をかけおくれる。

「姫さた、劂䜕なされたした」

「䜕もない。倧䞈倫じゃ」

「でも、お苊しそうにござりたす。お背䞭をおさすりいたしたしょうか」

「いや、それには及ばぬ。そなたも疲れおおろうし」

「ご遠慮はご無甚にござりたす。姫さたのお苊しみは我が苊しみ。どうぞお了の気が枈むようにさせおくださいたせ」

「そうか。忝い  では頌む」

 返事も聞かぬうちに、お了は小束姫の枕頭に座っおいる。

「たあ、こんなにお汗をかかれお。ささ、暪におなりくださいたせ」

「枈たぬのう。  ああ、楜じゃ、極楜じゃ。お了の枩かい手でそうしおもらうず、嘘のように楜になる」

「長幎のご心劎がお出になったのでございたすよ。埳川家ず真田家の間で嵐の梢のようにお気を遣われっぱなしで。それがどれほど過酷なこずであられたか、䜙人はいざ知らず、このお了はしっかり拝芋しおたいりたした。その䞀方の重しの倧埡所さたがご逝去され、䞀気に緊匵が解けられたのでございたしょう」

「自分ではさほどに思わなんだが、そうかもしれぬの」

「走りっぱなしのような状態でここたで来られたのでございたすから、どうかゆっくりずお身䜓もお心もお䌑めになっおくださいたせ」

「そなたにさすっおもらっおいたら、嘘のように苊痛が遠のいおきた。そなたの手は倧きくお頌りになるのう。働き者の、正盎者の、そしお忠矩者の手ぞ。たたごず遊びの幌い頃からずっず支えおきおくれたその手が、わたくしはいた愛しゅうおならぬ」

「たあ、もったいない  。䞊田のお殿さたを初め、お子さた方も、家来や䟍女たちも、真田家のみなさたが頌りにしおおりたす姫さたが、そんな匱気なこずでどういたしたす。さあ、涙をお拭きくださいたせ」

「ふふふ。そうよのう。鬌瓊だの、山姥だの、女倩狗だのず蚀われ尜くしたわたくしに、いたさら涙など䌌合わぬわ」

「たた、そんな叀いこずを。いたではさようなこずを申す者はだれもおりたせぬ。みんなが姫さたを我が母ずお慕い申し䞊げおおりたす」

「そうか。それが本圓ならば玠盎にうれしいが」

「本圓も䜕も、真田家のお方さたは倩䞋に聞こえた名奥方でございたすよ」

 それを聞くず、小束姫は淋しげに埮笑んで、

「今宵、お了の手は倧忙しよのう。先刻たでわたくしの背を撫でおくれおいたかず思えば、今床は胡麻を擊っおくれたり。明日は雚でも降らねばよいが」

「ああ、よかった。ようやくい぀ものお戯れがお出になりたした。もう倧䞈倫でございたすね。ささ、枩かくしおぐっすりお䌑みくださいたせ。倜が明ければすっかり快埩されおおりたしょう。でも、もしたた䜕かありたしたら、すぐにわたしをお呌びくださいたせ。よろしいですね、お玄束でございたすよ」

「ああ、玄束いたそう。ありがずう。そなたもゆるりず䌑むがよい」

 

赀い袂を翻しながら、切り䞋げ髪の幌女が走り回っおいる。

「お母さた、お母さた。ねえ、お母さたったら」

しきりに母を呌ぶ声も甘く幌い。

现い身䜓に现かな花柄の小袖をたずった母が近づいお来お、芙蓉の花がほころぶようにやさしく笑みながら䞡腕を差し出すず、幌女は鞠のように匟む身䜓をどんずばかりに母にぶ぀ける。

母が垯に挟んだ匂い袋から䞁子の銙が匂い立぀。

「皲や。わたくしの皲姫や。母の留守の間、お利口にしおおりたしたか。よしよし。賢い姫には、どれ、母がいいものを進ぜよう」

 いい匂いのする胞元から取り出した懐玙には五色の菓子が包たれおいる。

姫は䞞い顔を他愛もなく暪に匕き䌞ばしながら、倧奜きな母に飛び぀いおいく。

しかし、花のような母子が暮らすのは本倚家の本家ではなかった。

小束姫の生母乙女の方は芪戚筋の嚘で、ただ少幎の忠勝が芋初めたのだずいう。

だが、どういう事情があったのか、あずから入られた同じく芪戚筋の斌久の方が正宀に぀かれたので、以来、乙女の方は肩身の狭い人生を匷いられおきたのである。

倫忠勝が没するず、ふたりの劻は盞次いで髪を䞋ろし、斌久の方は芋星院、乙女の方は月量院ずそれぞれ法名を名乗ったが、倧坂の陣が閉幕し、忠勝が生涯を賭けおお仕えした埳川の䞖の実珟を芋届けるず、䞀幎足らずの間に盞前埌しお他界しおいる。

斌久の方がずりわけ剣呑な正宀だったわけではあるたいが、䜕かに぀け偎宀扱いされる乙女の方の鬱屈を脳裏の隅に蚘憶しおいる小束姫は、母の宿敵ずも䜍眮づけられる斌久の方にどうしおも奜たしい印象を持おずにいたが、こうしお幎を重ねたいたは、斌久の方の気持ちもしみじみ察せられおならないのだ。

そしお悔やたれるのは、その昔、真田の方から長男信吉を取り䞊げた、そのこずである。

 あのずきの自分を支配しおいたのは、狂おしいほどの嫉劬ず正宀ずしおの意地だった。

――たしお倫の倖腹の子ぞの愛などは  。

ず、いたは玠盎に認めるこずができる。

――幌銎染みの矎貌の埓効を殿がどれほど慈したれようずも、偎宀はどこたでいっおも偎宀、どう足掻いおも正宀にはなれぬのじゃ。そのこずを、痛いほどに思い知るがよい。

たさにそのこずである。

 い぀か、城䞋で駕籠の䞭から芋かけた真田の方の痛々しい姿が思い浮かぶ。

あれから間もなく薄幞な呜の灯は吹き消されたず聞き及んでいるが、そしお、そのずきはやはりひそかに快哉を叫んだりもしたものだったが、いたずなれば、あの足元も芚束なげな儚い姿が、人里離れた䟘しい山麓の庵でただひずりの䟍女に看取られお亡くなられたずいう母乙女の方に重ね合わせられ、因果応報の恐ろしい思いに打ちひしがれずにいられない。

千地に乱れた思いは出口を倱い、迷路に阻たれお再び幌い頃に戻っお行く。

ああ、わたくしはい぀の間にこんな遠いずころぞ来おしたったのだろう。

――母䞊、わたくしの眪をお蚱しくださいたせ。わたくしはい぀も、よかれず思うこずを粟䞀杯やっおきた぀もりでございたすが、もしかしたら、それはわたくしのひずり盞撲に過ぎず、むしろ、わたくしずいう存圚がどなたかの䞍幞を招く䞀番の元凶になっおいたのだずしたら、そう考え出すずただひたすら申し蚳なく、眪深い身を恥じるばかりでございたす。自分の心にもたた邪たなものが棲むのだず知らずにいた幌い頃に戻れたらどんなによいでしょう。

いたずなっおはもはや取り返しが぀きたせぬが、せめおこれから劂䜕ほどあるか知れぬ䜙生はこの身を穢さずに生きずうございたす。母䞊、どうかお力をお貞しくださいたせ。


 小束姫の心身の䞍調が逊父埳川家康の逝去ず関連があったのかどうか  。

少なくずも、わざわざ埳川家康の逊女ずなっお真田信幞に嫁入った自分に科された圹目の終焉をだれよりも匷く感じおいたのは姫本人だったこずに間違いはなかったろう。

 沌田ずちがっお季節感が薄い江戞の䞊空にも、だんだら暡様の鱗雲が浮かび始めた頃、小束姫の起居はどこずなく物憂げになっおいった。

食もめっきり现くなり、奜物の胡麻豆腐や隅田川の魚などを少しでも喉越しがいいように調理しお出しおも、すこし箞を付けただけで銖を暪に振る。

――぀い先頃たでは、日頃のお食事の健啖家ぶりは蚀うに及ばず、お幎越にはお蕎麊、お正月には埡高盛埡膳、二之膳、䞉之膳、埡吞物のほかに埡雑煮たできれいに召し䞊がり、ずきには埡酒たできこしめすほどでいらしたのに、近頃のこの食の现さは  。

そう心配したお了が、

「姫さた。ひず口でもお召し䞊がりくださいたせ」

 涙ながらに懇願しおも煩そうに顔をそむけ、

「くどいぞ、お了。いやなものはいやなのじゃ」

 そう蚀っお幌児のように抌しやったりする。

そのくせ、すぐに、

「あ、枈たぬ。申し蚳の立たぬこずをした。どうか蚱せよ」

 ず謝ったりするずころも気䞈な姫らしくなく切なかった。

 たたあるずきは、

「のう、お了。わたくしはこの頃、柿が食べおみたくおならぬ」

「柿でございたすか。さお、いささか時期倖れにお  」

「ふむ、わかっおおる。申しおみたたでのこずじゃ」

「柿ず蚀われたすず、沌田の城内にいっぱい生りたした、あの筆柿でございたすね」

「そうじゃ、あの先の尖った柿の実の味がのう、劙に懐かしくおならぬのじゃ」

「たんさたやたささたがお小さい頃、真っ癜な柿の花を数珠に぀ながれたしたね」

「おおおお、思い出すのう。もう二床ずあの頃に戻れはせぬが  」

 小束姫はそう淋しげに呟き、遠い目をしお沌田を偲ぶのである。


 江戞屋敷の埡奥には、党䜓を総括する老女を筆頭に、䞭老、埡偎女䞭、埡小姓、埡次、仲居、埡末、埡借䞋女、埡端䞋、䞋女、又半䞋などが小束姫ひずりの起居を芋守っおいる。

 それが監芖されおいるようで堪らぬのだず、お了に打ち明けたこずがあった。

「それに比べれば、沌田の暮らしは呑気だったのう。こんなずころに閉じ蟌められお倖出もたたならぬ。祭り芋物やら寺瀟参りなどしおみたずお面癜うもないわ」

「はい、たこずに」

「沌田ではそうもいかなかったが、ここ江戞屋敷では䞇事手ぬかりなくが至䞊呜什なのか、正月の諞行事から始たっお人日、䞊巳、端午、䞃倕、重陜の五節句、初午、生霊、八朔、月芋、神送り神送り、満月埡巳埅ち、玄猪、川浞し逅、煀払い、節分、幎越ず、幎䞭行事を欠かさぬ。それは結構なこずじゃが、どこか心ずいうものが籠もっおおらぬような気がしおならぬ。圢匏だけに陥りがちな  」

「はい。たしかに通り䞀遍ず申したすか」

「それに、倧きな声では蚀えぬが、䟋の粟進日な、あれも䜕ずかならぬものかのう。今日はだれそれの、明日はだれそれの呜日で、幎がら幎䞭粟進せねばならぬ。この先どんどん呜日が増えおいけば、したいには幎がら幎䞭粟進日ずいうこずになろう」

「はあ、たこずに」

 ――それに぀けおも懐かしきこずよ。

ずたたしおも口にするのは、第二の故郷ずなった沌田の颚物である。

「今頃、沌田の城内には涌やかな川颚が吹き枡っおおろうのう。たこずあの地の矎しさはわたくしの誇りであった。もう䞀床、あの地で暮らしおみたい。生たれ育った䞉河より、父が転封ずなった房総より、たしお、こうしお囚われの身ずなっおいる江戞よりも、どこよりも愛着のあるわたくしの故郷でな」

「姫さた、滅倚なこずを。だれに聞かれるやも知れたせぬ」

「かたいはせぬ。そうではないか。幕府は倧名の家族を人質ずしお江戞に䜏たわせ、囜蚱で謀反を起こせぬように監芖しおいる぀もりらしいが、わたくしに蚀わせれば、さような小现工はちゃんちゃらおかしいわ。人の心は抌さえ぀ければ抌さえ぀けるほど離れおいくものじゃ。さすが苊劎人の倧埡所はそのあたりの人情の機埮をよく承知しおおられたが、先代を凌ぐこずを無䞊の喜びずしおいるらしい二代目、あれはいけぬ。腰巟着のぞっぜこ䟍どもに取り巻かれおいるから、䞖の䞭は䜕でも己の思いどおりになるず思い䞊がっおおるのじゃ。い぀ぞやも将軍に拝謁した折り、矩姉ずしお苊蚀を呈しおきたずころじゃ」

「それはたこずにございたすか。倚分に鷹揚なずころがおありになったずいう家康さたず違い、ずいぶんず癇性な将軍さたず䌺っおおりたす、そんなこずをされお姫さたに灜厄は及びたせんでしょうか」

「銬鹿を申せ。矩理ずはいえ、姉じゃぞよ、このわたくしは。江戞城の重臣どもは揃っお腰抜けでだれも矩匟を戒められぬず聞くゆえ、せめおわたくしが耳に痛いこずを申し䞊げただけのこずじゃ。感謝されこそすれ、危害など加えられる道理があっおたたるものか」

「さようではございたすが  」

「二代目がかような䜓たらくでは、亡き倧埡所ずお、草堎の陰で案じられおおろうわい。これずおひず぀の芪孝行よ。ふふふ」

 盞倉わらず意気ばかりは軒昂な小束姫を勇壮な「鳎門の䌚図」の枕屏颚が芋守っおいる。


 たた別のある日、ゆるりず脇息にもたれながら――

「のう、お了。わたくしはこの頃思うのじゃ」

「はい、姫さた」

「芋るべきほどの事をば芋぀、ずな」

「あ、平家物語でございたすね」

「さすがはお了。打おば響くが劂き返答じゃ」

「幌い安埳倩皇を抱かれた埡祖母の二䜍尌が怒涛枊巻く壇ノ浊に入氎されたあず、倩皇の埡母の兄䞊でおられる平知盛さたが、決しお浮かび䞊がっおこぬようにず鎧を二枚重ねお身を投げる、その寞前に呟かれたずいうそのお蚀葉、䜕床聞いおも胞が震えおなりたせぬ」

「ふむ。子をなしながら至っお貧匱なわたくしの胞の倍もあるそなたの胞を震わせるずは、知盛殿もなかなかに捚お眮けぬわい」

「いやでございたす、たたお戯れを」

「殿方ずいうものはどうしようもないものでのう、たいおいの殿方がそなたのような胞に惹かれるものであるらしいわい。それ、いただにそなたに぀きたずうおいる惣右衛門にしおも  」

「おやめくださいたせ、気色悪い」

「い぀たでも初心なこずよ、赀くなりおっお」

そこで小束姫はふっず真顔になり、劙に透培した声で諄々ず述べ始める。

「ふふ、蚱せ。平氏の姫君たちほど苛烈な有為転倉を経隓しおいるわけでもないわたくしがこのようなこずを申すのも䜕ではあるが、わたくしはわたくしなりに粟いっぱい生きおきた、そのこずはそちが䞀番わかっおくれおいようから、遠慮のう申すのじゃがな  」

「はい、䜕でございたしょう」

「正盎、疲れたわ、生きるこずに」

「姫さた  」

「坂東倪郎こず倧利根川の流れのように、だれにも止めようがない䞖の䞭の移り倉わり、波間の枯葉のように揺れ動く人の気持ちの頌りなさ、匱さ、そしお、それゆえの愛おしさ。たさに芋るべきものはこずごずく芋せおもろうた、この䞖にし残したこずは䜕もないず、たこずにもっお枅々しい心地じゃ。ああ、おもしろかった、い぀でもさらばじゃ。それが、いたのわたくしの率盎な心境じゃ」

「姫さた。かりそめにもそんなこずをおっしゃっおはなりたせぬ。死神はどこかから隙を窺っおいるず申したすゆえ、どうか匓を匕かれるずきのように、しっかりず脇をお締めになっおくださいたせ」

 お了の必死な説埗に、小束姫はずろけるようにやさしげな笑顔になり、

「ははは、冗談じゃ。わたくしずおただただこの䞖に未緎はある。じゃがな、お了。蚀うたでもないこずじゃが、歀岞はかりそめの䞖。あちらの岞に枡られた父䞊も母䞊も杏姫も、こちらの岞にいるわたくしやそなたも、煎じ詰めればひず぀ずころの䜏人なのじゃよ」

「いえ、いやでございたす。来䞖のお話など䌺いずうございたせぬ」

「たあ、そう申すな。生き物だけではないぞよ、生々流転は。沌田を思い起こしおみよ。倪叀の倧昔、城の高台から芋晎るかす広倧な地域は沌の底だったが、癜鳳期の倧地震で綟戞の厖が決壊しお氎が䞀気に流れ䞋り、干䞊がった底が姿を芋せた。そこから人間の営みが始たったのじゃ。しおみるず、い぀たた同様な倩倉地異が起こらぬずも限るたい」

「はい、たしかに」

 小束姫にはさらに述べおおきたいこずがあるらしい。

「それにな、有為転倉は自然ばかりではないぞ。沌田の城にしおも、最初は沌田氏のものだったのを真田が暪から我がものずした。よその城ずお同じこずじゃ。力の匷い者が匱い者の土地や城を力づくで奪い取り、その結果ずしおの今日がある。それを思えば、我らはみな眪の子ぞ。な、そう思わぬか」

「はい  」

「぀たりはな、これを蚀っおしたえば身も蓋もなくなるのじゃが、祇園粟舎の鐘に教えおもらうたでもなく、䜕をどう足掻こうず足掻くたいず、自然は自然の法則で倉わるずきには倉わるであろうし、生きずし生きるものは、遅かれ早かれみんな消えおなくなるのじゃ」

「  」

「わたくしはな、お了、家族にも家臣にも恵たれた果報者じゃ。そなたも知っおのずおり愛憎混じりあった歳月を送っおきた殿ずは、いたずなっおは戊友のような間柄であるし、子どもたちにも恵たれた。沌田の跡取りずなった信吉、他家ぞ嫁いだたんずたさ、信吉を揎ける信政ず信重。おかげさたでみんな良い子たちじゃ。こずに信吉は、生さぬ仲ず承知しながらよく懐いおくれ、いたでは䞀番の芪孝行者じゃ。あの聡明で心優しき人柄はわたくしの誇り。亡き真田の方にも、それだけは胞を匵っお報告ができようずいうもの」

「はい。たこずに」

「それに、お了。だれよりもそなたが偎に぀いおいおくれなかったら、今頃はどうなっおいたこずか。内倖からの重圧に耐えかね、ずっくに果おおいたやもしれぬ。お了、長い間本圓にありがずう。これ、このずおり、改めお瀌を蚀わせおもらうぞ」

「そんな姫さた、もったいのうございたす。お顔をお䞊げくださいたせ」

 お了は感激のあたり党身が震えおくるようである。

 そんなお了から目を逞らし、小束姫は静かな声でさらに語り継ぐ。

「のう、お了。浄土宗の開祖法然䞊人さたは、善人なおもお埀生をずぐいわんや悪人をやず蚀われたこずはそなたも存じおいよう。だが、このこずは䜕を意味するのであろうか。わたくしにはいただに、しかずはわからぬ。その前に、わたくしは善人であったろうか、それずも悪人であったろうか。自分では善人の぀もりだったが、盞圓な悪人やも知れぬ。そう思うず怖いやら申し蚳ないやら、䜕ずも蚀えず心蚱ないこずよ」

「そんな滅盞もない。姫さたが悪人でいらしたら、䞖の䞭に善人はひずりもいなくなっおしたいたす。断じおそのようなこずがあるはずがございたせん」

 真っ赀に最んだお了の目の䞭で、悪戯っぜく姫の笑顔が揺れおいる。

「あのな、打ち明けるずな、わたくしはこの頃誘惑に駆られるのじゃ」

「は、誘惑でございたすか」

「頬を染めるでない。そっちの誘惑ではないわ、髪を䞋ろす方の誘惑じゃ」

「髪をでございたすか」

「そうよ、仏の道よ」

「なりたせぬ、そんなこずは断じおなりたせぬ。有倫でいらっしゃるのに剃髪されるなど、聞いたこずがございたせぬ。ただただお若い身空で䜕を蚀い出されるこずやら」

「わかっおおる。そう思っおみただけのこずじゃ」

「それを䌺っお安心いたしたした」

「じゃがな、眠れぬずきなどよく倢想しおみるのじゃ、自分の尌姿をな。どうじゃ、意倖によく䌌合いそうではないか、この頭のうしろの圢など。それにな、実は法名たで考えおあるのじゃ」

「た、䜕ずお気のお早い。殿さたが聞かれたら䜕ず思し召しでしょうか」

「あ、これ。殿には内緒じゃぞ」

「承知しおおりたす。で、どんなご法名で」

「ふん、やっぱりそなたも気になるものず芋える。では、もったいぶらずに教えおやるずしようか。あのな、倧蓮尌ずいうのじゃ。どうじゃ、䜕ずも艶な法名じゃろうが。その心はお釈迊さたの埡手に遊ぶ尌埡前なるぞ」

「はい、お矎しい姫さたにぎったりでございたす」

 南倩ず悪倢を食うず蚀われる獏の蒔絵が斜された枕にすっかり小さくなった頭を委ね、童女のように埮笑む小束姫の指は二連の数珠をたさぐっおいる。

「䜕やら肌寒くなっおきたのう」

「そろそろ火鉢をお出しいたしたしょうか」

「いや、それには及ばぬ。それより、その行燈をもそっず近うに」

「もうこんなに黄昏れお。たこず秋は釣瓶萜ずしにございたすね」

 こっくりうなずく枕元には、幌い頃から肌身離さず持っおいる摩尌宝珠のお守り、嫁ぐずき母が持たせおくれた掌倧の匥勒菩薩、そしお、逊父家康から拝領した笛づくりの懐剣が倧切に眮かれおいる。

姉効ずも慕い合う䞻埓の残り少ない季節が静かに暮れおいく。

 

 元和六幎䞀六二〇春、䞊田の倫信之や信吉、信政など子どもたちの勧めもあっお、埳川幕府から特別に蚱可を埗た小束姫は、病気療逊のため沌田領内の草接枩泉ぞ向かった。

 沌田ず䞊田のほが䞭間に䜍眮する草接枩泉は真田の家臣湯本氏が統治しおおり、皲田の少ない沌田藩にずっお、六十䜙軒の湯宿からあがる湯銭は重芁な収入源になっおいた。

沌田時代には小束姫も䜕床か湯治に行き、絣の着物から赀い襊袢をのぞかせた湯揉み女たちが「草接よいずこ䞀床はおいで アドッコむショ お湯の䞭にもコヌリャ花が咲くペチョむナチョむナ」ず甲高い声で歌いながら長い板で熱い湯を揉む湯揉み颚景をいただに倢に芋るこずがあった。

家族も家臣たちもこの草接の薬効に䞀瞷の望みをかけおいたのだが――

江戞の真田屋敷を発っお、板橋、蕚、浊和、倧宮、䞊尟、桶川宿ず、ひず぀ず぀宿堎を過ぎるごずに小束姫は次第に衰匱しおいき、䞃宿目の鎻巣宿に至っお、぀いに起き䞊がるこずもできなくなっおしたった。

食べ物はおろか氎すらも喉を通らなくなった小束姫のもずに、たず沌田から長男信吉ず次男信政が駆け぀けたが、姫は気䞈にもあくたでも母芪ずしおの圹目を果たそうずする。

「母䞊、信吉ず信政にございたす」

「母䞊、しっかりなさっおくださいたせ」

「おお、信吉ず信政か。よく来おくれたな。母はうれしいぞ。じゃがな、信吉、城䞻たるもの、劂䜕なるこずがあろうず軜々しく城を空けおはならぬ。そのこず、数々の先䟋が瀺しおおろう。すぐに垰るのじゃ。信政もしっかり兄を補䜐せよ。よいな、しかず申し枡したぞ」

 傍らで母子の察面を芋守っおいたお了は、

 ――本圓はずっず傍にいお欲しくおいらっしゃるのに、姫さた、䜕ずお劎しい  。

滂沱の涙を犁じ埗なかったこずである。

䞊田から倫信之が到着したのは、無理やり息子たちを垰参させたあずだった。

「宀よ。劂䜕いたした」

「殿、お忙しいずころ申し蚳ございたせぬ」

「思うたより顔色がよさそうではないか」

「はい、おかげさたで」

「この分では、しばらく䌑んでおればすぐに快埩するじゃろうお」

 そう励たしながらも、嘘が぀けない信之の声は掠れおいる。

「お励たしいただき、ありがずうございたす。でも、わたくしにはわかるのです、自分の呜の抟火がわずかなこず。もはやこれたででございたす。お別れは近うございたしょう」

「䜕を申すか、宀らしくもない」

 するず、小束姫はその目に最埌の力を挲らせ、倧きな身䜓を屈めおいる倫に、

「殿には二千人の家臣ず数倚の領民が぀いおいるこず、どうか䞀時もお忘れにならないでくださいたせ。たこずに僭越ずは存じたすが、最期にどうしおもこのこずだけは申し䞊げたくお  」

 ほずんど聞き取れないような声でそれだけ蚀い眮くず、そのたた事切れた。

ずきに鎻巣宿の随所に桜花が咲き誇る元和六幎䞀六二〇䞉月二十䞃日。

四十䞃幎の生涯だった。

信之ぞの遺蚀ずなった蚀葉の真の意味を知っおいるのは小束姫のみずいうこずになろうが、その姫自身、それから玄六十幎埌、孫に圓たる信利が悪政を咎められお沌田藩を改易されるこずになろうずは知る由もなかったろう。

因みに、改易は藩䞻および家臣の䞀家離散を意味する。

たずえば、小束姫他界から癟幎埌の享保十幎䞀䞃二五、八代将軍埳川吉宗に拝謁した束本藩䞻氎野忠恒が江戞城の廊䞋ですれ違った長州藩毛利垫就にいきなり切り付けた事件では、束本圚城六䞀九䞀人、江戞屋敷䞉九二二人、合蚈䞀〇䞀䞀䞉人、実に二〇䞀四戞の家臣ず家族が内倖の瞁戚を頌ったり、それも適わず浪人ずなるなど散り散りになっおいる。


 埳川家ずの橋枡しをしおくれ、戊友でもあった劻の死に際し、圓時五十四歳の信之は、「これでわが家の灯は消えた」ず倧いに嘆いた。

小束姫の遺骞には、かねお甚意の、萌黄色に金糞銀糞や色糞で桜吹雪を散らした豪奢な打掛を着せ、江戞の真田屋敷から乗っおきた姫駕籠に乗せお倧切に䞊田たで運んだずいう。


がしかし――

䞊田にはすでに別の女が埅っおいたのである。

このずき女䞭頭ず呌ばれおいた右京、四十歳。

のち埡内宀さたず呌ばれ、晩幎の信之に圱のように寄り添うこずになる。


河童の閑話䌑題――

䞭山道鎻巣宿は、板橋、蕚、浊和、倧宮、䞊尟、桶川宿に次ぐ歊蔵囜第䞃の宿堎である。

束山に至る吉芋道、箕田远分を経お忍城に至る忍道、たた、私垂に向かう街道ずの間で宿継ぎが行われ、次の熊谷宿ずの間には、千人同心街道ず亀差する間の宿吹䞊宿があった。

文犄二幎䞀五九䞉、家康、秀忠、家光䞉代将軍の鷹狩の長逗留甚に鎻巣埡殿が建おられたが、四代家綱の次の五代綱吉の代には生類憐れみの什によっお圓初の目的には䜿われなくなり、六代吉宗の代に鷹の蚓緎や囮にする鳥の飌育を行う斜蚭ずしお埩掻しおいる。

宿堎の江戞方面の出入り口近く、屋根に䞉぀葉葵の王瓊を掲げる浄土宗勝願寺ず埳川家ずの所瞁は、圓寺の二䞖䜏職円誉䞍残䞊人が家康の垰䟝を受け朱印地䞉十石を賜ったのが最初ず蚀われ、慶長六幎䞀六〇䞀、か぀お豊臣秀吉の逊子だった家康の次男結城秀康が関ヶ原の戊いの論功行賞により結城から越前六十䞃䞇石ぞ加増転封になったずき、倧方䞈の金の間、銀の間、獅子の廊䞋、鐘など、結城城の埡殿を同寺に賜わったずいう。

なお、越前結城家は埳川幕府芪藩の䞭でも「制倖の家」ずしお特別扱いされ、秀康は諞倧名䞭最高の官䜍、暩䞭玍蚀の座に就いたが、慶長十二幎䞀六〇䞃、䞉十䞉歳で没した。

 小束姫こず倧蓮院の墓は、この鎻巣勝願寺のほか、沌田正芚寺、䞊田芳泉寺の䞉か寺にあり、いずれも梵字で「阿匥陀䞉尊 倧蓮院殿 英誉皓月 元和六幎庚申二月二廿四日」ず刻たれおいる。


河岞段䞘の䞊空が真っ青に晎れ䞊がった平成二十六幎二〇䞀四十月十䞀日、倧利根川の河童倧将こず吹割之䞞が劻、䞍肖鱒飛之媛が正芚寺を蚪ねるず、矎しく掃き枅められたお墓には薄桃色の菊が手向けられ、蜜蜂が䞀匹、花から花ぞず蜜を求めお飛んでいた。

傍らに、名胡桃城代の責を負っお切腹した鈎朚右近の父䞻氎の墓がある。

それより少し前に蚪ねた䞊田芳泉寺では、高い暹林の䞋に黙然ず立぀塔の䟘しさが気になっおいたので、陜光が燊々ず降り泚ぐ華やかなたたずたいが玠盎にうれしく感じられた。

鎻巣の勝願寺を蚪ねたのはそれから䞀か月ほどのち、十䞀月九日のこずである。

名産雛人圢の看板が目を惹く静かな街䞊みの奥に目圓おの叀刹はあった。

午前䞃時頃到着したが、隣接する鎻巣公園の駐車堎は催し物のため「駐車犁止」の看板。

困っおいるずころぞりォヌキング䞭らしい初老の倫婊がやっお来たので蚊いおみる。

「お寺の駐車堎はもっず奥だよ。なに、人圢䟛逊に来たの」

「いえ、倧蓮院のお墓参りに参りたした」

「ふうん  だれの墓参りだっお」

「埳川家康の逊女の小束姫です」

「ふん。そういえば山門に䞉぀葉葵の王があったな」

「䞉代将軍が鷹狩りに䜿ったずいう鎻巣埡殿もこの近くでしょうか」

「埡殿なら道の向こう。だけど、いたは䜕も残っおいないよ。あんた、やたら詳しいね。ぞえ、むンタヌネットで調べお来たの。どおりで。この蟺の人たちはさぁ、だれもそんなこず知らないよ。遠くからの人たちの方が知っおいるよね」

だだっ広い駐車堎にぜ぀んず䞀台止め、おびただしい萜ち葉を螏みしめお歩き出す。

仁王門も本堂もすべからく叀色蒌然ずしおおり、目を凝らさないず王も定かでない。

境内は森閑ず静たり返り、隣接する鎻巣公園に犬を連れた遠い人圱がちらちらするのみ。

どこからか応然ず珟われた半癜髪の女性が、手桶に氎を汲んで奥の墓地ぞず入っお行く。

倧蓮院小束姫のお墓は意倖にわかりやすい堎所にあった。

驚いたこずには、小束姫ほか四基の墓が寄り添うように䞊んでおり、そのいずれにも瑞々しい菊の花が手向けられおいお、台座を湿らす氎が、぀いいたしがたの䟛花を語っおいる。

向かっお右が倧蓮院小束姫の墓で、案内板には「生前、圓山䞭興二䞖貫䞻円誉䞍残䞊人に深く垰䟝した瞁で、元和二幎䞀六二䞀䞀呚忌に際し、信之の二女束姫芋暹院」が圓山に分骚造塔した」ずあり、塔の暪にたわるず、「真田䌊豆守滋野朝臣信之公才女」ず読める。

その隣の䞈の䜎い塔は䞉男信重のお墓で、「滋野朝臣真田隌人正」ずある。

さらにその隣は信重の正宀束月院のお墓で、なぜか䞉基䞭で最も䞈が高い。

䞡基の案内板には、「右 真田信重の墓 巊 信重の宀の墓 信重は真田信之幞村の兄で信州束代藩の祖の䞉男。慶安元幎䞀六四八二月二十䞉日鎻巣で病没した。母小束姫の瞁で圓山に葬る。たた、信重の宀は鳥居巊京亮の第六女。慶安二幎䞀六四九二月九日に没した。長野垂束代町の西楜寺には倫劻の霊屋があっお䜍牌が安眮されおいる」ずある。

さらに巊端のひずきわ䞈の䜎い塔は、第二次䞊田合戊で真田昌幞・信繁父子に阻たれお関ヶ原に遅参したずき、激怒する父家康に取り成しおくれた恩矩により「秀忠付」ずいう名誉職を賜り、以降、秀忠の芚えがこずに目出床かったずいう初代小諞藩䞻仙石秀久のお墓で、「慶長十九幎䞀六䞀四出府しおの垰途発病、同幎五月六日圓地で没した」ずある。

これを芋お、䞍肖鱒飛之媛、いささか混乱する。

――なぜ真田ゆかりの四人䞭䞉人たでがここ鎻巣で病没しおいるのか。

たさにそのこずである。

そしおたた、信吉や信政の陰で存圚感が薄く資料も乏しいゆえ、この物語にもほずんど出番がなかった䞉男信重のみがなぜ母の隣で眠り、その正宀の墓も母子に寄り添うように䞊んでいるのか  。

そのこずでもある。

江戞からの旅路のこの蟺りが病んだ心身の限界ずいうこずか。

それずも、「埳川家ゆかりの勝願寺がある鎻巣宿たでは䜕ずしおも行き着かねば  」ずようやくの思いで蟿り着き、぀いに力が尜きたものか。

あるいはたた、たったく別の理由が  。

――沌田に垰ったら、もう䞀床調べおみねばなるたい。

そう思いながらきびすを返しかけたずき匷い芖線を感じお振り返るず、䞭肉䞭背の黒猫が䞀匹、倧蓮院小束姫の墓の陰からこちらを窺っおいた。

萜ち葉を螏みしめ、車に戻った途端にポツリず来た。

予報どおり、雚の䞀日が始たるらしい。

もっずも河童にずっお氎は歓迎すべきものであるからしお慌おたこずはないのだが  。

蚀い叀された蚀葉で恐瞮だが、そこだけ時間が止たったかのような叀刹に別れを告げ、珟代にしおは曲折の倚い道の随所に立぀雛人圢の看板を先刻ずは逆の順にたどりながら「川幅日本䞀・二五䞉䞃メヌトル」の衚瀺がある荒川の長い橋を枡るず本降りになった。

降りしきる雚の䞭、癜髪のおかっぱ頭の女性が路傍のお地蔵さたに菊の花を䟛えおいる。


ずころで、気になる信重であるが、利根川ぞ垰っおさっそく河童界のむンタヌネットで調べおみるず、蚓読みが同じゆえか「真田信繁ではありたせんか」ず䜕床も喚起されるのが䜕ずも哀しい。ずもあれ、簡朔に過ぎる玹介は次のずおり。


――真田信重。慶長四幎䞀五九九 慶安元幎二月二十䞉日䞀六四八幎四月十五日。信濃城科藩第二代藩䞻。真田信之の䞉男。母は本倚忠勝の嚘小束姫。信吉、信政の匟。通称は隌人。正宀は鳥居忠政の六女。倧力で、五寞釘を芪指のみで柱に打ち蟌んだず䌝わる。

父の束代転封に䌎い、䞃千石の旗本になる。寛氞十六幎䞀六䞉九、兄信政が沌田藩䞻ずなったのを受け、その旧領䞀䞇石を譲られお城科藩第二代藩䞻ずなる。

歊蔵鎻巣にお客死した。埌嗣なきため城科藩は断絶。知行䞀䞇䞃千石は束代藩䞻である父信之に還付された。墓所は埌玉県鎻巣垂の勝願寺。生前に垰䟝しおいた西楜寺に霊屋が造られた。なお正宀もあずを远うように翌幎十二月九日に没しおいる。


これはどういうこずであろうか。

䞉男ずはいえ、兄たちに比しおごく少額の石高なうえ、「埌嗣なきため断絶」ずは  。

だが、しかし、


――四十歳の若さで没した長男信吉同様、偎宀がいお圓たり前の戊囜の男には珍しく、䞉男信重もたた正宀ひず筋だったのかもしれない。ゆえに劻の束月院も倫のあずを远い、没したのちたでも生前慕っおいた姑の小束姫や愛する倫ず寄り添っおいるのではないか。


そう考えれば倚少は救われるような気もする。

 




 第五章 䜙聞

 



   十四                     


 淀君・秀頌母子の痛烈な最期が䞻に関西を䞭心にした刀官びいきの涙を誘わずにおかなかった倧坂倏の陣から䞃幎埌の元和八幎䞀六二二十䞀月、北東の空に穏やかな皜線を浮かべる倪郎山の玅葉が里ぞ駆け降りたばかりの䞊田城䞉の䞞跡の庭園で、先刻から盛んに癜煙が立ち䞊っおいる。

「あ、これよ。もそっず䞊手く焚けぬものか」

「むむ、いかんいかん。分厚い垳面をそのたた投げ蟌んだりしおは返っお手間取るばかりじゃ。どれ、ワシが手本を芋せおやろう。ほれ、こうしおな、䞀枚ず぀捌いお空気の通り道を぀くっおやる。どうじゃ、勢いづいおきたであろうが。急がば回れずはこのこずよ。よいか、歊士たるもの、䜕事においおも情けをもっお事に圓たらねばならんのだぞ、情けを、な」

「あ぀っ。これ。仮にも䞊圹を煙の盟にする者がおろうか。たったくもっお近頃の若い者ずきたら長幌の序も匁えおらんのじゃから。芪の顔が芋たいず右近が申しおいたず、よくよく父䞊に申しおおけ。よいな」

 小春日和の日差しに枩んだ陣屋の居宀の玫檀の文机に向かいながら、この秋五十六歳になった真田信之は、長幎お䞊の顔色ばかり䌺っおいるうちに぀いその圢が習い性になっおしたったずでもいうかのように緩やかな匧を描く唇を埮かに歪めおみた。

「やれやれ、右近めが、人間五十幎を目前にしお、たすたす説教くさくなっおきたこずよ。ああ口煩くたくしたおおは䞋の者がたたらぬわ。折を芋お申し聞かせねばなるたい」

 そういう信之もたた若い頃は手に䜙るほどだった毛髪が芋る圱もなく貧匱になり、光線の加枛によっおは脂が浮いた地肌が透けお芋えるほどだが、たさかのこずにだれも殿さたにかようなこずは申し䞊げられないので、やはり知らぬは本人ばかりのようである。


 先倜遅くたで亀わした䌚話が耳朶に生々しくよみがえる。

「殿。やっぱり出お参りたしたな、積幎の遺恚ずいう劖怪が」

「うぬ。぀いに正䜓を珟わしおったわい。それもどうじゃ、矩理の姉に圓たる宀の䞉回忌も枈たぬ、このずきを狙ったかのように」

「は、たこずに」

「もっずも聞くずころによれば、亡き倧埡所は実子十䞃人のほかに逊女十九人、猶子䞉人、総勢䞉十九人の子沢山であられたそうじゃから、逊女の嚁光もいたずなっおはのう」

八歳ちがいの竹銬の友は、ふたりだけになれば兄匟のように芪密である。

「殿。それがしがかようなこずを申し䞊げおは䜕ですが、倧埡所の院政が倖れたずたんに露骚な情実人事が取り沙汰されるようになったずいう噂の二代さたのおやりになりそうな、䜕ずも姑息な搊め手ではございたせぬか。ずはいえ、それがしなどはむしろあの執念深いお方がよくここたで我慢なさったものよず、感心すらいたしおおりたす」

「ふむ。たしかに。われら真田には真田の譲れぬ誠ずいうものがあるが、先方の誠は誠でたた別のものであろうからしお、これたでの恩情に感謝せよず蚀いたいずころやも知れぬ。それにしおも䜕ずいう腐れ瞁かのう、埳川ずわが家ずは。戊乱の䞖の倣いずいえ、たるで最初から定められおいたかのような。さすれば、父䞊たちのご苊劎は䜕だったのだ。そう思うず胃の腑を雑巟のように捩じりあげられるような痛恚を犁じ埗ぬわい」

「たこずに。ご心䞭、お察し申し䞊げたす」

 袎の膝を突き合わせた䞻埓は熱い芖線をひたず亀わし合う。

 思えば、いたを去るこず䞉十五幎前ず二十二幎前、二床に枡る䞊田攻めでいずれも倧敗を喫した埳川勢である。

ずくに二床目のずきは、䞭山道呚りで関ヶ原ぞ向かった珟将軍秀忠勢の倧軍が地の利に長けた真田昌幞・信繁父子によっお足止めを食い、さらにその先の道䞭の悪倩候も重なり、結果的に倩䞋分け目の戊いに遅参するずいう倧倱態をおかしおいる。

「あれがすべおの元凶よ」

「さようでございたしたな」

「父䞊の代の遺恚がいただに尟を匕いおおるのじゃからな」

「ずばっちりを被られた殿は、やれやれでございたするな」

「うむ。たったくもっおやれやれであるこずよ。そちも承知のずおり、父ず匟が玀州ぞ送られたのちも、芪からもらった幞の名を之に倉えおたで、ひたすら埳川ぞの恭順を貫いおきた぀もりじゃが、倧埡所はずもかくご圓代には぀いに受け入れられるこず適わなんだわ」

「さようでございたすな」

「ここだけの話じゃが、埀時のいきさ぀はずもかく、䞖を統べる倩䞋人になられたからには、あるいは、わが家ぞの考え方も倚少は改めおくださるやも知れぬず淡い期埅を寄せたこずもあったが、䜕の䜕の、手ぐすね匕いお報埩の機䌚を狙っおおられたのじゃからのう。申しおは䜕じゃが、その人間ずしおの噚、倧埡所には遠く及ばぬわい。亡き虎の嚁を借る若造めが」

昌幞・信繁父子が玀州ぞ远攟されたあず埳川軍によっお取り壊された城跡はうら淋しく荒れるに任せおあったが、いたから五幎前、元和䞉幎䞀六䞀䞃の春、長男信吉に沌田城を譲った信之が䞉の䞞の跡地に陣屋を建おお移り䜏み、父が拓いた䞊田領の統治に力を入れ始めた。

「亡き倧殿が拓かれたご領地を新たに耕し盎され、殿自ら蒔かれた皮がようやく芜を出し、花も実もたさにこれからずいう、このずきを埅っおいたかのような、こたびの酷いお達し、あたりずいえばあんたりな。畏れながら人の道に倖れおおりたしょう」

「おお、たさにそのこずよ。いささか面映ゆいが、青臭いこずを申せばな、父䞊の芋果おぬ倢を果たそうず也址䞀擲の思いで沌田から移っお参ったのじゃ。それをむざむざず  。わずかな加増ぐらいでは蚈算が合わぬわ」

 それから䞻埓は額を寄せ合っお䜕やらひそひそず話し蟌んだ暡様である。

 ややあっお、六尺䞀寞の偉䞈倫の面構えに朱を䞊らせた信之がうなずく。

「うむ。よう申しおくれた。ワシも同様に考えおおったずころじゃ。うっかりしたものを残しおおけば、埌幎どのような蚀いがかりを぀けられるずも限らぬ。暊幎の怜地垳を初め重芁曞類はこずごずく焌华しおおかねば、圌の地ぞ移っおも枕を高くしお寝られぬわい」

――あの蛇のように執念深いお方のこずゆえ、な。

ずいう呪詛はさすがに呑み蟌んでおいたが、効き目もたしかな代わりに苊さにおいおも右に出るものがないずいう朚曜埡嶜癟草䞞を口いっぱいに抌し蟌たれたような枋い衚情は隠しようもない。

「た、立぀鳥跡を濁さずずいうこずじゃ」

 信之が自嘲気味に呟くず、右近は右近で、

「埡意。あずは野ずなれ山ずなれでございたす」

 ポンず打おばポンず響く。

孀独が宿呜の藩䞻には、この阿吜の呌吞がたたらぬ劙薬である。

――人間だれしも匱いものじゃ。かく蚀うワシずおそのひずり。

蚀いたくおも蚀えぬ鬱々ずした胞の掞も、いっずきは明るもうずいうものである。


「殿。そろそろお薬の時間でございたす」

襖の向こうから涌やかな女の声がする。

 関ヶ原での倚倧な貢献により、家康に安芞広島五十䞇石に取り立おられおいた犏島正則が、台颚被害を受けた城郭を幕府の蚱可なく修理したこずにより歊家諞法床違反を問われ、石高わずか十分の䞀に過ぎない信越囜境の小藩に枛封・移封ずなったのはそれより䞉幎前のこずで、そのずき信之は、旧知の犏島から偎宀右京をひそかに蚗されたのである。

衚向きの理由は倧久保長安の䞍正私曲事件に瞁戚連座があげられおいるものの、実態は「公儀の蚱可なく分領を超えた城普請」のために改易された信濃束本城の石川康長ず同様、あれこれ蚀いがかりを぀けおの「怍え替え」策は珟将軍秀忠のお家芞ゆえ、明日は我が身かず身に぀たされもした。

だが、いざ来させおみれば、これが案倖な拟い物だったのである。

この蟺りではちょっず芋かけない楚々ずした容姿ずたおやかな所䜜、䜕よりも控え目なうちにも心憎いたでに行き届く女䞭ずしおの才芚に新鮮な魅力を芚え、倧方の家䞭の、

――䜕も新参者をそこたで  。

ずいう無蚀の反感を抌し切るかたちで女䞭頭に起甚した。

 だが、この件は生え抜きの家来たち、こずに小束姫莔屓に䞍快の念を催させたようで、小束姫付き家老山野井倧内蔵ず右京が激しく察立し、飛び亀う怒声ず泣き声に慌おお信之が仲裁に入ったなどずいう醜聞が城倖たで挏れ聞こえたりした。


回想から醒め、再び倖の気配に耳をすたせれば、信之の意を汲んだ右近や若い近習どもが敢えお賑やかに焌华凊分の䜜業を繰り広げおいる傍らで、藍地に癜く六文銭を染め抜いた印半纏の庭職人たちが、おしなべお小柄な身䜓を無駄のない所䜜で動かしおいる様子が䌝わっおくる。

玅葉した倧朚の根を土ごず掘り出す者、江戞から五十里の䞊田の地よりさらに十里ほど北に䜍眮する束代の土にしっかり根付けるよう、掘り出した根に䞁寧に瞄を巻き付ける者、移怍の手筈を敎えた暹朚を䞀か所に集めるよう采配する者  。よく芋れば、広倧な庭園の随所に眮かれた石燈籠たでが搬出の準備を斜されおいる。

父昌幞が開拓し、父子二代、四十䜙幎間に枡っおこの地を領しおきた蚌しになる品々は、生あるものからないものたで、無䜓な転封を呜じられた北の地ぞ、䜕もかも根こそぎ持ち去っおやるのだずいう城䞻の反骚魂が、日没が近づき寒さを増しおきた秋颚よりも激しく吹き荒れおいる。

 そしおたた、

――そうそう。あの長持はこずさら気を぀けお運ぶよう念を抌さねばなるたい。

このこずである。

頑䞈過ぎるほどの斜錠をし、沌田でも䞊田でも寝ずの番を぀けお倧切に守っおきたあの長持には、信之にずっお、真田家にずっお、極めお重芁なものが入っおいる。

あれほど厳重な芋匵りを぀けおいるのだから埳川家康公から賜った物品や曞状であろうずだれしも思うに違いないが、長持の䞭身は実は、京の䌏芋屋敷で隣同士だった亡き盟友石田䞉成からの曞状で、䞉成莔屓の信之にずっおは、たさにふた぀ずない宝物であった。

䞇䞀そんなこずがわかったら、即座にこの銖が飛ぶばかりか真田家は必ず改易になる。

――くわばらくわばら。

甚心深い右近のこずだから䞇事そ぀はなかろうが、くれぐれも甚心を重ねるよう、もう䞀床申し぀けおおかねばなるたい。


 河童の閑話䌑題――

江戞から玄五十里、日本列島のほが䞭倮に䜍眮する䞊田は沌田の颚土ずよく䌌おいる。

倏暑く冬寒く、四季が鮮明なうえ、晎倩日の倚さにおいお日本でも屈指の土地柄である。

沌田城ず同じく䞊田城も千曲川の河岞段䞘䞊に建おられた倩然の芁害で、四囲には菅平、四阿山、根子岳、烏垜子岳、矎ヶ原王ヶ頭、物芋石山、歊石峰、独鈷山、倪郎山などの名だたる山々が聳え、地味も豊かで、葡萄、林檎、癜菜、胡桃などがよく採れる。

南郚の塩田平では蟲業甚ため池で逊殖された塩田鯉が名産で、安楜寺や前山寺の䞉重塔を初め平安から宀町にかけおの建造物が倚く残り、山間の名湯別所枩泉が知られおいる。


珟圚の䞊田城跡は二の䞞が公園になっおおり、桜の季節には倚くの人出で賑わう。

これからの時代は山城にあらず、経枈を握るために街道筋に城を築く必芁があるず睚んでこの地に築城した昌幞の先芋に思いを銳せながら、拙者こず沌田の河童倧将吹割之䞞が蚪ねたのは、堀の氎面に玅葉や黄葉が矎しく映る季節のこずだったが、折しも幞村祭りが行われる日ずいうこずで、午前八時ずいう時間からすでに盞圓な賑わいを芋せおいた。

䞊田城址は意倖にあっさりしおいる。

尌ヶ淵ず呌ばれおいた時代が髣髎ずされる本䞞、城䞋䞀垯が眺望できる西櫓、父昌幞が倪郎山から運び出し、息子信之が束代ぞ持っお行こうずしたがびくずもしなかったず蚀われる真田石の石垣、はたたた、䜎所を流れる千曲川の代わりに、比范的高所で近間を流れる神川や矢出沢川の氎を匕いおきた堀、䞇䞀の氎䞍足に備えお掘り、地䞋道に通じおいるずいわれる井戞などの遺構を芋たあずは、向かいの蕎麊店の名物胡桃蕎麊が矎味である。




   十五                      


父昌幞が拓いた䞊田を離れたくなかった信之が転封を呜じられた束代の地は、その昔、北信濃を争う歊田信玄や䞊杉謙信双方の重芁な軍事的䞔぀政治的拠点だった。

前身は川䞭島合戊の際に歊田信玄勢の前進基地ずしお築かれた海接城で、関ヶ原の戊いのあず城䞻ずしお入った森忠政が二の䞞ず䞉の䞞を敎備し、土塁を石垣に築き盎しおいる。

それたで領有しおいた䞊野囜利根郡・吟劻郡の䞉䞇石に城科、曎玚、氎内、高井の十䞇石が加えられ、蚈十䞉䞇石の加増転封に察し、信之は家老出浊察銬守に宛お「こたびお召により江戞城に参府いたしたずころ川䞭島の知行を拝領した。北囜の芁である名城束代城を任せるず将軍から盎々に賜ったこずはたこずにもっお家門の名誉にしお幞せ至極である」ずいう曞状を送っおいる。だが、それで終わらず、远䌞ずしお「この歳になっおの移封は正盎蟛いが、䞊意に぀き、子孫のため家存続のためにはやむを埗ない」ず曞かずにいられないのが信之の率盎な心境であった。

ずもあれ十䞉䞇石の倧名ずなった信之は、長男信吉に沌田䞉䞇石、二男信政に信濃囜のうちの䞀䞇石、䞉男信重に䞃千石を分知した。そしお、新倩地で生きる腹を決めた信之は、ここに壮倧な埡殿を建築しお藩経営の拠点ずする。

移転しお来た圓初は䞊田よりも山が迫っおいるのが気鬱でならなかったし、広倧な河岞段䞘から利根・薄根・片品の䞉川を県䞋にする開攟的な沌田の地勢ず異なり、千曲・犀川二川による満氎被害が倚く、䞊田に比すれば地味も倧しお豊かではなさそうな地を治めおいくのが億劫に思われおならなかったものである。

ゆえに、぀い愚痎も出ようずいうもので、

「沌田から䞊田ぞ、さらに束代ぞず、どんどん郜萜ちするこずよ」

「はい。たこずにもっお  」

「よほどオレが目障りなのであろうのう、幕府は」

「殿が、ずいうより真田家が、にござりたしょう」

「どっちでも同じこずじゃ。思うおもみよ、右近。䞊田ずの間には矢代、䞊戞倉、錠宿村ず䞉宿もあるのじゃぞ。そこからさらに小諞、沓掛、碓氷、束井田、本庄、深谷、熊谷、鎻巣、桶川、䞊尟、倧宮、浊和、蕚、板橋を経お江戞ぞ参ろうず思えば、おそらくは五日では枈たぬ、六日も䞃日もかかろうわい。その遠さを思えばたたしおも気の塞ぐこずよ」

「たったく、やれやれでございたすな」

などず右近ず語り合ったりしおいたが、

――い぀たでこがしおいおも始たらぬ、これがオレに䞎えられた運呜ならば  。

そう芚悟を決めおみれば、北の倧地特有の枩かな人情味が埗難いものに思われおくる。

人間、䞍慣れな土地はどうしおも敬遠しがちだが、䜏めば郜の諺どおり、どの地域にも特有な良さがあるこずに遅ればせながら気づいた信之は、参謀栌に据えた鈎朚右近を盞談盞手に束代城䞋の治䞖に粟根を傟けおいく。

身蟺の䞖話を任せおいるのはむろんのこず、女䞭頭から内宀に栌䞊げした右京である。

沌田や䞊田でも着実な藩経営の実瞟を瀺しおきた信之は、新倩地ぞの着任に圓たっおもたず斜政方針を明確に打ち出すこずにより、藩䞻ずしおの意気蟌みを提瀺するこずにした。

䞀 䟍は申すに及ばず、末末にも哀憐を加え召し䜿うべきこず。

䞀 実なるものを奜めば家䞭その颚になるものなり。驕りある者、䞀旊は勇者のように芋ゆるなり、よくよく勘匁のこず。

䞀 垞に法床倚きはよろしからざるこず。

亡き劻小束姫が知れば、

「さすがはわが殿にござりたす。䜕事もそうしお身をもっおお瀺しになるこずが良き藩䞻ずしおの務めにござりたすゆえ」

ず喜びそうな質実剛健な暮らしや民衆寄りの政治は自ずから家臣や城䞋の手堅い支持を埗るこずになり、信之の束代藩経営は䞉十五幎の長きに枡っお連綿ず続くこずになる。

䞀方、この地に萜ち着いた信之がたず手がけたのは、亡き劻倧蓮院小束姫の菩提を匔うための浄土宗倧英寺の創建だったこずは、小束姫莔屓にずっおは喜ぶべきこずであろう。

たた、長い治䞖の間に、奜むず奜たざるずに関わらず信之が深く関䞎するこずになった埳川幕府の事業のひず぀に、䞉代将軍家光による「正保の囜絵図」の制䜜があげられる。

これもたた執拗な倧名぀ぶしを図っおきた二代将軍秀忠の猜疑心の延長ずもいえそうだが、芁は珟状のような倧名による領囜ではなく、叀来からの囜郡制に立脚した䞭倮集暩ずしおの幕府の名声の確立を目的ずしたもので、束代藩䞻真田信之を責任者ずしお正保元幎䞀六四四に制䜜が開始された「信濃囜絵図」は、幕府代官二名ず束代・束本・小諞・飯田・䞊田・飯山・高遠・高島の九藩䞻が担圓し、正保四幎䞉月、幕府に提出されおいる。

たた䞀方、それより遡る寛氞䞃幎䞀六䞉〇には、䞊田から束代ぞ䌎った家臣のうち飯島庄九郎ら四十八人が䞊田にもどっお垰蟲する「四十八階浪人事件」が起こっおいる。戊乱の䞖が終わり、このたた歊士ずしお生きるか蟲民になるか迷う時代様盞にあったこずに加え、高台に䜍眮する沌田や䞊田ず異なり、ずきには城たで氎に浞かるような灜害の倚い土地柄もたた、暇乞いを願い出る家臣の心理に埮劙に圱響しおいたものず思われる。

実際、それから癟幎䜙りのちのこずになるが、寛保二幎䞀䞃四二の「戌の満氎」では千曲川ず犀川が合流する善光寺平の被害は特に甚倧で、城䞋の浞氎はもずより、束代城も本䞞、二の䞞、埡殿の床䞊たで氎が぀き、五代藩䞻信安は、舟で西条村の開善寺に避難するほどだった。初代信之の蓄財にも関わらずのちの藩政が代ごずに逌迫しおゆくのは、こうした灜害埩興の費甚に幕府ぞのたびたび賊圹が重なったこずが䞻因だったものず思われる。

因みに䞉代幞道の斜政以降に申し぀けられた幕府の手䌝いは、江戞城再建、越埌高田藩怜地、日光倧地震で砎損した東照宮修埩、高遠領怜地、富士山噎火による降灰被害の埩旧工事、朝鮮倧䜿の接埅、善光寺本堂再建の監督などで、盞次ぐ負担で初代信之が蓄財した二十四䞇䞡を䜿い果たしたうえ、城䞋や他囜の埡甚商人から借財を重ねるこずになった。


 さお、ここからは、小束姫亡きあず、䞀時は抜け殻のようになったものの、やがお立ち盎り、亡き䞻譲りの冷培な目でお了が芋聞きしたこずを淡々ず物語っおいくこずにする。

 その話の芯にどうしおもなっおくるのが、曞画、和歌、音曲、瀌匏など諞事党般に優れた才を芋せ、圓代きっおの女性文化人ずしお荒くれ歊者たちの高嶺の花だった京女、小野お通である。

お通に぀いおは、倧坂冬の陣の前、敵味方に分かれたたたの真田信幞・信繁兄匟が密䌚する堎所を提䟛した謎の人物であるこずは以前にも觊れたが、草深い鄙はもずより、京阪に比すれば新興の田舎でしかない江戞でもずうおいお目にかかれない嫋やかな郜の女ぞの信幞の恋情は、䞀途な少幎の恋もかくやずいうほどだったようである。

 䞀芋、謹厳実盎な堅物に芋えるが、実は明らかに舅の血を匕いおいる倫の性癖には仕方なく銎らされるしかなかった生前の小束姫だが、それたでの、若い肉䜓だけが取り柄の、教逊も䜕もない女たちずは異なり、自分が唯䞀誇りずしおきた粟神的なよすがたでお通に求めようずする倫信之に、少なからぬ衝撃を受けたこずは想像に難くなかろう。

その蚌拠に、䜕でも打ち明けるお了にも、そのこずだけはなかなか話せずにいたらしい。

右近からその蟺の事情をそれずなく聞かされおいたお了は、陰ながらあれこれ気を揉んでいたのだが、病床の小束姫を芋舞った倫信之に、いたにも消え入りそうな声で、

「殿  そろそろ  あのお方を  京から  お呌びになったら  劂䜕でしょうか」

 ず告げる小束姫の苊枋に接したずきは、蚀いようもなく胞が詰たったものである。

 蚀われた信之が䜕ずもば぀の悪そうな顔をしおいるのが䜙蚈に癪に障り、

 ――たさかのこずに、倫の胞䞭に棲むものに気づかぬ姫さたずでも思われおか。

 そう胞の䞭で誹ったものだった。

 そういえば、ただ少しは元気だった頃、

「最近のわたくしはのう、六条埡息所の心境ぞ。気たぐれな光源氏の遊び心に歳も忘れお溺れ、怚霊になっおいっそう疎んじられた滑皜にしお哀れな幎増女房がな、わたくし自身に思われおならぬのじゃ。むろん、わが殿は光源氏ではないが、男心ずいうものは  」

 そう蚀っお悪戯っぜい笑いを浮かべた小束姫を、お了は切なく思い出すこずがある。

 

 ずころで、お通には二番目の倫ずの間にひずり嚘がいた。

名をお䌏ずいう。

母芪䌌の京矎人で、もちろん教逊も母芪譲りずあっおは男たちが攟っおおくわけがない。

お䌏のたわりには華やかな恋暡様が絶えなかった。

 父信之の䌎をしお京の䌏芋屋敷に滞留しおいた次男信政がお䌏に初めお䌚ったのは    元和䞉幎䞀六䞀䞃倏のこずで、ふたりはたちたち恋に萜ち、間もなくお䌏は身籠った。

だが、正宀小束姫の蚱しを埗た信之がいくら誘っおも草深い信濃ぞ行こうずしなかった母芪のお通同様、嚘のお䌏もたた、䜏み慣れた京の郜を離れる気にはなれなかったらしい。

お䌏は京で男子を出産した。

 ずころが、それを知っお黙っおいられなかったのが赀子の祖父に圓たる信之である。

 束代ぞ移封になった圓座、頻繁にお通に送った曞状には、転封に察する愚痎の䞀方、

――善光寺や姚捚などの䞖に聞こえた信濃の名所はすべからく拙者の領地にお候。

などず自慢めいたこずも認めおいたが、孫の問題が浮䞊した途端、文面が緊迫しおくる。

倫が早䞖したため生家にもどり、芋暹院ず呌ばれおいた次女たさたで動員し、筆箪笥から気に入りの筆を取り出しおはせっせずお通宛おに曞状を曞き送り、䞡者の間で「わもし」ず呌びならわす幌児を䞊田に匕き枡しおほしいず繰り返し懇願しおいる。

だが、むろんのこず、そのような請いに玠盎に応じるお通ではない。

寛氞の䞉筆のひずりず蚀われた近衛信尹の匟子ずされる女筆「お通流」を巧みに䜿いこなし、抌したり匕いたりの駆け匕きも鮮やかな反論を自圚に展開しおみせた。

ずきには懇願の䜙りの急ぎ足ず思われる信之の文面の䞀郚を逆手にずっお、

――蚀うに事欠いお、ずはたさにこのこずでございたす。母芪は぀いお来ずずも子どもだけ枡しおくれればいいずは、いったい党䜓、䜕たる無瀌な蚀い草でしょうか。

ず本気で憀っおみせたりしおいる。

 頻繁な埀埩曞状は突劂䞭断するので、、「わもし」なる孫のその埌は䞍明なのだが  。


そしお――

それから十数幎を経た寛氞八幎䞀六䞉䞀のこず。

どうした因瞁であろうか、六十四歳で没したお通の葬儀で再䌚したず思われる真田信政ずお䌏の仲は再び深たり、たたしおも信政の子を身籠った䞉十二歳のお䌏は、今回もたた京での出産を遞択し、同十䞀幎䞀六䞉四に生たれた男子には信就の名前が䞎えられおいる。

䞀方、沌田城でも倉転があった。

京で信就が誕生した幎、沌田真田家二代藩䞻信吉が逝去したので、信吉の長男熊之助が䞉代藩䞻を継いだが、䞍幞なこずにその熊之助も間もなく死亡したので、信吉の匟信政が四代藩䞻に就いおいる。

信政の正宀は䞊野䌊勢厎城䞻皲垣重綱の嚘で、どういう事情かのちに離瞁しおいるが、この圓時、京のお䌏・信就母子の生掻に別段の倉化はなかったようである。

 しかし、信就が八歳になったずき、だれもが驚愕する事件が発生する。

お䌏の出家である。


 雪が、雪が降っおいる。

 底冷えのする京の空から、千代玙を现かく裂いたような雪が  。

 愁いの母は子の手を匕き、

 さあ、出立するのですよ。

 はい、母䞊、䜕凊ぞ。

 遠い、遠いずころぞ。

 少幎は真っ盎ぐなたなざしで母を芋䞊げる。

 そしお、蚀う。

 参りたす、母䞊の行かれるずころ、䜕凊ぞでも。

 雪が、雪が母子の草鞋を濡らす。


ただひずりの埓者ずひずり息子の信就を連れお仏門に入ったお䌏は、宗鑑尌を名乗る。

お䌏・信就母子が俗䞖を捚おお䞉幎埌、信就の異母兄が異母匟を殺傷しお自死した。


 そしお、束代では――

老霢でありながら束代藩䞻の座にあり続けた真田信之にようやく幕府から隠居の蚱可が降りたのは明暊䞉幎䞀六五䞃䞃月のこずで、このずきすでに九十二歳の老爺になっおいた信之は䞀圓斎ず号し、嚘芋暹院ず共に束代城から䞀里ほど離れた柎村に䜏み始める。

束代真田家二代藩䞻には沌田真田家四代藩䞻信政が、たた沌田藩䞻には䞉代藩䞻熊之助の匟信利が就き、どちらの藩も萜ち着いたかに芋えたのも束の間、明暊四幎䞀六五八二月五日、束代藩䞻に就任埌わずか半幎で信政が急逝しおしたう。

しかも、匱冠二歳の六男右衛門䜐を埌継にせよずいう遺曞を残しおいたので、沌田藩䞻信利が「本来ならば祖父信之の長男信吉の嫡男である自分が束代藩を継ぐべきである」ず異を唱えた。信利の背埌には匷倧な暩勢を誇る埳川幕府の老䞭酒井忠枅がいた。

隠居した信之もこの盞続争いに巻き蟌たれ、玛糟の末、二歳の右衛門䜐が䞉代束代藩䞻になるこずが決定し、それから二か月埌の十月十䞃日、巚朚が枯れるような最期を迎えた。

劻の小束姫の倍近くも生き氞らえ、享幎九十䞉の倧埀生であった。

二日埌、長幎の重臣で芪友でもあった鈎朚右近忠重が殉死する。享幎䞃十五。

 䞇治䞉幎䞀六六〇、剃髪しお信之の菩提を匔っおいた右京が京で没した。享幎八十。

 信之の寵愛をいいこずに藩政の人事にたで口を出すなどずかくの颚評があったが、老いおなおそちらの方面には盛んな信之が女䞭を身籠らせたずきは、埌継の犍根を残さぬよう、生たれた赀子を飯山城䞻に預ける手配をしたのもこの右近だったそうな。


そしお、この頃、圓代の真田家の䞀郚始終を芋おきたお了も没した。

小束姫が呜を賭けお守り通した真田家の有為転倉を案じながら  。

話が前埌しお恐瞮だが、人知れず案じおくださっおいたであろう心やさしき読者のみなさたには、お了が生涯心を寄せ通した鈎朚右近は、束代で遥か幎䞋の劻を嚶っおいたこずをお䌝えしおおかねばなるたい。

――でも、心からお慕いする姫さたに生涯寄り添い遂げられたわたしは、無䞊の幞せ者にござりたす。ですから、いたもほら、こんなに心も軜やかに吹いおおられるのです  。

そんなこずを呟く颚がいたも、沌田、䞊田、鎻巣の倧蓮院の墓を守っおいるらしい。


䞀方――

母お䌏に連れられお仏門に入り「葉身」を号した信就が䞉倧将軍埳川家光に拝謁したのは十四歳のずきで、ある䞀件により勘気を被るが、寛文五幎䞀六六五䞃月に蚱され、二千俵を賜っお束代で勘解由かげゆ家を名乗り、元犄䞃幎䞀六䞃九䞃月、家督を子の信方に譲っおいる。

「砎笠」を号したお䌏も晩幎は束代にあっお琎を教えたが、同幎十二月没。享幎八十䞀。

元犄八幎䞀六九五勘解由家初代信就没。享幎六十䞀。


河童の閑話䌑題――

珟圚の束代城址は北信濃の広やかな空の䞋にのびやかな城跡が展開し、鬱蒌たる暹朚に囲たれお歎史情趣ゆたかな沌田城址ずは奜察照を成しおいる。

二の䞞南門から入るず、内堀を隔おお倪錓門があり、橋を枡っお門をくぐるず、広倧な本䞞跡に至る。東䞍明門から橋を枡るず二の䞞で、北䞍明門の向かいには癟間堀跡がある。

案内板により、海接城・埅城・束城・束代城ず呌称の倉遷をたどるこずができる。

それぞれの時代の城䞻は、海接城が銙坂匟正虎綱、銙坂信達、森長可、村䞊景囜、䞊城宜順、須田満芪、倪門蔵入地、田䞞盎昌、埅城時代が森忠政、束城時代が束平忠茝、花井矩雄、束平忠昌、酒井忠勝、真田信之、真田信政、束代城時代が真田幞道、真田信匘、真田信安、真田幞匘、真田幞専、真田幞貫、真田幞教、真田幞民ずなっおおり、信之が転封になったずきは束城ず呌ばれおいたこずがわかる。


たた䞀方――

束代十䞇石を継ぐこず適わなかった惜しさから、

「うぬ、そういうこずならこっちにも考えがある」

ずばかりに功を焊ったものか、老䞭酒井忠枅の嚁勢を借りた沌田真田家五代藩䞻信利は、寛文元幎䞀六六䞀から翌幎にかけお利根・吟劻・勢倚䞉郡䞀䞃䞃か村の怜地を匷行し、埓来の䞉䞇石を䞀気に十四䞇四千石に改めるずいう荒業を断行した。

そのうえ、さらに川圹、山手圹、井戞圹、窓圹、産毛圹などの新たな雑圹を次々に課し、取り立おず凊眰はいずれも過酷を極めたので、領民の忍耐は぀いに限床に達する。

抵抗の先頭に立ったのが月倜野村の癟姓茂巊衛門で、たず老䞭酒井忠枅に駕籠蚎を詊みたが果たせなかったので、䞀蚈を案じ、五代将軍埳川綱吉のもずに盎接蚎状を届け出た。  

裁定の結果、「䞡囜橋埡甚朚の儀に぀き䞍埒なる仕方」䞊びに「日頃其方行跡悪敷家来䞊びに癟姓困窮の趣重々䞍届至極」により、倩和元幎䞀六八䞀十䞀月、沌田藩は改易を申し付けられる。䞀時、信濃囜に朜䌏しおいた茂巊衛門は月倜野にもどったずころを捉えられ、貞享䞉幎䞀六八六十䞀月五日、利根川の河原で磔に、その劻は打ち銖になった。


 


 ☆河童の゚ピロヌグ


真田家を巡るいにしえの物語の最埌は、冒頭でプロロヌグを述べさせおいただいた沌田の河童倧将こず吹割之䞞の劻、䞍肖わたし鱒飛之媛が締めさせおいただくこずにする。

われら倫婊による拙い語りが圓時特有の時代様盞、そしお、それずは察照的に普遍的な人間の心暡様の綟を倚少なりずもお䌝えするこずができたずしたらたこずに幞いである。


ずころで――

平成二十六幎二〇䞀四十月十䞀日、倧型台颚接近の報をよそに倩晎れ爜やかに晎れ䞊がった秋空のもず、愛甚の氎色のボックス車で信濃囜束本から䞊野囜沌田城址の探玢に蚪れたのは、ほかならぬこの拙い小説の䜜者だったようである。

未明に発ち、午前䞃時ゞャスト、埡殿桜で有名な城跡公園の駐車堎に到着したはいいが、

「芋枡したずころ、城址らしきものも案内板も芋圓たらないようだが、この時間では芳光案内所も開いおいないだろうし、はおさお、どこをどう巡ったらよいやら、困った  」

途方に暮れおいたずころにやっお来たのが同幎茩の女性二人連れだった。

「ええ、ここが沌田城址ですよ。よかったらわたしたちず䞀緒に歩きたせんか」

ずいうわけで飛び入りで仲間に入れおいただき、䞈高い暹朚が鬱蒌ず生い茂る森に足を進めるず、お二人ずも郷土の歎史に極めお造詣が深くおいらっしゃるこずに驚かされる。

信濃の城址のように珟代颚に敎備されおいないのが未知なる歎史ぞのむマゞネヌションを掻き立おる河岞段䞘䞊の史跡ごずに立ち止たっおは懇切な解説をしおくださり、

「䜕が正しく䜕が間違っおいたのか、その圓座はわからないのが歎史ではないでしょうか。真田信利の改易の件も、ずきが過ぎおみれば結局は幕府の倖様぀ぶしだったんですよね」

など地元䜏民ならではの人肌史芳たで熱く語っおくださったうえ、

「気候颚土も人情も束本によく䌌おいるこの沌田を奜きになっお垰っおくださいね」

ず笑顔で去っお行かれた女性たちはひょっずしお正芚寺で眠る小束姫ず、その墓を守り続けるお了の生たれ倉わりであったやも知れぬ。䜜者は半ば本気でそう信じおいるらしい。

                                   (了)


参考文献

『真田氏史料集』䞊田垂立博物通 䞀九八䞉幎

『䞊田城䞋町』䞊田垂立博物通 䞀九九〇幎

『真田䞉代ず信州䞊田』週刊䞊田新聞瀟 二〇〇䞃幎

『真田家の名宝』長野垂教育委員䌚束代藩文化斜蚭管理事務所 二〇〇䞀幎

『真田家の衣服』長野垂教育委員䌚文化財課束代文化斜蚭等管理事務所 二〇䞀〇幎

『真田家の科孊技術』長野垂束代文化財等管理事務所 二〇〇五幎

『お殿様、お姫様の江戞暮らし』長野垂教育委員䌚文化財課束代文化斜蚭等管理事務所 二〇〇九幎

『真田宝物通ぞの招埅』束代文化財ボランティアの䌚線著 二〇〇䞉幎

笠原ひさ子『小野家の女たち 小町ずお通』翰林曞房 二〇〇䞀幎

江埌迪子『倧名の暮らしず食』同成瀟 二〇〇二幎

青朚歳幞『シリヌズ藩物語 䞊田藩』珟代曞通 二〇䞀䞀幎

田䞭博文『シリヌズ藩物語 束代藩』珟代曞通 二〇䞀二幎

田䞭薫『シリヌズ藩物語 束本藩』珟代曞通 二〇〇䞃幎

小林䞀哉『家康、真骚頂』平凡瀟 二〇䞀四幎

小沢詠矎子『江戞時代の暮らし方』実業之日本瀟 二〇䞀䞉幎

歎史の謎を探る䌚線『江戞の暮らしの春倏秋冬』河出曞房新瀟 二〇〇六幎

池波正倪郎『真田倪平蚘』新朮瀟 䞀九八䞃幎

池波正倪郎『獅子』䞭公文庫 䞀九䞃五幎

ほかにむンタヌネット情報も参考にしおいたす。なお、お了は実圚の人物はありたせん。


出兞 䞊月くる著『倧蓮院小束姫――真田家の守護神』二〇䞀六幎 郷土出版瀟


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