世界一幸福な不幸、あるいは世界一不幸な幸福

吉野奈津希(えのき)

世界一の幸福な不幸、あるいは世界一不幸な幸福

 部屋にはエーテルが満ちている。

 本来であれば私たち魔法使いにとってみれば温かみすら感じる部屋なのに、私には冷たく、全てから隔絶された場所に思える。彼女の、工房。

 私は向かいに立つもう一人の魔法使いを見る。


 あの日と変わらぬ少女の姿。私のかつての学友。現在の、怨敵。


 彼女が滅ぼす世界を私は救わなくてはいけない。使命感でも、義務でもない。ただの私の感傷。

 彼女は無邪気に笑っている。私の姿を見て、私との再会を心から喜んでいるような顔。柔らかな目元、流れるような整った鼻、私にはない可愛さを宿した唇。

 魔力による操作だけではない、天性の少女性をまとった彼女はあの時から何も変わらない。


「どうして」


 私は声を絞り出す。


「どうしてそんな薬なんか配ったの?」


 私の声を聞いて彼女は「何を言っているのかわからない」みたいな表情をする。彼女が私の怒りも悲しみも、懇願も理解してくれていないことを痛感して、私の心が波打ち、より感情的になる。

 彼女が配った薬は幸福の薬。飲んだ人を幸福にする、ただそれだけの薬。世界を一変させてしまう薬。


△△△


 彼女と私は同じ貧民街からの出身で、同じ名門魔法学校のあぶれた二人だった。私と彼女は年齢は一つ私が上だけど、特別入学で同じ学年。私も彼女も勉学だけで周囲の人間が家柄だとか血統だとかで入学したところに乗り込んでいったものだから視線や仕打ちは厳しいものだった。

 少しでも目を離したら教科書は無くなっていることが日常だったし、魔法の練習と称して泥水をかけられたり、髪の毛を炎であぶられたり、空中に浮かぶ箒から落とされて骨を折ったりした。

 私も彼女も味方はお互いだけで、教師も含めて他に味方なんて存在しなかった。


「ねえ、こんな世界なくなっちゃえばいいのにね」


 希望を抱いて入学したはずの私はあっという間に心が折れて、学校にいるだけで吐き気がするし、体が震えだすまでになっていた。


「私たちさ、どうしてこんな目にあっているんだろうね。だって私たち、魔力があるんだよ。なのに、私たちより魔力がない人たちに、こんなにも」


 こんなにも、何もできない。

 学力、魔力で入学したとはいえ魔法学校の家柄、血統重視は強く、私たちは高成績を納め続けないと居場所はなくて、それは危害に対して反撃をするということは学校の平和を脅かすということで。私たちに逃げ場なんてなかった。ただ耐え続けるか、世界を壊すしかなかった。


「ねえ、私調べたんだ。世界を壊せる魔法。全部、全部壊しちゃおうよ世界なんてさ。あの花瓶を頭にぶつけてきたやつの頭は花弁みたいに破裂させちゃってさ、泥水をかけてきたやつには泥水を飲ませてさ、教師は全員爆発させてさ、出来るよ、二人なら出来るよ」


 私は熱に浮かされたようにそう彼女に話す。

 それは愚かな現実逃避。私が持ちかけたのは学問として体系化されてない外法、といえば聞こえがいいけれど要するにゴシップ雑誌の魔法と称された何も起こらないまじないを私は信じていただけ。

 世界は不条理に満ちている。

 世界なんて壊せない。私たちにそんな力はない。


「ごめんね……変なこと言って、変だよね、私。なんかおかしくなっちゃったのかな。ゴシップ雑誌を見て、なんか出来る気がしちゃってさ。おかしいよね……なんなんだろうね……ただ、学校で笑って、楽しくやって……幸せになりたい、だけなのに……」


 世界は何も変わらない。

 私の瞳から涙が零れ落ちる。


「大丈夫です、大丈夫ですよ」


 彼女は話しながら涙を流す私を抱きしめてささやく。


「あなたはおかしくありません。おかしくないよ。私も、あなたもおかしくないよ。おかしいとしたら世界が狂ってしまっているんだよ。私たちは……幸せになれますよ、叶わないことなんて、ない」


 そうやって私を慰めて、彼女は涙も流さずに笑う。

 ただそうやって日々が過ぎて、時が流れていく中で、私は徐々に強くなっていく。嫌味には言葉巧みに言い返し、教師の目をかいくぐり復讐し、教師には作り笑顔で取り入った。

 数年が経つ頃には私たちは魔法学校の一番二番、あなたが首席で私が次席。

 周りが私に取り繕って話しかけだして、私は心の底で軽蔑しながら、でもその生活を徐々に好きになりだして。

 でも、彼女の心の歪みはゆっくり、でも確かに芽吹いていて。


△△△


 学校を卒業後、彼女は宮廷調合師になった。彼女は人の不調(もっともほとんど私の不調だが)を良く観察して対処を導き出すことが出来たし、彼女の繊細なエーテル使いはそれにピッタリだった。

 私は魔道図書館で魔導書を管理したり、別の国へ魔導書を届けたりする日々。

 それはつつがない日常で、地獄のような少女期を過ごした私たちにとってようやくつかんだ平和で、幸福な日々のはずだった。

 ある日、忙しい仕事の合間に久しぶりに会ってお茶をした時だった。


「ねえ、聞いてくださいよ、私最近頑張っているんです」

「どうしたの急に?」


 普段は自分の努力をひけらかしたりしない彼女の言葉に、少し楽しくなって聞く。


「新しい薬の研究をしててね、きっとみんなを幸せにできるんです。あなたのことだって凄く幸せにできて、そしたら私も幸せになれますよ」


 穏やかな笑顔で彼女は言う。私は、彼女が普段穏やかに笑うだけで、自らの快不快について話さない彼女が幸せについて志向してくれたことが嬉しくて喜んでしまう。

 それが、ああ、それが。あんなことになるなんて。


△△△


 彼女の薬は幸せになる薬。投薬された人が強制的に幸せになる薬。すべての感情が幸せに塗りつぶされるだけの薬。

 まずは身近な職場の顔見知りに、宮廷医師に、宮廷の人々に、民衆に。彼女は薬を配り、また薬の効果を味わった人々は薬を布教した。

 でも、それは人々から幸福以外を消す薬。

 それまでの友情も、恋も、愛もすべてが幸福に塗り替えられていく。

 明日の約束も、昨日の誓いも、未来への希望も、過去の後悔もすべてを喪失して幸せに人々は沈んでいく。口を開き、よだれを垂らし、焦点の合わぬ目で空中を見つめ、うわごとを言う人々。

それは皆が笑顔で、そしてまるで死を待つ家畜に見えた。


 その時の私は魔道書の配達もやっていて、国を離れていて戻ってきたら皆が心を失っていた。

 私は調べた。意識を失った人々に辛抱強く聞き、まだ幸福に落ちていない人々を探し、かすかな情報を集めた。

 ああ、彼女は無事だろうか。そう考えた。

 しかし、情報が集まり、情報という点がやがて私の推測を線で結ぶ。


「そうして」


 彼女が私を見て笑顔で言う。


「ここにやってきたんですね」


 こんな時なのに、彼女は穏やかで私とは正反対だ。怒りに震える私なんかとは。


「どうして、こんなことをしたの」


 私の言葉に彼女は不思議そうに首をかしげる。


「なんでって」


 まるで自然なことを、地面がなぜあるか、空がなぜ青いのか疑われたかのように。


「幸せになるためですよ?」


 彼女の笑顔は、とても歪に見えた。

 止めなくてはいけない。彼女を。こんなことを、やめさせないといけない。


「こんなの、幸せなわけがないじゃない。みんなただ快楽に溺れているだけで、こんなの」

「そんなことないんですよ。知ってます? 脳にはね、幸福を享受する部位があるんです」


 彼女は手に持った筆をくるくると回す。彼女は魔法の行使に杖は使わない。羽で出来たペンだけで彼女は大規模な魔法を容易に行使できる。それは私への牽制だ。


「私の魔力を混ぜ込んだ薬はね、その部位を刺激します。誰だって楽しい時に味わう快感を直接味わうだけ。過程が違うだけで。だからあの人たちはちゃんと幸せなんですよ」


 だから、と彼女は言う。


「私たちも幸せになりましょうよ」


 その言葉に、私は激昂し、杖を振るい走り出す。彼女を止めるために。彼女を、殺すために。


△△△


 波の音が聞こえる。海までなんてずいぶん遠くまで逃げたものだとズレたことを考える。

 このままだと追い付かれるだろうか。

 私は、何もできなかった。彼女との力量の差は歴然としていて、私の魔力はすべて弾かれて、辛うじて逃走しただけだった。

 自分の過剰な魔力の行使の影響で、私の体はズタズタで、息も絶え絶えだった。

 このまま、もしかしたら死ぬのかもしれない。

 私の体は、それぐらいダメになっていた。


「でも、それでも……いいかもしれない」


 あんな幸せを享受するくらいなら。


「ねえ、私ね。あなたに幸せになってほしかったんじゃないのかもしれない。ただ、幸せにしたかったんだよ」 


 そう、口内に血の味を感じながら、つぶやく。

 私の怒りの理由。それは人々に強制的な幸せが与えられたことでも、この国、そしてやがて世界が終わっていくことでもない。

 彼女に置いて行かれた。彼女の考えを理解出来ていなかった。彼女を違う道へ歩ませてしまった。彼女を歪ませてしまった。

 そんな、自分への怒り。


「ねえ、私、あなたのこと好きだったんだよ」


 そう声にする。どこかに届く気がした。

 この国だけじゃない。きっとこの世界は終わるだろう。彼女はその頭脳と魔力を持って、この狂った世界を優しく、幸福に終わらせる。そしてやがて彼女もその薬を持って幸福に包まれる。

 でも、私はそうじゃない。

 彼女を幸せに出来なかった悔い、罪。罰としての死。それを抱えて死んでいく。彼女の主でも、想いも、あり得た未来も、全部抱えたまま。

 彼女が世界で一番の幸福という不幸を抱えて生きていくなら。

 私は世界で一番の不幸という幸福を抱えて死んでいくのだ。

 私は、ゆっくりと瞳を閉じた。






「ねえ。ねえ、起きてくださいよ」


 一人、世界にたった一人の声が響く。しかしその声は波音にすぐかき消されていく。

 彼女は一人、愛した誰かの亡骸の前に立っている。


「私、あなたを幸せにしたかったんですよ。あなただけを。だから、私は」


 世界一幸福な不幸の死を遂げた誰かを見つめて、世界一不幸な幸福の生の中にいる彼女は手に持った小瓶を落としてしまう。

 幸福の薬が海へと流れ、世界へと広がっていく。<了>

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世界一幸福な不幸、あるいは世界一不幸な幸福 吉野奈津希(えのき) @enokiki003

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