雨の日さんぽ

瀬野砂月

雨の日さんぽ

 雨の音に目覚めると案の定、隣の温もりはなくなっていた。床に散らばった服を見とがめ、のっそりベッドから起き出し玄関の傘立てを確認すれば、彼お気に入りの青い傘と靴が消えている。

 有東昌宗うとうまさむねはまだ寝癖の残る髪をかき上げ、溜め息を溢した。

(またアイツは……)

 カーテンを開け光を室内に取り入れる。とはいえ、それほど明るくはない。いまだ空は灰色の雲に覆われていた。新しく取り入れられた空気は生ぬるい周囲を冷やしていく。

 昌宗は眉を寄せる。

 次の行動は決まっていた――



 公園の片隅に青い傘があった。子どもがさすにしては大きく、大人がさしているにしては高さが低い。遠目ではただ落ちているとも思える傘の下には、ひとりの青年がしゃがみこんでいた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……

 大きな水たまりに広がる幾つもの波紋を芦間琳あしまりんは無垢な瞳で見つめていた。機嫌を表わすように傘は上下に揺れ、時折くるりと回わる。

 起床後、雨が降っていることに気付いた琳は急いで着替えを済ませ、家を飛び出してきた。夏とはいえ朝の気温は高くない。おまけに雨が降っている今は、半袖では肌寒いくらいだ。しかし、琳はタンクトップから白くほどよく引きしまった腕をまったく気にせずさらしていた。

 何かに集中し出すと、他の一切が目に入らなくなる。琳のいいところでもあり、悪いところでもある。特に“外”では悪い面ばかりが顔を出す。

 人や物にぶつかるなんていうのは日常茶飯事。この間はうっかり車道に出て車にひかれそうになった。これには彼の恋人もキレて、正座させて何時間も説教したが、馬の耳に念仏だった。

「琳お前な~、俺がこの前なんて言ったか覚えてるか?」

 少しは周りを気にしろって言っただろう?

 怒りよりも呆れを強く含んだ声が琳の背にかかる。彼の反応は予想通りない。

 昌宗は小さく息を吐いて、琳の横に回り込み長身を屈め張り艶がいい頬をつまんだ。ビクッと肩が跳ねゆっくりと幼さの残る人形めいた冷たい顔が昌宗の方に向いた。

「あ……まさ…むね、おはよう」

 花が咲いたように琳は笑んだ。先ほどまでの冷たさが一瞬で払拭される。

「おう、おはよう。っていうか、おかえり」

 ほんのり皮肉をこめれば、琳は表情を曇らせ小さく「ごめん」と謝罪した。項垂れる頭を昌宗は撫でる。

「ん。どこも痛くないか?」

 伝わってくる温もりと優しさに心が締めつけられる。

 琳は頷いて肯定した。昌宗はほっと胸を撫で下ろすが、まだ彼の心配事は尽きない。

「そうか、ならいい。それより、お前寒くないか?」

 そんな格好で。

 昌宗の指摘に琳は首を傾げる。湿り気を帯びた冷えた風が吹いた。途端に体を這う寒気。ぶるりと震え琳はようやく気温のわりに自分が薄着だと気がついた。抱きしめた己の体がひどく冷たい。

 言葉より先に昌宗は琳の肩に持ってきていたパーカーをかけた。

「……ありがと」

 礼を言いそっと前を合せる。パーカーに残った昌宗の体温が温かい。きっと大切に持ってきてくれたのだろう。

 こんな時、本当に自分はダメだと痛感する。いつも何かに夢中になると、他のことがおろそかになる。

 今日だって起きて雨が降っていたから嬉しくなって、適当に着替えて出てきてしまった。少し考えれば、外が寒いとわかったはずなのに。

 いつになったら、自分は変われるのだろう。

「琳」

 昌宗に名前を呼ばれ、思考が断ち切れた。緩慢な動きで顔を上げると、

「少しずつ変わっていけばいい。俺は今のお前も好きだし」

 照れた笑いを浮かべる昌宗の顔はいくぶん幼く見える。

 可愛い。愛おしい。琳の胸の中で渦巻いていた闇が霧散していく。

「ありがと。俺も昌宗が好き」

 昌宗のすんなりした指が琳の赤く染まった頬を撫でる。普段なら冷たいと感じるそれが今は温かく心地いい。自然と瞼が落ちる。ふわりと優しく唇に何かが触れた。何かは確かめる必要はない。

「さ、帰ろうぜ」

 先に立っていた昌宗が手を差し出す。琳は迷わず手を取り立ち上がった。

 琳の青い傘と昌宗の黒い傘がぶつかり、水滴が散る。琳は今日はじめて雨を疎ましく思った。

「ねぇ、昌宗。そっち行っていい?」

「あ? あぁ……いや、待て俺がそっち行く」

 すぐに意味をくみ取った昌宗は琳の行動を制し、傘を閉じすばやく隣の傘へ滑りこんだ。そして、己の手に琳の傘をおさめる。

「俺が昌宗の方、行くって言ったのに」

「んなこと言っても、俺の傘じゃいくらお前が小柄でも厳しいだろ?」

 昌宗の言っていることは確かだった。だが、琳は子どものように唇を尖らせて拗ねた。昌宗は苦笑を洩らす。

「うちに帰ったら、なんでも言うこと聞いてやるから」

 柔らかい茶色い髪をかき混ぜる。あからさまな子ども扱いに琳はさらに機嫌を降下させたが、それも一瞬で

「なんでもって言ったのは、昌宗だからな」

 口角を上げて笑った。

「あ、あぁ」

 肯定にますます琳は上機嫌になる。

(一体、何させる気だ? コイツ……)

 昌宗はほんの少し自分の言葉を後悔した。

「帰ろう? 昌宗」

 無邪気な瞳が下から覗きこんできた。

 これから厄災をもたらすだろう相手でも、ひどく可愛らしく思えてしまうあたり、自分は終わっている。昌宗は内心、自嘲した。

「おぅ」

 同時に一歩を踏み出す。歩調は何も言わずとも合う。二人はたわいない会話をしながら、ゆっくり家路についた。



 その後、昌宗にもたらされたのは――

『今日、ずっとそばにいて』

『おぅ、喜んで』






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