宇宙の授業

すえのは

宇宙の授業

 家庭教師の先生は教え子の隣に座り、勉強机の上に広げた図鑑を指差して言った。

「ですから、夕日が沈んだ後には月が出るのです。夕日と月は別のものなのですよ」

 幼い教え子は若い先生の指差す図鑑を見た。そこには天体の動きを説明した図解が大きく描かれている。

「僕、夕日と月は同じものだと思っていました。丸く輝く大きなものなんて、この世に一つしかないと思っていたから」

 新しい知識を得た教え子は好奇心に目を輝かせながらも自分の思い違いに恥じらいを覚えてうっすら頬を赤く染めた。

「宇宙には坊っちゃんの想像を遥かに越える大きな星がたくさんあるのです。ほら、ここをご覧になってください」

 先生は太陽系の図解のページを開いた。見開きでページいっぱいに描かれた太陽系の真ん中には燃え盛る大きな太陽があり、その太陽の周りに、水金地火木土天海それぞれの円い軌道と惑星そのものの姿が描かれていた。白光りする惑星の軌道に囲まれて、太陽は帝王のように太陽系に君臨している。先生はその太陽を指差した。

「これが太陽です。昼間、私達の頭上に輝き、夕方になると赤く染まって夕日になる、あの太陽です」

 今度は地球のそばを回っている月を指差した。

「こちらが地球の衛星、月です。地球の周りを回っています。月と夕日は全く別のものなのですよ。距離もこんなに離れている」

 教え子は先生の方へちょっと頭を傾けながら講義を聞く。そして、話を会得すると先生の顔を見上げた。

「僕、そんなこと初めて知りました。太陽は夜になると『月』という名前になるのだと思っていました」

「昼間は太陽という名前、夕方は夕日という名前、夜は月という名前。そういうふうに、時間の経過と共に名前が変わると思っていらしたのですね」

「はい、そうです」

 先生は滅多に崩さない表情をふっと緩めた。

「坊っちゃんらしい、とても素敵な発想ですね」

「でも、僕の考えは間違っていたのですよね」

 教え子は恥ずかしそうに笑う。先生は緩めた表情をまたすぐにきゅっと引き締めて優しい声で言った。

「確かに事実とは異なります。ですが、己の感じるまま素直に想像をするということは、とても大切なことです。大人になると知識が付く一方で想像力は失われていきます。何か大切なものを失くしたような、とても寂しい気持ちになるのです」

 まだ幼い教え子は、若葉のような瑞々しい目を先生に向けて話を聞いた。ただ闇雲に受け取るのではなく、その話が良い話なのか悪い話なのかすぐに判断し、悪いものの言葉には決して騙されず、己の正義を信じる。――大人になった先生がとうの昔に忘れてしまったそんな清廉さが、教え子の心には宿っていた。先生はまた図鑑を捲った。

「坊っちゃんは夜空の星の大きさをご存知ですか?」

 先生に訊ねられ、教え子は右手の人差し指と親指で、少し隙間の空いた輪っかを作った。

「僕の目にはこれくらいに見えます」

 先生はうなずいた。

「私の目にも同じような大きさに見えています。ですが、本当の大きさはそうではないのです」

 図鑑には色々な星の絵が載っていた。先生はその一つ一つを指差しながら、順番に説明していく。

「まずは月です。地球の衛星ですから、大きさは地球の四分の一しかありません。次は太陽です。太陽系の支配者ですからとても大きいです。地球の百九倍もの半径を持っています。次は木星。太陽系の中で最も大きな惑星で、地球の十倍の半径を持っています。そしてこれが、はくちょう座V1489星という星です。太陽の千六五十倍もの直径を持つ、信じられないほど大きな恒星です」

 聞いたことのない言葉の数々に教え子は困った顔をして首を振った。

「僕には、よく分からないです」

「なかなか想像しづらいでしょう。とにかく私達が見ている豆粒のように小さな星は、本当はものすごく大きなものなのです。では、どうしてそんなに大きなものが、私達の目には小さく見えるのでしょう」

 教え子はまたも困り果てて力なく首を振る。

「僕、そんなこと考えたこともないです」

「そうですね。私も坊っちゃんくらいの頃は何も分かりませんでした。星の大きさも宇宙の広さも想像したことがなかった。色々なことを知ったのは、大人になってからです」

 教え子は先生の顔を見上げて訊ねた。

「僕も大人になったら先生のように物知りになれますか?」

「坊っちゃんはもうすでに私より物知りですよ。小さい頃の私は何も知らなかった。あなたは人の話をよくお聞きになるし、好奇心旺盛でお勉強も熱心になさる。大人になったら立派な仕事をして、私達みんなを幸せな将来へと導いてくださることでしょう。私はあなたの将来を見届けるのが楽しみでなりません」

「僕、そんな立派な人になれるでしょうか」

「もちろんです。私は坊っちゃんのことを信じます」

 先生はまたページを捲った。

「宇宙は生きています。私達と同じように生きて、坊っちゃんと同じように、今も成長を続けています。あまりに広いので、誰も宇宙の本当の大きさを知りません。無限に広がる宇宙の中に、星々は浮かんでいます。船の上から遠くの島を見たとき、その島が豆粒のように小さく見えるように、大きな星も、地球からあまりに離れた場所にあるので、豆粒のように小さく見えるのです。私達の頭上には、いつでも宇宙が広がっているのです」

「宇宙って、凄いんですね」

 教え子はそう言いながらどこか疲れた気色を浮かべて小さく溜め息を吐いた。先生はそれを見逃さない。

「坊っちゃん、少し休憩しましょう。ほら、おばあさまの入れてくださったお茶も冷めてしまいます」

「ありがとうございます。僕が注ぎますね」

 教え子は勉強机の椅子から立ち上がり、センターテーブルに置かれた二つのカップにお茶を注ぎ始めた。まだ幼いけれどたどたどしい様子はなく、子供らしいふっくらした手で上手にポットを繰ってカップにお茶を注ぐ。本当なら大人の先生がやるべきなのだろうけれども、この聡明な教え子はちょっと背伸びをした大人らしい振る舞いを先生に見てもらいたい気持ちがあるようで、先生が手を出そうとしても「ぜひ僕にやらせてください」と頑なだった。先生はセンターテーブルの方へ体を向けて教え子の所作を見守るだけである。ポットから注がれたお茶はまだ温かく湯気が立っていた。

「先生、どうぞこちらにいらしてください」

 一滴も零さず綺麗にお茶を入れ終えた教え子は先生をセンターテーブルに招いた。

「ありがとう、坊っちゃん」

 二人はセンターテーブルのソファーに向かい合って座り、赤く輝くお茶を飲んだ。勉強を離れた二人はほんの少しだけ生身の個人に帰る。お茶を飲むという何気ない姿もただ勉強をしているだけでは見られないものであって、その人がどんな所作でカップを操りお茶を飲むのか、それを見るだけでその人の人柄を窺うことができる。教え子は勉強の時には見られない先生のそうした姿を見るのが好きだった。今しがた宇宙のことを教えてくれた先生が、今は自分の入れたお茶を飲んでいる。カップを鳴らすわけでもなく、啜る音を立てるわけでもなく、品良く折り目正しく静かに密やかにお茶を味わう。

「美味しいですね、坊ちゃん」

 先生は唇の端にだけ優しい微笑みを浮かべて言った。

「はい」

 と、教え子は嬉しそうに頷く。

「後でおばあさまにお礼を言いましょう」

 教え子はお茶を飲みながら再度頷く。

「宇宙の話は少し難しいでしょう」

「はい。僕の知らないことばかりです」

「ですけれども、宇宙には神秘が溢れています」

 先生は窓から見える夜空に目を向けた。

「月だって、常に表側を地球に向けて回っています。私達は月の裏側のことをほとんど知りません。大事なものを隠すように、今日も月は表側を向けて、笑うように光っています」

 教え子はカップを置いて窓辺に歩み寄り、月を見上げた。満月に近い、大きな月だった。

「宇宙も星も私達人間と何ら変わりありません。私達がいつか死んでしまうように、宇宙も星も、いつかは果ててしまいます。私達が隠し事をするように、宇宙も星も、たくさんの隠し事をしています。私達は内緒話をするように、その隠し事を知識として分け与えてもらっているのです。本当に勉強をした人にしか、秘密は分けてもらえないのです」

 教え子は窓硝子に掌を付けた。

「宇宙は僕に秘密を分けてくれるでしょうか」

 先生は頷いた。

「もちろんです。あなたは優しく聡明です。宇宙は心を開いてくれます。何でも語って聞かせてくれますよ」

 教え子は好奇心に輝く瞳を夜空に向けた。

「そうだったらいいな」

 そう呟きながら、宇宙の語る隠し事とはどんなものなのだろうと思った。

 先生はお茶を飲み終わりセンターテーブルのソファーからすらりと立ち上がった。

「それでは坊っちゃん、もう少しだけ、宇宙の話を続けましょうか」

「はい」

 授業の時間はまだほんの少しだけ残っている。教え子は勉強机の椅子に座り直し、先生の指差す図鑑を食い入るように見つめた。尊敬する先生の声が、教え子の耳に心地良く流れていった。



(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

宇宙の授業 すえのは @suetenata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ