第二十二話
母親から受け継いだ真珠のネックレスをつけ、ニーナは鏡の前に立った。
いつもかけている眼鏡を外し、化粧を施した自分の顔はひどく強張っている。笑みを浮かべてみようと試みるが、どうにもぎこちない。今から夜会に臨もうとしているのだから、仕方がないといえば仕方がないのだが。
夜会のために、ヒルダに仕立ててもらったシルバーグレーのドレス。膨らみを持たせず、ストレートなラインはとてもスッキリして見える。袖と裾には黒のレースがあしらわれ、胸元はVの形に大胆にカット。胸元には花のコサージュが一つ。
ドレスは誰が見ても綺麗なのだが、果たして自分が着こなせているのかどうか。
ヒルダは自信を持てと言ってくれたものの、やはり不安だ。
だが、時間は待ってくれない。そろそろ出発の時間だ。窓に視線を向ければ、日が沈みかけている。ニーナは己を奮い立たせるように頬を両手で軽く叩くと、一階へ下りていった。
「支度はできたか」
レクセルはすでに身支度を終えてソファに座り、新聞に目を通していた。髪を掻き上げているため、綺麗な額が露わになっている。また黒のテールコートに身を包んでおり、普段以上に魅力的だ。
「お待たせしました」
ニーナはレクセルの元へおずおずと足を進める。レクセルの視線が、新聞からニーナへと向けられた。妙に気恥ずかしくて、ニーナはドレスの胸元を握りしめ、足元に視線を落とす。
「ど、どうでしょうか。おかしなところはないでしょうか」
二人の間に沈黙が降りた。レクセルの視線を感じるものの何も言ってくれないので、ニーナは顔を上げ辛い。するとレクセルが、深く、長い溜め息をついた。
「やっぱり似合ってませんか……」
がっくりと肩を落としたニーナに、レクセルは「いや、そういう意味じゃない」と悩まし気に、唸るように言った。
「じゃあ、どういう意味ですか」
「だから……似合ってる」
「なら、どうして溜め息をつくんですか」
「察しろ」
「分かりません」
するとレクセルは新聞を置いて立ち上がり、ニーナにくるりと背を向けた。
「予想以上の仕上がりだから、会場で気が抜けないと思っただけだ。……本当に綺麗だから、今夜くらい堂々としてろ」
レクセルの言葉にニーナは数回瞬きした。そして意味を理解し、赤く染まる顔を両手で隠す。
「あ……ありがとうございます」
礼を告げると、レクセルは背を向けたまま、どこか照れくさそうに項を掻いた。
そして二人は、会場へと向かう。
てっきり車で会場まで向かうのかと思っていたら、今夜は迎えの箱馬車がやってきた。レクセルがとても嫌そうな顔をしていたので、その理由を尋ねたところ、いつぞやと同じように「こんなのは乗り物じゃないから」と返された。どうにも幼少期に馬を嫌う出来事があったようだ。詳しくは教えてくれなかったが。
「ほら、着いたぞ」
現地に到着すると、レクセルが先に箱馬車から降り立ち、ニーナに手を差し伸べてくれる。ニーナは緊張した面持ちで頷くと、レクセルの手を取った。
馬車のステップから降りれば、今夜の会場となる白亜の屋敷が出迎えてくれた。二階建ての、荘厳で優美な石造りの建物だ。屋敷に入っていく華やかな人々を見つめながら、レクセルは口を開く。
「いいか。これから会う中には、いい奴もいれば、俺を敵視してる奴らもいる。それに今夜は本家――ベック家の奴らがやってくる。絶対におまえを見に絡んでくる、気をつけろ」
「ベック家」
「サミュエル・ベックの嫁、マリー。その息子の嫁、リンダ。家督を継いでいるのが、リンダの弟、ライナー・ウルバン」
「……旦那様以外に、直系の方はおられないのですね」
「それが、あの家族の一番ややこしいところだ。……あいつら、あんたのことも調べてるはずだ。おそらく攻撃的な言動しかしてこない」
ニーナは瞼を伏せた。家庭教師の職を失った際、周囲から罵られ、陰口を叩かれ続けたことを思い出す。
「大丈夫ですよ。そういうことには、ある程度慣れていますから」
安心させるように微笑むと、レクセルは鼻梁のあたりに皺を寄せた。
「ただ、旦那様の評判に傷をつけることになるかもしれません」
「そんなことはどうでもいい。俺の評判なんて、産まれた時からいいものじゃないからな」
「旦那様、それは――」
「でも、俺らは俺らだ。罵詈雑言なんて、鬱陶しい蠅が飛んでるな、くらいに思ってろ。周りが何を言ってこようとも、あんたに対する信頼は揺らがない」
レクセルの顔を見上げれば、彼は真っすぐな視線をニーナに向けていた。どこまでも澄み渡る青空のような、レクセルの双眸。出会った当初は気の無い態度であったのに、幾分変わったように思う。それは、ニーナにおいても言えることだが。
(信頼、か)
今までは一人で立つしかなかった。けれどこうして、自分を認めてくれる誰かが傍にいてくれるとは、こんなにも心強いものなのか。
けれど間違えてはいけない。あくまでレクセルとは仮初めの結婚だ。越えてはいけない一線がある。越えてしまえば、後々辛くなるのは自分自身だ。
ふとした瞬間に揺らぎそうになる弱い心を叱咤し、「ありがとうございます」とニーナは瞼を伏せた。
屋敷の中へ足を踏み入れたニーナは、飛び込んできた光景に息を呑んでいた。
大広間の高い天井中央には、眩いばかりのシャンデリア。その光を受けて輝く、白と黒の大理石の床。壁にずらりと飾られている絵画に、洗練された調度品の数々。そして、そこに集まっている華やかな人々。
「こんばんは、ニーナ」
驚いて固まっているニーナの背に、落ち着きを払った声がかけられた。振り向けば、そこにはクルキ夫妻が立っていた。
「ポールさん、エリーゼさん、ご無沙汰しております。お二人も参加されていたのですね」
「小僧が参加するっていうからな。本家の奴らに苛められて泣くところを見に来た」
「悪趣味だな。田舎に引っ込んでればいいものを」
「もう、あなたったら。心配だから見に来たって言えばいいじゃない」
「こいつの心配なんかしとらん!」
「あんたに心配されるほど落ちぶれちゃいない」
顔を合わせれば言い合いを始める二人に、ニーナとエリーゼは困ったように顔を見合わせた。
「二人は放っておきましょう。それよりニーナ、今日はとっても綺麗ね。それに素敵なドレス。とても似合ってる。一体どこで仕立てたの?」
「ありがとうございます。友人が仕立屋をしているので、お願いしたんです」
「まぁ、そうなの。後で詳しく教えてほしいわ。今から挨拶周りに行かなきゃいけないから」
「はい」
「ほら、あなた。挨拶を済ませにいくわよ」
「待てエリーゼ、まだこいつへの説教が――」
「我が儘言ってないでさっさとしてちょうだい」
まだまだ何か言いたげな顔をしながら、エリーゼに引っ張られていくポール。ニーナは苦笑しながら見送るしかない。
「お二人とも、相変わらずお元気そうですね」
「人を揶揄うのがあの爺の生きがいだからな」
「愛情の裏返しだと思いますよ」
「ふん、どうだか」
鼻を鳴らして両腕を組むレクセルが可愛らしくて、ニーナはくすりと微笑む。
「おい、今笑ったな」
「旦那様が可愛いと思いまして」
「はぁ? 言ってくれるな、あんたも」
「ふふ。でも、おかげで少しは緊張が解れました」
「あっそ。……ほら、俺らもいくぞ」
「はい」
差し出されたレクセルの腕に手を乗せ、主催者の元へ挨拶しにいくべく、二人は揃って歩き出した。
二人の心をかき乱す、パーティーの始まりだとも知らずに。
いつか、七色の空を君に 深海亮 @Koikoi_sarasa
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