第三章
第二十一話
潮の香りは嫌いだ。その香りに誘われて、真っ暗な闇へ、海の底へと引きずり込まれていくような。大切な記憶が泡沫となって、消えていくような感覚を覚えるから。
一人の若い男が、海を睨むようにして甲板に立っていた。金色の髪が潮風になびく。
彼の手には、ひどく傷んだ本が握りしめられていた。紙は水に濡れたのかひどく皺くちゃだ。
彼は、本の最後のページを開いた。そのページは半分破けているが、残った部分に手書きのメッセージが書かれていた。黒のインクはひどく滲んでいるが「待っています」と、そのひと言。誰からのメッセージなのか分からない。でも、続けてサインが書かれていたと思う。大切な、誰かからの。といっても、その記憶は全くあてにならないのだが。
なにせ、自分には記憶がない。
「やっぱり、気分が悪いんじゃないの? イザナ」
背後からかけられた声に、イザナは振り返った。
「そんなことはないよ、メイ」
イザナは本を閉じて、声をかけてきたメイを安心させるように微笑む。メイは、海難事故で死に瀕していたイザナを助けてくれた女性だ。メイと、その家族には感謝してもしきれない。体調が回復してからも、名前も、身元も分からない自分の面倒を見てくれたのだから。このイザナという名前も、彼女たち家族がつけてくれた。
バルハの国の人々は穏やかで親切だ。南国という風土がそうさせるのかもしれない。時間がゆっくりと流れているような感覚を覚える。人々は陽気で、よく集い、歌い、踊り、のんびりと日々を過ごしている。
かれこれバルハで三年は過ごしただろうか。元々自分は語学に堪能だったようで、西大陸のエルシャ語、南の島国のバルハ語、東大陸のカーラ語の三つは自由に使いこなせた。なので、バルハでの生活にはさほど困らなかった。
――自分に関する記憶が一切ない点を除けば。
自分が助けられた時に持っていたのは、この本のみ。身元を証明するものは何もなかった。
「お主ら、いつ結婚するんじゃ?」
すると、二人を揶揄うように一人の女性が登場した。メイと同じく、褐色の肌の女性である。
「カリア様! またお一人でフラフラと!」
メイは目尻を吊り上げ、カリアの元へ駆け寄った。カリアはバルハの皇族で、次期女王だ。今回、エルシャの最新技術を視察するために、バルハの技術者らと共にやってきた変わり者である。
「お主はいつも小うるさいの」
「小うるさくさせてるのはカリア様のせいですっ」
「ならば構わなければ良い」
「わたしは侍女なんです! 目を光らせて構うのが仕事なんですっ」
「だがお主が今、一番心配しておるのはイザナのことだろうに」
「そっ、それは!」
全てお見通しと言わんばかりの目を向けられ、メイは顔を真っ赤にさせた。
「なあに、構わん。イザナは海を見れば頭痛に襲われ、今まで海に出られんかったんじゃ。心配になるのはわらわも同じよ。イザナは、わらわの通訳でもあるんじゃからの」
イザナはカリアに頭を深く下げた。
メイの一族は代々皇族に仕えてきた。その縁もあって、カリアは興味本位で身元不明のイザナを通訳に抜擢しようとした。働かざる者食うべからず、と言って。
だが前代未聞だと周囲が騒いだので、彼女はイザナに試験を受けさせた。幸いなことに満点で試験を合格したので、彼女は「抜きんでた能力がある者を登用しない理由がどこにある」と最終的に周囲を黙らせた。といっても、メイの一族が後見についてくれたことも、周囲を黙らせた要因の一つであるだろう。
だが働くうえで問題が出てきた。他国の賓客をバルハでもてなすことに何の問題もなかった。だが他国へ出向くことが、イザナには出来なかった。つまるところ、船に乗れなかったのである。
海難事故のショックのためか、船に乗ればめまいに襲われ吐くこともあったし、海を眺めているだけで頭痛が起きていた。だが訓練し続け、ようやく乗船できるようになったのだ。
「申し訳ありません、ご心配をおかけして」
「お主は無事、エルシャに着いたら仕事をしてくれれば良い。そして自分を探せ。メイのためにもな」
メイはイザナの目を見つめると、彼の手をそっと握った。イザナは小さく頷き、小さな手を握り返す。
メイのことが好きだ。いつも側で、自分を見守ってくれた。メイと出会えなければ今の自分はない。自分が誰なのかも分からない恐怖の中で、彼女は自分にとって光だった。大丈夫、大丈夫、と側で温かく支えてくれた。
今は分からなくとも、きっと思い出すよ。そう信じよう、と言って。
でも彼女を想えば想うほどに、どうしてかひどく悲しくなる。素直にその手を握れない。自分には、忘れてはいけない約束があるようで。
――待っています。
あの美しい文字、あの言葉。とても愛おしくて、切なくて、胸が締め付けられる。
自分には妻や恋人がいたのだろうか。それとも、あの言葉は両親か友人が書いてくれたものなのだろうか。
本のタイトルは、七色の空。エルシャで出版された本。
それが自分に残された、唯一の手掛かりだ。
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