第二十話
ヒルダの店を後にしたニーナとレクセルは、ヒルダが紹介してくれた靴店と鞄店を訪れた。それぞれの店で靴と鞄を注文し終え、ひとまず夜会に必要な最低限なものは揃えられた。
「他になにか必要なものはないか。アクセサリーとか」
「あ、それは大丈夫です。真珠のネックレスなら、両親から頂いたものがありますので」
「そうか」
「はい。なので、もう十分です。ありがとうございます」
「別に、礼を言われることじゃない」
日傘をさしながら、ニーナはレクセルと並んで歩く。こうやって二人、並んで街中を歩くことは、クルキ夫妻を訪ねて以来だ。
晴れ渡った空からは、初夏の明るい日差しが降り注いでいる。心地よい日差しを歓迎するかのように、ベンチに座り青空を見上げている人たちもいる。
木々の枝葉は鮮やかな緑色に彩られ、頬を撫でていくそよ風も気持ちよい。
ニーナは日傘をほんの少しずらして、ちらりとレクセルの横顔を盗み見る。
前を見据える空色の目は、相変わらず冷え冷えとしている。けれどいつの間にか、ニーナはレクセルに対して緊張を抱かなくなっている。
お礼を述べれば、彼はよく「別に」という言葉をよく使う。普通なら、可愛くもないそっけない言葉。けれどどうしてか彼が口にすると、照れ隠しをしているように思えるのだ。
「おい、人の顔に何かついてるか」
「あ、いえ。何もありません」
じろりと睨まれ、ニーナは慌てて視線を逸らす。
「他にどこか、寄りたい所はあるか」
「ええと。市場に寄って、野菜を買って帰りたいです」
そう答えれば、レクセルは呆れたような目を向けてきた。
「じゃなくて……。ほら、女なら雑貨屋とか覗きたくなるんじゃないのか」
「旦那様が服に靴、鞄まで買ってくださいました。これ以上は特に何も」
「……あっそ」
そっぽを向いたレクセルに首を傾げてから、ニーナは気づいた。
(もしかして、気遣ってくれてるのかしら)
ニーナの口端に小さな笑みが自然と浮かんだが、過去にレクセルが付き合っていたダリアをはじめとした女性たちの影が見えて、笑みは複雑なものへと変化した。
と、そこでニーナは自分に対して首を傾げる。これではまるで、自分がダリアたちに嫉妬しているようではないか。
(いけない……)
ニーナは愕然とした。顔から血の気が一瞬で引いていく。
これは悪い兆候だ。レクセルとは契約結婚、恋愛感情がないからこそ互いにうまくいっている。
ここで彼への想いを育ててしまえば、後々辛くなるのは自分だ。
それに、何より慄いたのは自身の心の変化だ。自分には、忘れてはいけない人がいる。
――レオ。結婚を目前に、亡くなってしまった恋人。
彼の存在を、自分は蔑ろにしようとしているではないか。
どれだけ軽薄な女なのだ、自分は。男性に恐怖心を植え付けられたというのに、この有様はなんだ。
ニーナは日傘の持ち手を強く握った。この思いは育ててはいけない。蓋をして、鍵をしめて、心の奥深くで眠らせておくべきもの。
もし育てるとするなら、友情のような、家族のような想いだ。間違ってはいけない。
すると、今度はレクセルがニーナをじっと見下ろしていた。
「おい、どうした」
「え?」
「顔色が悪い」
「そう、でしょうか」
レクセルの手が、誤魔化そうとするニーナの頬へと伸びた。が、レクセルは直前で触れるのをやめ、手を引っ込める。
「男に触られるのは嫌だよな。……どこかで休憩するか」
ニーナは目を瞠った。きゅっと胸が痛くなる。苦しい。彼の優しさが温かくて、それに比べて自分が愚かで、醜くて。
ニーナは立ち止まって瞼を閉じた。混乱しそうになる思考と、揺れる心を平静に戻すために。
「少し、日差しに眩暈がしただけです。もう、大丈夫です」
ゆっくりと目を開いた後、レクセルを見上げてニーナは微笑む。大丈夫、という言葉は自分に言い聞かせて。
「そうなのか?」
「はい。……あの、もし良いのなら、あそこにある古書店に寄っても?」
「あ、あぁ」
レクセルはまだ何か言いたげであるが、ニーナは気づかないふりをして店へと向かって歩いていく。
ガーネット古書店と書かれた看板。入り口の木の扉を押し開けば、店内には紙とインクの香りが漂っていた。店は二階建てで、学生や男性客が多い。
「何をお探しで?」
眼鏡をかけた年配の男性が、欠伸を噛み殺しながらニーナに尋ねてくる。
「詩集は、どのあたりにありますか」
「詩集は二階。あそこ、北の窓のあたり」
「ありがとうございます」
ニーナはお礼を言って、レクセルと共に階段を上る。
「本が好きなのか」
「はい。元々家庭教師をしていましたし、読書は昔から好きでした」
「ふうん」
「旦那様の部屋にも、たくさん本がありますよね」
「本が好きなら、勝手に読んで構わない」
「経営学や自動車関連の本は、わたしには難しすぎますよ」
ニーナは苦笑する。
店員が指さした場所にたどり着くと、ニーナは天井まである本棚を見上げた。
なんとなくだが、ありそうな気がするのだ。今の自分を戒めるために。いいや、あってほしいと願う。自分がこれ以上、揺らがないように。
「欲しい本があるのか」
「アリー・ノリスという作家が書いた詩集です」
「タイトルは」
「‟七色の空”」
ニーナは、硝子のような透き通った声で答えた。
「七色の空、か」
「はい。そんなに人気のある本ではないので、ないかもしれません」
「……いや、見つけた。あったぞ」
「え」
レクセルは手を伸ばし、高い位置にあった一冊の本を手に取った。その際に舞ったほこりが、窓からの光に照らされて光る。
レクセルは、手にした本をニーナに差し出した。
「ほら」
「……ありがとう、ございます」
ニーナの声が、僅かに震えた。差し出された本は、やや日焼けしているが状態は良い。
じっとタイトルを見つめ、ニーナはそれを受け取った。
指が、無意識にページを捲ろうとする。しかし、ニーナはぐっと指先に力を込めて、押しとどまった。この場でページを開いてしまえば、あの頃の思い出も、堰をきったように溢れ出すだろうから。
「買うのか?」
「はい」
「なら貸せ。払ってくる」
「いえ、これは、わたしが払わなければいけないものです」
「……俺も読む。だから、俺が払う」
「え?」
ニーナの手から本を奪うようにして取ると、レクセルは店員の元へ早足に歩いて行ってしまう。
「あの、旦那様!」
「大声を出すなよ」
「出させているのは、旦那様ですっ」
「あのな、こういう場は男を立てろ。……これは、俺からの礼だ。いつも、色々としてくれてるだろ」
「でも、わたしだって十分にっ」
引こうとしないニーナにレクセルは嘆息し、足を止めた。レクセルはニーナの方を振り向くと、彼女の片腕を掴んで自身に引き寄せる。
「あのな。それ以上騒ぐならここで口を塞ぐぞ」
ふいに顔を近づけられたニーナは顔を赤くさせ、渋々口を閉ざした。
「って悪い。腕、掴んじまった」
レクセルは慌てて、ニーナの腕から手を離す。
「あ、いえ……。旦那様は、大丈夫ですから」
するとレクセルは僅かに目を見開き、ニーナに背を向けた。
「あっそ。なら、大人しく待ってろ」
そうして結局、レクセルに詩集を買ってもらうことになってしまった。
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