第十九話
ニーナは家事を一段落させて、レクセルに用意してもらった書類に目を通していた。書類には、夜会に集う人物たちの情報がびっしりと記されている。
(技術者に政治家、元貴族、建築家に科学者に……すごい人たちが集まってくるのね)
驚きに目を瞠り、とんでもない場所に出向かなければならなくなったと、今更ながらに後悔するニーナである。
情報を暗記するのは得意であるが、家庭教師の職を離れてからというもの、新聞を読む機会もなくなったので、今持っている自分の情報量の少なさに辟易する。
ダイニングで必死に情報を頭に叩き込んでいると、二階から下りてきたレクセルに声をかけられた。
「悪いが、何か飲み物を淹れてくれ」
昨日は仕事で問題が起きたようで、帰宅が遅かった。休日は八時までには起きてくるが、今は昼前。よほど疲れが溜まっていたのであろう。レクセルの顔色は良くなっている。
ネクタイは結んでおらず、白いシャツにズボンと砕けた格好である。
ニーナは書類を置いて、椅子から立ち上がった。
「おはようございます、畏まりました」
急ぎ、火を熾してケトルで湯を沸かす。沸くのを待っている間に、パンをオーブンに並べて軽く温め、作っておいた野菜のスープを温め直す。パンにつけるジャムは、市場で買ってきたマーマレードだ。
手際よく動くニーナの後ろ姿を見つめながら、レクセルは咳ばらいをした。
「なぁ」
「はい、なんでしょう」
「今日、この後は暇か」
「はい、空いておりますが」
茶葉をティーポットに淹れ、その上から湯を注ぐ。ワゴンにスープとサラダ、パンをのせてテーブルへと運ぶ。
「街に出かけないか。今度のパーティーで必要なもの、揃えないといけないだろう」
「あ……。忘れていました」
ニーナは自分のカップにも紅茶を注ぐと、椅子に腰かけた。
レクセルの足を引っ張りたくなくて必死に書類と格闘していたが、もう一つの問題を忘れていた。自身の身だしなみも気を遣わなければならないことを。
「ですが、その……。わたし、ファッションとかそういうのに疎くて」
「だから、ヒルダの店に行ってみないか。彼女なら、何かしらコーディネートしてくれるだろう」
「まぁ、確かにそうですけど」
「金は俺が払う。……協力してもらう礼だ」
「え、でも」
「あんたはよく働いてくれるし、たまにはいいだろ」
「あ……。ありがとう、ございます」
ニーナが僅かに口元を綻ばせると、レクセルは顔を逸らして食事にとりかかった。
その後ニーナは、自室に戻って急いで出かける準備をする。外出用の服を、ヒルダに仕立ててもらっていて良かった。
クローゼットの中から、白いブラウスと淡い緑色のスカートを取り出す。以前ヒルダに仕立ててもらっていたのだ。袖に手を通して胸元のボタンを留める。スカートは非常に軽やか。ただ足首が見えるので少し恥ずかしいが、ヒルダは見せるのが今の流行だと言った。なんなら膝丈のスカートを穿いてもらいたいと言っていたくらいだから、受け入れるしかない。だが履いてみると今までの様に裾がもたつかず、シンプルで動きやすい。どうしてか心まで軽くなる気がする。
(眼鏡、どうしよう)
眼鏡はなくても構わないけれど、長年身に着けているからなければ落ち着かない。なんというか、恥ずかしいというか。しばしの間逡巡したが、結局は眼鏡はつけたままにする。
古びたハンドバッグにハンカチと口紅、財布をいれる。
(バッグも、そろそろ変えないとね)
だが、まだ使える。このレザーのバッグには、色々と思い出が詰まっているから。次のパーティーには持っていけないが、普段の生活では使い続けよう。
開けたままの窓を閉め、鍵をかけた。
一階に下りれば、すでにレクセルが外出の準備を終え、椅子に腰かけて待っていた。
「すみません、お待たせしてしまって」
「……別に、そんなに待ってない」
レクセルはそう答えると、テーブルの上に置いていたボーラーハットを被って立ち上がる。タイを結んだシャツの上に、ベストを着用しただけのラフな格好だ。ジャケットを着ていないので、彼の足の長さが顕著に分かり、改めてスタイルの良さが分かる。
「旦那様は、本当にスタイルがいいですね」
思わず呟くと、怪訝そうに片眉を上げてレクセルは振り返った。
「単に身長が伸びすぎなだけだろ。そういうあんたこそ足長いだろ。ほら、さっさと行くぞ」
「あっ、はい」
ニーナは立てかけてあった日傘を手に取ると、慌ててレクセルの後をついていった。
ヒルダの店を訪れると、彼女は客人の見送りをしていた。
店から出ていく婦人は小さな子供の手を引いており、すれ違い様に目が合って、ニーナとレクセルは会釈をする。ふわりと花の香りがする、ブロンズ髪の美しい女性だった。
彼らの姿が見えなくなると、ヒルダはにやりと笑ってニーナたちの方へ振り向いた。
「いらっしゃい。新婚らしくデートかしら」
「ち、違うわよ」
「ふうん? ま、話は中でしましょ」
どうぞ、とヒルダはニーナとレクセルを店内へと迎え入れる。
彼女はニーナたちをテーブルにつかせると、奥にあるキッチンで紅茶を淹れ、スコーンと共に出してくれた。
「ありがとう」
「で、今日はどうしたの?」
ニーナは遠慮がちに、レクセルの表情を窺ってから口を開いた。
「その、今度、夜会に出席しなきゃいけなくて」
「服が必要ってわけね」
「うん」
「……あと、靴とかもコーディネートしてくれると助かる」
スコーンにジャムを塗りながら、レクセルはぼそりと呟いた。そんなレクセルを横目で眺めつつ、ヒルダは腕を組む。
「もちろん構わないけど。せめて、どういったイメージがいいとか希望があるでしょ。旦那様のご意見は?」
「それは……。その、似合うものを」
「似合うもの、ねぇ」
ヒルダは紅茶を飲みつつ、考え込むように、視点をテーブルの一点に注いだ。
「聞いてもいいかしら。どの夜会に出席するのかしら」
「リチェット=カルドル鉄道の開通記念祝いだ」
「ああ。なら、やってくる招待客はビジネス関係者ね」
「そういうことだ。他国からの来賓もあるようだが」
「あら、そうなの」
「他国に技術提供する話があるそうだ」
「ふうん。……なら、ドレスコードを守りつつ上品に。でも、古臭くなく攻めていきたいわね」
ヒルダは急に黙りこむと、スケッチブックと鉛筆を取り出して、デザインを描いていく。ニーナたちには見向きもせずに。
「……おい。彼女はいつもあんな感じなのか」
スコーンを美味しそうに頬張るニーナに、レクセルが耳打ちしてくる。
「仕事に没頭する時、ヒルダは周りのことが見えなくなるんで」
「ふうん。時々いるな、そういう人間。リクもそうだ」
「そういう旦那様もですよ」
ニーナがそう返せば、レクセルは意外と言わんばかりに片眉を上げた。
「俺が?」
「はい。この間、車の手入れをされている時、昼食の時間ですとお呼びしたのに気づいてくれませんでした」
「……そうだったか?」
「はい」
レクセルはバツが悪そうに、ニーナから視線を逸らしてティーカップに口をつける。とそこで、チェストの上に置かれている写真立てに、レクセルはふと視線を留めた。写真には、白髪の男性とヒルダの姿が映し出されている。
「父親か?」
レクセルの何気ない問いに、ニーナのフォークを持つ右手が止まった。
「――夫よ。といっても、もうこの世にいないけど」
スケッチブックに鉛筆を走らせながら、答えに詰まったニーナに代わり、ヒルダがはっきりと答えた。
「夫?」
「ええ。わたしの名前はヒルダ・ゲオルク。わたしの名前はともかく、姓には聞き覚えがあるんじゃない?」
「まさか……。あの、リヒャルト・ゲオルクか」
ニーナは瞼を伏せた。
リヒャルト・ゲオルク。彼は風景画家として有名だ。彼の作品は死後もなお、高値で取り引きされていると聞く。
「そうよ。偏屈で好色家の画家ゲオルクよ。社交界でそれなりに有名でしょ。年をとってから初婚で娶ったのは、三十近くも離れた少女だった。それも、娼婦を母に持つ娘。……それがわたしってわけよ」
ヒルダは一瞬だけ顔を上げ、驚くレクセルを一瞥した。
ヒルダの言葉に偽りはない。彼女の母親は娼婦だった。母親は街で働いていたため家にはほとんどおらず、ヒルダを育てたのは彼女の祖父母だ。
ヒルダは成長するにつれて小さな村にいるのが窮屈になって、誰よりも早く村を出た。
「……それで、この王都に店を構えていられるのか」
「ええ。ここは元々彼のアトリエの一つで、わたしに譲ってくれたの。だからこの店――カメリアを構えていられるわ」
ヒルダが仕立てる服のセンスは独特で、他とは一線を画している。上品でありながら機能的。昔に縛られない、新しいものに挑戦していく姿勢。
もっと人気を博してもおかしくないのに、どうしてもヒルダの生い立ちが噂となって付いて回る。年の離れたゲオルクと結婚したこと、そして結婚してから数年で彼が亡くなったことで、財産目当てだのと誹りを受けることもある。
ヒルダはそれ以上は語らず、熱心に鉛筆を走らせるのであった。
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